烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 モーディスはファイノンの「休息」の定義が歪んでいると見抜き、座ることすら移動の一部として数える彼の認識を正そうとする。
 終末を越えた習慣に縛られ続ける青年へ、働くことと休むことを分けるべきだと静かに告げるが、言葉は届かない。やがて説得は行動へ移り、彼はファイノンを強引に拘束し、休息へと引き戻そうとする。


091 麦原は明日を抱く

 肩へ担ぎ上げられた途端、ファイノンの抗議がすぐ耳元へ落ちてきた。声音には驚きがあり、困惑もあり、それなりに切実ではあったが、モーディスの身体へ掛かった力は拍子抜けするほど軽い。

 ファイノンの片腕は反射的に彼の肩へ回されているものの、それは振りほどくためではなく、急に変わった重心から自分の身体を安定させるためのものだった。足も暴れない。腰を捻って抜けようともしない。ましてや権能を使う気配など欠片もなく、白銀の髪が肩の動きに合わせてさらさらと揺れているだけだ。

 此奴が本気で嫌がるなら、こんなものは拘束のうちにも入らない。モーディスはそれを知っているからこそ、背へ回した腕を緩めなかった。

 

「嘘だろ……」

「嘘ではない」

「いや、そこじゃなくて……どうして担ぐ必要があるんだって聞いてるんだよ!」

「歩かせれば、また何か拾うだろう」

「拾わないよ!」

「樽を置かせるのに何度言わせた」

「あれは空だったから水場に戻そうとしただけで――って、それはもう話しただろ!」

 

 抗議は続くが、やはり身体は抵抗しない。その声量に近くの市民が何人か振り返り、何事かと目を丸くしたあと、担がれているのがファイノン、担いでいるのがモーディスだと分かると、なぜか誰一人助けに入らなかった。

 むしろ木材を抱えた男の一人など、二人を見比べてから静かに道を空けた。モーディスはそれを当然のように通り抜け、「歩くと言ったところで信用できん」とだけ返した。

 

「信用って……僕、ちゃんと仕事を終わりにするって言ったじゃないか」

「その直後に三度動こうとした」

「二度だよ」

「三度だ」

「最後のは家に帰ろうとしたんだって!」

「その前に挨拶すると言っていただろう」

「挨拶くらいさせてくれよ!」

 

 担がれて上下が逆転した視界の中から、ファイノンはなおも言葉だけで食い下がってくる。だが、モーディスの肩へ置いた手には爪を立てず、力も込めない。身体を起こそうとして一度腹筋へ力が入ったものの、モーディスの首筋へ肘が当たりそうになるとすぐ姿勢を戻し、むしろ自分から少し体重を預け直した。

 相手を傷つけない。その一点だけは、こんな状況でも徹底しているらしい。モーディスはそれを褒める気にはならなかった。

 だからこそ今まで、周囲もこいつの無茶を受け入れてしまったのではないかと思う。自分が多少無理をしても、他人へ負担を移さない。止められれば笑う。頼まれれば応じる。押し返せるのに押し返さない。結果として、誰かが本気で腕を掴むところまで来なければ、本人だけが延々と働き続ける。

 

「降ろしてくれ、モーディス」

「嫌だ」

「せめて普通に歩かせてくれないか」

「嫌だ」

「僕、もう何もしないって」

「今の貴様には信用がない」

「ひどいな……」

 

 そこでファイノンは本当に少し傷ついたような声を出したが、モーディスが横目すら向けないと分かると、諦めたように息を吐いた。もっとも、その直後には「ところで、どこへ行くんだ?」と聞いてきたので、諦めたのは担がれていることだけらしい。

 

「休ませる」

「それは聞いたよ。場所の話」

「じき分かる」

「嫌な言い方だなあ……」

 

 モーディスは答えを濁したまま木材置き場を離れた。背後では、アナイクスが二人の騒ぎなど耳へ入っていないかのように大地獣の足跡へ顔を寄せ、「この踏圧分散はやはり――」と何やら熱弁を続けている。少なくとも、ファイノンが心配していたように放置されたことを嘆いて追いかけてくる気配はない。

 ファイノンもそれに気づいたのか、モーディスの肩越しに一度だけ首を伸ばしたあと、「……本当に見てないな」とぼそりと零した。

 

「だから言っただろう」

「先生、後で自分が置いていかれたことに気づくかな」

「それを確認しに戻ろうとするな」

「まだ言ってないよ」

「考えただろう」

「……ちょっとだけ」

 

 呆れたものだ、とモーディスは鼻から息を吐いた。肩の上の男は、やることを奪われた瞬間からもう「次に心配するべき対象」を探し始めている。

 それでも先ほどまでの作業場から距離が離れるにつれ、ファイノンの声は少しずつ静かになっていった。理由は単純で、担がれたまま大声で抗議を続ければ、周囲の注目を余計に集めるからだろう。通りすがる者に視線を向けられるたび、白銀の頭が僅かに下がる。

 

「……モーディス」

「何だ」

「目立ってないか、僕たち」

「そうだな」

「だよね。だから早く降ろしてくれって言ってるんだけど」

「断る」

「せめてもう少し、人の少ない道を――」

「今そちらへ向かっている」

 

 その一言には、ファイノンも返す言葉を失ったらしい。

 実際、モーディスはわざわざ人の往来が少ない脇道を選んでいた。担いで晒し者にすることが目的ではない。休ませるために運んでいるだけだ。

 

 やがて作業場の喧騒が背後へ薄れ、石造りの通路を抜けた先で、風の流れが不自然に変わった。乾いた木と土の匂いの中へ、花弁を思わせる淡い香りが混じり、何もない空間へ細い光の線が幾重にも走っている。

 モーディスには見覚えがあった。「門と道」の神権が空間を繋ぐ前触れだ。その中央に、赤髪の女性が立っていた。

 白と金を重ねた衣装の裾を風へ揺らしながら、こちらへ向けていた青紫の瞳が、まずモーディスを捉え、その次に彼の肩へ担がれたファイノンへ移る。数拍の沈黙のあと、その顔に浮かんだものを、モーディスは笑いを堪えた表情だと判断した。

 

「来たね」

「待たせたか」

「ううん。だいたいこのくらいだと思ってたから」

「……トリスビアス先生も知ってたの?」

 

 肩の上からファイノンが声を上げると、トリスビアスは門の光がまだ細く揺れているその縁に立ったまま、わずかに首を傾けてこちらを見上る。まるで最初から会話の流れをすべて把握していたかのような落ち着いた調子で「聞いてたの」と悪びれずに答えた。

 その言い方には責められる気配も弁解もなく、ただ事実だけを軽く置いていくような響きがあった。光の線が彼女の髪や肩口を淡く縁取る中で、ファイノンの抗議だけが少しだけ場違いに浮いて聞こえてくる。

 

「何を?」

「ファイちゃんが、自分から休もうとしなかったらモスちゃんが運んでくるって」

「そんな予定まで立ってたのか!?」

「予定というか、予測かな」

「ほとんど同じじゃないか!」

 

 ファイノンの抗議へ、彼女は肩を揺らすように笑った。それから片手を前へ差し出すと、空間に走っていた光の線が縦へ揃い、閉じていた扉の輪郭をなぞるように四角い門を形作っていく。

 向こう側には、ここにはない色の光が差していた。石畳ではなく、風に揺れる黄金の穂。空の青さ。陽に温められた土。

 

「オクヘイマの新しい麦畑へ繋いでおいたよ。あっちは今、人も少ないから」

「……何のこと……?」

 

 ファイノンが少しだけ声を落とした。「エリュシオンには今はまだ入れないから、ごめんね」と返された言葉に、モーディスも門の向こうを見た。

 そこは、エリュシオンではない。だが、視界いっぱいに広がる麦の海は、ただの作物の群れというよりも、風そのものが形を持ったかのように緩やかにうねり、陽光を受けるたびに金色の層を幾重にも重ねては解いてゆく。その揺らぎは一定ではなく、吹き抜ける風の強さや向きによって微妙に表情を変え、まるで大地が呼吸しているかのような錯覚を生んだ。

 踏みしめた土は乾きすぎず、指先で確かめればわずかに湿り気を残し、そこに混じる麦の青い匂いと温まった草の香りが、遠い記憶の底を静かに刺激する。

 エリュシオンを知らぬ者でさえ、この揺れる光景の中に立てば、理由もなく胸の奥がほどけていくような感覚を覚えるだろう。それは懐かしさと呼ぶにはまだ形を持たないが、確かに「どこかへ帰れるかもしれない」という錯覚だけを、静かに残すような風景だった。

 

「麦畑って……まさか」

 

 ファイノンの声が再び警戒を帯びる。

 

「そういうことだ」

「待ってくれ、休むなら別に部屋でもいいだろ? 長椅子だってあるし、ちゃんと帰って――」

「貴様の家へ返せば、何をする」

「休むよ」

「具体的に」

「……着替えて」

「その後」

「水を飲んで」

「その後」

「明日の――」

 

 ファイノンが言葉を止めた瞬間、その直前まで続いていた抗議の余韻だけが空気に残り、すぐには次の音が生まれなかった。

 二人の間に挟まれた沈黙は、完全な無音というよりも、周囲のざわめきや風の流れが一段遠のいたような薄い膜となって広がるようだった。担がれているファイノンの呼吸の間隔だけがやけに近く感じられる。白銀の髪が揺れるたびに外套の布が擦れ、微かな衣擦れの音が一度だけ落ちるが、それもすぐに風へ溶けてゆく。

 肩越しに伝わる体温は変わらず、しかしその中で思考だけが一瞬だけ宙に浮いたように止まり、次の言葉を探す気配だけが静かに滞留した。

 

「……明日の準備をちょっと確認してから休む、って言おうとしたな」

「言ってないよ」

「途中まで言った」

「言い切ってない」

「同じだ」

 

 トリスビアスがとうとう口元へ手を当てた。笑っている。ファイノンはそれを見つけたらしく、眉を落として「笑わないでくれよ」と困りきった声を上げる。

 それでも、門へ向かって進むモーディスの肩から降りようとはしない。本気で抗えば、門へ入る前に地面へ立つことなど容易だろう。

 なのに、モーディスが一歩踏み出すたび、自分の身体がずり落ちないよう肩を掴むだけだ。相手の首を締めない位置へ指をずらし、装身具へ引っ掛からないよう手首の角度まで変えている。抵抗ではなく、担ぐ側を傷つけないための調整。それを感じるたび、モーディスは余計に手を緩める気を失った。

 

「ファイノン」

「何だい」

「今なら自分で休むと言えば降ろしてやる」

「……本当に?」

「ああ」

「じゃあ休む。ちゃんと休むよ」

「何もするな」

「うん」

「資料を読むな」

「……うん」

「作業の確認もするな」

「分かった」

「人に呼ばれても手を貸すな」

「困ってたら、さすがに――」

「駄目だ」

「それは少しくらい……」

「却下だ」

「モーディスさっきから条件が多くないかな!」

 

 肩の上で身じろぎしたファイノンに合わせ、モーディスは支える腕を僅かに上げ直す。トリスビアスは門の脇へ退きながら、「モスちゃん、たぶんそのまま連れていった方が早いんじゃないかしら」とさらりと言った。

 

「俺もそう思う」

「二人とも僕の意見は?」

 

 問われたが、返事はしなかった。

 

「あるにはあるよね? 聞いてはくれるんだよね?」

 

 門の光が二人の身体へ落ち、ファイノンの白銀の髪を薄く染める。モーディスは一度だけ肩越しに彼を見た。

 

「では、聞こう」

「採用は?」

「しない」

「聞いた意味は……」

 

 最後の抗議を背へ受けながら、モーディスは門をくぐった。足裏へ伝わる感触が、石から柔らかな土へ変わる。空気も違った。

 作業場に漂っていた木屑や金属の匂いは消え、代わりに穂の青さを僅かに残した麦と乾いた土、陽に温められた草の匂いが鼻を抜ける。オクヘイマの外縁へ新たに整えられた麦畑は、まだ古くからある農地ほど畦や道が馴染んではいない。

 それでも広く植えられた穂はすでに黄金色へ傾き、風を受けるたび一方向へ身を伏せ、少し遅れて起き上がる。その反復が遠くまで繋がり、土地そのものがゆっくり呼吸しているように見えた。

 門の向こうではトリスビアスが片手を振り、「ちゃんと休ませてね」と声を投げてくる。「余計なこと言わなくていいよ!」とファイノンが返した直後、光の輪郭が細く閉じ、先ほどまであった道は何もない空気へ溶けた。残されたのは、風と麦の音、それからモーディスの肩上で長く息を吐く男だけだった。

 

「……逃げ道まで消えた」

「帰り道だ。逃げ道ではない」

「今は同じに見えるなあ」

「そうか」

 

 モーディスは麦畑の中へ続く細い踏み分け道へと足を踏み入れた。人の往来でかろうじて形を保っているだけのその道は、左右から伸びる麦穂にすぐ飲み込まれそうなほど頼りなく、歩を進めるたびに乾いた穂先が外套の裾や腕へかすかに触れては、さらさらと微かな音を立てて揺れる。

 陽は高く、地面に落ちる影は短いが、風が通るたびに黄金色の波が一斉に傾き、視界の端で光がゆっくりと流れていく。しばらくして、背中の上から小さく息を吐く気配が落ち、ファイノンがまた口を開いた。

 

「モーディス」

「何だ」

「もう誰もいないし、降ろしてくれないか」

「まだだ」

「ど、どうして」

「場所を選ぶ」

「僕は荷物か何かか?」

「荷物なら喋らん」

「僕だって好きで喋ってるわけじゃないよ。抗議してるんだ」

「知っている」

「じゃあ聞いてくれって」

 

 声だけを聞けば不満は本物だ。しかし、ファイノンの手は依然としてモーディスの肩へ添えられたまま、歩行の揺れへ合わせて自分から重心を調整している。

 時折、麦穂の先が垂れた髪や外套へ触れると、それを避けるために身体を少し浮かせるくらいで、本気の抵抗には程遠く、「本当に嫌なら降りろ」とモーディスが不意に言うと、肩の上が静かになった。

 

「え?」

「俺を振り払えば済む」

「……そんなことする必要ないだろ」

「なら黙っていろ」

「それとこれとは別だよ」

 

 返事は即座だった。

 

「君を振り払ったら怪我するかもしれないし」

「俺がこの程度で怪我をすると?」

「しないかもしれないけど、だからって乱暴にしていい理由にはならないだろ。それに、せっかく休めって言ってくれてるのに、そこまでして逃げるのも……なんか違うし」

 

 言いながら、ファイノンの声は最後だけ小さくなる。モーディスは歩調を変えなかったが、その答えには眉を僅かに動かした。

 やはりそうだ。抵抗できないのではない。しない。相手の善意を理解してしまうから、それを踏みにじるような真似は選ばない。口では抗議しながら、最後には相手が傷つかない形へ自分を合わせる。その性質は、戦場でも日常でも変わらない。

 

「だったら最初から大人しく休め」

「それができてたら、こんなことになってないだろ」

「自覚はあるのか」

「今できたよ」

「遅い」

 

 モーディスが短く返すと、肩の上から笑いとも溜息ともつかない息が落ちた。「それにしても、麦畑か……」と今度は少し違う声でファイノンが言う。

 視線がどこへ向いているかは、モーディスからは見えない。ただ、先ほどまで途切れなく続いていた抗議が一度止まり、麦穂の擦れる音へ耳を傾けているらしいことだけは分かった。

 

「懐かしいか」

「……似てるね」

「そうか」

「エリュシオンとは違うけど。風の匂いも、土も、少し違う。でも、麦が揺れる音ってこんなだったな」

 

 それ以上モーディスは訊かなかった。似ているなら、それで十分だ。失われた土地そのものを代用品で埋めることなどできないし、その必要もない。

 ここはオクヘイマの新しい麦畑であり、誰かがこれから食べる穀物を育てるために作った場所だ。それでも、戦う前の暮らしへ身体が覚えていた音を思い出すくらいの役には立つ。

 

 畑の中央から少し外れたところで、モーディスはようやく足を止めた。人の往来はなく、踏み分け道からも少し距離がある。

 穂は腰近くまで育ち、地面は乾きすぎず、麦の根元には柔らかな草も混じっている。周囲を一度見渡し、石や農具の類がないことを確認する。ファイノンはその停止を敏感に察したらしく、すぐに声を上げた。

 

「ここ?」

「ああ」

「やっと降ろしてくれるんだな」

「ああ」

「本当に?」

「ああ」

 

 無駄に疑い深い。先ほどまで自分が信用されていないことへ不満を言っていたくせに、今はこちらを三度確認する。

 その矛盾すら自覚していないのか、あるいは自覚した上でなお「自分は例外だ」と思っているのか、どちらにせよ厄介な性質だとモーディスは思う。

 だが同時に、それがこの男の限界でもあることを知っている以上、苛立ちより先に呆れが勝つだけだった。結局のところ、どれだけ言葉を重ねても止まらないのなら、身体ごと止めるしかない。そう判断しながら、モーディスは内心で鼻を鳴らし、肩へ掛かっていたファイノンの身体を一度支え直した。

 

「じゃあ、普通に立たせてくれよ。僕ももう抵抗しないし」

「そうか」

「うん。だから――」

 

 ファイノンが安心したように肩から手を離しかける。その瞬間、モーディスは片腕で腰を支えたまま身体を前へ移し、もう片方の手で背を受けた。

 担いでいた重みが一度腕へ移る。ファイノンの身体がわずかに浮き、次の瞬間にはこちらの支えへ完全に預けられる感触が伝わった。「……モーディス?」と不審そうな声が上がるが、モーディスはそれに答えず、足元へ視線を落とした。

 柔らかく踏み込まれた草と麦の密度、沈み込みの深さ、地面の反発を一瞬で確かめる。落としても問題はない。判断を終えたあと、ようやく視線を戻した。

 

「モーディス?」

「降ろすぞ」

「さっきからそればっかりじゃないか」

「ああ」

 

 答えた直後、モーディスは腕を離した。

 

「え――」

 

 落下と呼ぶほどの高さではない。だが、足から地面へ戻るつもりだったファイノンにとっては完全に不意打ちだったらしい。

 白銀の髪がふわりと浮き、青い外套が遅れて広がる。身体は仰向けのまま麦穂の中へ沈み、柔らかな草と密集した茎が衝撃を受け止めて、ぼすん、とひどく間の抜けた音を立てた。

 黄金色の穂が一斉に揺れ、いくつかが顔や胸元へ倒れ込む。ファイノンは両腕を少し広げた姿勢のまま、数秒ほど空を見上げていた。驚きが追いついていないらしい。やがて麦の間からゆっくり顔だけをこちらへ向け、その表情には怒りよりも、信じられないものを見るような困惑が浮かんでいた。

 

「……モーディス」

「何だ」

「降ろすって、こういう意味だったのか?」

「降ろしただろう」

「普通、足からだと思うじゃないか……」

「立たせれば歩く」

「歩かないって言っただろ」

「さっきまで三度ほど同じことを聞いた」

「それとこれは――」

 

 ファイノンは言いかけ、麦穂を掻き分けながら肘をついた。身体に痛みがないことを確かめるように一度肩を回し、それからゆっくり起き上がろうとする。

 モーディスは止めなかった。手も出さず、立ちはだかりもしない。ただ、その動きを見ていた。本当に休むつもりなら、自分で横になり直せばいい。ここまで連れてきた以上、最後まで押さえつけるつもりはなかった。ファイノンの上半身が麦の海から少し持ち上がり、白銀の髪へ絡んだ穂がさらりと落ちる。その時だった。

 

 遠くで、重いものが地面を踏んだ。ゴォンと低く響く振動が麦の根を伝い、モーディスの足裏へ届く。ファイノンも蒼い瞳を丸くした。

 

「……ん?」

 

 一度、地面の奥から鈍い衝撃が伝わり、少し間を置いてもう一度、今度はより確かな重みとして麦の根を揺らした。

 人間の足音ではない。荷車が軋む音でもない。モーディスは反射的に視線を上げ、麦穂の向こうへ意識を集中させる。黄金の波の中に、一本だけ不自然に割れた筋が生まれ、そこだけ風の流れが途切れていた。

 何かが、こちらへ進んでいる。大きく、重い何か。だが、敵意の気配は薄いようだ。そう察知したモーディスは一歩も動かず、そのまま距離と速度を測るように目を細めた。遅れて、麦の中で仰向けになっていたファイノンも振動に気づいたらしく、起こしかけていた身体のままゆっくりと上体をひねり、同じ方向へ視線を向けた。

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