【完結】仲正イチカは悪い大人についていく   作:曇りのち晴れ男

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第十二話 マネー・ラリー・リレー

 

 トリニティの自治区にも、穏やかな午後は訪れる。

 窓から差し込む陽光が、埃の舞う事務所を少しだけ綺麗に見せていた。

 

 部屋の中央では、ウタハさんによって過剰なまでに改造された『ゲーミング全自動雀卓』が、主人の帰還を待つかのように、待機状態の淡い紫色の光を放っている。

 

「……あー、平和っすね。平和すぎて、自分が正義実現委員会だってこと忘れそうっす」

 

 私は淹れたての紅茶を啜りながら、デスクに積み上げられた未記入の報告書を眺めていた。自分でもわかるくらい目は細く緩んでいる。

 

「平和じゃねぇよ。俺の財布の中身は、未曾有の戦時状態だ……」

 

 ソファで新聞を広げていた先生が、忌々しそうに鼻を鳴らした。どうやら昨日の競馬の結果が相当堪えているらしい。先生は手持ち無沙汰そうに、ポケットの中で『中』の牌を弄んでいた。

 

「自業自得っす。っていうか、そろそろちゃんと仕事の準備してくださいっすよ。いつ新しい相談者が来てもいいように」

 

「準備ならできてる。この雀卓の電源も、俺のやる気スイッチもオフのままだ」

 

「やる気出してくださいっす!!」

 

 私が立ち上がってツッコミを入れようとした、その瞬間、控えめでどこか迷いを含んだような、硬い音がドアを叩いた。

 

「はい、どうぞー」

 

 ドアが開き、一人の生徒がおずおずと入ってくる。

 トリニティの制服を着ているが、その表情は今にも泣き出しそうに歪んでいた。

 

「あ、あの……思春期相談窓口って、ここであってますか……?」

 

「はい、そうっすよ。どうしました? まずは座って、お茶でも──」

 

 私が立ち上がって案内しようとすると、その生徒──ムラサキさんは、その場に崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆った。

 

「うぅ……お金が……部費が、全部なくなっちゃって……!」

 

「えっ、部費? 落としちゃったんすか?」

 

「ち、ちがうんです……『絶対に増えるから』って言われて……預けたのに……サイトが消えてて……!!」

 

 私と先生は顔を見合わせた。

 先生の目が、一瞬で退屈な午後の色から、獲物を前にした獣の色に変わる。

 

「……投資詐欺か。あるいはネズミ講か」

 

 先生が冷たく言い放つ。それにムラサキさんは涙目で頷いた。

 

「『エンジェル・アセット・マネジメント』っていう……キヴォトスの新興企業への出資ファンドだって……。一口五万クレジットで、一週間後には倍になるって……」

 

「倍、っすか……」

 

 私は思わず眉をひそめた。

 そんなうまい話があるわけがない。けれど、切羽詰まっている時や夢を見たい年頃の生徒には、その「甘い話」が輝いて見えてしまうのだ。

 

「友達もみんなやってて……実際に増えた子もいたんです! だから、私も、今月の部の予算をちょっとだけ増かそうと思って……」

 

「典型的なポンジ・スキームだな。最初は配当を出して信用させ、カモが増えたところでドロンだ」

 

 先生は椅子をギシギシと鳴らしながら立ち上がり、ムラサキさんの前に立つ。

 

「で? 連絡は取れねぇのか」

 

「はい……モモトークもブロックされてて……場所も、指定されたビルに行ったら空き家で……うぅ……先輩たちにぶち殺されますぅ……」

 

「殺されはしないでしょうけど……これは厄介っすね」

 

 私はムラサキさんの背中をさすりながら先生を見る。すると先生は面白くなさそうに舌打ちをした。

 

「ガキを騙して小銭を巻き上げるセコい真似しやがって。……おいイチカ、出んぞ」

 

「へ? もう行くんですか?」

 

「サイトが消えたのが今日なら、まだ連中はキヴォトス内にいる可能性が高い。逃げ足が速いのが詐欺師の特徴だが、痕跡が温かいうちに追うのが鉄則。ゆっくりしてる方が悪手だ」

 

 なるほど。さすがは元先生と言ったところだ。

 先生はジャケットをひっかけ、乱暴にドアを開ける。

 

「泣いてる暇があったら、そのサイトのスクショと、勧誘してきた奴の情報を全部送れ。……部費くらい、取り返してやる」

 

 その背中は、ほんの少しだけ──世間に名を響かせる『シャーレの先生』のように見えた気がした。

 まあ、口の悪さは相変わらずだけれども。

 私はソファから降りて、自分の銃を手に取った。

 

 ■■■

 

「……で、その『幸運を呼ぶペンダント』を買ってから、成績が上がったと?」

 

「はい! もうグングンと! あ、でもペンダントの効果を持続させるには、毎月のお清め水が必要で……それがちょっと高いんですけど」

 

「なるほど……」

 

 私は笑顔を引きつらせながら、メモ帳にペンを走らせる。

 トリニティのカフェテリア、放課後の教室、広場。

 私たちは自治区内を歩き回り、被害に遭ったと思われる生徒たちへの聞き込みを続けていた。

 

 しかし、得られる情報はどれもこれも「表面上」のものばかりだ。

『美容に効くサプリ』『絶対に彼氏ができるマニュアル』『弾道補正機能付き(と謳われた)ただの眼鏡』『自治区を水着で歩き回る人の対処法』。

 商材はバラバラだが、共通しているのは「ちょっと高いけど、手が届かない額ではない」という絶妙な価格設定と、「効果には個人差があります」という逃げ道が用意されていることだ。

 

「……はぁ。みんなフワッとした話しかしてくれないっすね」

 

 ベンチに座り込み、私は疲れた足を揉んだ。この数十分でわかったのは、アコギな商売をしているのは生徒と言う事。その生徒の名は「アコウ」と言う事

 隣では先生が、紫煙をくゆらせながら呆れたように鼻を鳴らす。

 

「詐欺の基本だな。被害者に『自分が騙された』と認めさせない。あるいは『騙された自分が恥ずかしい』と思わせて口を閉ざさせる。アコウって奴は人の自尊心をくすぐるのが上手いらしい」

 

「感心してる場合じゃないっすよ。決定的な証拠がないと、相談窓口としても動きようがないっす」

 

「別に感心しちゃいねぇよ。……ただ、これだけ広まってるのに尻尾が見えないのは、商品の受け渡しや金のやり取りを巧妙に分散させてるからだろ」

 

 先生は吸い殻を携帯灰皿に押し込むと、通り過ぎる生徒たちを鋭い目で観察した。

 

「『あなただけに特別に教える』。そう言われて優越感に浸った連中が、ネズミ講式に被害を広げる。……欲がある限り、この手の商売はなくならねぇよ」

 

「夢のないこと言わないでくださいっす」

 

「現実だ。……おい、次はあそこのグループに当たるぞ」

 

 先生の指示に従い、私たちはさらに聞き込みを続けた。しかし、核心に迫ろうとすると、生徒たちは口ごもる。

 洗脳に近い信頼、あるいは共犯意識。

 この「アコウ」という生徒は単なる小悪党かと思っていたが、自尊心をくすぐるどころか想像以上に人の心を掌握する術に長けているのかもしれない。

 

 手詰まり感が漂い始めた、その時だった。

 私のポケットの中で、モモトークの着信音が鳴る。

 

「……ウタハさんからっすね」

 

 私は画面を確認し、通話ボタンを押す。

 スピーカーモードに切り替えると、ウタハさんの落ち着いた、しかしどこか弾んだ声が聞こえてきた。

 

『イチカ、聞こえるか? 今、病院に来ているんだが』

 

「はい、聞こえてるっすよ。何かあったんすか?」

 

『あぁ。……良い知らせだ』

 

 ウタハさんは一呼吸置き、告げた。

 

『アオゾラが、目を覚ました』

 

「え……!」

 

 心臓が大きく跳ねた。

 あの爆発事故で意識不明となっていたアオゾラさん。

 ワタヌキさんが復讐の鬼と化してしまった事件の被害者である、彼女が。

 

「本当っすか!? 意識は……会話はできるんすか!?」

 

『あぁ、まだ混乱しているようだが、命に別状はない。ドクターの話では、後遺症もリハビリ次第でどうにかなるレベルだそうだ』

 

「よかった……! 本当によかった……!」

 

 私は安堵でへなへなとベンチに崩れ落ちそうになった。

 これで、ワタヌキさんの心も少しは救われるかもしれない。

 そんな私の横で、先生もホッとしたように息を吐いたのが分かった。

 

『そこでだ、先生』

 

 不意に、ウタハさんが先生に呼びかけた。

 

「……あ?」

 

 先生が眉をひそめる。

 ウタハさんの口から出た呼称に、違和感を覚えたからだ。

 

『アオゾラの協力を得れば、ワタヌキの追跡が万に一つもできるかもしれない。また今度手が空いた時に病院で話を聞いてみよう』

 

「…………おい」

 

 先生は気まずそうに頭をかき、携帯に向かって低い声で言った。

 

「いつから俺が『先生』になったんだよ、ウタハ」

 

『ん? ……あぁ。あなたの過去を知って、敬意を表すべきだと判断しただけだ。不服かい?』

 

「……気持ち悪ぃからやめろ。背中が痒くなる」

 

『フフッ、善処しよう。……だが、あくまで善処だからな、先生』

 

「ふざけやがって……一旦事務所に戻ってこい。情報をすり合わせるぞ」

 

 ウタハさんは楽しげに笑って、通話を切った。

 先生は「チッ」と舌打ちをしながらも、その表情は以前のような険しいものではなく、どこか照れ隠しのような色が混じっていた。

 

「……ウタハさんも、先生のこと認めてくれたみたいっすね」

 

「余計なお世話だ。……行くぞ、イチカ。アオゾラが起きたなら、ワタヌキの野郎が暴走する前に手を打つ必要もあるが……まずは目の前の詐欺師だ」

 

「はいっす!」

 

 アオゾラさんの目覚め。それは希望の光だ。

 けれど同時に、姿を消したまま裏社会に堕ちていったワタヌキさんが、このニュースを知ったらどう動くのか。

 一抹の不安を抱えつつ、私は先生の背中を追った。

 

 アオゾラさんの意識が回復したという吉報に胸を撫でおろした後、私たちは再び窓口の事務所に戻る。

 テーブルの上には、トリニティ自治区の広域地図が広げられていた。

 そこには赤いマーカーでいくつもの印がつけられていて、それは今回の詐欺事件で被害者たちが「アコウ」という人物と接触し、現金の受け渡しを行った場所だ。

 

「……バラバラっすね」

 

 私は地図を覗き込みながら、唸るように言った。

 公園の裏手、旧校舎の屋上、商店街の路地裏、廃棄された駐車場の隅……。

 一見すると、共通点は何もないように思える。

 

「ああ。私も最初は無作為に場所を選んでいるのかと思った」

 

 病院から戻ってきたウタハさんが、手元のタブレットを操作しながら補足する。

 彼女の視線が、ソファで紫煙をくゆらせている先生に向けられた。

 

「だが、先生の指摘通り、タイムスタンプと照らし合わせると奇妙な事実が浮かび上がってきた」

 

「奇妙な事実、っすか?」

 

「ああ。これを見てみろ」

 

 先生が身を乗り出し、地図上の二つの地点を指さした。

 地点Aは『トリニティ中央公園の時計台下』。

 地点Bは『第三図書館裏の搬入口』。

 

「被害者Aがアコウと接触したのが、この日の14時15分。そして被害者Bが接触したのが、同じ日の14時25分だ」

 

「えっと……10分の差があるっすね」

 

「問題はその距離だ。中央公園から第三図書館までは、大人の足で普通に歩いても20分はかかる。生徒が走ったとしても15分は必要だ」

 

 私はハッとして地図を見直した。

 確かに、直線距離なら近く見えるが、この間には大きな講堂があり、迂回しなければならないはずだ。

 

「じゃあ、犯人は複数人いるってことっすか? 『アコウ』は一人じゃない……?」

 

「いや、被害者の証言による『アコウ』の特徴は完全に一致している。泣きぼくろの位置、髪型、そして特徴的な香水の匂いまでな」

 

 先生は短くなった吸い殻を灰皿に押し付けると、新しいタバコを取り出しながら鋭い眼光を地図に向けた。

 

「複数人ですべての特徴を一致させるのは不可能に近い。つまり、アコウは一人だ。だが、彼女は物理的に不可能な速度で移動していることになる」

 

「……テレポートでも使ったなどと言う気はないだろう? 先生」

 

 ウタハさんが静かに問う。その口調には、以前のような刺々しさはなく、純粋に探偵役としての先生への信頼が滲んでいた。

 

「まさか。……トリックはもっと単純で、そして図太いものだ」

 

 先生はペンを執ると、地図上の地点Aと地点Bを直線で結んだ。

 その線は、二つの建物の間を通り抜け、そして──ある一つの『空白地帯』を横切っていた。

 

「イチカ、このエリアは何だ?」

 

 先生がペン先で叩いた場所。そこは地図上ではただの空白になっているが、私はその場所を知っている。

 

「そこは……今は使われていない、旧地下水道の整備用エリアっす。崩落の危険があるとかで、今は立ち入り禁止区域に指定されていて、フェンスで囲まれているはずっすけど……」

 

「立ち入り禁止、か。だが地図を見る限り、ここを突っ切れば公園から図書館までは5分もかからない」

 

「でも、あそこは壁も高いし、有刺鉄線もあるんですよ? いくらなんでも毎回そこを乗り越えて移動するなんて……」

 

「乗り越える必要がないとしたら?」

 

 先生はニヤリと笑い、もう一つの地点Cと地点Dも線で結んだ。

 驚くべきことに、その線もまた、別の『立ち入り禁止区域』や『工事現場』を通過していたのだ。

 

「犯人のアコウは、トリニティの生徒ですら知らないような『抜け道』を知り尽くしている。いや、もっと正確に言えば……」

 

 先生は地図から顔を上げ、私とウタハさんを見据えた。

 

「『誰も通れないと思われている場所』こそが、彼女のメインストリートなんだ」

 

「なるほど……。我々は犯人の移動経路を、一般生徒が使う公道のみで計算していた。それが盲点だったということか」

 

 ウタハさんが納得したように頷く。

 

「でも先生、それだけじゃ潜伏先の特定にはならないっすよ。移動が速いのは分かりましたけど、アコウがどこに隠れているのかは……」

 

「焦るなイチカ。ここからが本題だ」

 

 先生は地図に書き込んだ線を、さらに複雑に繋ぎ合わせ始めた。

 被害者との接触地点。そこから逆算される移動ルート。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた線たちは、不気味なほどに『ある一点』を避けているように見えた。

 

「犯人は移動時間を短縮するために危険なルートを使っている。だが、そんな彼女が『絶対に近寄らないエリア』がある。……ここだ」

 

 先生の指が、地図の端にある海沿いのエリアを指した。

 そこは断崖絶壁の上に立つ、古い灯台と倉庫街がある場所だった。

 

「そこは……『海猫の崖』っすか?」

 

 私は眉をひそめた。そこはトリニティ自治区の最果て。かつては灯台守が管理していたが、今は自動化された新しい灯台が別の場所に建ったため、完全に放置された廃墟群だ。

 

「ああ。断崖絶壁の上に立つ廃灯台と、崩れかけた倉庫があるだけの場所。それに、そこへ続く道は一本しかない袋小路……。逃げ場のないそんな場所を、詐欺のアジトにするか?」

 

 常識的に考えればあり得ない。犯罪者は常に逃走経路(退路)を確保したがるものだ。一本道で、しかも後ろが崖なんて、袋のネズミになりに行くようなものだ。

 

「……だからこそだ」

 

 先生がニヤリと笑い、地図上のその『海猫の崖』を指でトントンと叩いた。

 

「灯台下暗し、とはよく言ったもんだ。ヴァルキューレも正実も、『あんな袋小路に犯人がいるわけがない』と思い込む。お前みたいな地元の人間ならなおさらだ」

 

「裏をかいたってことっすか……」

 

「それに、犯罪者は本能的に自分の巣の近くを空白地帯にしたがる。足がつかないようにな。このエリアだけ被害報告が一件もないのが、逆に怪しいんだよ」

 

 先生の推論は筋が通っている。けれど、確証がない。もしハズレなら、アコウに逃げる時間を与えてしまうことになる。

 

「ウタハ、その『海猫の崖』周辺の電波状況はどうだ?」

 

 先生が短く問うと、ウタハさんが即座にキーボードを叩き始めた。

 

「……待ってくれ。今、信号強度マップを照合する。……あそこの地形データと、通信ログのノイズを解析して──」

 

 数秒の沈黙。事務所にはタイピングの音だけが響く。やがて、ウタハさんが顔を上げ、興奮気味に声を上げた。

 

「ビンゴだ、先生。その崖周辺だけ、意図的に微弱なジャミング信号が出ている痕跡がある」

 

「ジャミング、っすか?」

 

「ああ。広範囲の通信障害にならないギリギリのレベルで、外部からの位置特定……GPSを狂わせるためのものだ。普通の廃墟なら、そんな電波が出ているはずがない」

 

「うっし、アコウの居場所は決まったな」

 

 先生が立ち上がり、椅子の背にかけてあったジャケットを羽織る。その瞳には、獲物を見つけた狩人のような鋭い光が宿っていた。

 

「アコウは、その崖にある廃灯台、もしくはその地下倉庫を拠点にしてる。ネット上ではあちこちを経由しているように見せかけて、物理的な足場は一番大胆な場所に置いてやがったんだ」

 

「……一本取られたっすね」

 

 私は愛銃の点検を済ませ、苦笑した。まさか、デートスポットとしても廃れてしまったあの崖が、詐欺の総本山だったとは。

 

「先生。……袋小路に逃げ込んだネズミを、捕まえに行くっす!」

 

「あぁ。ただし、崖だ。足元には気を付けろよ」

 

 先生が冗談めかして言う。

 

「フリじゃないっすからね?」

 

「私は万が一アテが外れた場合を考えてもう少し調査をしてみる。気を付けたまえ」

 

 私たちは事務所を飛び出し、潮風の吹く最果ての地へと自転車を走らせた。

 

 ■■■

 

「はぁ……はぁ……、くっそ……ふざけんな、この坂……」

 

 潮風が吹き付ける「海猫の崖」の頂上。

 そこにたどり着いた瞬間、先生は自転車ごと地面に崩れ落ちた。

 肩で大きく息をし、顔色は真っ青だ。まるでゾンビ映画のエキストラのような形相である。

 

「だらしないっすねぇ、先生。それでも元先生っすか?」

 

 私は自転車をスタンドで止め、涼しい顔で先生を見下ろした。

 ここに来るまでの移動手段は、事務所に置いてあった電動アシスト自転車(先生用)と、私の愛用するママチャリ(アシストなし)だった。

 それなのに、私が平気で、電動に乗っていた先生が死にかけている。

 

「うっせぇ……! 心肺機能が……お前らとは違うんだよ……ゴホッ、オエッ……」

 

「タバコの吸いすぎっすよ。自業自得っす」

 

「……酸素、酸素をくれ……」

 

 先生はしばらく地面にへばりついていたが、やがてふらつく足取りで立ち上がった。

 目の前には朽ち果てた灯台と、それに併設されたコンクリート造りの倉庫が鎮座している。

 波の音が激しく岩肌を打ち付ける音以外、人の気配はしない。

 

「はぁ……はぁ……行くぞ。アコウはここにいる」

 

 先生は呼吸を整えると、ジャケットからハンドガンを取り出し、倉庫の錆びついた扉を慎重に開けた。

 私も愛銃を構え、その背後に続く。

 

 倉庫の中は湿気とカビ、そしてわずかに薬品のようなツンとした匂いが充満していた。

 埃の積もった床には、確かに最近誰かが歩いたような足跡が残っている。

 

「……当たりっすね」

 

 私は小声で囁き、ライトで奥を照らす。

 乱雑に積まれた木箱の奥に、事務机といくつかの化学機材が並べられたスペースがあった。

 私たちは警戒しながらそこへ近づく。

 

 机の上には、詐欺に使われたと思われる偽造の名簿や、複数の端末が散乱している。

 だが、先生が手に取ったのは、それらとは別の書類だった。

 

「……おい、イチカ。これを見ろ」

 

 先生が指し示した書類には、ブラックマーケットのロゴと共に、不穏な化学式と取引記録が記されていた。

 

「『強化薬剤』……? これって、裏で出回ってる違法薬物じゃ……」

 

「あぁ。ただの金銭目的の詐欺師かと思ってたが……どうやら、もっとドス黒いもんに手を出してやがったらしいな」

 

 先生の声が低くなる。

 この資金が、どこかの組織に流れているのか、それともアコウ自身がこれを使っているのか。

 事態は私たちが思っていたよりも深刻かもしれない。

 

 その時だった。

 

「ぐッ……!?」

 

 鈍い音が響き、隣にいた先生が前のめりに倒れ込んだ。

 

「先生ッ!?」

 

 私が振り返ると同時に、倉庫内の配電盤から火花が散り、バチンッという音と共に非常灯さえも消え失せた。

 完全な暗闇。

 閉ざされた倉庫内は、一寸先も見えない漆黒に包まれる。

 

「……ぐ、ぅ……」

 

 床から、先生の苦しげな呻き声が聞こえる。

 意識はあるようだが、今の打撃で脳震盪を起こしているのか、立ち上がる気配がない。

 

「(後ろから……! 気配がなかった……!?)」

 

 私は即座に重心を低くし、銃を構え直す。

 だが、これでどうすればいい……!? 電気のスイッチもどこにあるかわからないし、相手がどこにいるかもわからない……。

 ヒュッ、と空気を裂く音が左耳を掠める。

 私は反射的に身体を捻り、振るわれた「何か」を銃身で受け止めた。

 

 硬質な金属音が響き、火花が散る。

 その一瞬の光で、白衣を纏った少女の無表情な顔が浮かび上がった。

 

「アコウ……!」

 

 彼女の銃は撲殺用か否か、剛性を高めているようだ。そんな『鈍器』を手に、驚くべき速さでバックステップを踏んで再び闇に溶け込んだ。

 速い。そして、この暗闇に慣れている。

 

「(銃撃戦は不利っすね……!)」

 

 この暗闇で銃を乱射すれば、床に倒れている先生に流れ弾が当たる可能性がある。

 それに、銃を撃った際の発光は私の視界を一瞬奪い、次弾への対応を遅らせる。

 

 私は銃を背中に回し、素手で構えを取った。

 先生がキヴォトスで生きていく日々で学んだという対人制圧術。それを教わったのが今この瞬間活きている。

 この狭く、障害物の多い実験室なら、銃よりも身体の方が速く動く。

 

「……来るなら来るっす、白兵戦っすよ」

 

 私は目を閉じ、聴覚と肌感覚だけを研ぎ澄ます。

 薬品の匂いの中に混じる、甘い香水の香り。

 衣擦れの音。

 そして、微かな呼吸音。

 

 右だ。

 

 私は踏み込み、闇の中へ掌底を突き出す。

 手ごたえあり。だが、浅い。

 アコウは私の攻撃を最小限の動きで逸らし、カウンター気味に懐へ飛び込んできた。

 

 腹部に鋭い蹴りが入る。

 私は呻き声を呑み込み、その足を掴んで強引に投げ飛ばそうとするが、彼女は身体を捻って空中で体勢を立て直し、着地した。

 

「(強い……! ただの詐欺師の動きじゃないっすよ、これ!)」

 

 脳震盪で動けない先生を守りながら、暗闇の中での防衛戦。

 その手ごたえには違和感があった。

 

「(……重いッ!)」

 

 暗闇の中で交差した拳が、私の腕を強烈に痺れさせる。視界が効かない中、頼りになるのは風切り音と気配だけ。けれど、アコウの動きはそのどれもが、私の想定を遥かに超えていた。

 

「ハッ、ハハッ……!」

 

 不気味な笑い声と共に、右側から強烈な蹴りが飛んでくる。

 私はガードを固めるが、衝撃で身体ごと数メートル吹き飛ばされ、実験室の机に背中を強打した。ガシャガシャとビーカーや機材が落ちる音が響く。

 

「……いったぁ……」

 

 痛みをこらえながら体勢を立て直す。おかしい。明らかにおかしい。普通の女子生徒の筋力じゃない。正義実現委員会の訓練を受けた普通の生徒たちでも、ここまでの打撃力は持っていないはずだ。それに、さっき私が放ったカウンターの蹴り。あれは確実に脇腹に入ったはずなのに、彼女は怯むどころか、痛みを感じていないかのように即座に反撃してきた。

 

「(さっきの資料……『強化薬剤』……まさか)」

 

 脳裏に、先ほど見つけたブラックマーケットのリストが過る。恐怖心を麻痺させ、筋力のリミッターを外す薬。もしそれを服用しているのだとしたら、今の彼女は痛みを知らない暴走機関車と同じだ。

 

「アハァッ……死ね……邪魔すんなぁッ!!」

 

 暗闇の向こうから、狂気じみた叫び声と共にアコウが突っ込んでくる。足音で分かる。迷いがない。

 こちらの位置が完全に見えているわけじゃなく、ただ力任せに空間を制圧しに来ているんだ。

 

「(強化薬剤で視力すら向上している……!?)」

 

 まともにやり合えば、体格差のない私でも押し負ける可能性がある。なら──。

 私は突進してくる気配に対して、あえて一歩も動かずに待った。彼女の拳が私の顔面を捉える寸前、私は脱力し、重力に従って地面スレスレまで身を沈める。

 

「なっ!?」

 

 頭上を剛腕が通過する風圧を感じながら、私は彼女の懐へと潜り込んだ。薬剤で身体能力を上げていても、技術までは補強できない。大振りの攻撃は、懐に入ればただの隙だ。

 

「ここっす!!」

 

 私は渾身の力を込めて、下から突き上げるような掌底を彼女の顎に叩き込んだ。

 硬い感触が手に残る。脳を揺らす一撃。さすがにこれは耐えられないはずだ。アコウの身体が大きくのけぞり、たたらを踏む。

 

「が、ぁ……ッ!?」

 

「終わりっす。おとなしくして──」

 

 私が追撃を入れようと踏み込んだ、その時だった。彼女は意識を飛ばすどころか、獣のような唸り声を上げ、めちゃくちゃに腕を振り回して私を牽制したのだ。

 

「うああああああああッ!!」

 

「ッ! まだ動けるんすか!?」

 

 私はバックステップで間合いを取る。彼女は荒い息を吐きながら、ふらつく足取りで後退した。戦意喪失ではない。彼女が向かったのは、私ではなく──出口の扉だ。

 

「逃がさないっすよ!」

 

「あはッ、あははははッ!!」

 

 アコウは狂ったように笑いながら、重たい鉄扉のレバーを押し下げ、勢いよく蹴り開けた。

 

「うぉっ、まぶしッ……!」

 

 暗闇に慣れきっていた目に、外からの強烈な西日が突き刺さる。一瞬のホワイトアウト。その隙に、アコウの影が光の中へと飛び出していくのが見えた。

 

「待てッ!!」

 

 錆びついた鉄扉を蹴り飛ばし、私は夜風の吹き荒れる屋外へと飛び出した。

 そこは、トリニティの最果て『海猫の崖』。

 眼下には、荒れ狂う海が白波を立てて岩肌に打ち付けられ、轟音を響かせている。

 

「あはははは! すごい! 風が歌ってる!」

 

 アコウは、崖の縁ギリギリの場所に立っていた。

 強化薬剤の副作用だろうか。彼女の瞳孔は開ききり、焦点が定まっていない。

 自分の置かれている状況も、死と隣り合わせであることすらも理解できていないようだった。

 

「アコウさん! そこから離れるっす! 足元が崩れかけてるんすよ!」

 

 私が叫ぶと、彼女はゆらりと振り返り、虚ろな笑顔を向けた。

 

「うるさいなぁ……。邪魔ぁ……。今から私、空を飛ぶんだから」

 

「なっ……!?」

 

 彼女は両手を広げ、まるで鳥のように羽ばたく真似をする。

 その足が、さらさらと崩れる砂利を踏み越え、宙へと踏み出そうとした。

 

「ダメっす!!」

 

 私は地面を蹴った。

 思考するよりも早く、身体が動いていた。

 アコウが崖から身を躍らせたその瞬間、私は彼女の手首を掴むために、崖の外へと身体を投げ出した。

 

「くぅ……ぐっ……」

 

 私の指が、アコウの細い手首を捉える。

 だが、勢いがつきすぎていた。私の身体もまた、重力に引かれて海面へと傾いていく。

 

「しまっ──」

 

 足場にしていた岩が、私の重みに耐え切れずに崩落した。

 支えを失った私たちは、真っ逆さまに暗い海へと落ちていく──はずだった。

 

 激しい衝撃と共に、私の落下が止まった。誰かが、崖の上から私を掴み留めたのだ。

 

「ぐぅ……ッ! おも、てぇ……な……!!」

 

 頭上から聞こえたのは、苦悶に満ちた男の声。

 脳震盪で倒れていたはずの先生だった。

 彼は這いつくばりながら、崖から身を乗り出し、私の身体を支えていた。

 

 ……私の、『翼』を掴んで。

 

「ぎゃああああああああああッ!!??」

 

 私はアコウをぶら下げたまま、この世の終わりかのような悲鳴を上げた。

 

「い、痛い痛い痛いッ!! 先生!? そこ羽っすよ!? 羽の付け根っすよ!!?」

 

 トリニティの生徒にとって、翼は感覚神経が集中するデリケートな器官だ。

 そこを成人男性の握力で、しかも二人分の体重を支えるために全力で鷲掴みにされているのだ。激痛どころの話ではない。

 

「うっせぇ! ここしか掴めなかったんだよ! 文句言うな! あったま痛ぇしよ……っ!!」

 

 先生もまた、血管が切れそうなほど顔を赤くして怒鳴り返してくる。

 

「いや無理っす! 千切れる! もげちゃうっす!! 離して! 一回離して!!」

 

「離したら落ちるだろうがッ!! このバカ!!」

 

「乙女のデリケートな部分を掴むなんてセクハラっす!! 訴えますよ!!」

 

「今すぐその減らず口を閉じろ!! 引き上げるぞ……せーのっ……!」

 

 先生が渾身の力を込めて引き上げようとした、その時だった。

 不吉な音が、先生の身体の下から響いた。

 

 長年の風雨に晒され、脆くなっていた崖の縁。

 そこに、私とアコウ、そして先生の荷重が一気にかかったのだ。

 

 先生の顔が、サァッと青ざめるのが見えて、浮遊感が私たちを襲う。

 

「……あ」

 

「……え?」

 

 先生がしがみついていた岩盤ごと、崖の縁が崩落した。

 

「うおおおおおおおおおおおおっ!!?」

 

「きゃあああああああああああっ!!?」

 

「あはははは~! とんでる~!」

 

 三者三様の叫び声を残し、私たちは仲良く夜の海へと落下していった。

 冷たい海水が全身を叩きつけ、視界が泡と闇に覆われる。

 

 冷たい衝撃と、耳をつんざく水音。全身を海水に叩きつけられ、私は視界が真っ白になった。鼻と口に容赦なく塩水が流れ込んできて、思考が一瞬で飛びそうになる。

 

「ぶはっ!! げほっ、げほっ!! しょっぱ……!!」

 

 必死に水面から顔を出し、私は大きく海水を吐き出すものの塩っ辛さはぬぐえない。目に入った海水が染みて痛いし、服はずっしりと重いし、髪の毛はベタベタと肌に張り付く。最悪だ。本当に最悪だ。

 

「……っぷぁ。……クソッ、最悪の味だ」

 

 すぐ隣で、先生も水面に顔を出して髪をかき上げている。

 のんきにジャケットに手を突っ込んでタバコの水没状況を確認している。

 

「も──っ!! なんなんすかこれ!!」

 

 私は水面をバシバシと叩きながら、先生に抗議の声を上げました。

 

「痛い思いした挙句、結局ずぶ濡れじゃないっすか!! どうしてくれるんすか、私の制服!! 羽だって乾かすの大変なんすよ!?」

 

「知るか……! 俺だって一張羅のスーツがおじゃんだ。それに、あの状況で他にどうしろってんだよ!」

 

「もっとこう、スマートな着地とかあったじゃないっすか! 大人の知恵で何とかしてくださいよ!」

 

「物理法則は知恵じゃ曲がらねぇんだよ!」

 

 私たちが海の中でギャーギャーと言い争っていると、少し離れた場所で、パシャリと水音がした。見ると、アコウがふらふらとした動きで、岸に向かって犬かきを始めているのが見える。

 海水の冷たさがショック療法になったのか、ハイな気分が強制的に醒めたのだろう。その表情からは狂気が消え、代わりに「絶対に逃げる」という焦りが張り付いている。

 

「……あ」

 

 私と先生の視線が、逃げようとするアコウに突き刺さる。

 

「おっと。逃がすわけないだろぉ……???」

 

「待ちやがれっすぅ……???」

 

「ひっ!?」

 

 私と先生は示し合わせたように同時に水をかき分け、アコウの両サイドに回り込む。そして、濡れた肩をガシッと両側から掴んだ。

 ハイになったこの人のせいでこんな目に合ってるんだ。絶っっっ対に離してやるもんか。

 

「逃げようなんて100年早いっすよ。……さぁ、陸に上がってお説教の時間っす」

 

「ひ、冷たい……寒い……ごめんなさい……」

 

 アコウはガタガタと震えながら、小さくなっている。その目にはもう、あのおぞましい薬物の光はなかった。

 

 ■■■

 

 ずぶ濡れのままアコウを連行し、ヴァルキューレへの引き渡し手続きを済ませる前に、私たちは一度事務所へ戻った。

 ウタハさんが簡易乾燥機を用意してくれたおかげで、どうにか服は乾いたものの、髪にはまだ潮の香りが残っている。

 

 アコウは部屋の隅のパイプ椅子に座らされ、結束バンドで拘束されていた。

 薬の効果が切れ、海に落ちたショックもあってか、憑き物が落ちたように項垂れている。

 

 先生は、アコウの所持品から押収した『強化薬剤』の小瓶を光にかざし、低い声で問いかけた。

 

「……アコウ。この薬、どこで手に入れた」

 

「……ブラックマーケットで」

 

 アコウは消え入りそうな声で答えた。

 

「売人は会ってない。指定されたコインロッカーに入ってた。……最近、トリニティでも流行ってるの。飲むだけで強くなれる、嫌なことを忘れられるって……」

 

「流行ってる、か。……それで詐欺を働いて仕入れる資金源にしていたと」

 

 先生の目が、鋭く細められる。それもそうだ、詐欺なんてそれは単なる不良の小遣い稼ぎのレベルではない。

 

「……先生」

 

「あぁ。間違いないな。俺たちは、とんでもなくデカい怪物の一部を見つけちまった」

 

 先生は小瓶を証拠品袋に入れると、デスクに乱暴に投げ出した。重苦しい空気が流れる。この先には、これまでとは比にならないほどの闇が待っている。

 すべては一つの巨大な意志──キヴォトスを蝕む麻薬組織へと繋がっている予感がした。

 

「……ま、今は考えても仕方ないっすね」

 

 私はパンッ、と両手を叩いて空気を変えた。

 

「今は、腹ごしらえが先っす! 海に落ちて体力も使いましたし、温かいものが食べたいっす!」

 

「賛成だ。思考にはカロリーが必要だからな。先生、チャーシューはまだあっただろうか?」

 

「んん、確かあと少ししかねぇ」

 

 私は給湯室から、とっておきの麵を取り出す。前に作ったラーメンの余りだ。

 スープも冷凍して保存しているため、あとは茹でて具材を入れれば作れるような状態になっている。

 

「おぉ……いい匂いじゃないかぁっ! はは」

 

「これが思春期相談窓口の特製ラーメンっす」

 

 先生とウタハさんが、完成したラーメンを前に目を輝かせており、アコウもそれを見つめている。私たちはテーブルを囲み、「いただきます」と手を合わせた。麺をすする音が響くと同時に、五臓六腑に染み渡るような温かさと旨味が流れ込んでくる。

 

「……あの」

 

 その時、部屋の隅から控えめな、しかし物欲しげな声が聞こえた。見ると、アコウがじっとこちらのラーメンを見つめている。お腹の虫が、グゥ~と情けない音を立てて鳴った。

 

「その……私、お昼まだ食べてなくて……一口だけ、もらっても……?」

 

 その瞬間。私と先生は同時に箸を止め、鬼の形相で振り返った。

 

「「被害者から金を巻き上げておいて、よく言えたな!!!」っすね!!!」

 

「ひぃっ!?」

 

「お前が食っていいのは、ヴァルキューレのカツ丼だけだ!!」

 

「当然の報いっす! 百歩譲って反省の色が見えるならまだしも、『一口いい?』みたいなノリで犯罪者がねだらないでほしいっす!! 図太すぎっすよ!!」

 

「ご、ごめんなさいぃぃ……!」

 

 私と先生の容赦ない説教が再び始まり、アコウは涙目で縮こまる。そんな騒がしい光景を、ウタハさんはレンゲでスープを飲みながら、やれやれと肩をすくめた。

 

「……騒がしいな。だがまあ、これこそがこの窓口の日常、というやつか。ん、美味しい」

 

 ▽ ▽ ▽ ▽ ▽

 

 場所は変わり、ブラックマーケット。

 治安の悪い路地裏を抜けた先にある、会員制の高級クラブ『ベルベット』のVIPルーム。

 外の喧騒と重低音が嘘のように遮断されたその部屋は、革張りのソファと高級な酒……っぽいボトル、そして甘ったるい香水の匂いで満たされていた。

 

 そこに訪れたワタヌキは、震える手でアタッシュケースをガラスのテーブルに置いた。

 制服は汚れ、目の下には濃いクマができている。

 かつて親友を想って涙を流していた純朴な生徒の面影は、もう薄れかけていた。

 

「……強化薬剤の売り上げです。指定されたエリアの在庫、すべて捌きました」

 

「お~、すご~い! パチパチパチ~!」

 

 ソファの奥から、無邪気な拍手が響く。

 そこに座っていたのは、一人の少女だった。

 

 白髪のウルフカット。

 耳や首元にはジャラジャラとシルバーのピアスやチェーンをつけ、黒を基調としたパンクファッションに身を包んでいる。

 一見すれば、ただの派手な不良少女に見えるかもしれない。

 だが、その華奢な体から放たれているのは、ブラックマーケットの荒くれ者たちさえ平伏させるような、圧倒的で暴虐な「カリスマ」だった。

 

 彼女は足を組み、ロリポップキャンディを口の中で転がしながら、アタッシュケースの中身を一瞥もしない。

 

「ワタヌキちゃん、優秀だね~。新入りでここまで数字出す子、久しぶりかも」

 

「……あ、ありがとうございます。それで、次の仕事は……」

 

「ん~? 焦んない焦んない」

 

 少女は猫のようなしなやかさで身を乗り出すと、テーブルの上に小さな小瓶を置いた。

 中には、毒々しく蛍光色に輝く液体が入っている。

 先ほどまでワタヌキが他人に売りさばいていたもの──『強化薬剤』の原液だ。

 

「次の仕事はねぇ、ちょっと『力仕事』なんだよね。だからさ、今のワタヌキちゃんじゃ、ちょっと壊れちゃうかも」

 

「え……」

 

「だからさぁ。これ、サービスしてあげる」

 

 少女はニタリと笑った。その瞳は笑っているようで、底知れない冷酷さを湛えている。

 

「飲みなよ。そしたら、もっと『イイコ』になれるから」

 

 ワタヌキの顔が青ざめる。

 彼女は、これを飲んだ生徒たちがどうなるかを知っている。

 アコウの末路も、海岸での狂態も、噂で聞いている。

 一度手を出せば、二度と戻れない不可逆の領域。

 

「あ……私は、売る側で……使うつもりは……」

 

「あれぇ? もしかして、私のプレゼント、断るつもり?」

 

 少女の声色が、スッと低くなった。

 室内の空気が凍り付くような錯覚。

 ワタヌキの喉がヒュッと鳴る。

 ここで断れば、ここでの居場所を失う。

 ブラックマーケットに身を落とし、トリニティにも戻れない自分には、もうすがり付く場所はここしかないのに。

 

「わかるよね? ワタヌキちゃんは、()()()()の子だもんね?」

 

 少女は再び、可愛らしい笑顔に戻る。

 それは、獲物を甚振る捕食者の笑みだった。

 

 ワタヌキは震える手で、小瓶を掴む。

 蓋を開けると、ツンとした薬品臭が鼻をつく。

 飲むしかない。気に入られるためには。生き残るためには。

 恐怖で涙が滲むが、少女は楽しそうに手拍子を始めた。

 

「うん♪ そうそう♪」

 

 ワタヌキが小瓶に口をつける。

 少女は恍惚とした表情で、決定的な一言を放った。

 

「飲んじゃって、飲んじゃって♡」

 

 液体が喉を通る音と共に、ワタヌキの瞳から理性の光が揺らぎ、消えていく。

 ワタヌキが薬を飲んだ瞬間に少女は目線を外し、満足げにロリポップを噛み砕いた。

 





良ければ評価・感想等よろしくお願いします。
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どうも、曇りのち晴れ男です。
最後の話の構想について何かを掴んだ気がするので、数日お休みいただきます。
すぐに戻ってまいります。
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