モーディスはなおも働き続けようとするファイノンを言葉ごと受け流し、その身体を半ば強引に担ぎ上げると、抗議の声を背に作業場を離れた。途中、トリスビアスの神権が空間を繋ぎ、一行はオクヘイマに新設された麦畑へと転移する。
そこでファイノンは黄金の穂の中へ半ば投げ出されるように降ろされ、休息を命じられながらも納得しきれないまま身を起こそうとするが、その動きが形になるより早く、地面を震わせるほど重い足音が麦畑の奥からゆっくり近づいてくる。
麦穂の向こうで生まれた不自然な揺れは、風とは明らかに違う速度でこちらへ近づいてきていた。一歩ごとに地面の奥が低く鳴り、黄金色の穂が左右へ押し分けられてゆく。
モーディスは敵意の有無を測るように目を細めたまま、足を止めて麦の向こうを見据え、起き上がりかけていたファイノンも片肘をついた姿勢でそちらへ視線を向けている。
やがて麦の波より一段高いところへ丸みを帯びた頭が現れると、近づいてくるものの輪郭が少しずつ明らかになり、二人の間に張っていた僅かな警戒は、安堵へ変わる前に行き場をなくした。現れたのは、先ほど木材運搬の作業場でも見掛けたものと同種らしい大地獣だったのだ。
ただし体格はひときわ大きく、人間なら数人が並んでも隠れてしまいそうな胴を持ち、竜めいた首から背へ連なる鱗は陽を吸って淡く光っている。荷具は付けていない。長い尾を麦の上でゆったり揺らしながらこちらへ歩いてくる姿には急ぐ様子もなく、それでも一歩が大きいため距離だけはみるみる縮まった。
「……あの子か」
「知っているのか」
「ほら、さっき木材を運んでくれてた子だよ。途中で別の場所に行ったと思ったけど……どうしてここに?」
相手を知っているような声音だったので、モーディスは視線だけを彼へ移す。ファイノンの最後の問いはモーディスではなく大地獣へ向けられていた。
大地獣がファイノンのすぐ前で立ち止まり、喉の奥から「うぉおん」と低い声を鳴らす。それはモーディスには獣の鳴き声としか聞こえなかったが、ファイノンはごく自然に頷いた。
「え? 君もこっちへ来るように言われたの? ……誰に?」
続けて「うおん」と短い声が返り、青い瞳が一度だけモーディスの方へ向いた。
「……なるほど」
嫌な納得の仕方をされた気がしたが、モーディスは知らぬ顔をした。
ファイノンが継いでいる「大地」の火種には、大地獣と意思を通わせる性質がある。そのため、彼には今の鳴き声が単なる音ではなく、ある程度の意味を持った言葉として届いているらしい。
「まさか、僕を見張っててって頼まれたの?」
「うぉー」
「違う? じゃあ……一緒に休めって?」
「うおん」
ファイノンはしばらく相手の顔を見上げ、それから何とも言えない表情になった。「君までなのか……」 大地獣は返事の代わりに、一歩踏み込んだ。
巨大な頭が、遠慮なくファイノンの肩口へ擦りつけられる。横から体重を預けられ、ようやく起こしかけていた身体がぐらりと傾いた。
「ちょ、待って、重い重い――」
声を上げながらも、ファイノンは相手の鼻先を押し返そうとはしなかった。両手を添えて衝撃を受け流し、大地獣の首を傷つけないよう指を広げる。それを拒絶ではなく撫でる動きと受け取ったのか、大地獣はさらに首を押し込み、青い外套ごと青年を麦の中へ戻してしまった。
ぼす、と先ほどモーディスが落とした時より柔らかな音がして、黄金色の穂がまた大きく揺れる。「君まで押し倒さなくていいんだよ」とファイノンが困った声を出したが、大地獣は構わずその横へ身体を落とした。
大きな胴が麦を沈ませ、地面が小さく揺れる。背側は滑らかな鱗に覆われているのに、腹へ近づくほど皮膚は柔らかく厚みを増し、陽光をたっぷり吸ったその身体からは、少し離れた場所にいるモーディスにも分かるほど穏やかな熱が立っていた。横になった大地獣は、その腹をファイノンの脇へぴたりと寄せ、逃げ道を半分ほど塞ぐ。
「……これは、退けって言っても退いてくれない感じかな」
「うぉう」
「やっぱり?」
ファイノンは麦の中で仰向けになったまま、片手を大地獣の顎へ伸ばした。顎下の鱗を指先で撫でると、獣は満足そうに低い音を鳴らし、さらに頭を彼の肩へ載せようとする。
「そこはちょっと重いかな。首が動かなくなるから……うん、その辺ならいいよ」
まるで枕の位置を相談するような会話である。
モーディスはしばらくその様子を見てから、もう自分が目の前へ立っている必要はないと判断した。大地獣がファイノンの横へ完全に腰を落ち着けたのを確認し、麦畑の端に一本だけ残されていた木の方へ歩く。背後から「モーディス?」と呼ばれたが、振り返らずに答えた。
「俺はもう何もせん。休むかどうかは貴様の好きにしろ」
「それ、ここまで運んできた人の言う台詞かな……」
不満げな声が届く。それでも足音が追ってくることはなかった。
モーディスは木陰へ入り、幹へ背を預けて腰を下ろした。腰帯の間へ差していた薄い冊子を抜く。クレムノスの古い工芸意匠についてまとめられたもので、石材置き場へ戻った時にでも目を通すつもりで持ってきたものだった。
今ここで読むことになったのは予定外だが、少なくともあの男の樽運びを監視するよりはマシだろう。
木陰からなら、麦の中にいる二つの姿がよく見えた。大地獣の巨体に隠されて、ファイノンは胸から上くらいしか見えない。
完全に逃げ場を奪われているわけではなく、少し身体を捻れば抜けられるし、大地獣を押し退けるだけなら大した力も要らないだろう。戦闘時の動きを思えば、この程度の体重は拘束にすらならない。
権能を一つ使えば、相手へ触れることなく位置を変えることさえできる。それでもファイノンは何もしなかった。相手が傷つく方法を選ばないことは先ほど十分に見たし、休ませようとして寄ってきた大地獣へそこまでして抗う理由も見つけられないのだろう。
しばらくすると、彼は逃げる代わりに横向きになり、大地獣の腹へ背を預けるよう姿勢を変えた。
「……分かったよ。少しだけだからね」
「ぶぉう」
「少しだけって言ってるだろ?」
鳴き声へ真面目に返事をしながら、掌で腹側の柔らかな皮膚を軽く押す。思った以上に沈んだのか、「あ、ここ柔らかいんだな」と小さく笑った。大地獣は気にした様子もなく、ゆっくり呼吸を続けている。そのたび腹が持ち上がり、ファイノンの肩まで僅かに上下した。
「今日は暑くない? 君たち、ずっと木材運んでたんだろ」
また大地獣が低く鳴く。
「このくらいなら平気? そうなんだ。鱗が陽に当たってるから、もっと熱いかと思ったよ」
ファイノンは空へ目を向けた。雲は少ない。淡い青の中に薄い白が遠く浮かんでいる程度で、午後になっても雨の気配はない。
「いい天気だね。風もあるし……麦もよく乾きそうだ」
声はまだ普段と変わらない。ただ、作業場で人へ返していた時より少し速度が落ちていた。大地獣の腹へ当てた手が、呼吸に合わせて上下している。
「でも君、ここまで来ちゃって大丈夫なのか? トレーナーさん、戻ってこないって心配するかもしれないよ」
「うぉ……」
「ちゃんと伝えてある? ……ああ、ここにいていいって言われたんだ。じゃあ心配はいらないか」
相手の返答を聞いているらしく、時折目を細めたり、頷いたりする。モーディスには何を言っているのか分からない。ただ、その会話が少しずつ仕事の確認から離れていることだけは分かった。
「今日、何往復したの?」
「うおん」
「三回? あの木材、結構重かっただろ。……ああ、大地獣にはあのくらい平気なんだ。僕も持ったけど、君たちの方がずっと上手だったよ」
言いながら、ファイノンは大地獣の腹を指先でゆっくり撫でた。一定だった手の動きが、先ほどより長い間隔になる。
「水は飲んだ?」
「うぉーん」
「飲んだならいいよ。暑い日にずっと動いてると、君たちだって疲れるだろうし……トレーナーさんも気をつけてくれてるんだな」
そこで少しだけ欠伸のように息が漏れた。ファイノン自身は気づかなかったらしい。口元へ手をやることもなく、そのまま大地獣へ話を続ける。
「僕も、今日はちゃんと……休めって、みんなに言われて……」
声の最後が少しだけほどけた。普段なら文の終わりまで同じ調子で言い切るのに、今は語尾が麦の擦れる音へ溶けている。
「大げさなんだよ。別に、まだ全然動けるのに……」
その主張はさっきまでならモーディスへ向けていたはずのものだが、今は大地獣へ聞かせる独り言に近かった。「ぶおう」と短い返事があり、ファイノンが少しだけ笑う。
「君もモーディスと同じこと言うんだね。……動けるのと、休まなくていいのは違うって?」
大地獣がもう一度鳴いた。
「はいはい、分かったよ」
返事は素直だったが、声にはもう抗議の勢いがほとんどない。麦の穂先が頬へ触れても払わず、そのまま目だけを細めている。
陽光は強すぎず、風が通るたびに熱を攫っていく。大地獣の腹は日向の石より柔らかく、それでいて体温は一定で、ゆったりした呼吸が背中から身体全体へ伝わっていた。
「午後も晴れるかな……」
「うぉ」
「そう? 君は雨の匂い、分かるのか。……すごいな」
ファイノンの指が鱗の境目をなぞる。
「じゃあ、今日は……ずっと晴れかあ」
一度、目が閉じる。数秒して開く。その間隔が、さっきより長く、開いた瞼の奥から覗く青い瞳は、もう空の色を正確に映していなかった。麦穂の向こうへ向けられていた視線がゆっくりと焦点を失い、風に揺れる黄金の波と大地獣の輪郭とを、ひとつの柔らかな景色として眺めているように滲んでいる。
ファイノンは何か言おうとして唇を僅かに開いたが、声になる前に小さく息を吐き、頬を大地獣の腹へ預け直した。陽を含んだ皮膚の温度が外套越しに伝わり、呼吸のたびにゆるやかに上下するその感触へ身体を合わせるように、肩の力が少しずつ抜けていく。
モーディスは本へ視線を落としていたが、ページをめくる手は止まっていた。監視しているつもりはない。ただ、耳へ入ってくる声の変化が分かりやすすぎる。
「トレーナーさん……君が戻ってこなくても、本当に心配しない?」
「ぶぉう」
「ここで寝ててもいいって……言われてるんだね。そっか」
返事をするまでに一拍、二拍と間が増える。声音も次第に丸くなり、舌がもつれているわけではないのに、言葉の角だけが取れていく。
「でも、夕方までいたら……迎えに来るかな。君、大きいから……探すのは簡単そうだね」
大地獣が喉を鳴らす。ファイノンも「ふふ」と小さく笑った。
「僕の方は……別に探されなくても……モーディスが知ってるし……」
そこで初めて自分の名前を出されたので、モーディスは本から視線を上げた。麦の中の青年は、もうこちらを見ていない。大地獣の腹へ頬を僅かに寄せ、空を見ているのか瞼を閉じているのか、木陰からでは判別しにくいほど目が細くなっている。
「君たちって……寝る時も、こうやって集まるの?」
「うぉ……」
「へえ……暖かいから、みんなで……」
返事の途中で沈黙が落ちた。モーディスは待つ。大地獣も急かすような声を出さず、ただ腹を上下させている。やがてファイノンが思い出したように言葉を継いだ。
「……それなら、冬も……寒くないね」
また間が空く。ファイノンは何かを思い出そうとするように僅かに眉を動かしたが、続く言葉はなかなか出てこなかった。
大地獣の腹へ置かれた手も、もう撫でることはなく、指先が柔らかな皮膚の上で力なく止まっている。モーディスは本を開いたまま、麦の向こうへ視線を据えた。さっさと寝ろ、と思わなくもないが、どうやら休めているらしい。ならば、わざわざ声をかける必要はなかった。
「エリュシオンも……冬は、麦がなくて……でも、空が……」
そこまで言って、声が止まった。
眠ったのかと思ったが、少しして唇が動く。
「……今日の空……きれいだな」
もう誰に話しているのかも曖昧だった。大地獣が低く一度だけ返す。
「うん……」
ファイノンの手が腹を撫でる。三度。二度。一度。最後の一往復は途中で止まり、そのまま柔らかな皮膚の上へ置かれた。
風が麦を傾けた。さらさらと穂が擦れ、その音が畑の端から端へ薄い波のように流れてゆく。大地獣の呼吸に合わせて、ファイノンの肩もゆっくり持ち上がり、落ちる。先ほどまで一定だった青年自身の呼吸も、それに引かれるように少しずつ深くなっていた。
「……トレーナーさんに……ちゃんと……」
小さな声がした。
「うぉう」
大地獣が応じる。
「……そっか……なら……いいね……」。
それが最後だった。次の鳴き声へ返事はなく、白銀の頭がほんの少しだけ大地獣の腹側へ沈んだ。眉間の皺はない。口元にも力が入っていない。外套の胸元がゆっくり上下し、吐く息だけが麦の穂先を僅かに揺らしている。
モーディスはしばらく何もせず、その呼吸の間隔だけを見ていた。意識を失ったのではない。呼び掛ければ起きる程度の、ただの眠りだ。
大地獣もそれを理解しているかのように動きを小さくし、先ほどまでファイノンの肩へ押しつけていた頭を、今度は少し離れた草の上へ下ろした。巨体が一つ息を吐くたび、腹へ預けられた青年の身体も緩やかに揺れる。
ほんの少しだけ、と言っていたはずだ。その少しを測る本人が先に眠ってしまえば、もう時間を区切る者はいない。
「……手間の掛かる奴だ」
モーディスは低く零し、鼻を鳴らした。――返事は当然ない。それでよかった。恩に着せるつもりも、目を覚ました後に何分眠ったと数えて聞かせるつもりもない。休ませることそのものが目的であって、自分が休ませたという事実に意味はないからだ。
彼はようやく本へ視線を戻し、止まっていた指で一枚ページをめくった。紙が乾いた音を立て、その向こうでは、黄金色の麦が風に揺れ続けている。誰かが命じなくても穂は光を受け、土は熱を蓄え、午後はゆっくり次の刻へ進んでゆく。
木陰から見えるのは、麦の中へ横たわる大地獣と、その柔らかな腹へ半ば埋もれるようにして眠る白銀の青年だった。救世主が目を閉じていても、空は落ちない。
彼が一つ仕事を拾わなくても、麦は風に靡き、遠い場所では祭りの準備が続いているだろう。誰かが板を運び、誰かが石を削り、誰かが分からないことを別の誰かへ尋ねる。そのどれにも、今ここで眠っている男の手は必要ない。それでも明日は来るだろう。
モーディスはもう一枚だけページをめくった。大地獣が微かに喉を鳴らし、その腹に預けられたファイノンの呼吸は、起きる気配もなく静かに続いている。
黄金色の穂の海を風が渡り、陽光の中へ幾重もの波を作っては消していく。誰かが未来を背負って走り続けなくても、世界の方が勝手に先へ進んでいく――そんな当たり前を、眠っている本人だけがまだ知らないまま、午後は何事もなく穏やかに過ぎていった。
お、オニイチャン……! 面倒見が良いことに定評のあるモスちゃんなのであった。モーディス視点わりとツッコミとか多めに入れられそうだなって書きながら思ってました。