【完結】仲正イチカは悪い大人についていく   作:曇りのち晴れ男

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第二話 持たざる者のピンポン

 

『ロンにゃ!』

 

「うわーっ! やられたっす!」

 

 スマホの画面に、無慈悲な落雷のようなエフェクトが走る。

 私は小さく溜息をついて、その対局結果画面をタップした。

 

「おいおい、そこで『(ぺー)』を切るのは素人(トーシロ)だぞ、イチカ」

 

 背後から、紫煙の染みついた低い声が降ってくる。

 振り返ると、この狭い事務所の主──いや、お荷物補助員である佐倉先生が、椅子の背もたれにだらしなく体重を預けて私の画面を覗き込んでいた。

 

「……先生が『入れろ』って言ったんすよね、このアプリ」

 

「暇つぶしにはなるだろ? この仕事は、待つのも業務のうちだ」

 

「待ち時間だからって、勤務中に麻雀を覚える必要性がどこにあるんすか」

 

「あるさ。人生の不条理は、大体麻雀が教えてくれる」

 

 先生はそう言って、スーツのポケットから本物の麻雀牌──『(ちゅん)』の牌を取り出し、手慰みに弄び始めた。

 カチャカチャ、という硬質な音が、トリニティの片隅にあるこの相談窓口『思春期相談室』に響く。

 

 そもそも、この部屋の惨状はどうだ。

 本来は書類仕事をするための机が端に追いやられ、部屋の中央には先生がどこかから調達してきた全自動麻雀卓が鎮座している。

 まだ誰も打つ相手がいないというのに、埃をかぶらないように丁寧に布まで掛けてあるのだから呆れる他ない。

 

「だいたい、私は忙しいんすよ。先生と違って」

 

「俺も忙しいぞ。昨日の競馬の結果を分析しなきゃならん」

 

「それは仕事じゃないっす!」

 

 私が抗議の声を上げても、先生は「はいはい」と手を振るだけで、デスクの上のテレビに視線を戻してしまった。

 古臭いブラウン管テレビには、キヴォトス全域で放送されているスポーツニュースが流れている。

 

 画面の中では、スポットライトを浴びてインタビューに答える一人の少女が映し出されていた。

 トリニティの制服を上品に着崩し、透き通るような金髪を揺らすその姿。

 テロップには『高校生卓球界の至宝・コイケ選手、キヴォトス大会へ抱負を語る』とある。

 

「……へぇ、すごいっすねぇ。私たちと同じくらいの歳で、キヴォトス大会に出場なんて」

 

 私は素直に感嘆の声を漏らした。

 画面の中のコイケさんは、無数のマイクを向けられても動じることなく、おっとりとした笑顔で「全力を尽くしますわ」と答えている。

 その立ち居振る舞いは優雅そのもので、とても激しいスポーツをするようには見えない。

 

「才能に恵まれた温室育ちだな。ふぁ~あ……」

 

 先生が大きなあくびをしながら、つまらなそうに鼻を鳴らす。

 

「……なんすか、その言い方。もっと褒めるとか感心するとかできないんすか? 同じトリニティの生徒が頑張ってるんすよ」

 

「頑張ってるのは認めるがね。ああいうタイプは脆いぞ」

 

「脆い?」

 

「挫折を知らないエリートは、一度折れると再起不能になるまでが早い。……ま、俺には関係ない話だが」

 

 先生は興味を失ったように、手の中の『中』を放り投げ、また空中でキャッチした。

 その乾いた音が、妙に耳に残る。

 生徒を見る目は確かなはずのこの人が、どうしてこうも捻くれたことしか言えないのか。

 私はジト目で先生を睨みつけたが、彼はどこ吹く風だ。

 

 その時だった。

 

 コンコン、と控えめながらも芯のあるノックの音が響いたのは。

 

「──はい、どうぞ」

 

 私が居住まいを正して返事をすると、ドアが勢いよく開かれた。

 

「失礼します! あの……相談したくて!」

 

 飛び込んできたのは、活発そうな雰囲気の女子生徒だった。

 頭上に浮かぶヘイローは明るく輝いていて、腰のホルスターには使い込まれたハンドガンが収まっている。

 いかにも「元気印」といった風情だが、その眉間には深い皺が寄せられていた。

 

「相談事っすね。何でも相談してくださいっす」

 

 私は努めて穏やかな笑顔を作り、ソファを勧める。

 先生はといえば、座ったままの姿勢で、ちらりと来訪者に視線をやっただけだ。

 ……あとで説教だ。絶対に。

 

 彼女はカミヤと名乗った。

 トリニティの一般生徒だが、どうやらのっぴきならない事情があるらしい。

 彼女はソファに浅く腰掛け、両手を膝の上で強く握りしめた。

 

「それで、相談ってなんすか?」

 

 私が手帳を開くと、カミヤさんは意を決したように顔を上げた。

 

「友達の……オオイシちゃんのことなんです」

 

「オオイシさん、っすか」

 

「はい。あの子、昔は熱血でいい子だったんですけど……最近、様子がおかしくて」

 

 カミヤさんは言葉を詰まらせ、視線を落とす。

 

「学園内での暴力行為が、増えてるんです。誰彼構わず喧嘩を売ったり、校舎の壁に銃弾を撃ち込んだり……。先生たちに注意されても、全然聞く耳を持たなくて」

 

「ふむ……」

 

 私はペンを走らせる。

 思春期の女子生徒が荒れる理由は様々だ。成績、人間関係、あるいはもっと深刻な──。

 

「昨日は、購買部で割り込みをしたって言いがかりをつけて、下級生の子をアサルトライフルで威嚇したんです。私、もう見てられなくて……どうにかして止めてほしくて、ここに来ました」

 

 カミヤさんの声は震えていた。

 友人を心配する気持ちと、変わってしまった友人への恐怖がない交ぜになっているのだろう。

 

 私はチラリと先生の方を見た。

 彼は手の中の牌をデスクに置き、退屈そうに天井を見上げている。

 だが、その目は死んでいなかった。

 情報を咀嚼し、値踏みしている目だ。

 

「……わかったっす」

 

 私は手帳を閉じ、カミヤさんに力強く頷いてみせる。

 

「そのオオイシさんのところへ、直接話を聞きに行きましょう。事情が分かれば、解決の糸口も見つかるはずっす」

 

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 カミヤさんの表情に、パッと希望の光が差す。

 私は制服の襟を正し、愛銃であるアサルトライフルを肩に担ぎ直した。

 

「先生、出番っすよ」

 

「……へいへい。人使いが荒いこった」

 

 先生は億劫そうに腰を上げ、デスクに置いてあった煙草の箱をポケットにねじ込んだ。

 その背中には、かつて「暴力でクビになった」とは思えないほどの、独特な脱力感が漂っている。

 

 けれど、私は知っている。

 この人は、やる時はやる──というか、やらなきゃいけない状況になれば、驚くほど手際がいいことを。……気に入らないけど。

 

「行くぞ、イチカ。……そのオオイシって奴が、ただの反抗期ならいいんだがな」

 

 先生が呟いたその言葉は、妙な重みを持って私の胸に引っかかった。

 ただの反抗期。

 そうであってくれれば、どれだけ楽か。

 

 私たちはカミヤさんの案内で、問題の生徒──オオイシさんがいるという旧校舎裏へと向かうことになった。

 

「ところで……なんで麻雀のテーブル? が、あるんですか……?」

 

「……気にしないでほしいっす」

 

 ■■■

 

 トリニティの敷地内とはいえ、あまり人気のない旧校舎裏の廃倉庫エリア。

 カミヤさんの案内で、私たちはオオイシさんが暴れているという現場へと向かっていた。

 

 並んで歩く私の隣には、少し後ろを歩く依頼人のカミヤさん。

 そして、そのさらに後ろを、気だるげにタバコを吹かしながらついてくる先生がいた。

 

 カミヤさんが怯えたように私の袖を引いた。

 

「あ、あの……仲正先輩。本当にあの方も一緒なんですか?」

 

「ええ、まあ……一応、この窓口の補助員ということになってるっすから」

 

「噂で聞きました。暴力を振るってシャーレをクビになった元先生だって……なんか、目が怖いです」

 

「あはは……否定はできないっすね」

 

 私は苦笑いで誤魔化すしかなかった。

 生徒からの風当たりは予想通り、いや予想以上に強い。

 当の本人はそんな陰口など意に介さず、灰皿っぽいもののある場所を見つけては一瞬立ち止まり、また歩き出すというマイペースぶりだ。

 

「おい。無駄話してると舌噛むぞ」

 

 背後から低い声が飛んでくる。

 

「到着だ。銃声が聞こえる」

 

 先生の指摘通り、廃倉庫の方角から乾いた発砲音が響いていた。

 私は表情を引き締め、愛銃の点検を済ませる。

 

「カミヤさんはここに隠れていてください。危険っすから」

 

「は、はい! お願いします!」

 

 カミヤさんを物陰に退避させ、私と先生は音の発生源へと足を踏み入れた。

 

 そこは廃材が積まれた広場になっていた。

 ドラム缶や廃棄された机に向けて、一心不乱に銃弾を叩き込んでいる生徒がいる。

 茶色の髪を乱暴に結び、ジャージを羽織ったその姿。

 

「あれが、オオイシさんっすね」

 

 私は物陰から声を張り上げた。

 

「すいませーん! ちょっといいっすかー!」

 

 銃声が止む。

 オオイシさんが、ぎろりとこちらを睨みつけた。

 その手にはアサルトライフルが握られている。

 

「誰? ……正実? 邪魔しないでくれる?」

 

「正確には正実の思春期相談窓口の仲正イチカっす。カミヤさんから相談を受けて来たんですが──」

 

「カミヤ? あいつ、チクったの!? 余計なお世話なんだよ!」

 

 言うや否や、オオイシさんは躊躇なく銃口をこちらに向けた。

 キヴォトスの生徒にとって銃撃戦は日常茶飯事とはいえ、あまりにも問答無用すぎる。

 

「危ないっ!」

 

 私はとっさに身を屈め、近くのコンクリートブロックの裏に滑り込んだ。

 頭上を数発の銃弾が掠めていく。当然だが、ゴム弾などではなくすべて実弾だ。当たり所が悪ければ気絶するし、何より痛い。

 

「話を聞いてくださいって! 私たちは喧嘩しに来たんじゃなくて──」

 

「うるさい! 私の勝手でしょ! ほっといてよ! お前らみたいな雑魚、無双してやるよ!!」

 

 オオイシさんの射撃は荒々しいが、不思議と狙いは正確だった。私が顔を出そうとするタイミングを的確に潰してくる。

 明らかに制圧射撃の基礎ができている。ただの不良の喧嘩のレベルではない。

 

「ちっ……これじゃ話にならないっすね」

 

 私は反撃のためにタイミングを計る。

 正義実現委員会として手荒な真似は避けたいが、このまま撃たれっぱなしというわけにもいかない。

 

 その時、少し離れた柱の陰で様子を見ていた先生が口を開いた。

 

「イチカ。右から回り込め」

 

「えっ? いや、あそこは射線が通ってて──」

 

「あいつの癖だ。撃ち終わった後、必ず左に視線を流す。リロードの隙もそこにある」

 

 先生の淡々とした指示。私は一瞬迷ったが、意を決して飛び出した。

 オオイシさんの銃撃が止む一瞬の静寂。

 先生の言った通り、彼女の意識が左側の障害物に向いた瞬間だった。

 

「確保っす!」

 

 私は距離を詰め、威嚇射撃を行いながら接近を試みる。

 しかし。

 

「舐めないで!」

 

 オオイシさんは驚異的な反応速度でバックステップを踏み、ドラム缶を蹴り飛ばして私の射線を塞いだ。

 そのまま身を隠し、死角から鋭いカウンターの連射を浴びせてくる。

 

「うわわわっ!?」

 

 私は慌てて元の遮蔽物まで後退した。

 制服の袖が焦げ、埃が舞う。

 

「……強いっすね。あちち」

 

 正直、驚いた。

 ただのヒステリーを起こした生徒だと思っていたが、あの動きは実戦慣れしている。

 遮蔽物の使い方も、相手との距離の取り方も巧妙だ。

 

「おい、イチカ」

 

 先生が柱の陰から声をかけてくる。

 スーツのポケットに手を突っ込んだまま、まるで他人事のような顔だ。

 

「これ以上は泥沼だ。引くぞ」

 

「は? 何言ってるんすか。ここで引いたら解決しないじゃないっすか」

 

「相手は興奮状態だ。おまけに腕も立つ。無理に制圧しようとすれば、お前か向こうのどっちかが大怪我するぞ」

 

 先生は冷めた目でオオイシさんの隠れている方向を見据えた。

 

「それに、今のあいつの目は『話を聞く目』じゃない。時間の無駄だ」

 

「……」

 

 悔しいが、正論だった。

 正義実現委員会の権限で増援を呼んで囲めば制圧はできるだろう。

 だが、それは『相談窓口』のやり方ではない。

 私たちは生徒を捕まえに来たのではなく、助けに来たのだから。

 

「……わかりました。一時撤退するっす」

 

 私は不服ながらも頷いた。

 オオイシさんの乱射が続く中、私たちはスモークグレネードを投擲し、その煙に紛れて廃倉庫エリアを脱出した。

 

「逃げた!? 二度と来ないでよ! げほっ、げほっ……」

 

 煙の向こうから、オオイシさんの悲痛な叫び声が聞こえた気がした。

 

 安全圏まで戻った頃には、日は傾き始めていた。

 カミヤさんには事情を説明し、一旦帰ってもらった。

 

 並んで歩く帰り道、私はため息交じりに隣の男を見る。

 

「……先生。さっきの指示、的確だったっすね」

 

「銃撃戦を見てきた数が違うだけだ。お前らと違って俺は弾丸一発が命に関わるからな、一瞬で相手の情報を抜き取らなきゃやってられん」

 

「……あの子、かなり強かったっすよ」

 

「だから厄介なんだよ。中途半端に腕があるやつほど、自分の弱さを認められない」

 

 先生はタバコの煙を空へと吐き出した。

 

「怪我するなよ、イチカ。……窓口業務で入院なんて笑い話にもならん」

 

 その言葉には、気遣いというよりは、業務上の損失を嫌うような響きがあった。

 それでも、あの乱戦の中で冷静に戦況を見ていた観察眼は本物だ。

 暴力でクビになったという経歴は伊達ではないらしい。

 

「……どうもっす」

 

 私は複雑な気分で礼を言い、事務所への重い足を速めた。

 

 ■■■

 

 すっかり陽が落ち、トリニティの広大なキャンパスも静寂に包まれていた。

 

 今日の成果はゼロだ。いや、むしろマイナスと言っていいだろう。

 相談者の友人を助けに行ったら、その本人から銃撃を浴びせられて逃げ帰ってきたのだから。

 

 事務所に戻るなり、佐倉先生はまたタバコに火をつけた。紫煙が天井の蛍光灯に向かって揺らめいていく。

 

「……あー、クソ。腹減ったな」

 

「開口一番それっすか。あんなに撃ち合ってきたのに」

 

「撃ち合ったから腹が減るんだよ。カロリー消費ナメんな」

 

 先生はけだるげに立ち上がると、部屋の隅にある給湯スペースへ向かった。そこには私たちの備蓄食料──と言えば聞こえはいいが、要するにカップ麺や袋麺の山が積まれている。

 

 電気ケトルでお湯を沸かす音が、静かな事務所に響く。

 なんだかんだ言いつつ、私も空腹には勝てなかった。制服の袖をまくり、自分用のカップ麺を選ぶ。

 

「お湯、沸いたぞ」

 

「……っす」

 

 二人してズルズルと麺をすする音だけが重なる。

 ジャンクな匂いが充満するこの空間は、お世辞にも「正義実現委員会」の関連施設とは思えないほど生活感に溢れていた。

 

「……で、どうするんだよ。あの卓球娘」

 

 先生が割り箸をくわえたまま切り出した。

 

「卓球娘?」

 

 ふと言葉に違和感を覚える。オオイシと言う生徒に卓球の要素などあっただろうか。

 

「あいつが持ってた荷物の中に、卓球のラケットがあった。あいつ多分卓球部員だぞ」

 

「へぇ……よく見てるっすね」

 

 先生の観察眼に感心しながら、麵をすする。ノンフライめん特有の『カップ麺』の味が鼻を抜けていく。

 

「どうするも何も、説得するしかないっすよ。カミヤさんの話だと、最近荒れてるってことでしたけど……」

 

「ただのヒステリーじゃねえな。ありゃ」

 

「え?」

 

「お前も撃たれてわかったろ。あのオオイシって奴、射線管理が妙に上手い。遮蔽物の使い方もな」

 

 言われてみれば、確かにそうだった。

 ただ闇雲に撃っているようでいて、こちらが反撃しにくい角度を常に維持していた。あの狭い路地で、だ。

 

「卓球のステップってのは、案外近接戦闘(CQB)に応用が効くのかもな。……だが、それだけじゃねえ」

 

 先生はスープを飲み干し、ふぅ、と息を吐く。

 

「強いが、脆い。攻め込まれると一気に崩れるタイプだ。だからこそ、先手必勝で距離を取ろうとする」

 

「……随分と見てたんすね。サボってるように見えて」

 

「サボってねえよ、はっ倒すぞお前。観察と言え」

 

 先生の分析は的確だった。暴力でクビになった元教師とはいえ、やはり腐っても元シャーレの先生ということか。その実務能力の高さだけは、認めざるを得ないのが悔しいところだ。

 

 私は残りのスープを眺めながら、ふと口を開いた。

 

「乾麺も美味しいっすけど、何となく自分で作ってみたい感じあるんすよね」

 

「あ? ラーメンをか?」

 

「はい。スープからガラを煮込んで、麺も打って……みたいな。そういう本格的なの、憧れません?」

 

「……お前、意外と職人気質だな」

 

「そうですか? ま、いつか余裕ができたらやってみたいっすね」

 

 そんな他愛のない話で、少しだけ空気が緩んだ気がした。

 明日の方針としては、まずオオイシの行動範囲を特定し、逃げ場のない場所で包囲して話し合いの席に着かせること。強引だが、今の彼女にはそれくらいしか手がないだろう。

 

 そう結論付けた、その時。控えめなノックの音が、ドアの方から聞こえた。

 こんな時間に誰だろうか。私は反射的に銃へ手を伸ばしつつ、先生と顔を見合わせた。先生は無言で顎をしゃくり、「出ろ」と合図を送ってくる。

 

 私はため息をつきながらドアへと向かい、鍵を開けた。

 

「はい、どちらさまっすか……えっ?」

 

 ドアの向こうに立っていた人物を見て、私は思わず声を裏返らせてしまった。

 美しい長髪に、仕立ての良い制服。そして背中には、その優雅な雰囲気には似つかわしくない無骨なスナイパーライフルを背負っている。

 見間違えるはずがない。今朝、テレビの特番でインタビューを受けていた、あの「天才卓球少女」だったからだ。

 

「……夜分遅くに失礼いたします。こちらは、思春期相談窓口でよろしいでしょうか」

 

「あ、はい。そうっすけど……いやいやいや!! ええっ!?」

 

 私は慌てて振り返り、ソファでくつろぐ先生を見た。先生もまた、少しだけ眉を上げてその少女を見ている。

 

「お前……今朝テレビに出てた、コイケとかいう選手か?」

 

「はい。トリニティ総合学園所属、コイケです。……お話させていただいても、よろしいでしょうか」

 

 彼女は深々とお辞儀をした。その所作は洗練されており、どこかピリついた緊張感を纏っている。

 私は慌てて彼女を事務所の中へと招き入れた。

 

 急ごしらえのパイプ椅子に座ったコイケさんは、差し出したお茶に口をつけることもなく、真剣な眼差しで切り出した。

 

「単刀直入に申し上げます。……オオイシちゃんのことで、相談に参りました」

 

 その名前が出た瞬間、事務所の空気が変わった。先生が弄んでいた麻雀牌をテーブルに置き、カツンという乾いた音が響く。

 

「……オオイシとは、昼間やり合ったばかりだ。お前、あいつとどういう関係だ」

 

「友人であり……かつてのライバルでした」

 

 コイケさんは膝の上で手を握りしめ、視線を落とした。

 

「私たちは昔、同じ卓球クラブで競い合っていました。実力は拮抗していたんです。でも……いつからか、私だけが結果を残すようになりました」

 

 彼女の語る言葉は、淡々としていながらも重かった。

 才能という残酷な差。あるいは環境の違い。キヴォトス大会への選抜、メディアへの露出。コイケさんが階段を駆け上がっていく一方で、オオイシは取り残されていったのだという。

 

「オオイシちゃんは……不幸な場所にいます」

 

 コイケさんは苦しげに顔を歪めた。

 

「彼女は決して弱くはありません。初心者の生徒からすれば、手も足も出ないほど『強すぎる』存在です。ですが……私たちのような世界大会レベルの選手から見れば、脅威とはなり得ない『弱すぎる』存在なのです」

 

 私は息を飲んだ。

 強すぎるがゆえに一般の生徒とは馴染めず、弱すぎるがゆえにトップ層には届かない。

 その中途半端な立ち位置(リンボ)こそが、彼女のプライドを最も傷つけ、居場所を奪っているのだとしたら。

 

 昼間、彼女が私に向けた苛立ちの正体が、少しだけ理解できた気がした。あれは単なる暴力衝動ではない。行き場のない閉塞感への悲鳴だったのだ。

 

「あの子の暴力行為は、自分の存在証明なんです。自分は強いのだと、誰かに認めてほしいという……悲しい足掻きなんです」

 

 コイケさんは顔を上げ、潤んだ瞳で私たちを、いや、先生を真っ直ぐに見つめた。

 

「私がもっと早く、あの子に向き合うべきでした。でも、怖かった。自分が進んでしまった場所から、あの子を見下ろすことになるのが」

 

「……で? 今更俺たちに何をしろって言うんだ」

 

 先生の言葉は冷たかった。だが、それは突き放すためではなく、覚悟を問う類のものだ。

 コイケさんは怯むことなく、はっきりと言い切った。

 

「明日、オオイシちゃんの元へ向かいます。私とあの子が話をする場に……お二人に立ち会っていただきたいのです」

 

「お嬢様の安全マージンとしてか?」

 

「いいえ。私が間違ったことをしたら、止めていただくために」

 

 その言葉に、私はハッとした。

 彼女は自分の言葉が、オオイシをさらに傷つけるかもしれないと理解している。それでも、直接会って決着をつけようとしているのだ。

 先生は短くなったタバコを灰皿に押し付けると、面倒くさそうに頭を掻いた。

 

「……おい、イチカ」

 

「はいっす」

 

「明日の予定は?」

 

「今のところ、空欄っすね」

 

「じゃあ決まりだ。──ただし、俺たちはあくまで『相談窓口』だ。お守り役じゃねぇぞ」

 

 先生の言葉に、コイケさんの表情がパッと明るくなった。

 

「ありがとうございます……!」

 

 彼女の安堵した顔を見ながら、私は明日の波乱を予感せずにはいられなかった。あんなに荒れていたオオイシが、素直に話し合いに応じるとは思えない。

 ……それでも、このすれ違いには決着が必要だった。

 

「明日に備えて、今日はもう解散だ。お嬢様もさっさと寮に帰って寝ろ。肌荒れすんぞ」

 

「ふふ、肝に銘じます」

 

 コイケさんは立ち上がり、再び丁寧にお辞儀をして事務所を去っていった。

 

 嵐の前の静けさが、再び事務所に戻ってくる。

 私はふと、コイケさんが座っていたパイプ椅子を見つめた。

 

 才能に恵まれた者と、そうでない者。その間に横たわる溝は、正義実現委員会の武力だけで埋められるものなのだろうか。

 答えの出ない問いを抱えながら、私は明日の準備のために自分の装備を確認し始めた。

 

 ■■■

 

 指定された場所は、トリニティ自治区の端にある、今は使われていない旧運動公園だった。

 錆びついたフェンスに、雑草の生い茂ったグラウンド。放課後のチャイムはずっと遠くに聞こえる。

 

 隣を歩くコイケさんの足取りは重い。彼女はスナイパーライフルのケースを抱きしめるようにして、周囲を怯えながら見回していた。

 

「……大丈夫っすよ、コイケさん。私たちがついてるっすから」

 

 私は努めて明るい声でそう言った。

 

「はい……ありがとうございます、イチカさん。それに、先生? も……」

 

 コイケさんが視線を向けた先、佐倉先生はダルそうにあくびを噛み殺しながら、スーツのポケットに手を突っ込んで歩いていた。

 

「あー……めんどくせぇ。さっさと終わらせて帰ろうぜ」

 

「あの……こちらの方は本当に先生なのですか……?」

 

「シャーレの先生ではないんすけどね……あの……気にしないでほしいっす」

 

 不思議な視線がコイケさんから先生に向かって放たれていたので、先生に近づいて耳打ちをする。

 

「もう! 依頼人の前でそういうこと言わないでくださいってば」

 

「事実だろ。……おい、来たぞ」

 

 先生の声色が、不意に低くなった。

 その変化にハッとして前を見ると、グラウンドの中央、古びた水飲み場の近くに人影があった。

 

 トリニティの制服を着崩した少女。ボサボサの髪に、血走った目。

 

 手にはアサルトライフルが握られている。オオイシさんだ。

 

 コイケさんが息を呑み、一歩前に出る。

 

「オオイシちゃん……!」

 

 その呼びかけに、オオイシさんがゆっくりと顔を上げた。

 

「……来たんだ。コイケ」

 

 乾いた声だった。

 その視線が、私と佐倉先生に向けられる。

 

「へぇ……やっぱり、相談窓口なんて連れてきたんだ。私と一対一じゃ、話もできないってこと?」

 

「違うの! 私はただ、ちゃんと話がしたくて……!」

 

 コイケさんが叫ぶ。

 

「最近のオオイシちゃん、おかしいよ。学園で暴れたり、急にいなくなったり……卓球だって、もうずっと練習に来てないじゃない」

 

「……練習?」

 

 オオイシさんが鼻で笑った。その笑顔は、どこか泣き顔のように歪んでいた。

 

「練習して、どうなるの? あんたみたいになれるの?」

 

「え……?」

 

「あんたはいいよね、コイケ。天才だもんね。キヴォトス大会? すごいね。私なんかじゃ逆立ちしても勝てないもんね」

 

「そんなことない! オオイシちゃんだって、強いじゃない!」

 

 コイケさんの必死なフォローが、逆に彼女の逆鱗に触れたのがわかった。

 オオイシさんがアサルトライフルを構えるが銃口が震えている。その表情は怒りに歪んでいた。

 

「その『強い』って何!? 初心者相手に無双すること!? それとも、あんたみたいな本物に手も足も出ずに負ける、引き立て役としての強さ!?」

 

「オオイシちゃん……!」

 

「中途半端なんだよ……私は! 一番にもなれない、かといって弱くもない! どうしようもない中間の凡人なんだよ! あんたに私の気持ちなんて、わかるわけないだろッ!!」

 

 乾いた銃声が響き、私たちの足元の地面が弾け飛んだ。

 

「きゃあっ!?」

 

「コイケさん、下がって!」

 

 私は即座に自身の銃を展開し、コイケさんを庇うように前に出る。

 オオイシさんの目は完全に据わっていた。話し合いで解決できる段階を、とっくに超えている。

 

「チッ、まーたヒステリーかよ。一番厄介なタイプだ」

 

 先生が舌打ちしながら、私の背後に素早く移動する。

 

「先生! 文句言ってないで援護してくださいっす!」

 

「おいイチカ、正面! あいつ、撃ち合いに来たんじゃないぞ!」

 

 先生の鋭い警告。

 見ると、オオイシさんは銃を乱射しながら、遮蔽物に隠れるどころか、一直線にこちらへ突っ込んできていた。

 

「煙幕か……!」

 

 オオイシさんが腰から円筒形のグレネードを引き抜き、私たちの足元へ投げつける。

 視界が真っ白な煙に覆われた。

 

「げほっ、けほっ! コイケさん!?」

 

「きゃあああ! 離して、オオイシちゃん!」

 

 煙の向こうで、コイケさんの悲鳴が上がる。

 

「うるさい! 来るんだよ、あんたは私と来るの!」

 

「待てッ!」

 

 私は煙を振り払いながら、音のする方へ飛び出した。

 しかし、煙が晴れた時には、グラウンドの反対側に停めてあった黒いバンのスライドドアが閉まるところだった。

 

「……嘘……っすよね……」

 

 エンジン音が唸りを上げ、バンが急発進する。

 私は慌てて銃を構えるが、コイケさんが乗っている以上、タイヤを狙うわけにもいかない。

 

「逃げられたか。……手回しがいいな。協力者がいる」

 

 煙の中から出てきた先生が、走り去るバンを見つめて言った。スーツには煤がついているが、表情は変わらず冷静だ。

 

「先生! ぼーっとしてないで追いかけるっすよ!」

 

「あのアホ、感情任せに見えて逃走ルートは確保してやがったな。……ここからは労働時間外です……。なんつってな」

 

「言ってる場合っすか! コイケさんが連れて行かれたんすよ!?」

 

「わかってる。……だが、やみくもに走っても追いつけねぇよ。見失った」

 

 先生の言う通り、バンの姿はすでに角を曲がり、見えなくなっていた。私は悔しさに唇を噛みしめる。

 相談者を守るどころか、目の前でさらわれてしまった。

 

 オオイシさんのあの目。ただの嫉妬じゃない。もっと深い、ドロドロとした暗い感情。

 

「……どうするんすか、これ」

 

「探すしかねぇだろ。キヴォトス中ひっくり返してでもな」

 

 先生は煙草を取り出し、口に咥えた。

 

「だが、トリニティの自警団やおまえらのネットワークじゃ、学園外へ逃げられたら手が出せねぇ」

 

「う……痛いところを……」

 

「餅は餅屋だ。……行くぞ、イチカ」

 

「どこへっすか?」

 

 先生は火をつけて、紫煙を吐き出しながら言った。

 

「ミレニアムだ。あそこのオタクどもなら、ネズミ一匹の居場所だって特定できる」

 

 ■■■

 

 トリニティからミレニアムサイエンススクールへと向かう道中、私はハンドルを握りながら、助手席の先生を横目で伺った。

 彼は窓枠に肘をつき、気だるげに流れる景色を眺めている。

 

「……先生、一応言っておきますけど、他校についても態度は改めてくださいね」

 

「あ? 俺がいつ他校の生徒に喧嘩売ったよ」

 

「喧嘩は売ってないかもしれないっすけど、その……存在が威圧的というか」

 

 先生は鼻を鳴らすだけで、返事をしなかった。

 

 ミレニアムの自治区に入り、車を降りてエンジニア部の部室へ向かうためキャンパスを歩く。

 案の定、すれ違う生徒たちの視線が痛いほど突き刺さってきた。

 

「あれ……あのスーツの男」

 

「噂の暴力教師じゃない?」

 

「うわ、本当だ。トリニティの正実と一緒にいるけど、クビにされたんじゃないの?」

 

「なんでまだ先生みたいな格好してるの? 気味が悪い」

 

 ひそひそ話のボリュームではない。明らかに聞こえるように吐き捨てられる言葉の数々。

 キヴォトスにおいて「先生」という存在は本来、尊敬や保護の対象だ。だが、佐倉正義という男は、その聖域を自らの暴力で踏みにじった「異物」として認知されている。

 

 私は居心地の悪さに身を縮こまらせたが、当の本人は欠伸を噛み殺しながら、ポケットの煙草に手を伸ばそうとしていた。

 

「ここは禁煙っすよ!」

 

「チッ……堅苦しい学園だな」

 

 先生は周囲の悪意など、道端の石ころ程度にしか思っていないようだ。

 あるいは、慣れきってしまっているのか。

 

 エンジニア部の部室ドアをノックし、中へ入る。

 そこには、電子機器の山に埋もれるようにして作業をする白石ウタハさんの姿があった。

 

「やあ、仲正イチカ。トリニティからの緊急依頼とは珍しいね」

 

 ウタハさんは手を止め、椅子をくるりと回してこちらに向き直った。その視線が、私の隣に立つ先生へとスライドする。

 瞬時に、ウタハさんの瞳から温度が消えた。

 

「……なるほど。噂の『元・先生』も同伴か」

 

「あはは……気にしないでほしいっす……」

 

「初めまして、とは言わないでおこうか。君の悪評は、論理的思考を好む我々エンジニア部でも十分に解析済みだからね」

 

 ウタハさんは冷淡に言い放つと、再び私の方へ向き直った。

 あからさまな無視。拒絶。

 それでも先生は眉一つ動かさず、用件を口にした。

 

「黒いバンだ……車種はキャラボンかローエースのどっちか、ナンバーは不明。トリニティから逃走し、幹線道路へ消えた。そいつを追えるオモチャが欲しい」

 

「……君に話しているわけじゃない」

 

 ウタハさんが鋭く遮る。空気が凍り付いた。

 彼女は眼鏡の位置を直しながら、淡々と、しかし嫌悪を隠そうともせずに続けた。

 

「通常ならヴァルキューレに任せるべき案件だけど、緊急性が高い。それに、トリニティ内部の事情となれば大っぴらにもできないか」

 

 ウタハさんは手元の端末を操作し、ロッカーから無骨なアンテナがついたタブレットのような端末を取り出した。

 

「これは広域交通監視システムに介入し、特定の特徴を持つ車両をリアルタイムで索敵する追跡機だ。タイヤの摩耗痕やエンジンの排熱パターンから、対象のバンを割り出せる」

 

「すごい……! 助かるっす、ウタハさん!」

 

 私が受け取ろうと手を伸ばすと、ウタハさんは釘を刺すように私の目を見た。

 

「勘違いしないでくれ。これは、君が生徒を守るためのものだ。……隣にいる猛獣が、新たな被害を生むための牙ではない」

 

 その言葉に、私は胸の奥がざらつくのを感じた。

 

 先ほどのオオイシさんとの対峙。

 先生は発砲こそしていない。だが、あの時、彼はオオイシさんの心を「説得」しようとはしていなかった。

 ただ、物理的に制圧し、障害として排除するための手順を踏んでいるように見えた。

 

 ──目的のためなら、生徒を壊すことに躊躇がない。

 

 そんな疑念が脳裏をよぎる。

 この人は、本当に「解決」しようとしているのだろうか。それとも、ただ「処理」しようとしているだけなのか。

 

「おい、イチカ。行くぞ」

 

 先生の声に、私はハッと我に返った。

 彼はすでに出口へと向かっている。ウタハさんへの礼も、嫌味への反論もなく、ただ任務の遂行だけを見据えて。

 

「……はい、今行くっす!」

 

 私はウタハさんに頭を下げ、急いで先生の背中を追った。

 疑念はある。不安もある。

 けれど今は、連れ去られたコイケさんと、暴走するオオイシさんを見つけ出すことが最優先だ。

 

 私は端末を抱え、早足で廊下を歩く先生の隣に並び、車へと向かった。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 乾いた音が、埃っぽい廃倉庫の空気を震わせる。

 

 古びた卓球台。ネットは少し弛んでいる。

 私は一人、壁に向かってボールを打っていた。

 かつては、この音が好きだった。リズムよく響く打球音が、私の心臓の音と同じくらい心地よかった時期が、確かにあったのだ。

 

「ん……ここは……」

 

 コンクリートの床に転がしておいたコイケが、身じろぎをして目を覚ます。

 お嬢様学校であるトリニティの中でも、一際育ちの良さを感じさせる彼女には似合わない場所だ。

 

「目が覚めたか、コイケ」

 

 私はラケットを握ったまま、彼女を見下ろす。

 コイケは状況が飲み込めないようだったが、私の手にあるアサルトライフルと、目の前の卓球台を見て、青ざめた表情で息を呑んだ。

 

「オオイシちゃん……これ、どういうつもりですの?」

 

「どういうもこういうもないよ」

 

 私は足元に転がっていたもう一つのラケットを、彼女の胸元へ放り投げた。

 コイケは慌ててそれを受け取る。

 

「やるんだよ。私と」

 

「……こんな場所で?」

 

「うるさい!」

 

 怒鳴り声が倉庫に反響する。コイケがビクリと肩を震わせた。

 そうだ。私は今、あいつらにとっては「問題児」でしかない。

 

 昔は違った。

 小学生の頃。私とコイケはダブルスを組んで、敵なしだった。地区大会優勝。県大会上位入賞。

『ゴールデンコンビ』なんて呼ばれて、大人たちも私たちを持て囃した。

 あの頃の私は、自分が世界の中心にいると信じて疑わなかった。努力すれば報われる。強くなれる。いつかキヴォトスの頂点に立てると。

 

 でも、中学、高校と上がるにつれて、現実は残酷な選別を始めた。

 

『オオイシ、フォームは悪くない。だが……伸びしろがないな』

 

 コーチは冷ややかな目で私に告げた。基礎はできている。教えることはもうない。

 それは褒め言葉なんかじゃなかった。「これ以上強くならない」という死刑宣告だった。

 

 一方で、コイケはどうだ。

 彼女の打球は年々鋭さを増し、予測不可能な回転を生み出し、見る者を魅了していく。

 プロの選手が視察に来た時、彼らは私には目もくれず、コイケだけに名刺を渡した。

 

『君は強いね。隣の子……は、まあ、練習相手にはちょうどいいかな』

 

 練習相手。

 初心者相手なら無双できる。けれど、本物には手も足も出ない。

 中途半端な実力。中途半端な才能。

 それが一番、惨めなんだよ。

 

「立って。構えて」

 

 私はアサルトライフルの銃口をコイケに向けたまま、卓球台の反対側に立つ。

 

「オオイシちゃん、やめましょう。話し合えば……」

 

「話し合いなんていらない。お前はいつもそうだ。そうやって余裕ぶって、私を見下して……!」

 

 引き金に指をかける。

 安全装置は外してある。

 

「サーブ権はやるよ。……本気で打ってこい」

 

 私の殺気に、コイケの表情が強張る。

 彼女はゆっくりと立ち上がりラケットを握りしめた。その手は震えているが、構えに入った瞬間、空気が変わるのを肌で感じた。

 才能ある者の、特有の威圧感。

 それが今はどうしようもなく……どうしようもなく! 憎い!! 

 

「本気で打って。手加減したら、ぶっ殺す」

 

 脅しではない。 もしここでコイケが少しでも「わざと」ミスをすれば、自分の中の何かが完全に切れて、引き金を引いてしまうという確信があった。

 コイケがおずおずと構えたので、私は銃を置いて無言でサーブを放った。

 

 ラリーが始まる。小さな白い球がネットを行き来する。ただそれだけの行為なのに、なんでだ? 私の視界はすぐに滲み始める。

 どんなに鋭いドライブを打っても、コイケは涼しい顔で──本人は必死なのだろうが──的確なコースへ返してくる。 私が渾身の力で振り抜いた球が、まるで吸い込まれるように、コイケのラケットに当たり、そして返ってくる。

 

(──フォームが硬いな、オオイシは)

 

 脳裏に、かつてのコーチの声がよぎる。

 一球、返されるたびに、古傷が開くようだ。

 

(──県大会レベルなら通用するけど、そこ止まりだね)

 

 プロ選手が、講習会で私に向けた、興味のなさそうな視線。

 唇を噛み切りそうなほど食いしばって足を動かす。 右へ、左へ。 汗が吹き出し、呼吸が荒くなる。 けれどコイケは、最小限の動きで全てを拾う。

 

(──強すぎますよオオイシ先輩! あたしたちじゃ相手になりません!)

 

 後輩たちの無邪気な称賛。 それが一番の猛毒だった。 何も知らないくせに。上がどれだけ高い壁か、見ようともしないくせに。

 

「はぁっ、はぁっ……!」

 

 静かな廃倉庫では、私の息()()()荒くなっていく。 コイケの返球は精密機械のように正確で、残酷なほど安定的だった。その球質には、私が喉から手が出るほど欲しても届かない「才能」の重みが詰まっている。

 勝てない。 ラリーを続ければ続けるほど、実力差が浮き彫りになる。わかっている。そんなことは何年も前からわかっていた。

 

 それでもラケットを振るのをやめられない。怒りなのか、悲しみなのか、もう自分でももう判別がつかない。わけもわからない涙が溢れ出し、視界を遮る。

 ボールが見えない。それでも身体が勝手に反応して、球を打ち返す。染みついた反復練習の成果。 凡人が積み重ねた、無駄な努力の結晶。

 

「う、あぁぁ……ッ!」

 

 嗚咽が漏れた。殺したいほど憎いのに、コイケの球は美しかった。その才能に憧れ、焦がれ、そして拒絶された自分の惨めさが、ラリーの回数だけ積み重なっていく。

 

 心はとっくに死んでいた。 ただ肉体だけが、休むことを許されず、絶望的なラリーを続けていた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 車を発進させ、しばらく走った後。ミレニアムから借り受けた不格好な探知機を膝に乗せ、私は助手席で画面を睨みつけていた。

 電子音が一定のリズムで鳴り響き、緑色の光点が地図上の座標を示している。

 

「……信号、捉えました。ここから南西、第4地区の廃棄倉庫街っす」

 

 私が告げると、ハンドルを握る先生は短く「あぁ」とだけ応え、タバコの煙を窓の隙間から吐き出した。

 車内には重苦しい空気が漂っている。

 私は画面上の光点を見つめながら、ふと口を開いた。

 

「オオイシさん……どうしてここまでしちゃったんすかね」

 

 それは私自身への問いかけでもあった。

 卓球が好きで、強くなりたくて。でも、上には上がいて、下からは突き上げられる。

 その「中間」の苦しみは、トリニティで多くの生徒を見てきた私にも、想像することしかできない。

 

「凡人が天才の背中を見失った時、取る道は二つだ」

 

 先生が気だるげに、けれど確信を持って言った。

 

「諦めて別の道を行くか、あるいは……ルールそのものを壊して、無理やり引きずり下ろすか」

 

「それが、暴力ってことっすか」

 

「手っ取り早いからな。だが、一番タチが悪いのは『自分が弱い』と認めたくないプライドだ。それが暴走の燃料になる」

 

 先生の言葉は冷徹だったけれど、どこか核心を突いている気がした。

 この人は、そうやって道を踏み外した生徒をたくさん見てきたのだろうか。

 ……いや、もしかしたら先生自身が、その「ルールを壊す側」にいたからこそ分かるのかもしれない。

 

 思えば私だってそうだ。器用貧乏で大体のことはできてしまう。でもそれ以上は……? 

 もし私に上昇志向があって、その現状を直視してしまったら? 

 その時、私は耐えられるのだろうか……。

 

「……到着予想時刻は15分後っす。安全運転でお願いしますよ」

 

 私がそう釘を刺した、その時。

 

「安全運転ね、了解」

 

 先生の声色が、一段階低くなった。

 タバコを携帯灰皿に押し込むと同時に、エンジンの回転数が跳ね上がる音が響く。

 

「え?」

 

「15分もかけてたら、中で何が起きてるかわからん。コイケってのが無事な保証はない」

 

「それはそうっすけど……ちょ、先生!?」

 

 言うが早いか、身体がシートに押し付けられた。

 加速Gに私の思考が一瞬置いていかれる。

 先生がアクセルを深く踏み込んだのだ。景色がすごい勢いで後ろへ流れていく。

 

「ちょ、ここ公道! 制限速度!! 安! 全! 運! 転!!!」

 

「あぁ? こんなのほぼ緊急車両だろ。スマホからサイレンの音源流しとけ」

 

「バカ言わないでくださいっす!!」

 

 私の抗議なんて聞こえていないかのように、先生は無表情でギアを変えていく。

 そうしていると目の前に直角の交差点が迫ってくる。

 速度計の針は、曲がれるスピードを明らかに超えていた。

 

「あ、あそこカーブ! ブレーキ! ブレーキ踏んでくださいっす!!」

 

「舌噛むなよ」

 

 先生はブレーキを踏むどころか、サイドブレーキに手をかけた。

 

 耳をつんざくようなスキール音と共に世界が横にスライドしていくと、焦げたゴムの臭いが車内に充満する。かなり臭い。

 車体はありえない角度で滑りながら、ガードレールすれすれを掠めていく。

 いわゆる、ドリフト走行だ。

 

「うぅぅぉぉぉぁああああっ!? 死ぬ死ぬ死ぬ!!」

 

 私は探知機を抱きしめながら、情けない悲鳴を上げるしかない。

 遠心力で窓ガラスに顔がへばりつきそうになりながら耐えていると、先生はいつの間にか携帯でユーロビートの音楽を流していた。

 

「前見てろ、酔うぞ」

 

「見れるわけないじゃないっすかぁ!! ああもう本当バカぁ!!」

 

 車体は巧みなハンドルさばきで体勢を立て直し、再びロケットのように加速する。

 先生の横顔は、相変わらず気だるげなままだった。

 この人、絶対に楽しんでる。生徒の安全とか微塵も考えてない。

 

「……ついたら絶対、ビンタしてやるっすからね……!」

 

 涙目で睨む私を乗せて、車は黒いタイヤ痕を残しながら、オオイシさんの待つ倉庫街へと爆走していった。

 

 ■■■

 

 私たちが廃倉庫に到着すると、その中から、乾いた音が反響していた。

 カァン、カァン、とリズミカルでありながら、どこかヒステリックな響き。

 私たちが踏み込むと、そこには異様な光景が広がっていた。

 

 埃っぽい床には、無数のピンポン玉が散乱している。

 その中心にある卓球台を挟んで、オオイシさんとコイケさんが向かい合っていた。

 

「あと一回! もう一回だッ! 本気出さなかったらぶっ殺すからな!!」

 

 オオイシさんの叫び声と共に、猛烈なスマッシュが放たれる。

 だが、コイケさんはそれを表情一つ変えずに打ち返した。

 球は吸い込まれるように、オオイシさんのラケットが届かないコースへと落ちる。

 

「……11対0。私の勝ちです」

 

 コイケさんの静かな声。

 オオイシさんは肩で息をしながら、ボロボロと汗を流していた。

 その目は血走り、ラケットを握る手は白くなるほど力が込められている。

 

「まだだ……まだ終わってない……!」

 

「いい加減にするっすよ、オオイシさん」

 

 私が声をかけると、オオイシさんはビクリと肩を震わせ、こちらを睨みつけた。

 先生は面倒くさそうに頭をかきながら、散らばったピンポン玉を革靴で軽く蹴っている。

 

「誘拐してまでやりたかったことが、卓球の特訓か? 熱心なこったな」

 

「うるさい……! 部外者は黙ってろ!」

 

「コイケさんは全力で相手をした。その結果がこれっす」

 

 私は床に転がるスコアボードを見た。

 圧倒的な点差。一度として、オオイシさんは勝てていないようだった。

 

「お前が勝てないのは、才能の差だ。即席でいくらやっても埋まらない」

 

 先生が淡々と、残酷な事実を口にすると、オオイシさんの顔が歪む。

 

「だまれ……黙れ黙れ黙れッ!!」

 

「図星か」

 

「お前らに……お前らに何がわかるんだよッ!! 大人も……後輩も……みんな期待の目を向けてきて……どいつもこいつもクソだッ!!」

 

 その絶叫は、重く淀んだ倉庫の空気を震わせるほど悲痛なものだった。

 私はハッとして、オオイシさんを見る。

 昨晩、コイケさんが語っていた言葉が脳裏をよぎった。

 

『初心者が相手だと強すぎて練習にならず、トップ層には全く歯が立たない』

 

 オオイシさんは、ガタガタと震えながらラケットを床に投げ捨てる。

 そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、背負っていたアサルトライフルに手を伸ばす。

 

「勝てないなら……一生、あの背中を追うだけなら……」

 

 彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは理屈も倫理も超えた、純粋な感情の暴発だった。

 

「だったらもう……壊すしかないじゃんかよぉ!!」

 

 慟哭と共にオオイシさんは銃口をこちらに向け、引き金に指がかかる。

 

「ッ! 先生、下がるっす!」

 

 私は即座に自身の銃を構えて前に出ると、激しい銃声が廃倉庫の静寂を切り裂いた。

 

 マズルフラッシュが暗がりを焼き、鉛の弾丸が私たちの足元を削り取る。

 オオイシさんは泣き叫びながら、めちゃくちゃに引き金を引いていた。狙いなんて定まっていない。ただ感情のままに火力をばら撒いているだけだ。

 

「(……撃ち返すしかない、っすか?)」

 

 私は唇を噛んだ。

 私は正義実現委員会のメンバーだ。暴走した生徒を鎮圧することには慣れている。彼女の腕や足を狙撃して無力化することは造作もない。

 けれど、私は「相談窓口」だ。

 悩みを抱えて爆発した生徒を、ただの暴力で捻じ伏せてしまっていいのか。その迷いが、私の指を引き金から遠ざける。

 

 だが、迷っている時間はない。次の瞬間には流れ弾が私や、後ろの先生を──。

 

「チッ、うじうじしてんじゃねえぞ」

 

 不機嫌な舌打ちが聞こえたかと思うと、私の視界の横を黒い影が通り抜けた。

 

「せ、先生ッ!?」

 

 私は目を見開いた。

 私の背後にいるはずの先生が、あろうことかオオイシさんに向かって走り出していたのだ。

 

「どこまでバカなんすか! 戻ってくださいッ! 死ぬっすよ!?」

 

 先生は私たちのような頑丈な体を持っていない。

 かすり傷一つで致命傷になりかねないただの脆弱な人だ。

 それなのに、彼は銃弾の嵐の中へ、まるでコンビニに行くような気楽さで突っ込んでいく。

 

 乾いた破裂音が続き、先生のスーツの袖が弾け飛び、頬に赤い線が走る。

 それでも、彼は止まらない。

 驚くべきことに、彼は直撃コースの弾丸だけを、かく乱する動きで避けていた。半身をずらし、死角に走り込み、死の雨を紙一重ですり抜けていく。

 

「(あの人……見えてるんすか!? なんて動体視力……!)」

 

 オオイシさんも、生身の人間が突っ込んでくる異常事態に動揺したのか、銃口がぶれる。

 

「ひ、ひぃッ!? く、来るなッ!!」

 

「うるせぇんだよ、ガキ」

 

 先生までの距離、あと数メートル。

 先生は懐から何かを取り出すと、野球のピッチャーのようなフォームでそれを投げた。

 

「あぐッ!?」

 

 鈍く、重い音がオオイシさんの額で響いた。

 眉間のど真ん中。

 何か硬い物体がクリーンヒットし、オオイシさんは白目をむいて仰け反った。銃口が天井を向き、射撃が止まる。

 

「──今だッ!」

 

 その隙を、私は見逃さなかった。地面を蹴って一瞬で距離を詰める。

 未だ混乱の中にあるオオイシさんの手首を掴み、アサルトライフルをもぎ取ると同時に、身体を回転させて彼女の懐へ潜り込んだ。

 

「ちょっと痛いっすよ!」

 

 流れるような動作で足を払い、体重をかけて床へと押し倒す。

 受け身を取る暇も与えず、私はオオイシさんの腕を背中に回し、関節を極めて完全に動きを封じた。

 

「がっ……あ……」

 

 オオイシさんは短く呻いた後、力が抜けたようにぐったりとした。意識はあるが、戦意は完全に断ち切られたようだった。

 

「……確保、完了っす」

 

 私は荒い息を吐きながら、顔を上げた。

 視線の先には、額が赤くなっているオオイシさんと、そのすぐ近くでポケットを探っている先生の姿があった。

 

「……先生」

 

「あん? なんだよ」

 

「あん、じゃないっすよ! 何考えてるんすか! 死にたいんすか!?」

 

 私は思わず声を荒らげてしまった。

 先生の頬からは血が流れ、スーツはあちこち穴だらけだ。心臓が止まるかと思った。いくら悪態をつく人とは言え、窓口で命を落とされては私の寝覚めが悪くなってしまう。

 

「死なねぇよ、これくらいじゃ。いや死ぬか」

 

 先生は悪びれる様子もなくタバコを取り出して咥えるが、その手は震えていて汗もかいている。

 ライターを取り出し、火をつけながらオオイシさんの足元に落ちている「凶器」を顎でしゃくった。

 

「それより、俺の『武器』を回収しとけ」

 

 私は床に転がっている小さな物体を拾い上げた。

 ずっしりとした重みのある、直方体。

 オオイシさんの額に赤い跡を残したそれは──

 

「……『中』?」

 

 麻雀牌だった。

 しかも、ただの『中』。

 

「……これ、投げて当てたんすか?」

 

「手元にあったのがそれだけだ」

 

「……本当に、どうしようもないっす……」

 

 呆れ果てて、怒る気力も失せてしまった。

 この人は、たった一つの麻雀牌で、銃を持った生徒を黙らせたのだ。

 暴力でクビになった元教師。その悪評の意味を、私は少しだけ理解したような気がした。

 

「……ま、助かったのは事実っすけど」

 

 私は小さく呟いて、極めていたオオイシさんの腕を緩めた。

 彼女の目からは、再び涙が溢れ出そうとしていた。けれどそれは、さっきまでの破壊的な衝動ではなく、憑き物が落ちた後の、子供のような涙に見えた。

 

 床に組み伏せられたオオイシさんからふっと力が抜ける。

 怒りの炎は燃え尽き、残ったのはただ、どうしようもない惨めさと悲しみだけ。

 

「うあぁ……あぁぁぁ……」

 

 彼女は子供のように声を上げ、その場に突っ伏して大泣きし始めた。

 私が拘束を解いて一歩下がると、コイケさんが駆け寄り、埃だらけのオオイシさんを力いっぱい抱きしめる。

 

「……ッ、うぅ……!」

 

 コイケさんもまた、涙を流しながら、震えるオオイシさんの背中を何度も何度もさすっていた。

 冷え切った倉庫の中で、二人の泣き声だけが静かに響き渡った。

 

 ■■■

 

「……本当に、ご迷惑をおかけしました」

 

 事務所の入り口で、オオイシさんが深々と頭を下げている。

 その横では、コイケさんも同じように頭を下げていた。

 

「これからは、ちゃんと話し合うっすよ。暴力で解決しようとするのは禁止っす」

 

 私がそう言うと、二人は顔を見合わせて、少しだけ照れくさそうに、でも憑き物が落ちたような顔で笑った。

 

「はい。……私、もう一度最初から頑張ってみます。コイケに勝てる日が来るまで、何度でも」

 

「ふふっ。受けて立つよ。……でも、たまにはダブルスも組んであげてもいいかな」

 

 二人の背中には、まだ見えない壁があるのかもしれない。

「才能」という残酷な格差は、友情や努力だけで埋まるほど甘いものではないだろう。

 これからもオオイシさんは苦しみ、コイケさんは孤独を感じるかもしれない。

 けれど、今の二人ならきっと大丈夫だ。

 壊れる前に、こうして隣に立てる相手がいるのだから。

 

「気をつけて帰るっすよ~」

 

 二人がドアノブに手をかけた、その時だった。

 

「おい、オオイシ」

 

 ソファでふんぞり返っていた先生が、低い声で呼び止める。

 先生はけだるげに立ち上がると、オオイシさんのカバンから無造作にはみ出していた一枚のチラシを指先で摘まみ上げた。

 

「あ……」

 

 オオイシさんの顔が強張っている。

 私はデスクの上で、ウタハさんから借りた追跡装置のコードをまとめながら、その様子を横目で見ていた。

 また何か意地悪でも言うつもりだろうか。

 

 先生の手にあるチラシは、黒地に毒々しい赤文字が踊る、いかにも怪しいデザインだった。

 遠目にはよく見えないが、サプリメントか何かの広告だろうか? 

 

「……これ、使ったのか」

 

 先生の声は、いつになく真剣な響きを帯びていた。

 オオイシさんは青ざめた顔で、激しく首を横に振る。

 

「つ、使ってません……! 誰でも強くなれるって……渡されて……持ってはいましたけど……怖くて……!」

 

「…………そうか」

 

 先生の表情が、わずかに緩んだように見えた。

 それは安堵のような、あるいはもっと深い感情のような。

 

「ならいい。こいつは俺が処分しておく」

 

 先生はチラシをくしゃりと丸めると、そのまま自分のスーツのポケットにねじ込んだ。

 

「二度と関わるな。……行け」

 

「は、はい……! 失礼しました!」

 

 オオイシさんは逃げるように、コイケさんに手を引かれて事務所を出て行った。

 バタン、とドアが閉まり、静寂が戻る。私はまとめたコードを箱にしまいながら、先生に声をかけた。

 

「何だったんすか、今の」

 

「なんでもねぇ」

 

 先生は短くそう答えると、またソファに身を沈めた。特別気になるものでもなかったので、私は深く追求しなかった。

 きっと、教育上よろしくない裏サイトの広告か何かだったのだろう。

 先生が没収するくらいなのだから、よほど下品なものだったに違いない。

 

 その時の私は知らなかった。

 そのポケットの中にある紙切れが、キヴォトスを蝕むさらに深い闇──『強化薬品』への入り口だったことを。

 

「あー、疲れたっすー……」

 

 私はソファにドカッと腰を下ろし、スマホを取り出す。慣れた手つきで麻雀アプリを起動した。

 先生も自分のデスクに戻ると、タバコを取り出して火をつける。紫煙がゆらりと天井へ昇っていく。本来なら「臭い」と文句を言うところだけど、今日くらいは多めに見てもいいか。

 

「……先生、この配牌どうっすか?」

 

 私はスマホの画面を先生に向ける。

 

「あぁ? ……悪くねぇな。三色狙えんだろ」

 

「へぇ、なるほど……」

 

 静かな事務所に、私のタップ音と、先生が灰皿に灰を落とす音だけが響く。なんだかんだあったけど、最悪の結末は回避できた。窓口業務としては、及第点と言ってもいいんじゃないだろうか。

 そんな風に、私が安堵の息をついていた、その時。無機質なバイブレーションの音がデスクの上で響いた。先生のスマホだ。

 

「……チッ、誰だ」

 

 先生は紫煙を吐き出しながら、ダルそうにスマホを手に取る。画面を見た瞬間、先生の眉間のシワが一層深くなった気がした。耳に当てるのが面倒だったのか先生はそのまま通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えてデスクに放り投げた。

 

『……もしもし?』

 

「あー、なんだ」

 

 先生のぞんざいな応答。スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、冷ややかで、けれど極めて礼儀正しい、聞き覚えのある声だった。

 

『佐倉さん。お疲れ様です、ハスミです』

 

 ハスミ先輩だ。私は思わず背筋を伸ばす。先生は気にした様子もなく、タバコを吹かしている。

 

「どうした、仕事なら終わったぞ」

 

『ええ、報告は受けています。窓口としてのお仕事、ご苦労様でした』

 

「なら切るぞ」

 

『ですが──その前に一つ、確認させていただきたいことがありまして』

 

 ハスミ先輩の声のトーンが一度下がって、背筋に冷たいものが走る。 なんだろう、この嫌な予感。

 

『先ほど、トリニティ周辺の交通監視システムから報告が上がってきまして』

 

「……あ?」

 

『当相談窓口所有の車両が、市街地で猛スピードのドリフト走行を行っていたという目撃情報と、タイヤ痕の証拠写真が届いているのですが』

 

 その瞬間、事務所の空気が凍りついた。

 

『これは一体、どういうことでしょうか? ……イチカ? そこにいますね?』

 

 スピーカー越しでも分かる、ハスミ先輩の“笑顔の圧”。私はスマホを持つ手が震え、先生はタバコを吸う動きをピタリと止めた。

 

「「あ……」」

 

 私と先生の声が、見事にハモった。

 





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