【完結】仲正イチカは悪い大人についていく   作:曇りのち晴れ男

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第十三話 その指揮者のディソナンス

 

 ブラックマーケット、第4地区。薄汚れた路地裏とは無縁の、とある高級ラウンジの最上階。そこは、この無法地帯を牛耳る「女王」の玉座だった。

 革張りのソファに深く腰掛けた少女は、部下が震える手で差し出した封筒をヒラヒラと弄んでいた。

 

「なにこれ? ……ふぅん。『アコウ』から?」

 

 それは、先日トリニティで捕まった元幹部からの、必死の嘆願書だった。『脱獄させてください』『取り調べのカツ丼美味しいです』『矯正局は嫌です』──そんな、見苦しいほどの命乞いが書き連ねられていることが、封を開けずとも、そこから滲み出る「思考の残滓」で手に取るように分かった。

 

「何? アコウから泣きの手紙が来たの? 面の皮あっついねぇ~♡」

 

 少女は封筒の中身を読むことすらなく、笑顔でそれを破り捨てた。紙吹雪のように舞い散る元部下の絶望を、彼女はつまらなそうに見上げる。

 

「無視。……負け犬の戯言なんて、聞いてるだけで耳が腐っちゃう」

 

 彼女はソファから立ち上がり、窓の外──遠くに見えるトリニティの自治区を眺めた。その瞳の奥には、退屈と、それごちゃ混ぜになった昏い苛立ちが渦巻いている。

 

「ねぇ。アコウが捕まったってことはさぁ……」

 

 少女が振り返ると、部屋に控えていた屈強な黒服たちが一斉にビクリと肩を震わせた。彼女はクスクスと笑い、窓ガラスに指を這わせる。

 

「多分トリニティのクソ虫達、そろそろこっちに来るよね?」

 

『思春期相談窓口』。最近、彼女の庭を嗅ぎまわり、大事な強化薬剤(おもちゃ)の邪魔をしてくる目障りな連中。最初はただの雑音だと思っていた。けれど、その雑音が少しずつ大きくなり、彼女の快適な「遊び場」に不協和音をもたらし始めている。

 

「あーあ、なんかぁ……ムカつくし」

 

 少女の纏う空気が、一瞬にして冷徹なものへと変わった。

 

 遊びは終わりだ。

 

 女王の機嫌を損ねた代償を、骨の髄まで思い知らせてやる必要がある。

 

 彼女はニヤリと、三日月のような嗜虐的な笑みを浮かべた。

 

「そろそろ本気で、潰しに行っちゃおっか♡……ブッ殺す♡」

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 事務所は静まり返っていた。

 いつもなら平和な空気が流れているはずのこの場所が、今はタバコの煙と重苦しい沈黙に支配されている。

 窓の外からは生徒たちの楽しげな喧騒が聞こえてくるが、それが余計に室内の空気を異質なものに感じさせた。

 

「……成分分析が終わった」

 

 沈黙を破ったのはウタハさんだった。

 彼女は愛用のタブレットをテーブルに置き、険しい表情でモニターを指差した。

 

「アコウが所持していた薬剤……これらはただの興奮剤じゃない。生徒の身体に無理やり負荷をかけ、一時的に身体能力を爆発させる劇薬だ」

 

「副作用は?」

 

 先生が新しいタバコに火をつけながら、低い声で問う。

 

「精神錯乱、記憶障害、そして最悪の場合……ヘイローの破壊に繋がるだろうな」

 

 その言葉に、私は思わず息を呑んだ。

 ヘイローの破損。それは私たちキヴォトスの生徒にとっての死だ。

 

「強化薬剤……」

 

 腕を組んでいた先生が何かを思い出したように机からあるチラシを取り出す。それは依然オオイシさんから取り上げたチラシだ。

 

 そこにも強化薬剤のことが記載されている。

 

「……以前、多分これを飲まされ……。いや、飲んじまったことがある」

 

「本当っすか!?」

 

 強化薬剤のチラシを握りしめながら、先生は震える声でそう言った。

 

 それほどまでに出回っている危険なものが、トリニティの自治区内で、それも生徒たちの手の届く範囲で流通している。

 

 ……いや、もしトリニティ自治区内だけじゃなくキヴォトス全土に出回り始めているとするなら……? 

 

 背筋に冷たいものが走った。

 

「……流通経路は?」

 

「ブラックマーケットを経由しているのは間違いないが、製造元が不明だ。これほど高度な精製技術を持つ組織となると、限られてくる」

 

 ウタハさんの言葉に、先生は短くなったタバコを灰皿に乱暴に押し付けた。

 

「元締めがいるな」

 

「ええ。それも、ただの売人レベルじゃないっすね」

 

 私は腕を組み、天井を見上げた。

 アコウの一件は氷山の一角に過ぎない。この薬をばら撒いている『大元』を叩かない限り、第二、第三のアコウが現れるだけだ。

 

「イチカ。行くぞ」

 

 先生が立ち上がり、ジャケットを羽織る。

 その瞳には、獲物を狩る獣のような光が宿っていた。

 

「行くって……どこへっすか?」

 

「決まってんだろ。ブラックマーケットだ。手当たり次第に売人を締め上げて、元締めを吐かせる」

 

「待ってくださいっす!」

 

 私は慌てて先生の前に立ちはだかった。

 

「気持ちは分かりますけど、無鉄砲すぎます! 相手は組織っすよ? それに、今は『エデン条約』の調印式を控えた大事な時期っす。私たちが勝手に動いて騒ぎを起こせば、トリニティ全体の立場が悪くなるっす」

 

「だから指をくわえて見てろってのか?」

 

「違います! 順序を守りましょうって言ってるんす」

 

 先生の苛立ちは痛いほど分かる。私だって、こんな薬を許せるはずがない。

 だが、事態は私たちの『相談窓口』の範疇を大きく超えてしまっている。

 

「まずはハスミ先輩に報告するっす。正義実現委員会として動けるかどうか、情報を共有してからでも遅くないはずっす」

 

 先生は私を睨みつけたが、やがて大きく舌打ちをして、ドサリとソファに座り直した。

 

「……チッ。優等生ぶるのは性に合わねぇが、イチカの言うことも一理あるか」

 

「賢明な判断だ、先生。情報共有は戦術の基本だからな」

 

 ウタハさんがフォローを入れる。

 私は安堵の息を吐き、すぐに端末を取り出した。

 

「ハスミ先輩に連絡を入れるっす。……この件、正実はどこまで把握しているのかも含めて、擦り合わせが必要っすね」

 

 まだ、決定的な亀裂は入っていない。

 けれど、先生の中で燃え上がった火種が、私の理性的な判断と摩擦を起こし始めているのを、私は肌で感じていた。

 

 正義実現委員会の本部は、いつにも増して殺伐とした空気に包まれていた。

 廊下を行き交う委員たちの足取りは速く、抱える書類の量は尋常ではない。目前に迫った「エデン条約」の締結。その警備計画と準備のために、トリニティの治安維持機構は限界まで張り詰めていた。

 

 そんな中、私たちはハスミ先輩の執務室に通された。

 部屋の中もまた、書類の山だった。ハスミ先輩は眉間のしわを揉みほぐしながら、私たちが提出した「海猫の崖」での一件に関する報告書と、押収した薬物のデータに目を通していた。

 

「……なるほど。以前から噂になっていたブラックマーケットの『強化薬剤』、その流通拠点が自治区内にあったとは」

 

 ハスミ先輩の重い声が響く。本部に来てから、私は努めて事務的に報告した。

 アコウの証言から得た情報では、ブラックマーケットに入り浸り、どこの学園にも所属しない一人の女子がいる。その人物が、今回の薬物汚染の源流である可能性が高い。

 

「すぐに動くべきだろ」

 

 隣でソファに深く腰掛けていた先生が、苛立ったように足を組んだ。

 

「元締めは尻尾を掴ませないタイプだ。アコウが捕まったと知れば、すぐに拠点を変えて雲隠れするぞ」

 

「……おっしゃる通りです、佐倉さん。ですが……」

 

 ハスミ先輩は言い淀み、視線をデスク上のカレンダーに向けた。

 

「現状、正義実現委員会の主戦力は、エデン条約の警備計画に釘付けです。この規模の組織犯罪を叩くには大規模な包囲網が必要になりますが、今すぐに人員を割くことは……」

 

「後回しかよ」

 

 先生が鼻で笑った。その嘲笑的な態度に、私の眉がピクリと反応する。

 

「仕方ないじゃないっすか、先生。エデン条約はトリニティとゲヘナ、双方にとって歴史的な転換点なんですから」

 

 私はハスミ先輩を擁護するように口を開いた。

 

「私たちは相談窓口っす。調査と報告まではしました。ここから先は、ヴァルキューレ警察学校や、手が空いた時の正義実現委員会に任せるのが筋っすよ」

 

 それが、組織の一員としての正しい判断だ。

 これ以上、たった二人で深入りするのは危険すぎるし、何より権限の範疇を超えている。

 だが、先生は私を睨みつけた。

 

「筋だと? そんなもん守ってる間に、被害者が増えるのが分かんねぇのか」

 

「分かってますけど! でも、私たちには逮捕権限もないし、これ以上はただの暴走っす!」

 

「どうせ『エデン条約』のことで動きが遅れて、また逃げられるぞ! 今まで散々見てきただろ、このキヴォトスの遅すぎる正義ってやつを!」

 

 先生の声が荒くなる。

 いつもなら私が宥めて先生が渋々従う。もしくは先生の無茶に私が付き合う。

 けれど、今日だけは違った。連日の激務、アコウさんの件での疲労、そして何より、組織としての板挟みになっているストレスが、私の余裕を奪っていた。

 

「だとしてもっす! 今回は本当に相談窓口の枠を超えています!! これ以上勝手なことをすれば、窓口自体の存続に関わるんすよ!」

 

「うるせぇ! 窓口の存続と増え続ける被害者、どっちが大事なんだ! ……お前には失望した」

 

 先生が、冷ややかな目で私を見下ろした。

 その目は、かつて私が恐れていた、あの「壊れた先生」の目と同じ色をしていた。

 

「今までのお前なら、後先考えず突っ走ったはずなのに。いつからそんな、保身ばかり気にするつまらねぇ優等生に戻っちまったんだ?」

 

 その言葉は、鋭い棘となって私の胸に突き刺さった。

 保身? 私が? 

 私はただ、この場所を、先生と一緒にいられるこの居場所を守りたくて……。

 

「……っ、そんなに気になるなら、一人で調べてくださいっす!!」

 

 売り言葉に買い言葉。

 言ってはいけない言葉だと分かっていながら、口をついて出た叫びは止められなかった。

 

「あぁ、そうさせてもらう。邪魔だ、どけ」

 

 先生は乱暴に立ち上がると、私の方を見向きもせずに執務室のドアを開けた。

 バン、と乱暴に閉められたドアの音が、静まり返った室内に虚しく響く。

 

「……イチカ」

 

 ハスミ先輩が心配そうに私を呼んだが、私は拳を握りしめたまま、閉ざされたドアを睨みつけることしかできなかった。

 悔しさと、悲しさと、自己嫌悪が混ざり合った感情が、視界を滲ませる。

 

「……行ってしまいましたね」

 

 バタン、と乱暴に閉められたドアの音が、静まり返った部屋に重苦しく響いた。

 ハスミ先輩は深いため息をつき、眉間を揉んでいる。その表情には、呆れと、隠しきれない焦燥が混じっていた。

 

「あの人は……本当に、学習しない人です」

 

「……ハスミ先輩。先生があそこまで言うと止まらないと思うっす、どうにか窓口も捜査の手伝いくらいできないっすかねぇ……」

 

「ええ、分かっています。ですがイチカ。これはもう『相談』の範疇を超えています」

 

 ハスミ先輩はデスクに戻り、端末を操作し始めた。その指先は震えているわけではないが、明らかに急いでいる。

 

「相手はマフィアか、それに準ずる武装組織の可能性が高い。私たち正義実現委員会が動くには手続きが必要ですが、彼が一人で突っ込めば、また……かつてのような『惨劇』になりかねません」

 

 かつての惨劇。

 キサラズ学園での一件。たった一人で組織を壊滅させ、その代償に全てを失った過去。

 先生は今、また同じことを繰り返そうとしている。

 

「ですから、私は連絡を入れました」

 

 ハスミ先輩が顔を上げ、私を真っ直ぐに見据えた。

 

「シャーレの『先生』に」

 

 その言葉に、私は息を呑んだ。

 シャーレの先生。連邦生徒会長が指名した、キヴォトスで最も信頼できる大人。

 

 廃校寸前だった学校を窮地から救い出し。

 トリニティの退学寸前だった生徒たちを導き。

 

 あらゆる奇跡を起こし、生徒たちを救う、正真正銘の「先生」。

 

「シャーレの先生は、今近くまで来ています。事情を話せば、すぐに適切な指示と、ヴァルキューレへの介入要請を出してくれるでしょう。あの方の指揮があれば、確実に、安全に、この事態を収拾できます」

 

 ハスミ先輩の言葉は、あまりにも正論だった。

 倫理的にも、戦術的にも、それが正解だ。

 優秀で、優しくて、生徒を決して傷つけない「理想の先生」の到着を待つ。

 それが、一番正しい選択肢だ。

 

「イチカ。ここで待機していなさい。シャーレの先生が到着次第、情報を共有し、佐倉さんを確保する作戦を立てます。それが、彼を守る最善の方法です」

 

「……」

 

 私は拳を握りしめた。

 頭では分かっている。ハスミ先輩が正しい。シャーレの先生に任せるべきだ。

 でも、私の先生は、ただの荒くれ者で、今は権限もない一般人だ。彼が暴走すれば、また傷つく。

 

 でも。

 

『お前には失望した』

 

 先ほどの彼の言葉が耳から離れない。

 あの人は、不器用で、口が悪くて、すぐに暴力を振るう、どうしようもない人だ。

 けれど、この数ヶ月。

 誰よりも泥にまみれて、誰よりも真剣に、生徒の「痛み」に向き合っていたのは誰だ? 

 

 シャーレの先生は、光の当たる道を歩く生徒を導く人かもしれない。

 けれど……私の先生は。

 あの人は、光の届かない路地裏で泣いている生徒に、自分の身を削って傘を差すような人だ。

 

「……ハスミ先輩」

 

「なんですか、イチカ」

 

「シャーレの先生は、優秀っす。きっと、完璧な答えを出してくれるっす」

 

 私は顔を上げ、ハスミ先輩を見た。

 私の目には、もう迷いはなかった。

 

「でも、私の『相棒』は、シャーレの先生じゃない。……あの人なんすよ」

 

「イチカ、何を……」

 

「あの人は今、一人っす。また一人で全部背負い込んで、ボロボロになって、誰にも知られずに血を流そうとしてる」

 

 私は愛銃を背負い直し、ドアへと足を向けた。

 

「それを止めて、横っ面ひっぱたいてやる権利があるのは……正義実現委員会でもシャーレでもなく、相談窓口の『仲正イチカ』だけっす!」

 

「待ちなさい、イチカ! 命令違反ですよ!」

 

「ごめんなさい、ハスミ先輩! あとで始末書でも何でも書くっす!!」

 

 制止の声を振り切り、私はドアノブを回した。

 勢いよく扉を開けると、外の湿った空気が流れ込んでくる。

 

「行ってきます!!」

 

 私は叫び、先生が消えた灰色の街へと飛び出した。

 理性も規則も、今はどうでもいい。

 ただ、あの不器用な背中を、一人にはさせない。その一心だけで、私はアスファルトを蹴った。

 

 ■■■

 

 私はトリニティの石畳を蹴り、無我夢中で駆けていた。

 ハスミ先輩の制止を振り切り、シャーレの先生の到着すら待たずに飛び出した。

 これが正義実現委員会の一員として、あるいは一人の生徒として褒められた行為ではないことは分かっている。

 だが、あの人の背中を──先生を、一人で行かせるわけにはいかなかった。

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 肺が焼け付くようだ。

 広大なトリニティ自治区のどこに先生がいるのか、当てなんてない。

 けれど、先生ならきっと「一番危険な場所」へ向かうはずだ。

 強化薬剤の流通経路、その噂が絶えないブラックマーケットへ繋がる境界線付近。

 私はそこを目指してひた走る。

 

「おーい、そこのお姉さん」

 

 不意に、声をかけられた。

 焦燥に駆られていた私は、無視しようとして足を止めかけたが、その声の主が私の進行方向を塞ぐように立っていたため、急停止せざるをえなかった。

 

「……急いでるんで、退いてほしいっす」

 

 息を切らしながら顔を上げる。

 そこにいたのは、特徴的な白髪をウルフカットにした、パンクな出で立ちの生徒だった。

 制服を着崩し、首元にはジャラジャラとしたアクセサリー。

 だが、その瞳には奇妙なほど透き通った光が宿っていた。

 

「あはは、ごめんごめん。あまりにも必死な顔をしてたからさ」

 

 彼女は悪びれる様子もなく、ヘラヘラと笑いながら私の顔を覗き込んでくる。

 

「もしかして、人探し? さっき、スーツ着た大人の男の人が走っていくのを見たけど」

 

「ッ! 本当っすか!?」

 

 私は思わず彼女の肩を掴みそうになった。

 先生だ。間違いない。この辺りでスーツを着た大人が走り回っているなんて、あの人くらいしかいない。

 

「ああ、本当だよ。でも……」

 

 彼女はわざとらしく言葉を濁し、路地裏の方角を親指で差した。

 

「なんかフラフラしててさ。あの路地裏に入った瞬間、ガシャーン! って凄い音がしたんだよね。事故ったんじゃないかなぁ?」

 

「事故……!?」

 

 血の気が引く音がした。

 先生の身体は脆い。もし階段から落ちたり、瓦礫に巻き込まれたりしていたら──。

 

「ありがとうっす! 恩に着るっす!」

 

「いーえ。……気をつけてね?」

 

 彼女の含みのある声を背中で聞き流し、私は教えられた路地裏へと飛び込む。

 そこは、ビルとビルの隙間に作られた、陽の光も届かないような薄暗い細道だった。

 湿った空気と、カビ臭い匂いが鼻をつく。

 

「先生! 先生、どこっすか!?」

 

 私は愛銃を構えることも忘れ、暗がりの中を目を凝らして進んだ。

 事故の跡? 倒れている人影? 

 いや、何もない。

 ただ、ゴミ箱と古びた室外機が並んでいるだけだ。

 

「……あれ?」

 

 違和感を覚えた、その時だった。背後で銃を構えるような音が響く。

 振り返ろうとした瞬間、頭上と左右から、複数の影が音もなく降り注いできた。

 

「なっ──!?」

 

 反応が遅れた。

 私は咄嗟に銃を抜こうとしたが、その手首を強烈な力で蹴り上げられた。

 銃が手から離れ、冷たいコンクリートの床に滑っていく。

 

「(伏兵……!?)」

 

 あの子は、嘘をついたのか? 

 いや、それどころか──彼女が私をここに誘導した? 

 

「ぐっ……!」

 

 数人の生徒が私に覆いかぶさってくる。その動きは統率されており、単なる不良の喧嘩ではない。訓練された動きだ。

 抵抗しようと力を振り絞るが、首筋に鋭い痛みが走った。注射器か、スタンガンかわからないが、何かをされた。

 熱い痺れが全身に広がり、視界が急速に歪んでいく。

 

「……しまっ……た……」

 

 薄れゆく意識の中で、路地裏の入り口に立つ人影が見えた。

 逆光で表情は見えない。

 けれど、あの白髪のウルフカットが、楽しそうに揺れているのだけは分かった。

 

「……先、生…………」

 

 私の声は誰にも届くことなく、深い闇の中へと溶けていった。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 トリニティの自治区内とはいえ、表通りを外れれば空気は澱む。

 俺は苛立ちを紛らわせるように、新しいタバコに火をつけた。今日だけで何本目だ。肺が焼け付くような感覚があるが、今の俺にはそれがちょうどいい罰のように感じられた。

 

「……知らねぇって言ってんだろ! しつこいな!」

 

 路地裏でたむろしていた不良生徒が、俺を鬱陶しそうに手で追い払う。

 俺は舌打ちを噛み殺し、吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。

 

「そうか。邪魔したな」

 

 背を向けて歩き出す。

 手掛かりはゼロだ。『強化薬剤』の噂はあっても、その元締めとなると誰も口を割らない。いや、本当に知らないのだろう。それだけ元締めの管理が徹底しているか、恐怖で縛り付けているかだ。

 

「……クソッ」

 

 俺は何をやっているんだ。

 イチカの言葉が頭から離れない。

 

『今回は本当に相談窓口の枠を超えています!!』

 

 あいつの言う通りだ。これは俺たちの仕事じゃない。正義実現委員会やヴァルキューレ、あるいはシャーレの先生に任せるべき案件だ。

 だが、俺は焦っていた。

 エデン条約の一件で、トリニティは揺れている。公的な組織が動けば、政治的な配慮やら手続きやらで時間がかかる。その間に、被害は拡大する。

 自分が動かなかったせいで被害に遭う生徒を、もう二度と出したくなかった。だから俺は突っ走った。イチカを突き放してまで。

 

「……失望、か」

 

 あいつにそう言い放った時、心臓を握りつぶされたような感覚に陥った。

 俺はあいつに、相棒として認められたかったのかもしれない。それなのに俺から突き放してしまった。

 焦ってしまったがゆえに……。

 ……それも言い訳か。結局、俺は自分のエゴで、あいつを傷つけただけだ。

 

 その時だった。

 ジャケットのポケットで、スマホが震えた。

 俺は立ち止まり、画面を確認する。

 表示された名前を見て、俺の心臓が早鐘を打った。

 

『仲正 イチカ』

 

 あいつからだ。

 俺は安堵と、気まずさと、僅かな期待を抱いて通話ボタンを押した。

 謝ろう。まずは暴言を謝罪して、頭を下げて、一緒に帰ろうと言おう。

 

「……イチカか? すまん、俺が言い過ぎ──」

 

『あ、もしも~し? 聞こえてるぅ~?』

 

 俺の言葉を遮ったのは、イチカの声ではなかった。

 甘ったるく、それでいて背筋が凍るような冷たさを孕んだ、聞き覚えのない少女の声。

 

 俺は足を止め、携帯を耳に押し当てた。全身の血が逆流するような感覚。

 

「……誰だ、てめぇ」

 

『うわ、怖い声。そんなに怒らないでよ、先生ぇ』

 

 相手は俺のことを『先生』と呼んだ。だが、そこには敬意など微塵もない。あるのは、玩具を見つけた子供のような無邪気な悪意だけだ。

 

『あなたのカワイイ生徒さん、預かってるよぉ。すっごくイイ子だね、この子。いきなり殴りかかってきたりしないし、大人しくて』

 

「……ッ!!」

 

 脳裏に最悪の想像が駆け巡る。イチカが捕まった? 俺を追いかけてきて? 

 俺が突き放したせいで、あいつは一人で動いて、その結果……。

 

『あはっ、今すごい顔してるでしょ? 分かるよぉ~』

 

「……イチカに指一本でも触れてみろ。地獄の底まで追いかけて、お前のヘイロー砕いてやる」

 

 俺の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。

 だが、電話の向こうの少女は、ケラケラと笑うだけだった。

 

『んんんふふふ♪ いいねいいね、その熱量! そういうの求めてたんだよぉ!』

 

 笑い声が止むと、声色が急に低く、粘着質なものに変わった。

 

『返してほしかったらさぁ……来てよ。場所はね~……。めんどくさいからモモトークで送るね? でもぉ、あなたが嗅ぎまわってたアジトだよ?』

 

「……」

 

『一人で来てね。警察とか、正義なんちゃらとか連れてきたら……この子の翼、全部むしり取って、フライドチキンにしちゃうから』

 

「……分かった。すぐに行く」

 

『うんうん、いい子♪ 待ってるねぇ~、元・先生♪』

 

 プツン、と通話が切れた。

 俺はスマホを握りしめ、天を仰いだ。

 雨が降り始めていた。冷たい雨が、俺の熱くなった頭を濡らしていく。

 

「……クソっ……俺は……俺は……ぁ!!」

 

 俺は近くにあったゴミ箱を蹴り飛ばした。

 中身が散乱し、空き缶が虚しい音を立てて転がる。

 

 プライド? 意地? 過去のトラウマ? 

 そんなものはどうでもいい。

 俺のせいで、イチカが危機に晒されている。その事実だけで、俺が動く理由は十分だった。

 もしあいつに何かあれば、俺は一生、自分を許さないだろう。いや、許されるはずがない。

 

 俺はなりふり構わず走り出した。

 目指すはモモトークに送られてきた位置情報。

 肺が焼け付こうが、足が千切れようが関係ない。

 

 位置情報は、ブラックマーケットの最深部。

 治安の悪いこの街でも特に異質な空気が漂う一画にある会員制クラブ『バベル』。

 重低音が腹に響くその扉を蹴り開け、俺はフロアへと足を踏み入れた。

 

 煌びやかなレーザーライトが飛び交う中、客の姿はない。

 ただ一人、フロアの最奥に設置された豪奢なソファにその女は座っていた。

 白髪のウルフカットに、パンクなピアスとレザージャケット。

 その圧倒的なオーラは、彼女がこの場の支配者であることを雄弁に物語っている。

 

「ようこそ、先生。……いや、『元』先生だったかな♪」

 

 そいつはグラスを傾けながら、面白そうに俺を見下ろした。

 

「イチカはどこだ」

 

「焦らないでよ。あの子なら裏の倉庫で眠ってるよ。……今はまだ、調理前の状態でね」

 

「……ッ」

 

 俺が奥歯を噛み締めると、元締めの女は愉快に笑っている。

 

「私はカノン♡あなたたちのおかげで、ぜ~んぶどうにかなりそう♡」

 

 目の前の女はカノンと名乗る。

 

 どうやらカノンはアコウが捕まった時点で、自分に捜査の目が付くのは察知していたと言う。だからどうにかして正義実現委員会やヴァルキューレ、他の学園の組織を相手にする必要があったらしい。

 

 そりゃそうだ、トリニティやミレニアムだけじゃなく、ゲヘナ・百鬼夜行・レッドウィンター……数々の自治区で販売をしていたというのだから。

 

 だがそこに俺たちが決別、人質としていくらでも使いようがある『仲正イチカ』と『元先生』を捕まえるチャンスを作ってしまったのだ。

 

「感謝してるんだよ? あなたたちが仲間割れしてくれたおかげで、あの子を一本釣りできたんだから。トリニティとの交渉材料にするには、暴力でクビになったあなたより、現役の正義実現委員会のほうが都合がいいしね」

 

 カノンが指を鳴らすと、ホールの闇の中から一人の生徒が姿を現した。

 虚ろな目をしたその少女を見て、俺は息を呑んだ。

 

「ワタヌキ……!」

 

 そこには、かつて相談に来た被害者であり、復讐者となってしまったワタヌキの姿があった。

 だが、その様子は以前とは明らかに違う。

 異常な発汗、拡張した瞳孔、そして荒い呼吸。

 手にはショットガンが握られているが、その腕は小刻みに震えている。

 

「あーあ、薬飲ませすぎちゃったかな? おーい、ワタちゃん?」

 

「テメェ……生徒になんてモンを飲ませやがった……!」

 

「ただのお薬よ、ちょっと強力な、ね♪ ……さて、先生。せっかくだからゲームをしましょ♡」

 

 カノンは嗜虐的な笑みを浮かべ、ワタヌキの顎を使み口付けをする。

 

「ルールは簡単。その子、ワタヌキちゃんに勝てたら、イチカちゃんごと二人を解放してあげる。どう? 太っ腹でしょう?」

 

「ふざけるな……!」

 

「おっと、拒否権はないよ。拒否したら予定通りあなたを捕まえるから」

 

 絶望的な状況。

 だが、俺に迷っている時間はなかった。やるしかない。

 そう覚悟を決めて一歩足を踏み出した、その瞬間だった。

 

「っ……っっ!?」

 

 視界が揺れたわけではない。

 呼吸ができなくなった。

 気付けば俺の身体はフロアの壁際まで吹き飛ばされ、硬い床に叩きつけられていた。

 

「が、はっ……!?」

 

 何が起きたのか理解するのに、数秒を要した。

 ワタヌキだ。

 彼女が瞬きする間に間合いを詰め、俺の腹に蹴りを叩き込んだのだ。

 強化薬剤によって限界を超えた身体能力。それはキヴォトスの一般的な生徒のそれを遥かに凌駕し、ましてや生身の大人が耐えられる威力ではなかった。

 

「あぐ、っ……ぅ……」

 

 肋骨が数本、折れそうになる。

 内臓が破裂しそうな激痛に俺の身体は思わず嘔吐した。

 立てない。力が入らない。

 霞む視界の先で、ワタヌキが無表情のまま、ゆっくりとショットガンのポンプを引く音が聞こえた。

 

 勝てない。

 万に一つも、勝ち目などない。

 このままでは殺される。そして、イチカも──。

 

「あはハハハ! 秒殺~! もっと頑張ってよ、せんせ?」

 

 カノンの嘲笑が響く中、震える腕で床を支え、這いつくばう。

 

 戦う? 無理だ。

 

 逃げる? 不可能だ。

 

 ならば──。

 

 俺は、血の滲む唇を噛み締め、カノンの方へと向き直った。

 そして、その場に両手をつき、額を冷たい床に擦り付ける。

 

「……頼む」

 

「あ?」

 

「俺はどうなってもいい……殺しても、実験台にしても構わない……」

 

 プライドも、意地も、過去の栄光も、すべてをドブに捨てた。

 ただ一つの、守るべきもののために。なりふり構わず懇願した。

 

「頼む……イチカだけは……あいつだけは、助けてくれ……ッ!!」

 

 その姿はあまりにも無様で、あまりにも必死だったろう。

 

 カノンは、泥水をすするような格好で懇願する俺を見下ろし、くすりと笑った。それは嘲笑ではない。まるで迷子の子犬を見るような、深く、甘い慈愛に満ちた瞳だった。

 

 彼女はゆっくりと膝を折り、俺の目の前で視線を合わせる。その表情は、聖母のように優しく、穏やかだ。

 

「……優しいんだね、先生」

 

 彼女の白く細い指が、俺の頬を撫で、そのまま首筋へと這う。まるで愛しい恋人に触れるような手つき。俺は一縷の望みを抱き、顔を上げようとした。

 

「なら、イチカを──」

 

「いいよ。助けてあげたい気持ちは、痛いくらい伝わった」

 

 カノンは微笑んだまま、俺の耳元で囁く。

 

「でも──私のゲームに、『降伏』なんてルールはないの」

 

 ガッ、と。首筋に添えられていた手が、万力のような力で俺の気管を締め上げた。

 

「が……っ、あ……ッ!?」

 

 視界が明滅する。酸素が遮断され、喉の奥からヒューヒューと情けない音が漏れる。ワタヌキの強化薬剤と同じか、それ以上の力。華奢な見た目からは想像もつかない握力で、彼女は物理的に俺の意識を刈り取りにかかっていた。

 

 抵抗しようと手を伸ばすが、先ほどのワタヌキの一撃が効いていて力が入らない。

 

「おやすみ、先生。……目が覚めたら、特等席を用意しておいてあげる」

 

 薄れゆく意識の中で、カノンの歪んだ笑顔だけが焼き付いた。

 

「(あぁ、クソ……。イチカ…………)」

 

 俺の意識は、そこでプツリと途絶えた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 トリニティの思春期相談窓口。主のいない事務所は、奇妙なほど静まり返っていた。

 

 私は淹れたてのコーヒーから立ち上る湯気を眺めながら、手元のタブレットに表示された解析データを再確認していた。アコウから押収した『強化薬剤』の成分構造。そのあまりに洗練された悪意の結晶に、エンジニアとしての私の血が警鐘を鳴らし続けている。

 

「……遅いな」

 

 時計の針は、イチカと先生が正義実現委員会の本部へ向かってから二時間以上進んでいる。報告と情報共有だけなら、こんなに時間はかからないはずだ。コーヒーはもう冷めきっている。論理的に考えれば、何らかのトラブル──それも、議論が紛糾するレベルの──が発生していると推測すべきだろう。

 

 その時だった。窓の外から、けたたましいサイレンの音と、複数の足音がアスファルトを叩く音が聞こえてきた。

 

「……騒がしいな」

 

 私は眉をひそめ、ブラインドの隙間から外を覗く。通りを行き交う正義実現委員会の生徒たちの様子が、明らかに尋常ではない。エデン条約に向けた警備演習? いや、それにしては殺気立っている。彼女たちの表情には、訓練では見られない「焦燥」が張り付いていた。

 

「(……嫌な予感がする)」

 

 私は白衣を翻し、事務所を飛び出した。廊下を走っていく一人の正義実現委員会の下級生を呼び止める。

 

「君、少し待ちたまえ」

 

「ひゃっ!? あ、あなたはミレニアムの……?」

 

 呼び止められた少女は、私の顔を見て驚きに目を丸くした。

 

「すまないね、急いでいるところを。外が随分と慌ただしいようだが、何かあったのか?」

 

「そ、それは……その……」

 

 彼女は言い淀み、視線を泳がせた。どうやら箝口令が敷かれているわけではないようだが、外部の人間──それも他校の生徒に話していいものか迷っているらしい。

 

「私は相談窓口の顧問……佐倉先生と、仲正イチカの協力者だ。この状況、彼らが関わっているのではないか?」

 

 カマをかけてみる。すると、少女の顔色がサッと変わった。

 

「知っていたんですか!? ……実は、その……イチカ先輩が……!」

 

「イチカがどうした?」

 

「本部での会議中に飛び出して……単独でブラックマーケットとの境界付近へ向かってしまったんです! 命令違反を犯してまで!」

 

「……何だって?」

 

 私の思考回路が一瞬停止する。あの冷静なイチカが、命令違反? 単独行動? 彼女らしくない。いや、彼女がそこまでする理由は一つしかない。

 

「先生は? 佐倉先生は一緒じゃないのか?」

 

「それが……佐倉先生も行方不明なんです! 目撃情報によると、お二人は口論になって、先に先生が出て行って……それをイチカ先輩が追いかけて……」

 

「…………」

 

 点と点が繋がり、最悪の線を描き出す。先生が暴走し、イチカがそれを止めようとして、二人して敵の懐に飛び込んだ。論理的帰結。そして、感情的必然。あの不器用な二人なら、やりかねない。

 

「……そうか。情報感謝する」

 

 私は礼を言い、少女を任務に戻らせた。そして即座にスマートフォンを取り出し、エンジニア部に接続する。

 

「私だ。……ああ、緊急事態だ。今すぐミレニアムに戻る。メインサーバーの領域を空けておいてくれ」

 

 私は走り出した。現場へ向かうのではない。そんなことをしても、広大なブラックマーケットの闇に飲まれるだけだ。私がすべきことは、エンジニアとしての本分を尽くすこと。電子の海から、あのはぐれ者たちの「命綱」を手繰り寄せることだ。

 

 ■■■

 

 ミレニアムサイエンススクール、エンジニア部部室。無数のサーバーが唸りを上げ、幾重にも重なったモニターが部屋を青白く照らし出していた。

 

 私はメインコンソールの前に陣取り、キーボードを叩き続けていた。指先が残像に見えるほどの速度でコマンドを打ち込み、キヴォトス中の通信網を裏口から洗い直す。

 

「(……見つからない。表層の通信ログは完全に遮断されている)」

 

 先生の端末、イチカの端末。そのIDをキーに検索をかけるが、返ってくるのは『Signal Lost』の無機質な文字列だけ。ブラックマーケット周辺のジャミング強度は、通常の軍用レベルを遥かに超えていた。

 

「くっ……! ここまで徹底しているとはな……!」

 

 私はさらに深い階層──ノイズに埋もれた微弱電波の解析へと移行する。部員のコトリやヒビキが心配そうにコーヒーや栄養ドリンクを差し入れてくれるが、それに手を付ける余裕すらない。

 

「部長、少し休んだ方が……もう丸一日経ってますよ?」

 

「……問題ない」

 

 私はモニターから目を逸らさずに答えた。休んでいる暇などない。今この瞬間にも、二人はどこかで助けを求めているかもしれないのだ。

 

 画面を流れる膨大なデータストリーム。その砂粒のような情報の欠片から、彼らの痕跡を見つけ出さなければならない。1%の可能性でも、0%ではない。ならば、それが100%になるまで計算を続けるだけだ。

 

「……まだだ。もう少し」

 

 充血した目で、私は画面を睨み続ける。私のこの手が止まれば、彼らの命綱が切れる。意地でも、執念でもいい。このウタハが、必ず見つけ出してやる。

 

 キーボードを叩く音だけが、深夜の部室に響き続けていた。

 

 ■■■

 

 エンターキーを叩く音が、静まり返ったエンジニア部の部室に虚しく響く。モニターに映し出されるのは、無慈悲な『NO MATCH』の赤い文字列だけだ。

 

「……くそっ、またか」

 

 眉間を揉みほぐすが、奥にこびりついた鈍い頭痛は消えてくれない。

 

 あれから、数日が経過していた。

 

 イチカと先生。二人が行方不明になってから、時計の針だけが無意味に進んでいく。

 

「……論理的じゃないな、今の私は」

 

 自嘲気味に呟き、冷めきったブラックコーヒーを喉に流し込む。本来なら休息を取り、脳のパフォーマンスを回復させてから再開すべきだ。今の私は焦燥感に駆られ、非効率的な総当たり攻撃を繰り返しているに過ぎない。分かっている。分かっているのに、手が止まらないのだ。

 

 ふと、視線を落とす。瞼の裏にはいつかの『思春期相談窓口』での光景が映し出されていた。私の脳裏に焼き付いた記憶の再生だ。

 

『ウタハさーん! 見てくださいこれ! 新しい雀卓っすよ!』

 

『俺の給料……』

 

『ふっ、興味深いな。解析させてもらってもいいかな?』

 

 くだらない日常。非効率の塊のような、けれど何よりも心地よかった時間。あの煙草臭い男の憎まれ口と、それに笑って返す天使の羽を持つ少女。それが今、私の手の中から滑り落ちて消えようとしている。

 

「クソッ……」

 

 今回の黒幕とされる強化薬剤の元締め。徹底している。あまりにも痕跡がなさすぎる。トリニティ、ミレニアム、果てはブラックマーケットの裏路地に至るまで、あらゆるネットワークを走査した。監視カメラ、ブラックマーケットの取引ログ、通信傍受記録。だが、まるで最初から存在しなかったかのように、プッツリと足取りが途絶えているのだ。

 

「幽霊か何かか……?」

 

 だが、幽霊相手に科学で負けるわけにはいかない。二人は待っているはずだ。いや、先生のことだ。もしかしたら既に諦めて、無様な姿を晒しているかもしれない。イチカは最後まで希望を捨てていないだろうが。だからこそ、私が動かなければならない。あの二人に、「やれやれ、世話が焼けるな」と言ってやるために。

 

 再びキーボードに指を這わせる。指先が震えているのは、カフェインの摂りすぎか、それとも寝不足か。思考のノイズを振り払い、私は再び膨大なデータの海へと潜っていった。一粒の砂金を見つけ出すような、果てしない作業へと。

 

「……ダメだ。痕跡が、途絶えている」

 

 私はデスクを叩きつけたい衝動を抑え、冷めきったコーヒーを喉に流し込んだ。あの強化薬剤を売っている奴は、ただの薬の売人ではない。トリニティ、ミレニアム、そしてブラックマーケット。あらゆるネットワーク回線を中継させ、自身の居場所を撹乱している。私が「ここだ」と特定した瞬間に、その信号は地球の裏側へと霧散する。まるで幽霊を追っている気分だ。

 

「(イチカ、先生……すまない。私の演算能力が、追いつかない……)」

 

 思考が泥沼にはまりかけた、その時だった。エンジニア部の自動ドアが開き、部員たちがざわめく声が聞こえた。

 

「君は……! まだ安静にしてなきゃダメだろう!」

 

「どいてください……! 私は、ウタハさんに……!」

 

 足を引きずりながら入ってきたのは──アオゾラだった。まだ顔色は青白く、病院着の上にカーディガンを羽織っただけの痛々しい姿。だが、その瞳だけは強い光を宿していた。

 

「アオゾラ……? 君、意識が戻ったばかりじゃ……」

 

「ワタヌキちゃんが……ワタヌキちゃんが行方不明だって聞きました。お願いです、ウタハさん。何か分かったことはないんですか……? 相談窓口は……?」

 

 彼女は私のデスクにすがりつき、涙目で訴えかけてくる。私は唇を噛み、無数にウィンドウが開かれたモニターへと視線を戻した。

 

「……すまない。全力を尽くしているが、彼女の足取りが掴めないんだ。それに今相談窓口は……ほぼ壊滅状態だ。相談員が攫われ、その攫った奴らはデジタル上の隠蔽工作において、天才的な手腕を持っている」

 

 私は画面上の地図を指し示した。トリニティ自治区の周辺地図には、無数の「可能性エリア」が赤く表示され、そして即座に除外されていく。

 

「あらゆる通信ログ、電力消費、監視カメラの映像を解析した。だが、どこにも異常値が見当たらない。奴は『完璧』に潜伏している。おそらくワタヌキも……奴らの傘下に……」

 

「…………」

 

 アオゾラは食い入るように画面を見つめた。膨大なデータの羅列。素人には理解不能なはずのエンジニアの聖域。だが、彼女はふと、震える指で画面の隅を指さした。

 

「あの……ウタハさん。このエリアは、どうして『除外』されているんですか?」

 

 彼女が指したのは、トリニティ郊外にある廃棄されたスタジアム周辺だった。

 

「そこか? そこは真っ先に調査した。だが、ご覧の通りだ」

 

 私はキーボードを叩き、そのエリアのデータを拡大表示する。

 

「このスタジアムは、一週間前から『大規模な電気工事』が行われているという記録がある。自治区の公式データベースにも登録済みだ。だから、このエリアから検出される大量の電力消費や、トラックの出入りは『工事によるもの』として、ノイズフィルタで除外されている」

 

 論理的に考えれば、犯罪者が身を隠すのに、公式に記録が残り、作業員が出入りするような場所を選ぶはずがない。あまりにも目立ちすぎるし、リスクが高すぎるからだ。

 

 だが、アオゾラは首を横に振った。

 

「変です……」

 

「何がだ?」

 

「私、実家が電気工事屋なんですけど……この電力の波形、変です」

 

 彼女はモニターに表示された、スタジアムの電力消費グラフをなぞった。

 

「工事用の重機や照明なら、もっと一定のリズムで電力を食います。でも、この波形……凄く不規則で、急激に上がったり下がったりしてる。まるで……」

 

 彼女は言葉を探し、そしてポツリと言った。

 

「まるで、『ライブ会場の音響設備』みたいです」

 

「──ッ!?」

 

 その言葉が、私の脳内で稲妻のように弾けた。

 

「まさか……工事そのものが、フェイクなのか?」

 

 私は即座に、そのスタジアムの「工事申請データ」をハッキングし、深層領域までダイブした。表向きは正規の申請。だが、承認印のデジタル署名を解析すると──。それは、ブラックマーケット経由で偽造された、極めて精巧なダミーデータだった。

 

「…………ははっ」

 

 乾いた笑いが漏れた。私は「隠された場所」や「データの空白」ばかりを探していた。だが奴は、堂々と「公式データ」の中に紛れ込み、大量の電力と機材を「工事」という名目で堂々と使い放題にしていたのだ。エンジニアである私だからこそ、「公式の数値」を信用しすぎてしまうという心理的盲点。

 

「見つけた……!」

 

 私はキーボードを叩き、ターゲットをその廃スタジアムに固定した。

 

「アオゾラ、君のお手柄だ! 論理の迷路に迷い込んでいた私の目を、君が覚ましてくれた!」

 

「い、いえ……私なんて……。でも、ワタヌキちゃんは……そこに?」

 

「ああ、間違いない。奴らはこのスタジアムを『ゲーム』の舞台に仕立て上げているんだ」

 

 私は立ち上がり、銃を持った。焦燥はもうない。あるのは、明確な座標と、友を救うという使命感だけだ。

 

「待っていろ、イチカ、先生。そしてワタヌキ。──今、迎えに行く」

 

 私がエンジニア部の部室を飛び出そうとした時、モニターを見ていたうちの部員――コトリが声を上げた。

 

「あ、部長、待ってください。お客さんみたいです。なんか長いピンクの髪の毛の白い服着た人と……」

 

「客? 今はそれどころじゃ」

 

 私の言葉が終わるより早く、自動ドアが開く。進行方向を遮るように立った二つの人影は、静かに私の名を呼んだ。

 

 

 

 ”待って、ウタハ”

 

 

 

 

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