黄金裔の手を離れた祭りの準備は、クレムノスの市民たちの手で加速し、木材と大地獣の往来が麦畑の外縁まで広がっていた。モーディスはその流れの中で、休むことなく動き続けるファイノンの姿を確認するため現場へ向かう。
医師ヒアンシーの「休息を取らない」という懸念と、本人の過剰なまでの作業連続性が重なり、彼は事実確認のために観察を始める。
だがそこにあったのは疲弊ではなく、終わりなく次へ移る動作の連鎖だった。モーディスはその異常な自然さを見極めるため、ついに直接対峙へ踏み出す。
白銀の頭が上がり、青い瞳がモーディスを捉えて一度だけ瞬いた。腕の中には、先ほどまで誰も気に留めていなかった空の水樽が抱えられている。乾いた木肌へ指を掛けた姿勢のまま、ファイノンは正面に立った美麗な男を見上げ、それから少しだけ首を傾げた。
「モーディス? どうしたんだ。石材の方で何かあった?」
「ない」
「クレムノスの人たちとオクヘイマの人たちが喧嘩したとか」
「していない」
「じゃあ、何か追加で運ぶものが――」
「それを置け」
低い声に遮られ、ファイノンの口が止まった。視線だけが自分の腕の中へ落ちる。まるで今になって初めて樽を持っていることへ気づいたような顔をしたあと、「これ?」とでも尋ねるように少し持ち上げた。
「空なんだ。水場へ戻しておこうと思って」
「誰かに頼まれたのか」
「いや。でも空だったから」
「置け」
二度目は説明を挟まなかった。ファイノンは数秒ほどモーディスの顔を見つめたものの、声の調子から冗談ではないと判断したらしい。
分かったよ。と短く答え、近くの木材へ邪魔にならないよう樽を下ろした。最後まで扱いは丁寧で、転がらないよう底の位置まで確かめてから手を離す。その一動作だけでも、モーディスには先ほどまで観察していたものの続きにしか見えなかった。
空の樽一つだ。誰かが後から運べば済む。それを見つけたから拾い、自分の手が空いているから運び、運び終えればまた別のものを探す。本人にとっては善行ですらなく、目の前へ転がっていた小石を道の端へ蹴るのと同程度の自然さなのだろう。
「それで?」
樽から手を離したファイノンが、改めてモーディスへ向き直った。
「何か用だったんだろ?」
「ああ」
「急ぎ?」
「貴様次第だ」
「僕?」
また瞬く。警戒はない。逃げる構えもない。呼吸は変わらず、肩も上がっていない。モーディスはそれを正面から確認し、それでも退かなかった。病人へ問い掛けるつもりはない。戦場で隣へ立つ時と同じように、相手が自分で答えられるものとして話す。
「最後に休んだのはいつだ」
「休んだ?」
「ああ」
予想していなかった問いだったらしい。ファイノンの眉が少し上がり、その直後、視線が右上へ逸れた。答えを誤魔化そうとしている動きではない。本当に記憶を探している顔だった。
「えっと……」
モーディスは言葉を返さず、そのまま沈黙を選んだ。
「昨日は……休んでるよ」
「何をした」
「何をしたって?」
「休んでいる間にだ」
「ええと、昨日は朝に会場の方を見て、そのあと資材の確認に行って……」
「それは仕事だ」
「うん。だから、その途中で」
ファイノンはそこで少し考え、何かを思い出したらしく表情を明るくした。
「ああ、そうだ。ちゃんと座ってる時間があったよ」
妙に自信のある答えだった。座っていた時間を「休息」と言い切るその声音には、疑いも誤魔化しもなく、ただ事実を提示しているだけの軽さがある。
だからこそ余計に、そこに含まれる認識のずれが際立っていた。モーディスの目が細くなる。言葉の裏を探るためではない。目の前の青年が本気でそう理解しているのだと、視線の動きや瞬きの間隔、肩の力の抜け方まで含めて確かめた結果として、静かに警戒の形へと収束していく。
「どこでだ」
「大地獣の背中だよ」
「……何?」
「移動に使わせてもらったんだ。歩くより速かったからね。結構長いあいだ座ってたし、その間は何も運んでなかったよ」
言い終えたファイノンの顔には、どうだと言わんばかりの僅かな得意げさが一瞬だけ浮かんだが、それはモーディスの沈黙に触れたまま、次第に居心地の悪い曖昧さへと溶けていった。モーディスは何も言わず、その表情の変化だけを見ている。ファイノンもまた笑みを保とうとしたものの、声に出すほどの余裕はなく、ただ困ったように口元を緩めるに留まった。
数秒の間、言葉は途切れたまま続き、遠くで木材を削る乾いた音が一定のリズムを刻み、大地獣が鼻を鳴らす低い振動だけが地面越しに伝わってくる。その静けさの中で、場の空気だけがわずかに重さを増していった。
「……それは移動だ」
ファイノンは一瞬、言葉の意味を取り違えたようにきょとんとした顔をした。
「でも座ってたよ? 移動中でも、ちゃんと座ってただろ」
「移動だ」
即答が返るたびに、ファイノンの表情だけが少しずつ困惑へ傾いていく。
「自分で歩いてないし、ずっと揺られてただけだったよ」
「移動だ」
「大地獣に任せてたから、かなり楽だったけど……あれは休憩に入らないのか?」
「何度言わせる。移動だ」
とうとうファイノンの笑みもモーディスの言葉も、互いに意味の輪郭を取り違えたまま噛み合わず、どちらも少しだけ困惑を滲ませていた。
「厳しいなあ」
「俺が厳しいのではない。貴様の休息の定義が根本からおかしい」
「そうかな?」
「そうだ」
モーディスは即答した。するとファイノンは本気で分からないらしく、首を傾げたまま両腕を組む。先ほどまで木材や樽を抱えていた腕が初めて空になったというのに、その姿勢さえ「考える」という次の作業へ移ったように見えて、モーディスは眉間を押さえたくなった。
「でも、座って身体を動かしてないなら休憩にはなるだろ?」
「貴様はその間、何をしていた」
「何って……景色を見たり」
「他には」
「次に行く場所を確認したり」
「他には」
「大地獣に、次はどっちへ行けばいいか伝えたり」
「他には」
「途中で会った人に資材の場所を聞かれたから答えたり……ああ、それから、運搬経路の方が混んでたから変更した方がいいかなって考えて――」
モーディスは言葉を返さなかった。ただ真正面から、逃げ場のない距離でファイノンを見据え続ける。視線は鋭いというより重く、相手の表情の細部を一つずつ確かめるように動かないまま固定されていた。風が二人の間を抜け、木材の擦れる音や遠くの作業の気配だけが一瞬だけ強調される。
ファイノンの口元がわずかに動きかけて、そのまま止まる。言葉を続けようとした呼吸が喉の奥で引っかかり、次の音にならない。
視線は一度だけ横へ逃げかけるが、すぐに戻される。モーディスがそこにいる限り、曖昧なまま通り過ぎることを許されないとでも理解したように、姿勢だけが少しだけ整えられた。
その沈黙の中で、ファイノンの指先が無意識に動き、何も持っていない空間を軽く掴むような仕草をしてから止まる。言いかけた説明も、軽い冗談も、そのどれもが今は適切ではないと判断するまでに、ほんの数拍の間があった。その間を埋めるように、モーディスの視線だけが変わらずそこにあり続けていた。
「……えっと、休憩じゃない?」
「俺に聞くな」
「座ってはいたんだけどなあ」
「だから何だ」
ファイノンは少し困ったように笑い、頬を掻いた。その様子に悪びれたところはなく、自分でも聞き返されて初めて妙だと気づいたらしい。モーディスはそこで、ヒアンシーが言っていた意味をようやく正確に理解した。
嘘をついているのではない。休んでいないことを隠そうとしているのでもない。こいつは本当に、座っていれば休んだと思っているのだ。
戦っていなければ休息。走っていなければ休息。腕に荷がなければ休息。その最中に頭が次の仕事を追っていようが、人から呼ばれれば答えていようが、移動そのものが次の用事へ向かうための時間であろうが、自分の身体へ直接負荷が掛かっていなければ「休んでいる側」へ分類する。
終末の只中では、それでもなお十分すぎるほどの休息として成立していたのだろう。座っていられること、敵影が視界にないこと、血を流していないこと、次の戦いまでわずかでも猶予があること。そのどれか一つでも満たされていれば、それを「休息」と呼び、再び立ち上がるための間隙として扱うしかない日々を、ファイノンは途方もない時間の果てまで積み重ねてきた。
だから、その基準が残っていること自体をモーディスは責める気にはならなかった。責めたところで意味もない。問題は、もうその基準で生きる必要がないにもかかわらず、本人だけが気づかないまま使い続けていることだった。
「その前は」
「え?」
「大地獣に乗る前だ。何もせず休んだのはいつだ」
「何もせず?」
「ああ。移動もするな。資料も読むな。人の相談にも乗るな。次の仕事を考えるな。何かを運ぶのも、直すのも、見回るのもなしだ」
「……ずいぶん条件が多いね」
「休息とはそういうものだろう」
「いや、そこまで何もしないとなると……」
ファイノンの視線がまた逸れた。今度は先ほどよりも長く、ただの癖ではなく、記憶の棚を一つずつ開けているような間があった。
モーディスは急かさない。答えが出るまで立っているつもりだった。周囲では作業が続き、人が行き交っている。二人の横を木材を抱えた男が通り、そのさらに後ろを大地獣がのんびりとした足取りで追い抜いていく。地面を踏むたびにわずかな振動が伝わり、乾いた土埃が陽光の中で薄く舞った。
ファイノンはそれらへ一度だけ目を引かれたが、すぐに視線を戻すと、正面に立つモーディスを見つめ直した。その瞳は何かを探すというより、すでに持っている断片をどう繋ぐべきか迷っている色で、眉がわずかに寄る。言葉を選ぶ前の沈黙が、短くない時間だけ二人の間に落ちていた。
「昨日の夜は……」
「何をした」
「資料をまとめた?」
「その前だ」
「夕方は会場を見に行ってた?」
「その前」
「昼は資材の確認と、人手が足りない場所を――」
「その前だ」
「朝は……」
「仕事だろう」
「うん」
ファイノンの声が少し小さくなった。机の上で書類をまとめることも、会場を見に行くのも散歩のついでのようなものだと彼は思っており、それらを休憩の延長として数えている意識が、言葉の端に滲んでいた。
「一昨日は」
「ええと……」
「何をした」
「若木のところへ行って、そのあと皆と話して――」
「その後」
「必要そうなものを整理して」
「仕事だ」
「まだ正式な仕事ってほどじゃなかったよ」
「言葉を変えるな」
「でも計画を考えてただけで」
「休んでいない」
「座って考えてた時間もあったよ?」
「それを休息へ入れるな」
ファイノンの口元がわずかに引きつり、言い返そうとしては次の理屈を探し、さらにその理屈をモーディスの視線で先回りされる気配に気づいて、結局どの反論も喉の奥で行き場を失ったまま形にならずに止まった。
「モーディス、もしかして僕の休憩にかなり厳しくない?」
「今日ここへ来て初めて、貴様の基準があまりにも酷いと知っただけだ」
「酷いって……酷くないと思うんだけど!」
「移動を休息と言い、作業計画を考える時間を休息と言い、座っていれば何をしていても休んだことにする。これで酷くないなら何だ」
「……効率的?」
「殴るぞ」
「ごめん」
返事は早かった。だがファイノンの目元には、なお軽い笑みの名残があった。深刻に受け止めていないというより、重くする必要のない話として受け流そうとする癖が、呼吸のように自然に出ているのだろう。
モーディスはそれを見て取っても声を荒げなかった。笑って誤魔化しているわけではないと分かるからこそ、余計に流して済ませる気にはならない。
「ファイノン」
名前を呼ぶ。声は上げないまま、ただ確かに届く距離へ落とす。ファイノンの笑みが、その一言でわずかに薄くなった。
「俺は貴様を働かせたくないと言っているのではない」
「……分かってるよ」
「本当に分かっているなら聞け。貴様が人を手伝うことも、この祭りに力を貸すことも、俺は止めん。石を運びたければ運べ。木を運びたければ運べ。困っている者を見れば手を貸せばいい。そこまで否定するつもりはない」
ファイノンは返事をせず、モーディスを見ている。
「だが、それをやり続けた時間まで休息へ数えるな」
金の瞳と青い瞳が正面から合う。
「働くなら働け。休む時は休め。二つを同じものとして扱うな」
ファイノンの指が、何も持っていない掌の中で一度だけ曲がった。
「……そんなに無茶してるつもりはないんだ」
「知っている」
「本当に、今は平気だよ」
「それも知っている」
即答すると、ファイノンが少し驚いた顔をした。
モーディスはその表情を見ても言葉を変えない。
「息も乱れていない。足も鈍っていない。腕も動いている。今からあの木材を全部運べと言えば、貴様ならできるだろう」
「なら――」
「だから何だ」
ファイノンが止まる。
「できることは、やるべき理由にはならん」
モーディスは先ほど自分が見ていたものを思い出す。一本運べる。もう一本も運べる。縄を直せる。樽を持てる。人へ答えられる。どれもできる。だからやる。ひとつずつ見れば何の問題もなく、その総量だけが本人の勘定から消えている。
「貴様は一つずつ『このくらいなら』と判断する。板一枚なら持てる。樽一つなら運べる。質問一つなら答えられる。全部その通りだろう」
「うん」
「だが、一つ終わった後に止まらん。次を拾う。さらに次を拾う。それを昨日から繰り返しておいて、まだ動けるから問題ないと言う」
ファイノンが視線を少し落とした。
「皆、準備をしてるから」
「知っている」
「僕だけ何もしないのも落ち着かないし」
「それも知っている」
「だったら――」
「貴様が何もしない時間があっても、あいつらは困らん」
言い切る。
ファイノンの目が上がった。
「さっき見ただろう。クレムノスの連中は俺が手を出さなくても勝手に石を削る。オクヘイマの者と勝手に張り合う。ここでも、貴様が樽を運ばなければ誰かが後で運ぶ。木材の置き場所を迷えば、別の奴へ聞く。誰も拾わなければ明日やればいい」
モーディスは否定しなかった。
その返事が意外だったのか、ファイノンが瞬く。
「貴様がやれば早い。貴様が手を出せば綺麗に収まる。貴様が先に気づけば、問題になる前に片づく。だからといって、すべて貴様がやる理由にはならん」
声を荒げる必要はなかったとモーディスは判断していた。相手の肩の力、呼吸の乱れのなさ、視線の逃げ方の癖を一つずつ拾い上げても、そこに感情を揺さぶるほどの緊急性は見当たらない。
むしろ今のファイノンは、問い掛けに対して真面目に答えようとするあまり思考へ沈み込みかけているだけで、外へ向けて押し返す意志は薄い。その程度なら、声量でねじ伏せる必要はないとモーディスは静かに結論づけていた。
「遅れてもいい仕事だ」
木材を打つ音が聞こえる。
「明日へ残してもいい仕事だ」
風が大地獣の背の縄を揺らした。
「貴様が一刻いなくても、誰も死なん」
そこまで言ってから、モーディスは一度だけ言葉を切った。ファイノンの顔へ痛みや動揺を探すためではない。ただ、目の前の青年がこちらの言葉を受け取っているかを見るためだった。
ファイノンは黙っていた。先ほどまで口元に残っていた軽い笑みはすでに消え、代わりにそこへ別の感情が入り込むでもなく、ただ一度整えられたままの静けさがある。
眉はわずかに下がりも上がりもせず、強張りというよりは、何かを判断するために余計な動きを削ぎ落としたような均衡に近い。視線は逸らされないままモーディスへ向けられており、その青い瞳は相手の表情や声色を追うというより、今起きている状況そのものを一つの事象として受け止め、どこに誤差があるのかを探るように静かに焦点を合わせているようだった。
「そういう世界にしたかったんじゃないのか」
問い掛けると、ファイノンの喉が一度だけ動いた。
「……うん」
「なら使え」
「何を?」
「その世界をだ」
ファイノンが、ほんの少し目を見開いた。
「仕事を残せ。誰かに任せろ。自分が手を出さなくても続くことを、貴様自身が一度くらい確かめろ」
モーディスは、自分でも随分と面倒なことを言っていると思った。
休めの一言で済ませればいい。王として兵へ命じるなら、それで十分だ。今日は下がれ、明日に備えろ。それだけで部下は従う。
だが、ファイノンは臣下ではない。体調を崩した子どもでもない。何千万回もの終末を越えてきた救世主として扱う必要もない。現在の友人だ。だから、命令だけで動かしたくはなかった。少なくとも最初は。
「……分かった」
しばらくして、ファイノンが言った。モーディスは眉を動かした。
「本当か」
「本当だよ」
「なら今日は終わりだ」
「うん。これが終わったらね」
「……何?」
あまりにも自然に続いたため、一瞬聞き間違えたかと思った。ファイノンはすぐ近くの木材置き場を指した。
「あと少しで木材の運搬が一区切りなんだ。大地獣たちが会場まで運ぶのを確認したら、今日は終わりにするよ」
「今終われ」
「でも、アナイクス先生がまだ計測してるし」
「放っておけ」
「大地獣に囲まれたままだよ?」
「幸せそうではないか」
「それはそうだけど」
「なら問題ない」
「いや、でも先生、あのままにしたら本当に日が暮れるまで――」
「貴様が言うな」
ファイノンが口を閉じた。モーディスは深く息を吐く。そこに自覚はない。本当に、欠片ほどもないのだと理解してしまう。
今まで散々話した直後でさえ、「あと一つ」が何の躊躇もなく口をついて出る。本人にとっては約束を破っているという意識すら存在していないのだろう。休むと決めた、その事実と、目の前の用事を片づけるという行為が、彼の中では矛盾として結びついていない。
「ファイノン」
「ちゃんと休むよ」
「今だ」
「せめて運搬だけ見届けたら」
「今だ」
「モーディス、あと少しだから」
「それを何度繰り返した」
ファイノンが止まった。
「え?」
「朝から何度『あと少し』をやった」
「それは……」
「昨日は」
「……」
「一昨日は」
答えがない。モーディスは腕を組む。
「貴様の『あと一つ』には終わりがない」
「そんなことないよ」
「なら、今ここで終われ」
「……」
ファイノンは少し困ったように眉を下げた。視線が木材置き場へ向く。大地獣たち。アナイクス。荷をまとめている市民。そのどれにも、今すぐファイノンが必要な様子はない。
それでも身体の向きが、ほんのわずかにそちらへ傾いている。モーディスは見逃さなかった。
「茶化すな。……お前の労働を禁じるつもりはない。だが、休息と言い張るのはやめろ」
「茶化してないよ」
「なら態度で示せ」
「分かったって」
ファイノンが両手を少し上げた。
「今日は終わり。もう仕事はしない」
「そうか」
「うん」
言いながら、ファイノンはほんの半歩だけ横へ身体をずらした。明確な逃走というほどの動きではなく、会話の流れの中で自然に位置を変える程度の、癖のような移動だった。だがその足運びの先を、モーディスは視線だけで追い、ほとんど間を置かず同じ方向へ一歩踏み出す。地面を踏む音は重くも速くもないが、迷いのない圧だけがそこにあった。
ファイノンの肩がわずかに止まる。次の言葉へ移ろうとしていた呼吸が、一瞬だけ途切れたのが分かるほどの間だった。彼はまだ笑みを残したままモーディスを見上げるが、その視線の奥で、進路が塞がれていることだけは正確に理解している様子だった。
モーディスはさらに半歩、間合いを詰める。大柄な体躯が影を落とし、ファイノンの逃げ道として残されていた空間を静かに削っていく。言葉はない。ただ、そこに「通さない」という意思だけが形を持って立っていた。
結果として、ファイノンの動きは完全に止まる。足先が次の一歩を探すように僅かに浮きかけたまま、行き場を失ってその場に留まった。彼は一度だけ視線を左右へ走らせるが、どちらへ動いても同じように塞がれていることを確認するだけに終わり、やがて小さく息を吐いた。
「……モーディス?」
「どこへ行く」
「モーディス、僕を家に帰したいのか帰したくないのかはっきりしてくれないか」
「帰すかどうかの話ではない。今は動くな」
「ええ? 終わりにする前に、アナイクス先生へ一言だけ――」
「仕事をしないと言った直後だな」
「挨拶だよ、仕事じゃないだろう?」
「必要ない」
「急にいなくなったら心配するだろ?」
「しない」
「するかもしれない」
「大地獣しか見ていない」
少し離れたところで、ちょうどアナイクスの歓声が上がった。
「見ましたか、この尾部の可動域を! 実に合理的です!」
ファイノンがそちらを見る。モーディスも見る。
「……確かに見てないね」
「だろう」
「じゃあ、木材を運んでる人たちにだけ」
「必要ない」
「でも――」
今度は反対側へ半歩。モーディスもずれる。
また塞ぐ。ファイノンは目を瞬いた。
「本気?」
「最初からだ」
「僕、逃げようとしてるわけじゃないよ」
「なら何故、俺の横を抜けようとする」
「休む前に挨拶するだけだよ」
「それを逃げると言う」
「言わないと思うなあ」
「俺は言う」
ファイノンがとうとう笑った。悪意のある笑いではない。困り果てて、どう説得したものかと考えながら浮かべる笑みだった。
だが、モーディスにはそれで十分だった。ここまでだ。言葉で伝えるべきことは伝えた。何故休ませるのかも。働くこと自体を否定していないことも。今ここで止まっても世界は進むことも。それでも身体が次へ向かうなら、もう理屈の問題ではない。
「分かったよ。じゃあ本当に僕もう帰るから」
ファイノンがそう言いながら肩を竦め、モーディスの横を通らず、今度は少し後ろへ回るように足を動かした。一歩。モーディスは見た。二歩目へ移る前に腕を伸ばす。青い外套の背へ指が掛かった。
「え?」
布地を掴む。ファイノンの身体が止まった。
「モーディス?」
「終わりだと言った」
「いや、僕も終わるつもりで――」
「口だけなら聞き飽きた」
「待って。僕、今から休みに行こうとしてたんだけど」
「嘘をつけ」
「本当だって!」
ファイノンが振り返ろうとする。モーディスは衣服を掴んだ手を離さない。ここで本気で振り払われれば、それまでだ。ファイノンが権能まで使って拒むなら、力だけで押さえ込めるとは思っていない。
だが、そうはしないことも知っている。戦友が自分へ向けた手を、敵の拘束と同じように振り払う男ではない。だから踏み込む。モーディスは一歩距離を詰め、掴んでいた外套を引いた。ファイノンの身体がわずかに後ろへ戻る。そのまま反対の腕を腰へ回し、重心を下げる。
「え、ちょっと――」
持ち上げる。鍛えた身体へ重量が掛かる。人一人分。石材より扱いは面倒だが、重さそのものは問題にならない。ファイノンの足が地面を離れた。
「モーディス!?」
そのまま肩へ担ぐ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、モーディス!? 嘘だろ君!」
青い外套が背中へ垂れ、白銀の髪が動きに遅れて揺れた。ファイノンの片腕が反射的にモーディスの肩へ掛かり、身体を安定させようとしたところで、本人もようやく何をされたのか理解したらしい。
他の黄金裔は適度に急速とったりしてそうだけど、あれやったらこれやってあっちも気になるなそうだそれもやろうみたいな感じで休憩がすっぽ抜けて流れてそうな男ファイちゃん……。全力だから……全力すぎるから……。
ただ、自分も移動は休憩だと思うんですけど、親の意見を参考に「仕事の為の移動は、仕事だよ。だって交通費出るんでしょ?」 そうなの? 予定確認したり気になったことをめもったり振り返ったりするのにイイ感じの休憩タイムじゃね? って思ってたんですけど……わからぁん……ので、モスちゃんにはド派手に厳しくいってもらいました。自分が理解できとらんばっかりに、ファイちゃんもおそらくその違いを最後まで理解できていない……すまんの。