【完結】仲正イチカは悪い大人についていく   作:曇りのち晴れ男

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最終話 正義実現

 

 ウタハさんが倒れ、私の動きも完全に読まれている。カノンの銃口が、冷酷に私を捉えた。

 

「さぁ、次はどっち?」

 

 死の予感が背筋を駆け上がる。動けば撃たれる。動かなくても撃たれる。私は絶望に歯を食いしばり──それでも、引き金に指をかけた。

 

「イチカァっ!!」

 

 私の死を察知した先生が叫んだ瞬間、カノンの発砲音が轟いた。

 

 けれど、私を襲ったのは鉛の熱さではなく、凄まじい金属の衝突音と、頬を撫でる突風だった。

 

「うへぇ~、間一髪。おじさん、ギリギリセーフってとこ?」

 

 目を開けると、私の目の前にピンク色の小さな背中があった。身の丈ほどもある巨大な盾を構え、対物ライフルの直撃を涼しい顔で受け止めている少女。

 

「ホシノ、さん……!?」

 

「お前は、確かアビドスの……!」

 

 先生が叫ぶ。アビドス高等学校、小鳥遊ホシノ。キヴォトス最強の神秘の一角が、ここに駆け付けたのだ。

 

「あーあ、また邪魔が入っちゃった。……その盾、硬そうね」

 

 カノンは舌打ちをし、距離を取ろうとバックステップを踏む。

 

「逃がさないよ~!」

 

 しかしそれを許さない、ホシノさんが一気に距離を詰める。その速度は、重装備とは思えないほど速い。ショットガンが火を噴き、カノンにプレッシャーをかけていった。

 

「糸目ちゃん、今だよ! 挟み撃ちにしちゃおう!」

 

「は、はいっ!」

 

 その声に反応し、私も反対側から回り込む。ホシノさんの猛攻に、カノンも防戦一方だ。ホシノさんの圧倒的な身体能力と手数には反応しきれないようだ。

 

「くっ……! ちょこまかと……!」

 

 カノンの額に初めて冷や汗が浮かぶ。

 

「(このまま押し切れば勝てる!)」

 

 そう確信した瞬間だった。カノンが懐から何かを取り出し、足元に叩きつけた。

 濃密な白煙が爆発的に広がり、瞬く間に視界を奪う。スモークグレネードだ。

 

「煙幕!? 糸目ちゃん、窓口の先生、固まって!」

 

 ホシノさんの声が響く。私たちは互いの背中を守るように身を寄せ合った。視界ゼロ。どこから撃ってくるか分からない。張り詰めた緊張の中、煙の向こうから、ねっとりとした声が聞こえてきた。

 

「あらあら、煙程度で負けちゃうの?」

 

「……挑発には乗らないよ。おじさん、こういうの慣れてるし」

 

 ホシノさんは油断なく盾を構え、周囲を警戒する。だが、カノンの声は続いた。位置を変え、反響し、まるで耳元で囁かれているかのような錯覚を覚える。

 

「ねぇ、暑くない? ……戦闘が長引いて、体温が上がってきたんじゃない?」

 

「……?」

 

 ホシノさんの眉がピクリと動く。暑い? 確かに激しい戦闘の後だが、なぜそんなことを? 

 

 煙が揺らぎ、ホシノさんの真後ろに、音もなくカノンが現れた。銃を構えることもなく、ただ唇を、ホシノさんの耳元へと寄せる。

 

「ユメ先輩は……もっと暑かったのよ……♡」

 

 ──時間が、凍り付いた。

 

 ホシノさんの瞳孔が、極限まで収縮する。構えていた盾から、力が抜けた。戦場の喧騒も、今の状況も、すべてが彼女の意識から吹き飛んでいるように見える

 

「なんで……お前が……!?」

 

 完全な無防備。強者が、ただの怯える少女に戻った一瞬。

 

「隙ありっ♡」

 

 カノンは対物ライフルの銃口を、ホシノさんの背中ではなく──頭上の「天井クレーン」を吊るすワイヤーに向け、発砲した。

 

 ワイヤーが弾け飛ぶ音。数トンの重量を持つ鉄塊が、放心状態のホシノさんめがけて落下してくる。

 

「ホシノッ!!」

 

 先生が叫ぶが、ホシノさんは回避が間に合わなかった。一瞬とはいえ、動揺で周りの情報を取り込むのが遅れてしまった。

 轟音と床が抜け落ちるほどの衝撃が走り、粉塵が舞い上がる。

 

「ホシノさん!!」

 

 私は叫ぶが返事はない。鉄塊と瓦礫の山が、ホシノさんのいた場所を埋め尽くしていた。

 

「あはは! 脆い、脆い! 体は硬くても、心はガラス細工みたいね!」

 

 瓦礫の山の上に立ち、カノンが高らかに笑う。ウタハさんもホシノさんもやられ、残されたのはボロボロの私と、先生だけ。絶望的な静寂が、スタジアムを包んでいた。

 

 スタジアムの外壁越しに、重低音が腹に響く。あれはトリニティの戦車、クルセイダーの主砲だ。遠くで響くサイレンと無数の銃声は、ヴァルキューレ警察学校や他の生徒たちが、今もこの包囲網の外で必死に戦っている証拠だ。

 

 けれど、ここだけは。この瓦礫と鉄屑にまみれた荷捌きエリアだけは、世界から切り離されたように冷たく、張り詰めた静寂が支配していた。

 

「……ッ、ぅ……」

 

 私は、瓦礫の山の上に立つカノンを睨みつけながら、震える膝を必死に抑えつける。恐怖? 怒り? いいや、それ以上に「理解できない」という根源的な戦慄が、私の体を縛り付けている。

 

 ウタハさんの完璧なドローン包囲網が、指一本触れられずに崩された。私の前であれほど実力を見せつけたホシノさんが、一言で動揺し戦場から排除された。

 

 おかしい。ありえない。反射神経や戦闘経験といった次元の話じゃない。彼女は、私たちが引き金を引く「前」に避けている。私たちが作戦を思いついた「瞬間」に、そのカウンターを用意している。

 

「(なんで……どうして……私たちの動きが、思考が、全部筒抜けなんすか……!?)」

 

 私の脳内を駆け巡る、悲鳴にも似た疑問。声には出していない。ただ心の中で叫んだだけの、形のない問いかけ。

 

 ──だというのに。

 

「ふふっ」

 

 カノンは、まるで隣で会話を聞いていたかのように、くすりと笑った。そして、瓦礫の上から私を見下ろし、自身のこめかみをトン、と指差す。

 

「私ね、小さい時から心が読めるの」

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 葛原(くずはら)カノンは、幼くして『神秘』を宿していた。

 

 キヴォトスにおいて『神秘』とは、時に恩寵であり、時に呪いである。

 ティーパーティーに所属する生徒『百合園セイア』の、『未来視』の能力を持った身体が病弱になる事象のように、何かを得る者は、等価として何かを差し出さねばならない。それがこの地(キヴォトス)の、人知を超えたルールのひとつだと()()()()()()()()、葛原カノンも『読心』に対しあるものを支払っている。

 

 ──『良心』の欠落。

 

 他者の思考が、音や色となって流れ込んでくる「読心」の能力。幼いカノンにとって、それは最初、ただの便利な遊び道具だった。親が隠しているおやつの場所、友だちが本当に欲しがっているもの、学園のトップがテストに出そうとしている問題。世界は彼女にとって、答えの書かれたクイズのようなものだった。

 

 だが、その「答え」を知るたびに、彼女の中からブレーキが失われていった。嘘をつくことへの躊躇い。他者を傷つけることへの痛み。善悪の判断。

 

 普通なら成長と共に育まれるはずのそれらが、カノンの中では能力の向上と反比例するように、砂のようにサラサラと崩れ落ちていったのだ。

 

 友人の秘密を暴露しても、心が痛まない。教師を精神的に追い詰めても、罪悪感が湧かない。むしろ、暴かれた本音が撒き散らす「絶望の色」が、彼女にとっては極彩色のエンターテインメントに見えた。

 

 気づけば彼女は、所属していた学園の「爆弾」となり、誰の手にも負えない存在として弾き出された。行き着いた先は、矯正局。『七囚人』のような怪物たちと共に檻の中に繋がれたが、カノンはそこで涙を流すことも、社会を恨むこともなかった。

 

「あーあ、つまんないの」

 

 ただ、退屈だった。だから、檻が壊れた時、彼女は迷わず外へ出た。怒りも、悲しみもない。ただ純粋に、もっと楽しいことがしたかったから。

 

 ブラックマーケットは、カノンにとって理想の遊び場だった。そこには欲望が渦巻き、誰もが本音を垂れ流して生きている。

 

 彼女はそこで、ある一人の科学者と出会った。才能はあるが倫理観の欠けたそのロボットと、カノンは「おもしろいオモチャ」を作ることにした。それが、強化薬剤のプロトタイプ。人の理性を剥ぎ取り、力を暴走させる魔法の薬。

 

 完成した夜、科学者は笑顔でカノンにワインを注ぎながら、こう思考していた。

 

『これで完成だ。このガキはもう用済みだな。レシピを独占して、ブラックマーケットの王になるのは私だ』

 

 カノンはその思考をBGMのように聞きながら、ニッコリと笑い、迷わずに引き金を引いた。

 

 その日、科学者が驚愕の表情で崩れ落ちるのを彼女は無感動に見下ろし、レシピを奪った。そこには「裏切られた悲しみ」など微塵もない。あるのは、「邪魔な石をどけた」という事務的な処理と、「これでまた遊べる」という無邪気な喜びだけ。

 

 そこからの快進撃は早かった。強化薬剤が生み出す莫大な収益。そして何より、カノンの「読心」という絶対的な支配力。

 

 カノンに対し、隠し事や裏切りは通用しない。組織を裏切ろうと画策する部下がいれば、その計画を実行する前に処理される。敵対組織が奇襲をかけようとすれば、その裏をかいて壊滅させる。

 

 彼女の周りには、恐怖で支配された忠実な下僕と、死体の山だけが積み上がっていった。

 

「全部、壊しちゃお」

 

 積み木を崩す子供のように、彼女は笑う。そこに復讐の心や、世を儚む悲観的な哲学はない。他人の心が壊れ、組織が壊れ、秩序が壊れる音。それだけが、良心を失った彼女の空っぽな心を満たす、唯一の「快楽」だったのだ。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 カノンは瓦礫の上で、まるで世間話でもするかのように続けた。私はその告白に息を呑み、驚愕が思考を埋め尽くそうとするが、彼女はそれを待ってはくれない。

 

「最初は便利だったわ。大人はみんな嘘つきで、友達はみんな仮面を被ってる。……でもね、気づいちゃったの。この力を使えば、世界なんて簡単に私のオモチャにできるって」

 

 彼女は制服のポケットから、一つの小さなUSBメモリを取り出し、指先で弄んだ。無機質な黒いスティック。けれど私の直感が警鐘を鳴らしている。あれは、ただの記録媒体じゃない。もっとどす黒くて、致命的な何かが詰まっている。

 

「これにはね、『すべて』が詰まっているの。……あと少しで、私はこのブラックマーケットだけじゃなく、キヴォトス全土を掌握できる」

 

 カノンは恍惚とした表情で、空を掴むような仕草をした。

 

「学園も、連邦生徒会も、みんな私の手のひらの上。……あはは、想像しただけでゾクゾクしちゃう!」

 

「そんなこと……させるわけないっす!!」

 

 私は叫び、再び銃を構えて射撃する。けれど、カノンは私を見るまでもなく、ヒラリと身を翻した。

 

「口だけね。……思考が丸見えなのよ、単細胞さん」

 

 対物ライフルの銃声。私は反射的に回避行動を取ったつもりだった。けれど、弾丸は私の回避先を正確に抉り、左足の太ももを浅く切り裂いた。

 

「ぐっ……!!」

 

 激痛に顔が歪む。

 

 そこからは、一方的な蹂躙だった。私が右に動こうと思えば左を撃たれ、遮蔽物に隠れようとすれば跳弾が襲ってくる。近づけない。狙えない。思考を読まれるということが、これほどまでに絶望的だなんて。

 

「あはははは! お仲間ももう来ないみたいね!! それもそうよ、薬の収益で軍隊のような武力を持ってるんだから!!」

 

 カノンが高笑いと共に連射する。体力はもう限界だ。意識が霞み、足がもつれる。

 

「(しまっ……)」

 

 瓦礫に足を取られ、体勢を崩したその瞬間。カノンの瞳が、冷酷な狩人の色に染まった。

 

「チェックメイト」

 

 巨大な銃口が、私の眉間を捉える。

 

 避けられない。防げない。

 

 死の感触が、冷たく脳裏をよぎった。

 

 ──その時だった。

 

「させるかぁぁぁッ!!」

 

 横合いから、ボロボロのスーツ姿が飛び込んできた。先生だ。彼は私を突き飛ばし、自らの体を盾にするようにしてカノンの前に立ちはだかった。

 

「先生ッ!?」

 

 至近距離からの発砲。生身の大人が受ければ、肉片すら残らない大口径弾。私は絶叫した。先生が死ぬ。私のせいで、先生が──。

 

『先生は守ります!!』

 

 信じられない音が響いた。先生の抱きしめているタブレット端末から、青白い幾何学模様の光が展開され、カノンの放った弾丸が、まるで目に見えない壁に当たったかのように、不自然な軌道で逸れていったのだ。

 

「なっ……!?」

 

 カノンが目を見開く。私も呆然と、その光景を見つめていた。先生の手の中で、タブレットが激しく発熱し、悲鳴のようなアラート音を上げている。

 

「アロナ……俺との最後の仕事だ……! 頼む……! 頼む……!!」

 

 何が起きたのか私には分からない。ただ、先生の持つあの端末が、物理法則を無視して彼を守っていることだけは理解できた。

 

 けれど、その光は今にも消えそうなほど頼りなく明滅している。弾丸を弾くたびに、先生の顔色が蒼白になっていく。あれは、無敵の盾なんかじゃない。何か有限のエネルギーを削って維持している、ギリギリの奇跡だ。

 

「(……先生)」

 

 いつ弾丸が貫通してもおかしくない状況。先生の背中が、小さく震えているのが見えた。それでも彼は、一歩も引こうとしない。私を守るために。この理不尽な悪意から、生徒を守り抜くために。

 

 私の胸の奥で、何かが熱く燃え上がった。思考? 読心? そんなもの、もうどうでもいい。先生があそこまで張っているんだ。私がここで膝をついている理由なんて、一つもないっすよね。

 

 瓦礫の陰で震える手を抑え込み、懐へと伸ばした。指先が触れたのは、冷たく硬質なガラスの感触。ブラックマーケットから押収した証拠品。あの科学者が作った、悪魔の劇薬。私はゆっくりとそれを取り出し、キャップを外した。躊躇いは、もうない。

 

 その液体を思い切り飲み干す。冷たい液体が喉を通り、全身に浸透していく。次の瞬間、血管が熱をもって灼熱の溶岩へと変わった。

 

 心臓が破裂しそうなほど跳ね上がる。視界が明滅し、世界の色が彩度を増して歪んでいく。脳内で信号が異常発火し、思考速度が人の限界を超えて加速していく感覚。一秒が永遠のように引き伸ばされ、同時に千の思考が並列して駆け巡る。

 

 私は立ち上がった。足の痛みなど、もう感じない。

 

「……イチカ?」

 

 先生が驚いて振り返るが、私はその横を通り過ぎ、ふらつく足取りで前へと出た。カノンが、私に気づく。彼女は対物ライフルを下ろし、怪訝そうに眉をひそめて私を見た。そして、私たちの視線が交錯する。

 

 読心能力を持つ彼女は、私の目を見た瞬間に強制的に「接続」してしまう。普段なら、それは彼女にとって有利な情報の泉だ。

 けれど今、私の脳内にあるのは、薬物によってブーストされ、暴走した膨大な思考の濁流。数万、数億の殺意と決意、そして意味のない情報の羅列が、光の速さで回転している嵐。

 

 それらが、一切のフィルタリングなしで、カノンの脳髄へと逆流した。

 

「……っ……!? ……っ?? ……!」

 

 カノンの動きが、ピタリと止まる。悲鳴はなかった。彼女は目を見開いたまま、何が起きたのか理解できないという表情で、小さく痙攣した。

 

「なる……ほど……なかなかやるじゃない……!」

 

 彼女の整った鼻筋から、一筋の赤い線が垂れ落ちる。それはすぐに二筋になり、ボタボタと服を赤く染め上げていった。

 許容量オーバー……。私の暴走した思考回路に焼き切られ、彼女の脳が物理的なダメージを負い始めているようだ。

 

 普段なら警備に任せるであろう薬で錯乱した人物。でも今はカノン1人で対処しなければならない。

 

 私は、焦点の定まらない目を逸らすカノンへ、一歩ずつ近づいていく。脳内を駆け巡る情報の嵐は、私の平衡感覚すら奪っているけれど、不思議とカノンへの殺意だけが羅針盤のように身体を前へと運んでいた。

 

「……気づいていたっすよ。あなたが、この薬で暴走した人間をどう扱っていたか」

 

 目を逸らすカノンに銃を撃つ。するとカノンはなすがままに攻撃を食らい、こちらを見なければ撃たれ続けてしまうということに気付いたようだ。視線を再び私に戻す。

 

「『読心』は、便利な能力っすけど、スイッチが切れない。……だから、理性が壊れて本能と思考が垂れ流しになった人間の心は、あなたにとっては大音量のノイズでしかない」

 

 私は、カノンの前で足を止めた。彼女は鼻から溢れる血を手の甲で拭いながら、それでも冷徹な瞳で私の意図を分析しようとしているのが分かった。

 

「私たちを薬の実験材料にしている時、露骨に目をそらしたりサングラスをかけたりしてたっすよね」

 

「……っ……」

 

 カノンの喉奥から、押し殺したような呻き声が漏れる。どうやら図星のようだ。

 彼女は他人の心を読むことで優位に立ってきた。けれど、それは「読める程度の情報量」だったからだ。今の私の脳内は、壊れたスピーカーが最大音量でハウリングしているようなもの。接続すればするほど、彼女の精密な脳みそは焼き切れる。

 

「私の頭の中、うるさいっすよね? ……数えきれないほどの殺意と、意味のない情報のゴミ山っす」

 

 私は、震える拳を握りしめた。もちろん、代償は大きい。薬の効果が切れれば、私の身体は副作用でボロボロになるだろうし、最悪の場合、廃人になるかもしれない。

 

「もちろん私だってただじゃすまないかもっすね。だから……」

 

 私が歪んだ笑みを浮かべると、カノンの瞳に初めて「恐怖」の色が浮かぶのが見えた。

 

「一緒に『地獄』に行くっすよ」

 

「戯言を!!」

 

 カノンが吠え、対物ライフルの引き金を引く。私はそれを、薬物で極限まで加速した反射神経で紙一重にかわし、距離を詰める。

 

「ああもううるっさいわね!! ノイズが入ったから何よ!!」

 

 カノンが後退りながら乱射する。私の脳内から溢れ出る思考の濁流が、彼女の受信機を焼き焦がしているのだ。鼻血が止まらず、彼女の顔面は赤く染まっている。いける。このまま押し切れば──! 

 

 だが。

 

「……ッ、ぐぅ……! うふ、うふふふふ」

 

 カノンは、苦悶の表情を浮かべながらも、その瞳から理知の光を消してはいなかった。彼女は私の突進に合わせて、最小限の動きで銃口を振るう。

 

 銃身での殴打。私が避けようとした方向に、完璧に置かれていた。

 

「がはっ……!?」

 

 私は無様に地面を転がる。薬の副作用か、殴られた箇所が熱を持って痺れる。

 

「はぁ……はぁ……。驚いたけど、所詮はノイズね」

 

 カノンが血をぬぐい、冷ややかな目で見下ろしてくる。

 

「デタラメにも『法則』がある。あなたの殺意、足の運び、筋肉の収縮……リズムさえ掴めば、ただの大音量BGMよ!」

 

 天才。その一言が脳裏をよぎる。彼女は、脳が焼き切れるほどの負荷を受けながら、その激痛の中でなお、私の暴走した思考パターンを解析したのだ。

 

「調子に乗るなよ、凡人が……ッ!」

 

 カノンが銃口を突きつける。避けられない。今の私には、もう彼女の予測を上回るほどの「新しいノイズ」を生み出す余力がない。 万事休す。そう思った、その時だった。

 乾いた音が、戦場には不釣り合いなほど静かに響いた。カノンの背後ではない。私のすぐ隣から。

 

「……え?」

 

 カノンが、動きを止める。私も、何が起きたのか理解できず、視線を横に向けた。

 そこに、先生が立っていた。その手には強化薬剤が握られ──その液体はどんどん、先生の喉の奥に流し込まれていた。

 

「せ、んせ……?」

 

 先生の瞳孔が開き、全身の血管が怒張して浮き上がる。普段は温厚で、理性的で、生徒を守ることに命を懸けている「大人」。その仮面が剥がれ落ち、薬によって強制的に引きずり出された「本能」が、ドス黒いオーラとなって噴き出した。

 

「置いてくなよ……。お前が地獄に行くなら……俺もついていくぜ……!」

 

 先生が、獣のような低い声で唸る。

 

 次の瞬間、カノンが悲鳴を上げた。

 

「ぎゃあああああああああッ!?」

 

 彼女は対物ライフルを取り落とし、両手で頭を抱えてのた打ち回った。

 

「なに、これ……!? 重い、黒い……!? 羽の生えた方のクソ虫とは違う……もっとドロドロした……汚い色がぁぁぁッ!!」

 

 私のノイズが「鋭利な刃物の嵐」だとするなら、先生のノイズは「底なしの泥沼」だろう。大人が抱える責任、後悔、葛藤、そして生徒を傷つけられたことへの昏い怒り。複雑怪奇で、決して読み解けない感情のヘドロが、薬の力で増幅され、カノンの脳内に直接流し込まれたのだ。

 

 高音のノイズと、重低音のノイズ。質の違う二つの狂気が、ステレオで彼女の精神をミキサーする。

 

「やめろ、入ってくるな! 私の目を見るなぁぁぁッ!!」

 

 カノンは白目をむき、口から泡を吹いて痙攣している。完全にパンクしたようだ。

 

「……イチカ!!」

 

 先生が叫ぶ。その目もまた、血走っていた。限界なのは先生も同じだ。この一瞬にすべてを懸けるしかない。

 

「はいッ……!!」

 

 私は残った全ての力を、右の拳に込めた。思考はいらない。ただ、目の前の「歪み」を正す。それだけでいい。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 二人のノイズを前にして、葛原カノンはまだ諦めていなかった。

 

「(ノイズが増えたところで、アンタの思考を聞き逃さないようにすればいいだけ!!)」

 

 脳内にいまだ響くノイズに頭を痛めながら、カノンは向かってくる拳を見極める。そう、たとえうるさい音が増えたとしても聞き分ければいい。

 

 ロックなBGMを聞きながら、気まぐれにベースの音だけを耳で拾うように。

 英語のつたない生徒が、初めて聞く英語の歌詞を何度もリピートして聞くように。

 

 この女ごときにやられてたまるか。そうカノンは自分に言い聞かせ奮い立った。

 

「(右ストレート・カノン・の・顔)」

 

「(聞こえてくるわよ!あんたのきったない声が!!)」

 

 だが、カノンが顔を動かし拳を避け、銃を撃とうとしたその瞬間。

 ビリビリと音を立てて故障していたかに見えたウタハのターレットが起動し、七色に発光した。

 

「っ……まぶしっ!!」

 

 その発光はカノンの網膜を一瞬だが曇らせる。視界が遮られ、避けれるはずの拳が見えなくなる。

 

 ――カノンの神秘である『読心』には、決定的な弱点が二つある。

 

 カノンは余計な情報で脳が疲れるのを避けるため、一瞬だけ相手を見て思考を読み、その後すぐに視線を外すと言った戦術を取っている。それほどまでに戦いの最中、相手を視界に収めることによるリソース消費が激しいのだ。

 

 言い方を変えるとすれば、視界に入ったなら強制的に読心が発動してしまう。『強制発動』の弱点。

 

 これは先刻、イチカと佐倉が強化薬剤を自らに投与することによって突いた弱点。

 

 そしてもう一つの決定的な弱点。

 

 佐倉正義による麻雀牌の投擲。小鳥遊ホシノによる盾での突進。そして、白石ウタハから放たれた最後の攻撃。

 

「全自動雀卓の発光パターンは……雷ちゃんにインプット済みだ!」

 

 もう一つの弱点――それは、『不意打ち』。

 

「このっ……クソ虫があああぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「これで……終わりっすッ!!!」

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 私は踏み込み、無防備なカノンの顔面めがけて、渾身のストレートを叩き込んだ。

 

 肉と骨が砕ける重い衝撃。カノンの身体が、まるで紙屑のように宙を舞い、スタジアムの瓦礫の山へと深く突き刺さった。

 

 土煙が舞い上がる。彼女はもう、ピクリとも動かない。

 

「はぁ……はぁ……ッ」

 

 私は拳を突き出した姿勢のまま、荒い息を吐く。世界がぐにゃりと歪み、色を失っていく。薬の効果が切れ、反動が一気に押し寄せてきたのだ。

 

「……終わっ、た……?」

 

 倒れそうになる私の身体を、誰かが支えてくれた。熱くて、汗臭くて、でも何よりも安心する匂い。

 

「ああ……終わったぞ、イチカ」

 

 先生もまた、膝をつきながら私を抱き留めてくれていた。二人して薬漬けのボロボロ。きっと酷い顔をしているに違いない。

 

「……先生、私たち……最悪のコンビっすね。えへへ」

 

「……違いねぇ」

 

 私たちは瓦礫の中で、泥のように笑い合った。遠くから、ようやく駆けつけたヴァルキューレのサイレンが聞こえてきた気がした。

 

「……待て、そういやまだ終わってねぇ。……ワタヌキがまだだ!」

 

 先生の叫び声で、薄れかけていた私の意識がハッと引き戻された。そうだ。私たちはここでカノンを止めた。けれど、その裏でたった一人、地獄の蓋を押さえてくれている人がいる。

 

「い、行かないと……!」

 

 私は立ち上がろうとして、足に力を込める。けれど──。

 

 膝が笑うどころか、神経そのものが焼き切れたように力が入らない。ドサリと再び地面に崩れ落ちる。

 

「くそ……おぉ……!!」

 

 先生もまた、地面に拳を叩きつけて呻いた。薬の副作用。限界を超えて心身を酷使した代償が、緊張の糸が切れた今、鉛のようにのしかかり、指一本動かすことを許さない。

 すると、感電して動けなくなっていたウタハさんがこちらに向かって声を投げた。

 

「心配するな……。先手なら、打ってあるさ……」

 

「え……?」

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 静かにカチリ、という乾いた金属音が虚しく響いた。弾切れだ。ポケットにも、近くの机や床にも、もう一発も落ちてない。

 目の前には、赤いセンサーライトを無機質に明滅させる、無数の自律型ターレット。倒しても倒しても湧いてくる、鋼鉄の津波。

 

「はぁ……はぁ……っ」

 

 もはや、ショットガンを握る握力さえ残っていなかった。乾いた音を立てて、愛銃を冷たいコンクリートの床に落としてしまう。私は糸が切れた操り人形のように、背中からその場に倒れ込んだ。

 天井の配管が見える。埃と油にまみれた、暗い天井。全身が熱いのに、指先だけが冷たい。

 

「あはは……心までは戻れても、そっちに、戻れなかった……ですね」

 

 先生、イチカさん。ごめんなさい。約束、守りたかったな。またみんなで、あの日向のような場所で笑い合いたかった。

 ターレットの駆動音が近づいてくる。ガシャン、ガシャンと、無慈悲な処刑の足音。けれど、不思議と恐怖はなかった。最後に私は、復讐者ではなく、ただの「ワタヌキ」として戦えたから。

 

 私が穏やかな笑顔で目を閉じると、鼓膜を破るような発砲音が、至近距離で炸裂した。

 

「……」

 

 次の瞬間には、死ぬはずだった私。なのに、いつまでたっても迎えが来ない。

 

「……え?」

 

 恐る恐る目を開けると、私の目の前に迫り、砲口を向けていたターレットが、無残にひしゃげて吹き飛んでいた。

 

 そして。硝煙の向こうに、人影が立っていた。

 

 病院着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの、頼りない背中。足元はおぼつかず、息も絶え絶えで。けれどその手には──私が落としたショットガンが、しっかりと握られていた。

 

「え……そ、んな……嘘……」

 

 幻覚だと思った。一番会いたい人が見せている、走馬灯だと。けれど、その少女は肩で息をしながら振り返り、泣きそうな、でも力強い瞳で私を見た。

 

「私の友達に……何してるのよッ!!」

 

「アオ……ちゃん……?」

 

 さらに、彼女の背後から重機のような駆動音が響いてくる。改造された車両に乗って現れたのは、ミレニアムの制服を着た二人組。

 

「もう! 絶対安静の病人を戦場に連れ出すなんて、やっぱり無茶だって!」

 

「でもでも! アオゾラちゃんが『絶対に行く』って泣くんですから! エンジニア部として放っておけません!」

 

 分厚い眼鏡の女子と、犬耳の女子。彼女たちが展開した車両のタレットが、一斉に敵の群れへと向き直った。

 

「どうしてここに……?」

 

 私の問いかけに、アオちゃんは泣きそうな顔で、けれど力強く答えた。

 

「友達が……危ないのに、寝てなんていられないよ」

 

「っ……」

 

 彼女が一歩、私の方へ歩み寄ってくる。私は反射的に、地面を這って後ずさった。

 

「来ないで! 来ないでください!」

 

「ワタちゃん?」

 

「見ないで……今の私は、あなたに見せられるような顔をしてません!」

 

 私は顔を覆った。泥と油と、返り血で汚れた手。こんな薄汚い犯罪者の姿を、一番綺麗な彼女に見られたくなかった。

 

「知ってるでしょう? 私が何をしたか。ヒガさんを半殺しにして、ブラックマーケットで薬を売って……たくさんの人を不幸にした。私はもう、あの頃の私じゃないんです! 正真正銘の、悪党なんですよ!」

 

 叫べば叫ぶほど、惨めだった。彼女が私を軽蔑してくれることを望んでいたのかもしれない。そうすれば、諦めがつくから。けれど。

 

「……うん。知ってるよ」

 

 アオちゃんは足を止めなかった。瓦礫を踏み越え、私の目の前で膝をつき──震える私の手首を、強く掴んだ。

 

「っ……触らないで! 汚れますよ!」

 

「汚れてなんかないよ!」

 

 アオちゃんが叫んだ。その瞳から、大粒の涙が溢れ出す。

 

「ワタちゃんが苦しんでたこと、気づけなくてごめんね……! 私が弱かったから……あなたが一人で汚れ役を背負おうとしちゃったんだよね……!」

 

「ちが、う……それは、私が勝手に……」

 

「違くないよ! ……一緒に帰ろう? ワタちゃん」

 

 彼女は私の汚れた手を、両手で包み込んだ。その手は温かくて、震えていて。

 

「悪いことしたなら、一緒に謝りに行こう。窓口の人も、イチカさんも、みんな待っててくれる。……だから、お願い。一人でどこかに行っちゃうなんて、言わないでよぉ……ッ!」

 

「アオ、ちゃん……」

 

 その涙を見たら、必死に張り続けてきた、厚くて硬い「悪党」の仮面が、音を立てて砕け散った。私は自分の罪を許されたわけじゃない。でも、この手だけは、振り払えなかった。

 

「……帰り、たい」

 

 ポツリと、気付けば言葉が漏れていた。一度口にしてしまったら、もう止まらなかった。堰を切ったように、溢れ出してくる。

 

「帰り、たい……。帰り、たい……ッ」

 

 ずっと、寂しかった。暗い路地裏で、冷たい雨に打たれながら、トリニティの方角を見上げるだけの毎日が、どうしようもなく辛かった。

 

「ここじゃない……こんな暗い場所は、もう嫌だ……ッ!」

 

 私はアオちゃんの背中にしがみつき、子供のように泣きじゃくる。

 

「帰り、たい……ッ! あの日みたいに、またみんなで笑いたい……ッ! 補習も、お説教も、全部受けるから……ッ!」

 

 喉が張り裂けそうなほど、私はその言葉を叫び続けた。

 

「帰りたい……! アオちゃんと一緒に……帰りたいよぉ……ッ!!」

 

 それは、復讐者でも、薬の売人でもない。ただの迷子になっていた「ワタヌキ」という生徒の、心からの叫びだった。

 

「うん、うん……ッ! 帰ろう……! 私たちの居場所に……!」

 

 アオちゃんもまた、私の背中をさすりながら声を上げて泣いていた。私たちは瓦礫の山の中で、いつまでも互いの名前を呼び合いながら、再会の涙を流し続けた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

「はぁ……はぁ……。先生、足、大丈夫っすか?」

 

「ああ……なんとか。お前こそ、もう限界だろ」

 

「はは……正直、立ってるのが不思議なくらいっす」

 

 二人とも、薬の副作用と激戦の代償でボロボロだ。けれど、まだ確認しなければならないことがある。私たちは瓦礫の山を越え、ワタヌキさんが殿を務めてくれたエリアへと辿り着いた。

 

 そこには、エンジニア部の特殊車両と、破壊されたターレットの残骸。そして──二人の少女の姿があった。

 

「あ……」

 

 私は声をかけようとして、慌てて口をつぐんだ。瓦礫の中で、アオちゃんがワタちゃんを強く抱きしめていたからだ。

 

「帰りたい……! アオちゃんと一緒に……帰りたいよぉ……ッ!!」

 

「うん、うん……ッ! 帰ろう……! 私たちの居場所に……!」

 

 子供のように泣きじゃくるワタヌキさんと、それを優しく受け止めるアオゾラさん。その光景は、戦場には不釣り合いなほど温かく、神々しささえ感じられた。

 

「……よかった」

 

 安堵で、膝から力が抜けそうになる。彼女は生きていた。そして、一番帰りたかった場所へ、ちゃんと手が届いたのだ。

 

「……先生。声、かけないんすか?」

 

 私が小声で尋ねると、先生は優しく目を細め、首を横に振った。

 

「野暮なことはするな。……今は、二人だけにしてやろう」

 

「……ふふっ。そうっすね」

 

 私たちは物陰に身を隠し、その感動的な再会を少しだけ見守ったあと、気づかれないようにそっとその場を離れた。身体中の傷は痛むけれど、胸の奥は、嘘みたいに晴れやかだった。

 

 その時間は、決して長くは続かなかった。地下通路の奥から、複数の足音と、ヴァルキューレの厳しい指示出しの声が響いてきたからだ。

 

「……来たようですね」

 

 ワタヌキさんは、アオゾラさんの温もりからそっと身体を離すと、涙を袖で拭い、憑き物が落ちたような顔で立ち上がった。

 

「ワタちゃん……」

 

「行かなくちゃいけない。……ここからは、私の戦いだから」

 

 彼女は振り返り、瓦礫の向こうから現れたヴァルキューレの部隊へと、自ら歩み出た。銃を捨て、両手を前へ差し出す。それは、敗北者の姿ではない。自分の犯した罪から逃げず、真正面から向き合うことを決めた、誇り高き生徒の姿だ。

 

「……確保します」

 

 隊員のひとりが、躊躇いがちに彼女の手首に手錠をかけた。カチャリ、という冷たい金属音が、地下通路に響く。それは、彼女と私たちを隔てる音であり、同時に彼女が「こっち側」へ戻ってくるための、最初の儀式の音でもあった。

 

「待ってるから……ッ!」

 

 アオゾラさんが、泣き崩れそうになるのを堪えて、背中に向かって叫んだ。

 

「どれだけかかっても……卒業しちゃっても、絶対、待ってるから……ッ!!」

 

 ワタヌキさんは一度だけ立ち止まり、振り返らず涙を流しながら背中越しに頷いた。その背中は、以前よりもずっと小さく、けれどずっと強く見えた。

 

「イチカさん、ウタハさん、佐倉さん、アオちゃん……。本当に、ごめんなさい。……そして──ありがとう」

 





次話
21:32です。

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