【完結】仲正イチカは悪い大人についていく 作:曇りのち晴れ男
視界が、ぐにゃりと歪む。
天井の無機質な蛍光灯が、アメーバのように形を変えて私を見下ろしている。
体の感覚がない。指先が氷のように冷たいのか、それとも焼けるように熱いのかすら判別がつかない。
ここ数日──いや、数時間なのか数週間なのかも分からない──私たちは、カノンの「実験台」にされていた。
「あははっ♪ イチカちゃん、今日の『お薬』はイチゴ味だったかな? それとも鉄の味?」
白衣を纏ったカノンが、私の顔を覗き込む。その笑顔が悪魔に見えたり、天使に見えたりする。思考がまとまらない。
強化薬剤の試作品。
身体能力を爆発的に向上させる代償に、精神を破壊する劇薬。
私の隣には、椅子に拘束された先生がいる。先生もまた、何度も薬を投与され、ボロボロの状態だった。ただの人間である先生にとって、その負担は生徒である私以上のもののはずだ。
「……う、ぐ……」
先生が小さく唸る。焦点の合わない瞳が、虚空を彷徨っていた。
「……お前ら、なんか。……ハスミが……ツルギが……」
掠れた声。それはうわごとのようでありながら、確かな呪詛を含んでいた。
「ん~? 長い間私のしっぽすら掴めずにいるトリニティが今更来るわけないよ♡」
カノンはケラケラと笑い、先生の頬を指でなぞる。
「正実もヴァルキューレも無能ばっかり。私の完璧な隠れ家を見つけられるはずがないじゃん」
「……」
先生は、ぼんやりとした目でカノンを見つめた。
そして、唐突に口を開いた。
「……地球から、太陽に行くまで。角度が1度でもズレると、信じらんねぇ場所に行っちまう」
「……いきなり何? 授業?」
カノンが呆れたように肩をすくめる。
けれど、先生は止まらない。薬の影響で呂律が回りきっていないが、その言葉には異様な熱が籠っていた。
「完璧な計算、完璧な軌道……そんなもんは、たった一つのズレで崩壊するんだ。……俺たちが捕まったのは……その1度だ……」
先生が、ニヤリと笑った気がした。血の混じった唾を、床に吐き捨てる。
「特異点だ……! 俺たちがここにいること自体が、お前の計算式のバグなんだよ……! 必ず……お前をヴァルキューレに突き出す……!」
「……はぁ。薬が効きすぎちゃったかな。頭がおかしくなってる」
カノンはつまらなそうにため息をつくと、興味を失ったように踵を返した。
「ま、いいや。次の投与の準備をしてくるね。今度はもっと『楽しい』やつにしてあげる。グッバイ」
大きく重い扉が閉まる音がした。
静寂が戻った部屋で、私は薄れゆく意識の中、先生の言葉を反芻していた。
特異点。
1度のズレ。
先生は信じているんだ。
私たちの存在が、カノンの完璧な隠蔽工作に亀裂を入れる「ノイズ」になると。
そして、そのノイズを拾い上げてくれる誰かが──必ずこの方程式を解いてくれると。
「(私は……どこで、間違えてしまったんだろう)」
熱を持った頭で、そればかりを反芻する。カノンの罠に嵌まったこと?敵の戦力を読み違えたこと?いいや、違う。そんな戦術的な話じゃない。もっと前の、決定的な分岐点。答えなんて、考えるまでもない。最初から決まりきっている。
「(……先生と、喧嘩した時)」
胸の奥が、身体の痛み以上にきしんだ。あの時。先生の手を、私は自分から拒絶してしまった。子供みたいな台詞を吐いて、背を向けたあの瞬間。先生の意見を、余計だと決めつけて。大人の判断を誤解して。その結果が、これだ。
「……ごめんなさい、先生……」
乾いた唇から、掠れた声が漏れる。届いたかはわからない。私が勝手な行動をしたせいで、また迷惑をかけてしまった。いつも助けられてばかりで、恩返しをするどころか、一番やってはいけない形で足を引っ張って。
「(もし、このまま、二人一緒に殺されるとしたら……)」
想像するだけで、心臓が凍りつくような恐怖が襲ってくる。自分の身に起きるであろう拷問や死よりも、自分の愚かさが先生を傷つけることの方が、何倍も怖かった。悔しい。申し訳ない。今すぐにでもちゃんと意識を覚醒させて、土下座して謝りたい。けれど、涙さえ枯れ果てた重いまぶたは、もう現実を映してはくれそうになかった。
意識が、泥の中に沈んでいくようだった。 強化薬剤の過剰投与による副作用。視界が極彩色に歪み、耳鳴りが止まない。 先生の言葉も、カノンの嘲笑も、遠い世界の出来事のように聞こえる。 もう、駄目かもしれない。 そう思いかけた、その時だった。
轟音と共に、私たちのいる部屋の壁が貫かれた。
目の前に広がるのは、三途の川でも地獄の釜でもなく──
「……クルセイダー……?」
瓦礫の山と化したスタジアムの壁。そのど真ん中に、見覚えのある戦車が鎮座していた。
もうもうと立ち込める粉塵の中、戦車の上部ハッチがパカリと開く。
「あはは……。ご、ごめんなさい! ブレーキのタイミングが少し遅れちゃいました……!」
申し訳なさそうに頭をかきながら顔を出したのは、トリニティの制服を着た金髪の少女。
そして、その横からもう一人、鋭い目つきの銀髪の少女がガスマスクをつけながら飛び出してきた。
「ヒフミ、謝罪は後だ。周囲のクリアリングが先。……敵影確認、多数。だが、突入の衝撃で混乱している」
「あ、あわわ! そうでした! えっと、イチカさん! 佐倉さん! ご無事ですか!?」
「……ヒフミさんに、アズサさん……?」
補習授業部の二人。
どうして彼女たちがここに?
補習授業部。それは、来るエデン条約の調印式を前に、トリニティ総合学園の生徒会「ティーパーティー」のホスト、ナギサ様によって発足された臨時の部活動だ。
表向きの理由は、成績不振者を集めて特別指導を行い、学力向上を目指すというもの。だが、その実態はもっと切迫している。彼女たちに課せられていた条件は、特別学力試験での全員合格。もし合格できなければ「退学処分」という、あまりにも理不尽で重いペナルティを背負わされた、崖っぷちの生徒たちだった。
彼女たちはそのミッションをこなし、今は普通の生徒として過ごしているはずだが……。
私は痛む体を起こし、隣で瓦礫に埋もれかけている先生を確認する。
先生もまた、突然の轟音と衝撃で意識を取り戻したようで、額から血を流しながらも呆然と戦車を見上げていた。
「……おい、イチカ。俺が見てるのは幻覚か? それとも薬の副作用で、ついに脳みそが戦車と美少女を合成しちまったのか? パンツァーフォーってか?」
「現実っすよ、先生。……多分、一番タチの悪い種類の現実っす」
私はよろめきながら立ち上がり、戦車から降りてきた二人に声をかける。
「どうして二人がここに……?」
「正義実現委員会の皆は、自治区内での暴動鎮圧と救護活動、それにエデン条約の事で手一杯だと聞いた」
アズサさんが油断なく周囲を警戒しながら、淡々と告げる。
ヒフミさんが、私の手を取って支えてくれた。
「だから、シャーレの先生が私たちに頼んだ。『イチカと、もう一人の先生を助けてあげてほしい』って」
「シャーレの……先生が……?」
「はい! 『あそこの二人は今、誰よりも孤独に戦っている。だから、君たちの力が必要だ』って……!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
……どこまでも、面倒を見てくれるんすね、あの人は。
私たちが勝手に飛び出して、勝手に孤立して、みんなに迷惑をかけただろうに。
「……はっ。あの優等生先生にしちゃあ、随分と派手な差し入れだ……。最高だぜ……」
先生が瓦礫を退けて立ち上がり、口元の血を拭いながらニヤリと笑う。
その目は、もう死んでいない。
悪夢は終わった。ここからは反撃の時間だ。
「……状況説明は後だ。来るぞ」
アズサさんの警告と共に、スタジアムの奥から怒号が聞こえてくる。
カノンの手下たちだ。戦車の突入で混乱していた連中が、体勢を立て直して戻ってきた。
「イチカさん、立てますか……?」
「……ええ。お陰様で、目が覚めたっす」
私はヒフミさんからもらった銃を握りしめ装填する。体の節々は痛むし、薬漬けにされた影響で視界はまだ少し揺れている。
けれど、隣には相棒がいて、頼もしい援軍もいる。
「イチカ。……失望したなんて言って悪かった」
「お互いさまっす。組織ばっかり気にして、窓口の使命を忘れてたっすから」
「……頼むぜ、相棒」
「了解っす!」
私たちは並んで、迫りくる敵の群れへと銃口を向けた。
■■■
カノンの手下たちを軽く制圧した後、私たちは周辺に落ちていた弾薬などを広い即席で装備を整える。
「私は『クルセイダーちゃん』で外周を回って、敵の逃走経路を塞ぎます! 中の制圧はお願いします! あと、エンジニア部の皆さんも来てるので合流してください!」
ヒフミさんは砲塔の上からそう叫ぶと、ハッチを閉めて戦車を旋回させた。キャタピラの轟音と共に、頼もしすぎる援軍が去っていく。残されたのは私と先生、そして──。
「……周囲、クリア」
瓦礫の山から降り立ったのは、ガスマスクを装着し、アサルトライフルを構えたアズサさんだった。その異様な出で立ちに、私は思わず瞬きをする。
「えっと……アズサさん? なんでガスマスクを?」
「ここは違法薬物の製造拠点だと聞いた。気化性の毒物や、散布型の幻覚剤がいつ使われるか分からない」
彼女のこもった声は、あまりにも真剣だった。確かに一理ある……あるけど、この状況でその完全装備は、さすが補習授業部の武闘派といったところだ。
「行くぞ。ウタハとも合流しなきゃならねぇ」
先生が痛む脇腹を押さえながら走り出す。私たちは頷き、その後を追った。
スタジアムの内部は複雑に入り組んでいた。通路には争った形跡はなく、不気味なほどの静寂が漂っている。私の身体は薬物の影響でまだ鉛のように重いが、アドレナリンが無理やり足を動かしていた。ここでカノンを逃がせば、また同じ悪夢が繰り返される。それだけは阻止しなければならない。
「……ここ、広いっすね」
しばらく走ると、選手用の控え室などが並ぶ広いコンコースに出た。視界が開けたその瞬間、アズサさんが鋭く警告を発する。
「ッ! ストップ! 敵影!」
彼女が銃口を向けた先──コンコースの壁だった場所が、内側から爆ぜた。いや、爆発ではない。コンクリートの壁が、まるで発泡スチロールか何かのように、たった一撃の『拳』でぶち抜かれたのだ。
粉塵が舞う中、ガラガラと瓦礫を踏みしめて現れた影。膨れ上がった筋肉と、血走った眼球。全身から湯気のようなオーラを立ち上らせているが、その顔には見覚えがあった。
ふ頭で私たちが追い詰め、そしてワタヌキさんに撃たれたはずの生徒。ヒガだ。
「よぉ!! お前ら!! 忘れたなんて言わないよなぁ!!」
彼女はニタリと口角を吊り上げ、自身の強化された腕を広げて見せた。そこには理性があり、だからこそ純粋な悪意と復讐心が煮えたぎっているのが分かる。
「ヒガ……ッ! てめぇ……どうして……!」
「私だよ!! 寂しかっただろぉぉぉ!? カノンの手引きで脱獄してきたぜええぇぇ!!」
ヒガは狂喜の叫びと共に、近くにあった鉄製のロッカーを片手で軽々と引き剥がし、ボールのように私たちへ投げつけてきた。
「散れッ!!」
先生の叫び声よりも早く、アズサさんが反応してトリガーを引く。激しい銃撃音が、スタジアムのコンコースに響き渡った。
轟音と共に、巨大な鉄塊が私たちの間に降り注いだ。ヒガが投げ飛ばした業務用の大型ロッカーは、まるで砲弾のように柱へ激突し、コンクリートの破片と粉塵を撒き散らす。
「くっ……!」
私は咄嗟に前転して回避したが、巻き上がった土煙が視界を遮る。衝撃で天井の一部が崩落し、通路が瓦礫で分断されてしまった。
「ゲホッ……ゲホッ! 先生! アズサさん!」
私は瓦礫の山に向かって叫ぶ。土煙の向こう側から、聞き慣れた悪態が聞こえてきた。
「……ったく、死ぬかと思ったぞ! こちとら生身なんだ、手加減を知らねぇのかクソガキが!」
「ターゲット、健在。……窓口の先生に怪我はない」
ガスマスク越しにくぐもった、しかし冷静なアズサさんの声。無事だ。その事実に安堵したのも束の間、瓦礫の向こう側でヒガの狂ったような笑い声が響く。
「あはははは! いいねぇ、頑丈だねぇ!!!」
何かが壁を殴る音がする。ヒガは完全に私のいる側ではなく、先生たちがいる側を標的に定めているようだった。まずい。アズサさんは強力な戦力だが、今のヒガは強化薬剤の影響で常軌を逸した力を手に入れているはずだ。それに、先生は銃弾一発で死にかけるただの人間。
「今行きます! すぐに──」
私が瓦礫をなんとか乗り越えようとした、その時だった。
「来るなイチカ!!」
先生の鋭い怒号が、粉塵を切り裂いて飛んできた。私はビクリと体を強張らせ、足を止める。
「せ、先生!? 何を言って……そいつは普通じゃないっすよ!?」
「分かってる! だからこそだ!」
先生の声には、焦りではなく、冷徹な計算が滲んでいた。
「こいつは俺たちで引き受ける。お前は先に行け! カノンを追え!」
「なっ……無理っすよ! 先生を置いていけるわけないじゃないっすか!」
まただ。また、私は先生を危険に晒して、自分だけ安全な場所へ行けと言うのか。さっきの悪夢が脳裏をよぎる。実験室で見た幻覚、先生の冷たくなった手。嫌だ。もう二度と、あんな思いはしたくない。
「嫌っす! 私が其処へ行って、あいつをぶっ飛ばして……!」
「イチカ!!」
先生が、今まで聞いたこともないようなドスの利いた声で私の名を呼んだ。
「勘違いするな。俺がここでお前を行かせるのは、死にたいからじゃねぇ。……一番『確率が高い』方法を選んだだけだ」
「……え?」
「今のヒガ相手に、狭い通路で三人固まれば共倒れだ。だが、今のあいつの狙いは明らかに俺だ。俺が囮になれば、お前はフリーになる」
「でも……!」
「それに」
一瞬の間を置いて、先生の声のトーンが少しだけ、本当に少しだけ柔らかくなった気がした。
「俺には補習授業部様がついている。……だろ? アズサっつったか」
「肯定する。……ここは私に任せてほしい。窓口の先生には指一本触れさせない」
アズサさんの言葉には、鋼のような意志が込められていた。そして、先生が続ける。
「お前には、お前にしかできない仕事があるはずだ。……カノンを捕まえられるのは、今、お前しかいねぇんだよ」
「…………ッ」
私は拳を握りしめ、唇を噛んだ。先生の言うことは正しい。論理的に考えれば、それが最適解だ。だけど、感情が叫んでいる。置いていくなと。守れと。
「……信じろ、イチカ」
瓦礫の隙間から、先生の視線を感じた気がした。あの、やる気なさげで、でも誰よりも現状を見据えている瞳を。
「お前がカノンを追い詰めるまで、俺はくたばったりしねぇ。……もう死に場所なんて探しちゃいない」
その言葉が、私の背中を叩いた。私は目元を袖で乱暴に拭い、顔を上げる。
「……死んだら、絶対ぶん殴ってやるっす」
「おう。さっさと行け」
「お話は済んだかぁ? ……お前らぶっ殺して、私を捕まえたあのクソ糸目もぶっ殺してやるよ!!」
私は踵を返し、瓦礫の山に背を向けた。背後で再びヒガの咆哮と、アズサさんのライフルの発砲音が響き始める。私はそれを振り切るように、全速力でスタジアムの奥へと走り出した。
先生が命がけで作ってくれたこの道を、無駄にはしない。絶対に捕まえて、そのふざけたゲームを終わらせてやる。
「くっ……! 数が多すぎるっす……!」
スタジアムの通路を走る私の行く手を、無機質な赤外線レーザーが網の目のように塞いでいた。天井、壁、そして床からせり出してくる自動迎撃タレットの群れ。カノンは一体どれだけの資金をこの拠点につぎ込んだのか。応戦するものの、破壊しても破壊しても次から次へと新しい銃口がこちらを向く。
「弾が……もたないっすね」
じり貧だ。このままではカノンの背中を捕まえるどころか、ここで蜂の巣にされて終わる。焦りと共にT字路の角に追い詰められた、その時だった。
「はい、おーしまいっ」
鼓膜を揺らすような重厚な発砲音が、私の横合いから響き渡った。それはただの銃声ではない。まるで大砲でも撃ち込まれたかのような衝撃波が通路を駆け抜ける。
「……え?」
硝煙が晴れると、そこには信じられない光景が広がっていた。私を苦しめていた数十機のタレットが、たった一撃でスクラップの山と化して吹き飛んでいたのだ。
「うへ~、やっぱり最新式のオモチャは派手だねぇ。おじさん、腰が引けちゃったよ」
T字路の向こうから、のんびりとした、緊張感のない声が聞こえてきた。砂煙の中から現れたのは、小柄な少女だった。特徴的なピンク色の長い髪。片方は青、片方は橙というオッドアイ。その手には身の丈ほどもある巨大な盾と、無骨なショットガンが握られている。
「あなたは……?」
「ん? ああ、こりゃどうも。シャーレの先生に頼まれてね。ちょっと運動しに来たんだ」
少女は「よっこいしょ」と重そうな盾を構え直すと、眠たげな目を私に向けた。
「アビドス高等学校、対策委員会委員長の小鳥遊ホシノだよ。よろしくね~」
「アビドス……!? あの、砂漠化で廃校寸前と言われている……?」
私は驚愕と共に、目の前の少女を見つめた。小鳥遊ホシノ。噂には聞いたことがある。キヴォトスの数ある学園の中でも、生徒数が極端に少ないアビドス高校。
「(この人が……小鳥遊ホシノ……)」
見た目はただの眠そうな少女だ。言動も「おじさん」を自称するなど、どこか力が抜けている。だが、破壊されたタレットの残骸と、彼女から発せられる底知れないプレッシャーが、その実力を物語っていた。彼女はたった一人で、一個師団並みの火力を制圧してみせたのだ。
「えっと、君がイチカちゃんかな? ここは任せて、先に行きなよ。悪い大人はおじさんが追い払っておくからさ」
「で、でも! この先もまだ敵が……」
「大丈夫、大丈夫。これでもおじさん、頑丈さには自信があるんだ」
ホシノ先輩はニヘラと笑うと、ショットガンのポンプをガシャリと引いた。その瞬間、纏う空気が一変する。眠たげな瞳の奥に、砂嵐のような激しさが宿った。
「さ、行こっか。……悪い奴らには、お仕置きが必要だからね」
「……! 感謝するっす、ホシノさん!」
私は彼女の背中に敬意を表し、再び走り出した。最強の盾を得た私は、迷うことなくカノンの気配を追って通路を駆けた。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
轟音と共に、俺とアズサの目の前でコンクリートの柱が弾け飛んだ。俺は舌打ちをし、咄嗟に隣の柱の陰へと体を滑り込ませる。
「……チッ、薬漬けにしちゃ元気があり余ってやがるな」
視線の先には、ガスマスクを装着したアズサが、遮蔽物を滑るように移動しながら応戦している。補習授業部の白洲アズサ。噂には聞いていたが、その動きは洗練された軍人のそれだ。無駄がなく、的確。だが、今の相手は「的確」でどうにかなる代物じゃなかった。
「隠れるなよぉ! 先生ぇ!!」
ヒガの甲高い笑い声がスタジアムの通路に反響する。彼女の手には、アサルトライフルが握られていた。マズルフラッシュが闇を切り裂き、アズサが隠れている瓦礫を削り取っていく。
「制圧射撃……動けない……!」
ガスマスク越しのくぐもった声で、アズサが短く報告してくる。俺は呼吸を整え、戦況を分析する。ふ頭で戦った時とは別物だ。あの時はまだ「不良の延長」だった。だが今は、強化薬剤によって身体能力のリミッターが外れている上に、思考がハイになっているせいで躊躇がない。
「アズサ、右から回り込め! 奴のリロードの隙を突くぞ!」
「了解!」
俺の指示に合わせてアズサが飛び出す。ヒガのアサルトライフルの弾切れ音。その一瞬の隙をアズサのライフルが捉える──はずだった。
「甘いよぉ!!」
ヒガはアサルトライフルを放り捨てると同時に、腰のホルスターからハンドガンを抜き放った。予備動作なしの早撃ち。放たれた銃弾は、アズサの進行方向を正確に塞ぐように着弾した。
「くっ……!」
アズサが無理やり急停止し、姿勢を低くする。ヒガは止まらない。ハンドガンを連射しながら距離を詰め、懐からスナイパーライフルを取り出すと、至近距離でありながら銃身をハンマーのように振り回した。
「らぁっ!!」
「ぐぅッ!?」
アズサがライフルでガードするが、その衝撃に吹き飛ばされ、床を転がる。遠距離、中距離、近距離。三種の武器を目まぐるしく持ち替え、射程の概念を無視して暴れ回る戦闘スタイル。まるで、自分が傷つくことを恐れないバーサーカーだ。
「どうしたどうしたぁ!? そんなもんかぁ!?」
ヒガはスナイパーライフルを杖のように突き、恍惚とした表情で叫ぶ。その瞳孔は開ききっていた。
「俺は……」
柱の陰で、俺は拳を握りしめる。俺にできるのは、こうして隠れて声を張り上げることだけだ。一発でも流れ弾が当たれば終わる、ひ弱な元・先生。アズサの盾になることも、ヒガを殴り倒すこともできない。
「窓口の……先生、顔を出すな。……この敵、強い」
ガスマスクが取れ、素顔を見せたアズサが立ち上がり、再び銃を構える。その瞳は冷静に敵を見据えていた。だが、その制服にはすでに煤と埃、そして擦り傷が増えている。
「ヒャハハハ! 硬いねぇ、トリニティの優等生は!!」
ヒガは笑いながら、ロッカーを片手で軽々と引き剥がし、アズサへと投げつけた。アズサはそれを回避し、即座にライフルを連射する。正確無比な射撃。だが、ヒガはその巨体に見合わない異常な速度でジグザグに動き、弾丸を皮膚一枚で躱していく。
「遅いッ!!」
距離が潰される。アズサが近接戦闘に移行しようとした瞬間、ヒガの蹴りが彼女の腹部に深々と突き刺さった。
「ッ……!?」
鈍い音が響き、アズサの身体がボールのように吹き飛ぶ。彼女はコンクリートの壁に背中から激突し、そのまま崩れ落ちた。
「アズサ!!」
俺は思わず叫び、身を乗り出す。アズサはぴくりとも動かない。気絶している。……生きているが、これ以上の戦闘は不可能だ。
「さぁて……次は、お前だなぁ? ニセ先生ぇ!!」
ヒガがゆっくりと、俺の方へ向き直る。その瞳孔は開ききり、口元からは涎が垂れている。薬の過剰摂取による興奮状態。だが殺意だけは明確に俺へと向けられていた。
俺はアズサの前に立ちふさがるようにして、ヒガを睨みつける。武器はない。生徒を守る力もない。あるのは、使い古されたスーツと枯れ果てた命だけ。
「……随分と、いい顔になったじゃねぇか。ヒガ」
「あぁ? 減らず口を……死ねよ!!」
ヒガがアサルトライフルを構える。黒い銃口が、俺の眉間を捉えた。
「(ここまで、か)」
俺は奥歯を噛みしめる。イチカ。すまん。……約束、守れな──。
「先生ッ!! 受け取れッ!!」
突然、聞き覚えのある声が飛んできた。ヒガが壁をぶち抜いて作った大穴。そこからウタハが身を乗り出し、何かが放り投げられる。
回転しながら空を切る、長方形の物体。俺は反射的に手を伸ばし、それを空中で掴み取った。
冷たく、硬質な感触。それは──タブレット端末だった。
「……これは」
俺の手の中で、端末の画面が青白く発光する。懐かしい起動音と共に、忘れかけていたインターフェースが展開された。
『お久しぶりです! 先生!』
スピーカーから響く、透き通るような声。俺の目頭が、一瞬で熱くなる。現行のシャーレの先生が、俺にこれを託したというのか。かつて俺が資格を剥奪され、二度と触れることはないと思っていた、あの子。
「……アロナ」
「あぁ!? 何だそれは!! お守りにでもすんのかよぉ!!」
ヒガは苛立ちを露わにし、引き金を引いた。距離はわずか数メートル。外しようのない距離。放たれた銃弾は、俺の心臓を貫く──はずだった。
コンコースには乾いた銃声ではなく、金属がひしゃげるような異音が響いた。
「は……?」
ヒガが目を見開く。彼女が握っていたアサルトライフルの銃身が、まるで飴細工のようにぐにゃりと曲がり、暴発して使い物にならなくなっていたのだ。
「な、なんだ!? クソッ!!」
ヒガは舌打ちをし、アサルトライフルを投げ捨てると、腰のホルスターからハンドガンを抜いた。俺の眉間に照準を合わせ、再び引き金を絞る。
今度は、スライドが弾け飛んだ。内部のパーツがバラバラと地面に落ちる。
「あぁ!? なんでだよ!!」
ヒガは顔を引きつらせ、背中のスナイパーライフルを構える。
だが、その銃もまた、構えた瞬間にストックが砕け、銃身が折れた。
「驚いた……『”彼のお守りになる”』とは言われたが、まさか本当にこんなことが……」
『先生は私がお守りします!』
タブレットの中で、アロナが胸を張っているのが目に浮かぶようだった。シッテムの箱。キヴォトスの理を超越した、先生を守護する絶対の盾。それが今、俺の手の中にある。
「全部……全部壊れた……!? なんでだよぉ!!」
武器をすべて失い、狼狽えるヒガ。俺はタブレットを強く握りしめ、かつての感覚を呼び覚ますように、深く息を吸い込んだ。
「……形勢逆転だな、ヒガ」
俺はニヤリと笑い、青く光る画面を見つめた。画面の中の少女──アロナは、涙目になりながらも、きりっとした表情で俺を見つめ返してくる。
『先生! 準備万端です! いつでもサポートできます!』
その健気な声が、鼓膜を震わせる。シッテムの箱。これさえあれば、俺は無敵だ。銃弾も爆風も恐れる必要はない。一方的に、安全圏から暴力を行使できる。あの時のように。
「…………」
俺の手が震えた。恐怖じゃない。嫌悪感だ。俺は、この純粋な少女を、また「盾」にして、生徒を殴るのか? 自分の正義を押し通すための、暴力の道具にするのか?
「……へっ」
俺は短く笑うと、手首のスナップを利かせて、タブレットを放り投げた。
「ほらよ、ウタハ!!」
「何っ!?」
『せ、先生ぇぇぇ──っ!?』
アロナの悲鳴と共に、タブレットが宙を舞う。ウタハは慌ててそれを受け止め、信じられないものを見る目で俺を見た。
「なっ……正気か!? これは君の命綱だろう!!」
「勘違いすんな。俺はもう『シャーレの先生』じゃねぇ」
俺はネクタイを緩め、拳をバキバキと鳴らす。
「教育者として生徒を導くなら、そのタブレットが必要だろうな。……だが、今からやるのは教育じゃねぇ。ただの喧嘩だ」
俺は、アロナに二度と暴力の加担はさせない。あの日の過ちは、俺一人が背負えばいい。この薄汚れた手だけで十分だ。
「それに……やっぱタイマンって最高だよなぁ! 武器も防具もなし! 魂と魂のぶつかり合いだ!」
「き、君という男は……本当に、バカなのか……?」
ウタハが呆れたように呟く。俺はヒガに向き直り、首をバキバキと鳴らした。奴は銃を失い、薬の影響で呼吸を荒げながらも、獣のような目でこちらを睨んでいる。最高のSTAGEだ。
「ウタハ……俺の端末、ハッキングしてるよな?」
「……ああ、近距離の位置特定の時にな」
「プレイリストの上から三番目、流してくれ」
「……了解した」
ウタハが自身のデバイスを操作した瞬間。スタジアムの館内放送スピーカーをジャックし、爆音のビートが鳴り響いた。
軽快で、やかましくて、テンションを底上げするユーロビート。高速のシンセサイザー音が、アドレナリンを無理やり引きずり出す。
「な、なんだこのふざけた音楽はぁ!!」
ヒガが叫ぶ。
「知らねぇのか? 峠を攻める時の定番曲だぜ!!」
俺は地面を蹴った。人間の脆弱な身体。銃弾一発で死ぬ身体。だが、今の俺は誰よりも速い。
「ナメるなぁぁぁッ!!」
ヒガが咆哮と共に、コンクリートを砕くほどの剛腕を振るう。強化薬剤でブーストされたその一撃は、当たれば大ダメージだろう。俺はその拳を、紙一重で躱す。風圧が頬を切り裂き、血が滲む。恐怖など上等だ。その恐怖が、俺の感覚を研ぎ澄ませる。
「(見える……!)」
タケルと共に戦ったあの路地裏で、俺の目は覚醒していた。銃弾の軌道が見えるなら、大振りの拳なんて止まって見える!
「オラァッ!!」
俺の拳が、ヒガの鳩尾にめり込む。硬い。やっぱ生徒の身体は頑丈だ。だが、ヒガの表情は苦痛に歪んだ。
「がハッ……!?」
「痛ぇか!? 俺も痛ぇよバァァァカ!!」
ユーロビートのBPMに合わせて、俺は足を止めずに連打を浴びせる。泥臭い、ただの暴力。
悔しいことに、奴の格闘センスに俺の心も楽しんでいた。
「あがるぜ……」
「ふざ、けるな……! ただの、大人がぁッ!!」
ヒガが反撃に出る。蹴りが脇腹を掠め、肋骨が軋む音がした。口の中に鉄の味が広がる。意識が飛びそうになるのを、アホみたいに速いリズムの音楽が繋ぎ止める。
「(もっとだ……もっと速く!)」
俺は痛みすら燃料に変えて、ステップを踏む。アロナはいない。盾はない。だからこそ、一瞬の油断も許されない、ヒリつくような命のやり取り。
「その薬が切れるまで殴り合うか? それとも、俺がくたばるのが先か……勝負しようぜ!」
「死ねぇぇぇッ!!」
ヒガの大振りの右ストレート。俺はそれをダッキングで潜り抜け、渾身の力を込めたアッパーカットを顎に叩き込んだ。
「アクセル全ッッ開だ!!」
衝撃が拳を突き抜け、脳天まで響く。ヒガの巨体が宙に浮き、その場に倒れる。
「はぁっ……はぁっ……俺の”勝ち”だ……」
緊張の糸が切れた瞬間、俺の身体もついていくように地面に倒れようとする。
流石に倒れると顔が痛いので、手をついて耐える。
「先生ッ! 全く……無茶をする……」
「……俺より、あいつだ。俺の何倍も戦っている。それに、イチカを追わないと……」
ウタハが心配そうに駆け寄ってくるが、俺はウタハをアズサの方へ向かわせる。
彼女の方が受けたダメージは大きいはずだ。
……イチカは、どうしているだろう。
何事もなければいいが……。
「ヴァルキューレにもすでに通報を入れている。正実やゲヘナ風紀委員会の手は借りてないから、エデン条約にも影響しないはずだ」
ウタハはアズサの怪我の処置をしてそう言った。心強い、ヴァルキューレが動いたのならいよいよ大詰めと言ったところか。
「そうか……シャーレの先生も、なかなか器用なことをするな……。なら、休んでいられない。……ところで、あと応援はお前らだけか?」
「問題ない、私の強力な知り合いを呼んでいる」
ウタハが自信満々にそう言うと、突然ヒガがぶち抜いた大穴から激しい衝撃音が響いた。
「光よぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「……ヒュウ。イカしてるな、あの武器」
「同感だ、先生」
大変お待たせしました。
ここまで読んで頂きありがとうございます。この物語も、残り3話で完結となります。
次話の投稿は6:32となります。
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