黄金の麦畑で、ファイノンは大地獣の言葉に耳を傾けていた。天気を案じ、トレーナーたちの心配を気に掛け、なおも働こうとする彼を、今度は大地獣の温もりと穏やかな呼吸が引き留める。
やがて声は眠気にほどけ、白銀の青年は麦の波間で静かな眠りへ落ちていった。世界は、彼が手を休めても歩みを止めなかった。
093 若葉を風運ぶ朝へ
昨日と今日の境目を、人々はもう終末の回数で数えなくなっていた。まるで、麦の穂を揺らして遠ざかっていった風の匂いが、まだどこか街のあちこちに残っているような気がする朝だ。
それは過ぎ去った景色を惜しむための残り香ではなく、眠って、目を覚まして、それぞれが昨日の続きを始めたからこそ感じられるものなのだと、ヒアンシーには思えた。
オンパロスが、滅びを迎えては繁栄し、繁栄の果てには再び
かつてなら、街に新しい建物が一つ増えることにも、その建物が次の再創世まで残るのかという問いが、まるで行く先を見張る影のようについて回った。
誰かが子どもの成長を祝えば、そこまで生き延びられるだろうか、という不安が言葉にならないまま隣に居座って。畑へ種を蒔く人々も、収穫を夢見るより先に暗黒の潮がいつ来るかを考えるほど、未来はいつも終わりの気配に縁取られていた。
けれど今では、昨日の出来事を昨日のこととして語ることができる。明日の予定を、明日になれば行うつもりで立てられる。
来月に仕立て上がる服を注文して、次の季節に実る作物の話をして、何年も先に立派になるだろう苗木を、誰も「その時まで世界が残っていれば」などという断りなしに植えられるようになった。
それがどれほど途方もない変化なのか、ヒアンシーは日々の診療や街中で交わされる何気ない会話を通じて、むしろ救済直後よりも強く実感するようになっていた。
「ヒアンシー先生、昨日教えてもらった体操、今日もできたよ!」
「まあっ、本当ですか? では今度お会いした時には、どこまで出来るようになったか見せてくださいね。無理して回数を増やすのは禁止ですよ?」
「うん! 明日もやる!」
駆け抜けていった子どもの声が、石造りの通りを弾みながら遠ざかっていく。小さな靴が石床を叩く音もその後を追い、角を曲がるたびに反響の形を変えながら、朝の街へ溶けていった。
明日もやる。たったそれだけの言葉に、いちいち胸の内側を温められてしまう自分は、医療者として少し感傷的すぎるのかもしれない。それでもヒアンシーは、そういう自分を直そうとは思わなかった。
明日という言葉を、子どもが疑いもなく口にする。それは診療記録へ記載できる数値ではなかったし、脈拍や呼吸数のように測定することもできない。それでも彼女にとっては、オンパロスという世界そのものが回復へ向かっていることを示す、とても大切な所見だった。
その日も街は朝から騒がしかった。
市場では色鮮やかな布が軒先を渡り、仕立て屋から借り出された職人たちが、七夕の会場へ運び込む飾りを折り目ひとつまで確認している。
その脇を、籠いっぱいの花を抱えた女性たちが忙しなく通り抜け、少し離れた場所では、大人たちの真似をして何か手伝いたくて仕方がない子どもたちが、紙片を抱えて右往左往していた。
昨日まで空いていた壁際には案内板が増え、道の角では会場までの経路を聞かれた青年が、身振りを交えて丁寧に説明している。その声へ別の人が横から加わり、「だったら、こっちの道の方が近い」と話し始めた結果、いつの間にか周囲に小さな人だかりが出来ていた。
終末期であれば、これほど多くの人が一つの場所へ集まっている光景を見れば、まず避難誘導や物資配給を疑っただろう。
今は違う。祭りが始まるから、人が集まっている。それだけだった。――それだけで済むことが、ヒアンシーにはたまらなく嬉しかった。
「ヒアンシー様! こちらの紙飾り、確認をお願いします!」
「はーいっ! 今行きます!」
呼ばれるまま足を速めると、腰の辺りに揺れる装飾が軽く鳴り、朝の風を受けた桃色の髪が頬へ触れた。片手で髪を耳へ掛けながら、彼女は差し出された飾りを受け取って端から目を通す。
正直、企画を立ち上げた当初は、ここまで大きな催しになるとは思っていなかった。七夕。天外から来た開拓者が教えてくれた、願いを紙へ書き、枝へ結ぶという行事だ。
叶えたい夢や、いつか訪れてほしい未来や、大切な誰かへの願いを、短い言葉にして残す。その仕組みを初めて聞いた時、ヒアンシーが抱いた感想はとても単純だったけれど、今のオンパロスにこそ、きっと必要なものだ。
かつての彼女たちは、「叶えたい願い」を口にするより先に、「果たさなければならない使命」を背負っていた。黄金裔であればなおさらで、何をしたいかではなく、何を成し遂げなければならないかを問われ続ける。
市民たちにしても似たようなものだった。今日を生き延びる。家族を守る。都市を守る。暗黒の潮から逃れる。明日まで食糧を繋ぐ。
切実であればあるほど、それらは願いというより生存条件に近かった。だからこそ、世界が終末から解放された今なら、もっと自由な願いを書いてもらいたかった。
食べたことのない料理を食べてみたいでもいいし、遠くの町へ行きたいでもいい。
大きな家に住みたい、綺麗な服が欲しい、好きな人と一緒になりたい、庭いっぱいに花を咲かせたいでもいい――そんな願いを、世界を救うための価値があるかどうかで選別せず、ただ「自分がそうしたいから」という理由だけで紙へ書ける場所を作りたかった。
そう思って動き始めてからというもの、ヒアンシーの予定表はみるみる埋まった。
火を追う旅路の中で黄金裔として築いた
まるで一人の声が風に乗って次の家へ届くように、誰かが誰かへ話を伝え、その先でもまた別の人が手を挙げてくれるものだから、最初は数人で始めた相談が、気づけば幾つもの組織と職人、市民を巻き込む規模へ膨らんでいた。
布なら用意できる。紙なら任せてほしい。食事を出すなら手伝える。子どもの誘導が必要なら声を掛けてほしい。当日は仕事があるけれど、前日の設営だけなら。
そんな申し出が一つ届くたびに、ヒアンシーは嬉しさと同じくらい慎重になった。
善意を受け取ることと、善意へ甘えすぎることは違う。誰かが「大丈夫」と言ったからといって、本当に無理がないとは限らないということを、医療従事者である彼女は嫌というほど知っている。
そのため、準備に参加する人々の時間帯をずらし、長時間続けて働かないよう担当を分割し、重い物を持つ仕事には人数を多めに割り振った。水分と休憩の場所も先に確保し、誰かが熱中しすぎて働き続けようものなら、本人の笑顔に負けずに休ませる。
結果として、自分自身の休憩時間を書き忘れ、仲間からじっと見つめられた末に予定表へ追加した一件については、ヒアンシーも反省している。反省は、しているのだ。……たぶん。
「ヒアンシー様、こちらも終わりましたよ」
「ありがとうございます! では、あとは会場へ運ぶだけですね。今日はもうこちらのお仕事はありませんから、午後からはちゃんとお休みしてくださいね?」
「主催者にだけは言われたくないなあ」
「あはは……今日は、わたしもちゃんと休憩を取りますよ?」
返した声がほんの少し上擦ったせいか、相手の男性は疑わしそうに眉を上げた。ヒアンシーはにこりと笑い、追及されるより早く次の確認事項へ視線を落とす。
そのようなやり取りを幾度となく繰り返しながら、七夕の計画は
開催場所の確認。導線。短冊の配布位置。筆記具。休憩場所。子どもや高齢者への補助。高所へ短冊を結ぶ際の安全確保。風が強くなった時の対応。万が一、体調を崩す人が出た場合に備えた救護場所については、当然ながらヒアンシー自身がかなり細かく口を出した。
そして、最後まで少し悩んだのが、願いを結ぶための木だった。
祭りが終わったら撤去するだけの飾りではなく、出来ればこの先も育ち続けるものがいい。今年だけではなく、来年も、その次も使えるような木なら、もっといい。願いを書いた人が何年か後に見上げた時、「あの時はこんな願いを書いた」と笑えるなら、それはきっと素敵なことだろう。
その考えに賛成してくれた者は多く、候補を挙げ、場所を調べ、根がどれほど広がるのかまで確認した末に、若木が成長する予測として境界線を引かれた。
そして、開催を目前に控えた今、残された仕事は本当に数えるほどしかない。
ヒアンシーは抱えていた確認表の下端を親指で揃え、ひとつ、またひとつと項目へ印を付けた。紙を捲る音の向こうで、荷物を運ぶ足音や笑い声が重なっている。
昔なら、これほど予定通りに進むことそのものが珍しかった。当たり前のように暗黒の潮が現れ、負傷者が出て、物資が足らず、道が使えなくなり。タイタンの動向も変わり、火を追うために多くの黄金が散って――昨日決めたことを今日もそのまま実行できる保証など、どこにもなかった。
だから予定表の上から順番に印を付けて、最後の数項目まで何事もなく到達したことが、ヒアンシーには小さな奇跡の積み重ねのように感じられる。
否、もう奇跡と呼ばなくてもよいのかもしれない。こういうものを、多くの者は日常と呼ぶのだろう。
「――ヒアンシー」
少し離れたところから聞こえた声に、彼女は顔を上げた。人々の行き交う向こう側から、白銀の髪が朝の光を拾いながら近づいてくる。
英雄然とした威圧感を携えて歩いているわけでもなければ、大勢の護衛を引き連れているわけでもない。片手を軽く上げ、人の間を邪魔にならないよう縫ってこちらへ来る姿は、ごく普通に知人を見つけて声を掛けた青年のそれだった。
それでも道の途中で何人かが彼へ気づき、会釈をしたり、嬉しそうに手を振ったりする。ファイノンも一人ひとりへ短く応じているせいで、数十歩ほどの距離を進むのにも少し時間が掛かっていた。
ヒアンシーはその様子を眺めながら、口元を緩めた。彼の、こういう姿を見ることが増えた。何か重大な決断を求められているのでも、敵を倒してほしいと請われているのでもない。
ただ、おはようございます、と声を掛けられて、おはよう、と返す。昨日も元気そうだったねと言われれば、君もね、と笑う。それだけのことを。
火を追う旅の中では、ファイノンが誰かの前に立つという行為は、いつだって何かを背負うことと隣り合わせだった。今は市民の誰かと立ち話をしても、その会話の終わりに剣を取らなければならないわけではない――その当たり前が、彼にも少しずつ戻りつつある。
「お待たせ。ようやく僕の出番かなって思って来たんだけど」
ようやく近くまで来たファイノンは、確認表を覗き込むでもなく、ヒアンシーの返事を待って足を止めた。
彼女はまず彼の顔を見る。顔色。呼吸。いつもの癖で、ほとんど意識するより先に確認してしまう。呼吸に不自然な乱れはなく、歩幅も一定で、立ち止まった際に重心が流れる様子もなかった。表情にも目立った強張りはなく、少なくとも今すぐ休ませなければならない所見は見当たらない。
もっとも、「歩いて来られたから大丈夫」という判断だけは絶対にしない。それをファイノン本人に任せれば、かなり危険なところまで平然と「まだ動けるよ」と言いかねないことを、ヒアンシーはもう学んでいる。
「はい。お願いしたいことはありますが、その前に確認させてくださいね。ここまで歩いてきて、息苦しさや胸の違和感はありませんでしたか?」
「ないよ。今日は結構調子がいいんだ」
「眩暈は?」
「それもないかな」
「身体が重い感じは?」
「大丈夫」
即答だった。ヒアンシーは笑顔を崩さないまま、ファイノンの手元へ視線を落とした。指先に震えは見えず、握り込んで誤魔化している様子もない。
「では、ちょっとだけ手をお借りします」
「もちろん」
差し出された手首へ指を添え、短い時間だけ脈を確かめる。ファイノンは慣れたもので、もう「そこまでしなくても」と逃げようとはしなかった。ただ、周囲から何人かに見られていることには気づいたらしく、少し困ったように笑っている。
「診察?」
「簡単な確認です。ファイノン様にお願いしたいのが、少し特殊なお仕事なので」
「力仕事なら大丈夫だよ。こう見えて――」
「身体の強さ自慢に永劫回帰のお話を持ち出したら、本日のお願いは取り消しますよ?」
先回りして告げると、ファイノンの口が途中で止まった。青い瞳がぱちりと瞬く。ほんの少し間を置いてから、彼は観念したらしく眉尻を下げた。
「……まだ何も言ってないじゃないか」
「言おうとしましたよね?」
「まあ、ちょっとだけ」
「もう。そこを根拠にされると、わたしとしては余計に許可しづらくなってしまうんですから」
責めるような声にはしなかった。ファイノンも怒られたとは受け取らなかったらしく、肩を竦めて小さく笑う。
こうして冗談へ変換出来る程度には、今は穏やかな時間なのだ。それを確認してから、ヒアンシーは彼の手首を解放した。
「脈も今のところ問題ありません。ですが、お願いしたいのは筋力で持ち上げてもらうお仕事ではありませんからね」
「というと?」
「若木です。会議をした広場から、今日の会場まで移したいんです。でも、あれをそのまま担いで運ぶのは禁止です」
「ああ、それなら大丈夫。ジョーリアの権能を借りれば、土ごと支えられるよ。僕が直接重さを受けるわけじゃないから、身体も使わない――使ってないよね?」
予想していた答えに、ヒアンシーはようやく頷いた。
とはいえ、権能なら無条件で許可するつもりもなかった。火種に由来する力を使うことが現在の彼へどれほどの負担になるかは、その種類と規模によって異なる。身体を使わないから魂にも負担がない、などという単純な話ではないからだ。
「使用するのは、運搬と根元の保護だけです。成長を促したり、広範囲へ力を伸ばしたりする必要はありませんよ?」
「うん。地面にお願いして、木が倒れないよう支えてもらうくらいにする」
「途中で少しでも違和感があったら、すぐに止めてください」
「分かってるよ」
「『止められるくらいなら大丈夫』ではなく、本当に止めてくださいね?」
「ヒアンシー、僕の信用ってそんなにない?」
ファイノンは困ったように笑ったが、ヒアンシーはすぐには答えず、じっと彼の顔を見た。数秒も経たないうちに、青年の方が視線を泳がせる。
「……分かった。ちゃんと止める」
「はいっ。では信用します!」
「今の間はなんだったんだい?」
「医師として必要な確認時間です」
悪びれずに答えると、ファイノンはとうとう声を立てて笑った。その笑いに合わせるように、近くで作業をしていた何人かもこちらを振り返る。何があったのかまでは分からなかったのだろうが、ファイノンが笑っているのを見て、つられるように口元を緩める者もいた。
ヒアンシーは確認表を胸元へ抱え直した。かつて世界の全てを背負った人が、今日は祭りの準備で木を運ぶ。天空の火種を背負った自分も、今日は人々が願いを書ける場所を整えるため、紙の数や休憩所の位置を確認している。
こんな未来を、終末のただ中で想像できたかと問われれば、きっと難しかっただろう。けれど、今はもう想像する必要さえない。目の前にあるのだから。
「では、行きましょうか。ファイノン様」
「ああ。どこから運べばいい?」
「こちらです。設置場所の最終確認もありますから、わたしも一緒に行きますね」
ヒアンシーが先に歩き出すと、ファイノンも隣へ並んだ。背後では、また誰かが誰かを呼ぶ声が上がり、紙を束ねる音や、荷物を積み直す音が続いている。何かを急いでいるのに、誰も逃げてはいない。人々は明日から逃げるためではなく、今日を楽しむために忙しくしていた。
終末は終わった。その言葉を宣言として掲げなくても、街の至るところがもうそう語っている。ヒアンシーは歩きながら確認表の最後の数項目へ目を落とし、若木の運搬という欄へ、まだ印を付けずに指先を置く。
これはこれから済ませる仕事だ。終われば、次へ進める。そんな何でもない順序を当たり前のものとして受け取りながら、彼女はファイノンと並んで、人々の賑わいの向こうへ歩いていった。
文章が、硬い……!
シュークリームを想像してたらクッキーだった時のようなかたさだ……。いやでも、うーん、こんな感じにしようかな……。