【完結】仲正イチカは悪い大人についていく 作:曇りのち晴れ男
▼注意事項▼
今回のおまけは31000文字ございます。
本小説本編においては二話に分けて投稿する量ですので、読む場合は休憩をはさみながら読むことを推奨します。
文字を見すぎて体調が悪くなったら、休んでくださいね。
▼前書き▼
お久しぶりです。曇りのち晴れ男です。
おまけ本編を邪魔したくないので短く、簡潔に伝えます。
2026年の11月7日に、イチカオンリー即売会『貴女の正義へ 心からの祝福を』へサークル参加させていただくことになりました。
製本する範囲は本編『第一話』~『最終話』の範囲。いくつかの挿絵を挟み、小説本として出させていただきます。
無論、ネットでも無料で読める文章ですが、『本として手元に置いておきたい!』『挿絵が見たい!』という人がいれば! 当日、ぜひ足を運んでください。
今一度、この小説を応援してくださった方々に多大な感謝を申し上げます。
――曇りのち晴れ男
エデン条約の調印式、そしてそれに伴うあの未曾有の大混乱から、しばらくの時間が経過していた。
トリニティ総合学園にもようやく、心から安堵できるような、本当の意味での平穏な日常が戻ってきている。
私、仲正イチカは、その激動の事後処理と警備任務を終え、正義実現委員会から特別に付与された長期休暇を満喫していた。
……とはいえ。
根が貧乏性というか、働き詰めだった反動か、何もない休日というのはどうにも落ち着かない。最初の数日こそ泥のように眠ったものの、部屋でダラダラと過ごすのにもすぐに飽きてしまった。
結局、休暇の最終日を待たずに私は学園へと足を向けてしまったのだ。
向かう先は、もちろん正実の本部ではない。
思春期相談窓口。
私と、あの不器用で口が悪い、元・シャーレの「先生」の居場所だ。
「(先生、ちゃんと仕事してるっすかね……。またウタハさんと変な改造雀卓いじって遊んでるんじゃないっすか?)」
カノンの残党狩りや事務処理をすべて押し付けて休んでしまった手前、少しだけ申し訳ない気持ちもある。けれど、あの人のことだ。きっと「いねぇ方が静かで助かる」とか悪態をつきながら、適当にサボっているに違いない。
そんなことを考えながら、私は慣れ親しんだ事務所のドアの前に立った。
「おはようございまーす。休暇明けの私が、元気な顔を見せに来たっすよぉ~」
わざとらしく明るい声を出しながら、私はドアノブを回して扉を開け放った。
その瞬間。
「……ゲホッ!? ゴホッ、ゴホッ!?」
視界が、真っ白に染まった。
いや、違う。白いんじゃない。濁った灰色の、分厚い霧のようなものが、事務所の床から天井までを隙間なく埋め尽くしていたのだ。
「な、なんすかこれ!? 敵襲っすか!? それとも火事……!?」
私は咄嗟に口元を袖で覆い、腰の銃に手を伸ばした。スモークグレネードでも投げ込まれたのかと思うほどの、凄まじい煙の量。
だが、その煙から漂ってくるのは、硝煙の匂いでも、物が燃える焦げ臭さでもなかった。
「くっさ!!! え、くっさい!!! ヤニ臭っ!!!」
むせ返るような、超高濃度のタバコの匂い。
換気扇が「ブォォォォン」と今にも壊れそうな悲鳴を上げてフル稼働しているが、まったく処理が追いついていない。
私は目を細め、涙目になりながら煙の奥を凝視した。
「ゴホッ……誰かいるんすか! 先生!?」
「……おぉ、イチカか。随分と早いお帰りだな」
煙の向こう側、いつものソファのあたりから、ひどく掠れた、それでいてどこか得意げな低い声が聞こえてきた。
そこには、見慣れたボロボロのスーツ姿の男──佐倉先生が座っていた。
だが、その顔の下半分を見て、私は自分の目を疑った。
「な、何があったんすか!? というか、口に咥えてるそれ、何すか!?」
先生の口には、リコーダーの吹き口を異様に太く、そして無骨にしたような謎の金属製アタッチメントが咥えられていた。
そして、そのアタッチメントの先端からは、放射状に『8本』のタバコが同時に刺さり、赤い火種を一斉に燻らせていたのだ。
先生は私の悲鳴など意に介さず、ズズズッと肺活量の限界まで煙を吸い込み、そして、ぷはぁーっ、と公害レベルの煙を吐き出した。
「見ろよこれ。『タバコエンジン』だ」
「え、先生って本当にくそバカっすね」
私は一切の躊躇なく、心からの罵倒を口にした。
「大の大人が何やってるんすか! ここは相談窓口っすよ!? 思春期の悩める生徒が来る神聖な場所で、8気筒でヤニを燃やすな!!」
「うるせぇ。お前がいねぇ間、平和すぎて死にそうだったんだよ。麻雀のメンツも足りねぇしな」
「だからってこんなバカ道具を買う理由にはならないっす! だいたい、こんなものよく見つけてきましたね!?」
文句を言いながら事務所の中に踏み入った私の足先が、何か柔らかいものにぶつかった。
「きゃっ!?」
思わず足元を見ると、そこには。
「……く、くさい……」
白衣を着たミレニアムの天才エンジニア、ウタハさんが、床に突っ伏してピクピクと痙攣していた。
「ウタハさぁぁぁん!!?」
私は絶叫した。
「ちょ、ちょっと! 息してるっすか!? しっかりしてください!!」
「……換気効率の計算を……誤った……。排気量は……予想以上に……ぐえぇ」
どうやら副流煙の暴力に耐えきれずダウンしているらしい。エンジニアとしての探究心が、生存本能に勝ってしまった末路だ。
「先生! 早く窓開けてください!! ウタハさんが死んじゃうっすよ!!」
「あぁ? 大袈裟な。これくらい、トラックの排ガスに比べたらマシだろ」
「密室って知ってるっすか!? 劇毒っす!!」
私は慌てて窓という窓を全開にし、ドアも開けっ放しにして、手近にあった書類の束をうちわ代わりにして煙を外へと追い出した。
秋の冷たい風が流れ込んで、ようやく事務所の中の視界がクリアになっていく。
床でうめいているウタハさんを引っ張り起こし、ソファに寝かせる。先生はといえば、まだ名残惜しそうにタバコエンジンを咥えようとしていたので、私は問答無用でそれをひったくり、給湯室にあった水の入ったバケツにダンクシュート。
ジュワッ、という情けない音がして、狂気のエンジンが沈黙する。
「ああっ!? 俺のV8が! まだリッター3キロは走れたのに!」
「意味わかんない例えしないでくださいっす! 没収ゥ!!」
私はバケツを睨みつけ、それから先生に向き直って、大きくため息をついた。
「……はぁ。せっかくの休暇明けで、少しは感動の再会になるかと思った私が馬鹿だったっす。先生は相変わらず、底なしのバカっすね」
「おいおい、勝手に期待して勝手に失望すんな。俺はいつも通り、平穏に過ごしてただろ」
「どこが平穏なんすか。環境破壊の中心地だったっすよ」
「環境破壊は気持ちいぜ!!」
「腰にマジ蹴りするっすね」
「ごめん、やめて」
文句を言いながらも、私の口角はどうしても緩んでしまう。
エデン条約の裏側で、血を流して戦ったあのヒリつくような日々。
カノンという巨悪に立ち向かい、生徒を守るために命を削ったあの瞬間。
それらがまるで嘘だったかのように、この事務所には、くだらなくて、どうしようもない「日常」が転がっている。
「……ま、いっか」
私は腕章をつけ直し、制服の襟を正した。
「今日からまた、よろしくお願いするっすよ。先生」
「あぁ。……とりあえず、換気が終わったら麻雀だ。ウタハを起こせ」
「仕事ぉ!!」
私の休暇明けの初日は、こうして、いつものやかましい怒号とともに幕を開けたのだった。
■■■
換気扇が悲鳴を上げるほどのスモーク騒動から小一時間。
ようやく事務所の空気が本来の成分を取り戻し、私たちはいつもの定位置に落ち着いていた。
先生はソファに深く腰掛けてスポーツ新聞を広げ、ウタハさんは相変わらず『ゲーミング全自動雀卓・改』のメンテナンスに勤しんでいる。
……エンジニア部というのは暇なのだろうか。
私はデスクに肘をつき、スマートフォンをスクロールしながら、とある通販サイトの画面に釘付けになっていた。
「そういえば先生、これ見てくださいよ」
私はスマホの画面を先生の顔の前に突き出す。新聞から目を離した先生は、怪訝そうに眉をひそめて画面を覗き込んだ。
「うわ、なんだこれ。ガラスの破片か?」
「透明な麻雀牌っすよ」
私が得意げに言うと、先生はさらに顔をしかめ始める。
「全部の牌が透明なわけじゃなく、全体の8割くらいが透明なアクリル素材でできてるんす。つまり、相手の手牌がほとんど透けて見えるってことっすね。誰が何を待っているのか、通常とはまた違った高度な心理戦が生まれるみたいっすよ。面白そうじゃないっすか? 買ってみます?」
「……ただでさえお前の引きがおかしいのに、これ以上変なルールを追加してどうする」
「ふふっ。ビビってるんすか、先生。私の勝ち分、『パフェ4人前』……まだ消化できてないっすもんね」
「お前が喰わないから、な。ず~っと債権握られてるの気分悪いから、早くパフェ食えや。……だが、わざわざ通販で買うようなモンでもねぇだろ」
「む?」
私たちのやり取りを聞きつけて、雀卓の裏からウタハさんがひょっこりと顔を出した。その手にはんだごてを握ったまま、分厚い眼鏡をキラリと光らせる。
「それくらいなら私が作るぞ」
「……遠慮しとくっす」
思わず即答した。
「ウタハさんが作ると、牌が勝手に七色に光り出したり、リーチをかけたら牌が空中に浮遊したりしそうなんで……。純粋な心理戦じゃなくて、物理的な視覚攻撃になりそうっすから」
「む、心外な」
ウタハさんは不満げに唇を尖らせる。
「私は常にユーザーの体験向上を第一に考えている。透明なアクリル樹脂に微細なLEDを埋め込み、打牌の強さに応じて発光パターンが変化するシステムなど、極めて論理的かつエンターテインメント性に溢れていると思うのだが」
「ほら、やっぱり光るじゃないっすか! そういうのはカジノとかでやってください!」
「チッ、どいつもこいつもロマンがねぇな。……まぁいい、とりあえず普通の牌で一局やるぞ~。ウタハ、卓の調子はどうだ」
「完璧だ。洗牌速度は前回の2割増し、静音性も確保した」
「騒音問題でちょっとだけ文句言われてたから助かるっすね」
「ただし、ハネマン以上をアガると内蔵スピーカーからファンファーレが鳴る仕様は据え置きだ」
「だからその機能いらねぇっつってんだろ……」
呆れ果てる先生をよそに、私たちは結局、いつものように雀卓を囲むことになった。
「ところで先生、今日は河から拾わせないので覚悟しておくっす」
「え、え。な、なんでバババババレて……」
「動揺しすぎではないか? ちなみに私でも分かってたぞ」
「ちょ~っと黙ってたら、す~ぐ調子乗ってイカサマの量増えてたっすからね。休暇明けのついでに矯正してやるっす」
ジャラジャラと小気味良い音を立てて牌が混ざり、ゲームが始まろうとした、その時だった。
控えめで、どこか戸惑うようなノックの音が事務所のドアを叩いた。
私たち三人はピタリと動きを止め、顔を見合わせる。
「……はい、どうぞ。開いてるっすよ」
私が声をかけると、ドアがゆっくりと開き、一人の生徒がおずおずと顔を覗かせた。
トリニティの制服を着た、少しおとなしそうな雰囲気の少女だった。彼女の顔には明らかな緊張と、何か得体の知れないものに対する怯えが浮かんでいる。
「あの……ここは、思春期相談窓口で、合ってますか……?」
「ええ、そうっすよ。私が担当の仲正イチカっす。とりあえず、そこのソファに座って……」
「アサダ、と言います。あの、今日は相談というか……その、通報みたいなものなんですけど……」
アサダと名乗った彼女は、促されるままソファの端にちょこんと腰を下ろした。先生はすでにタバコを携帯灰皿に隠し、一応「先生」らしい真面目な顔を作っている。
「通報、っすか?」
「はい……。昨日から、トリニティ自治区の外れ、旧市街へ続く裏道のあたりで……すごく怪しい人がうろついているんです」
アサダさんは両手を膝の上で固く握りしめながら、震える声で話し始めた。
「全身を黒いコートみたいなもので隠してて、顔も見えないくらい深く帽子を被ってて……。ブツブツと何かを呟きながら、同じ場所を行ったり来たりしてるんです」
彼女の話を聞きながら、私は少しだけ疑問符を浮かべた。
怪しい人物の徘徊。それは確かに不安だろうが、それならば対応すべき適任の部署が他にあるはずだ。
「なるほど……。まぁ、うちに相談しちゃ駄目っていうわけじゃないっすけど……」
私は言葉を選びながら口を開く。
「そういう不審者の情報なら、正義実現委員会やシスターフッドのパトロール隊に直接報告した方が、すぐに対応してくれると思うっすよ。私から本部に連絡を入れてもいいっすけど」
「普通ならばそっちに行くよな」
横から先生が低い声で同調した。彼の鋭い視線が、アサダさんの怯えた顔を真っ直ぐに射抜く。
「『相談窓口』にわざわざ足を運んできたってことは、何か警察や正実に言いにくい事情でもあるのか?」
「い、いえ、そういうわけじゃ……!」
アサダさんは慌てて首を振ったが、すぐにまた視線を落とし、身震いするように自分の腕を抱え込んだ。
「ただ……その怪しい人が、ブツブツ呟いてる言葉が……すごく、怖くて……」
「言葉?」
「はい。私、たまたま近くを通りかかった時に、聞こえちゃったんです。その人が、恨めしそうな、地を這うような声で……」
アサダさんはゴクリと唾を飲み込み、私を真っ直ぐに見つめた。
「『イチカ……イチカ……』って、ずっと呟いてたんです」
「…………え?」
私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「私、怖くなってすぐに逃げたんですけど……。トリニティで『イチカ』さんって言ったら、正義実現委員会の仲正イチカ先輩しかいないですよね……? だから、ご本人に直接伝えた方がいいんじゃないかって思って……!」
静まり返った事務所の中に、アサダさんの必死な声だけが響き渡った。
私は思わず自分の顔を指差し、言葉を失ってしまった。
先生とウタハさんが、同時に私の方へ視線を向ける。
「……恐ろしく不気味な話っすね」
私は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、絞り出すようにそう呟いた。
私を名指しで恨み言のように呟く不審者。
正義実現委員会としての活動の中で、誰かの恨みを買うようなことは数え切れないほどある。制圧した不良生徒、取り締まった裏取引の売人、あるいは最近の一連の事件で捕らえたカノンの残党か。
だが、それにしても、わざわざ名前を呟きながら徘徊するというのは、あまりにも執念深く、そしてホラーじみている。
「なるほど。それは確かに、正実の窓口に持っていくより、本人に直接言いたくなるわな」
先生が深くため息をつきながら、アサダさんに向かって頷いた。
「よく知らせてくれたな。怖かっただろう。あとは俺たちで引き受けるから、お前はもうその裏道には近づかないようにしろ」
「は、はい……! よろしくお願いします……!」
アサダさんは何度もお辞儀をして、逃げるように事務所を後にした。
パタン、とドアが閉まり、再び事務所に沈黙が降りる。
私は腕を組み、渋い顔で天井を仰いだ。
「……ストーカーっすかね。それとも、逆恨みによる襲撃の準備か」
「どちらにせよ、気味が悪いな。イチカ、最近何か心当たりはないのか?」
ウタハさんが眼鏡を指で押し上げながら問う。
「心当たりがありすぎて困るんすよね……。正実の仕事柄、恨みを買うのは日常茶飯事っすから。でも、ここまで粘着質なのは珍しいっすよ」
「……チッ。面倒なことになりそうだな」
先生が舌打ちをし、イライラした様子で立ち上がった。
彼はジャケットを羽織り、ポケットにハンドガンが収まっているのを確認する。
「何かあっても嫌だしな。……先手は打つに限る」
先生のその目は、完全に「狩り」に向かう男の目だ。
「行くぞ、イチカ。お前の熱狂的なファンに、直接サインでもしてやろう」
「サインで済めばいいんすけどね……。了解っす、行きましょう」
私は愛銃を背負い直し、先生の後を追った。
せっかくの休暇明け初日。どうやら今回も、平穏な麻雀で終わる一日は期待できそうになかった。
「いつもの形になるな。私はここで色々調べておこう」
「じゃ、私たちは自治区で聞き込みっすね」
■■■
トリニティ総合学園の午後は、穏やかな陽光に包まれていた。
白い石畳を歩く生徒たちの笑い声、遠くから聞こえる賛美歌の練習、そしてどこからか漂ってくる紅茶の香り。そんな「平和」の象徴のような光景の中を、私と先生は場違いな殺気を微かに孕ませながら歩き回っていた。
「……というわけなんすけど、なんか知ってます? 全身黒ずくめで、私の名前を呪文みたいに唱えてる不気味な人物」
私は道行く生徒を捕まえては、営業用の糸目スマイルを浮かべて聞き込みを繰り返していた。けれど、返ってくる反応はどれも芳しくない。
「悪いけど、何にも知らないなぁ。黒いローブ? シスターフッドの皆さんのことじゃなくて?」
「いや、もっとこう……怪談に出てくるような、ドロドロした執念を感じるタイプなんすよね。そっかぁ、ありがとうございます」
軽く手を振って生徒を見送り、私は隣でけだるそうに歩く先生を見て、深くため息をついた。
「ダメっすね。トリニティは広すぎる上に、似たような恰好……というか、羽織りものをしている生徒も多いから、特定が難しいっす」
「だろうな。だいたい、お前の名前を呟いてるってのも、アサダの聞き間違いって可能性もある」
先生のタバコはさっき私が没収したので、手持ち無沙汰そうにポケットの中で四角いライターをカンカンと鳴らしている。
「ま、地道にやるしかねぇよ。お、あそこにいるのは……」
先生が指差した先。噴水広場の端で、一心不乱に素振りをしている生徒がいた。手には卓球のラケット。
「あ、オオイシさんじゃないっすか。おーい!」
声をかけると、彼女は鋭いスイングを止めて、パッとこちらを振り返った。かつては才能の壁に絶望し、暴走寸前まで追い詰められていた彼女だが、今の瞳には健全な熱が宿っている。
「あ! イチカさんに、佐倉先生! こんちわ!」
「精が出るっすね。卓球の調子はどうなんすか、オオイシさん」
「おかげさまで! この前なんか、練習試合でコイケに勝つ一歩手前まで行けましたよ! 最終セットのデュースで惜しくも負けちゃいましたけど、次は絶対いけます!」
拳を握りしめて熱弁するオオイシさんに、先生は口角をわずかに上げて頷いた。
「そうか。変わりないようで何よりだ」
「元気そうで何よりっす。ところで、この辺りで黒いローブの不審者とか見なかったっすか?」
「不審者? うーん、すみません。練習に集中しすぎてて、周りが全然見えてませんでした」
「あはは、オオイシさんらしいっすね……」
「よし次だ。じゃあなオオイシ」
「相談窓口も相変わらず大変そうですね。二人ともお元気で~!」
再び素振りを始めた彼女の背中を見送りながら、私たちはまた探索を再開する。平和だ。あまりにも平和すぎて、アサダさんが怯えていた恨み言さえ、何かの間違いではないかと思えてくる。
「……先生、やっぱり私の聞き込み方法が甘いんすかね?」
「いや、お前のツラは十分威圧感あるだろ。……ん?」
先生が不意に、言葉を切った。
その瞬間。
耳を劈くような、猛烈な「風の塊」が私の頬を掠めていった。
「…………ッ!?」
反応が、一瞬遅れた。
私の真横を通過したのは、銃弾などという可愛いものではなかった。
それは、大人の胴体を丸くくり抜くほどの巨大な鉄の塊。
空気を力任せに押し潰し、衝撃波を撒き散らしながら飛来したその「質量」は、私のすぐ後ろにあった街灯の支柱を、紙細工のように容易くへし折って、さらにその先のレンガ壁に大穴を開けて沈着した。
「な……っ!? 大砲!? 敵襲っすか!!」
私は咄嗟に地面を転がり、背負っていた愛銃を引き抜く。先生もすでにハンドガンを手にし、私を庇うように低い姿勢をとっていた。
心臓が警鐘を鳴らす。今のは狙撃だ。それも、対物ライフルを遥かに凌駕する、文字通りの『巨弾』。
幸いにも、弾丸の軌跡上には他の生徒はおらず、人的な被害は出ていないようだった。
「イチカ! 上だ!!」
先生の声に弾かれ、弾丸が飛んできた方向──古い時計塔の屋上を見上げる。
そこには、いた。
報告にあった通りの、全身を覆う黒いローブ。
逆光のせいで顔は全く見えないが、そいつは巨大な、それこそ自身の身の丈ほどもある無骨な筒状の武器を担いでいた。
おそらくは、単発式の超大型滑腔砲。あるいは改造武器か。
「見つけたっす……! よくもやってくれたっすね!」
私は照準を合わせ、トリガーを引こうとした。
けれど、黒いローブの人物は、反撃を待つことなく驚くべき速さで屋上の縁を蹴り、反対側へと飛び降りてしまった。
「待てッ!!」
先生が真っ先に走り出す。私もその後に続き、石畳を蹴った。
時計塔の裏側に回り込むが、そこには。
「……ちっ。もぬけの殻か」
先生が忌々しそうに吐き捨て、周囲を警戒する。路地裏には、冷たい風が吹き抜けているだけだった。
あんな巨体を持ちながら、一瞬で気配を消す。ただの不良や、正気を失った復讐者の類ではない。
私は自分の頬に手を当てた。
切れてはいないが、先ほどの風圧のせいで、そこだけが熱を帯びてジンジンと痺れている。
「……先生。今の、見えたっすか」
「あぁ。まともじゃねぇな。あんなサイズの弾、まともに食らえば無事じゃ済まねぇぞ。ゲヘナであんな大きさの弾使う砲台があった気がするが……。なんちゃら自走臼砲」
「なんでそんな詳しいんすか……」
先生の目が、冷徹な色に染まっている。
休暇明け早々、どうやら私たちは、正義実現委員会さえも把握していない「本当の化け物」に目を付けられてしまったらしい。
「あいつ、間違いなくお前を狙ってやがったな」
「光栄っすね……。でも、あんな派手なファンサービスは、一度で十分っすよ」
私は銃を強く握りしめた。
トリニティの平穏な午後は、その一撃によって、決定的に壊されてしまったのだ。
■■■
壁を盛大にぶち抜いた「それ」を回収するのは、なかなかに骨の折れる作業だった。
何せ、弾丸というよりは小型のミサイルか戦車の砲弾に近い。
私はひしゃげた鉛の塊をずっしりと抱え込み、先生と共にトリニティの自治区を後にした。向かった先は、キヴォトス全域の広域犯罪を取り締まる治安維持機関──ヴァルキューレ警察学校だ。
その中でも、特にきな臭い事件を扱う部署である公安局。
私たちは、局長室の重厚なデスクの上に、ドスッと音を立ててその巨大な弾丸を置いた。
「……なるほど。思春期相談窓口のお二人が、わざわざこのような物騒な手土産をお持ちになった理由は分かりました」
デスクの向こう側で、公安局局長の尾刃カンナさんが、深くため息をつきながら額を押さえた。
彼女はヴァルキューレの制服を隙なく着こなし、その鋭い三白眼で私たちと、机の上の巨大な鉄塊を交互に見据えている。来客向けの丁寧な口調ではあるが、その瞳の奥には警察トップとしての鋭利な警戒心が光っていた。
「挨拶代わりってやつだ。どうだ、局長。こんなバカでかい鉛玉、見覚えはあるか?」
先生は客用のソファにドカッと腰を下ろし、勝手に灰皿を引き寄せて火もついていないタバコを咥えた。
カンナさんは先生の態度の悪さに微かに眉をひそめつつも、手袋をはめた手で慎重にその弾丸に触れた。
「……見覚え、ですか。正直に申し上げますと、二度と見たくなかった代物と言いますか」
カンナさんの声が、一段と低く、冷たくなる。
その反応に、私も思わず姿勢を正した。
「カンナ局長、これの正体を知ってるんすか? これ、私を狙って撃ち込まれたんすよ。危うく胴体に風穴が開くところだったっす」
私が言うと、カンナさんは鋭い視線を私に向け、それから再び弾丸へと落とした。
「『対人徹甲弾』……少し前、ある事件に使われた凶器です」
「対人、徹甲弾……?」
言葉の響きだけで、嫌な汗が背中を伝う。
「戦車の砲弾にも見えるような巨大な弾丸に加え、圧倒的な貫通力を誇ります。通常の防弾シールドはおろか、コンクリートの壁を何枚も貫通して標的を仕留めるために作られた、常軌を逸した代物です」
カンナさんは弾丸の底面、変形してしまった雷管のあたりを指差した。
「無論、この大きさであれば使う側にもそれ相応の衝撃がかかります。撃つたびに肩の骨が砕けそうになるほどの反動を伴うはずです。だから、連射はきかないし、弾数だって多いわけじゃない」
「確かに、あの黒いローブの奴は一発撃っただけで、すぐに逃走したっす。反動で体勢を崩したか、あるいは次弾を装填する隙を見せたくなかったんすね」
私が当時の状況を思い返しながら分析すると、カンナさんは重々しく頷いた。
「ええ。しかし、なにより脅威なのはその威力です」
カンナさんはそこで一度言葉を切り、私と先生を順番に見つめた。
その瞳には、警察のトップとしての強い警戒と、隠しきれない戦慄が混じっていた。
「これほどの大きさの弾丸ですから。その威力は……『これ一発でヘイローを破壊』できます」
「…………ッ!?」
息が、止まった。
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、冷水に突き落とされたような感覚が全身を駆け巡った。
ヘイローの破壊。
それは、すなわち「死」だ。
「(……あの時、もし私が避けるのがコンマ数秒でも遅れていたら)」
頬を撫でた風圧の感触が蘇る。
あと少しズレていれば、私は今頃、トリニティの壁のシミになっていた。肉片すら残らず、二度と目を覚ますことはなかったのだ。
「先ほど言った『事件』で、現存する対人徹甲弾及び銃はすべて私が回収したと思っていましたが……。まだ残っていたとは……」
カンナさんは眉間を揉みほぐし、疲れたように椅子に背中を預けた。
「……おいおい、笑えねぇ冗談だな」
先生が、咥えていたタバコを指でポキリと折った。
その声には、いつもの気だるげな響きは一切なく、底冷えするような殺気が混じっている。
「イチカの頭をブチ抜くために、そんなモンをトリニティのど真ん中に持ち込んだバカがいるってことか」
「そういうことになりますね」
「カノン一派の残党って線は?」
先生が素早く推測を口にする。
「強化薬剤の元締めだったカノンなら、その手の違法兵器を隠し持っていてもおかしくねぇ。あいつが捕まった腹いせに、残党がイチカを逆恨みして狙ってきたって考えるのが自然だろ」
「あり得ます。しかし、そもそも対人徹甲弾自体どこから作られた兵器なのか一切把握できていません。いちブラックマーケットの生徒が持ってるとは考えづらいかと……。いずれにせよ、ヴァルキューレとして、この弾丸が出回っている事実は看過できません」
カンナさんは机の上の弾丸を慎重にケースへと収めると、鋭い目で私たちを見た。
「……イチカ。お前、しばらく外出は控えろ」
先生が、こちらを見ないまま低い声で言った。
「え?」
「事務所から一歩も出るな。正実の仕事もハスミに言って全部休ませてもらう。あのバカでかい大砲を持ったストーカーが捕まるまでは、俺がお前を軟禁する」
「……ヴァルキューレでそれを言うのはどうかと……」
「なっ……冗談じゃないっすよ! 私が逃げ隠れして、他の生徒が巻き込まれたらどうするんすか!」
私は思わず立ち上がり、先生に抗議した。
「あんなの、市街地で撃たれたら流れ弾だけで大惨事っすよ! 私が標的なら、私が囮になってでも引きずり出さないと……!」
「バカ野郎!!」
先生の怒号が、局長室に響き渡った。
「一発当たれば死ぬんだぞ!? 『かすり傷で済んだ』じゃ済まされねぇんだ! お前が死んだら、麻雀やるメンツがいなくなるだろ……」
「そ、そこっすか!? もっと他に言うことあるでしょ!」
「……とにかくダメだ。俺の目の届く範囲から出るな」
先生は頑として譲らない。
その不器用な過保護さに、私は怒る気も失せ、けれどどうしても納得することはできなかった。
「……お二人の仲が良いのは結構ですが、ここで痴話喧嘩をされても困ります」
カンナさんが呆れたように溜息をつき、私たちを制した。
「痴話じゃねぇ!」っす!」
「……ヴァルキューレの総力を挙げて出処と黒いローブの正体を追います。イチカさんは佐倉さんの言う通り、最低限の警戒は怠らないようにしてください」
「……了解、したっす」
私は渋々頷いた。
カンナさんは再び私たちへ向き直る。
「何が目的かは分かりませんが、相手は明確な殺意を持っています。……どうかお気をつけて」
「あぁ。恩に着る、カンナ局長」
私たちはヴァルキューレを後にした。
外はまだ明るい。しかし、私の背中には常に、見えない銃口が突きつけられているような、冷たいプレッシャーが張り付いている。
■■■
あの巨大な徹甲弾の脅威から、数日が経過した。
「あー……暇っす。暇すぎて干からびそうっす……」
私は事務所のデスクに突っ伏し、恨めしげな声で呻いた。
カンナ局長の忠告と、何より先生の執念深い監視のせいで、私は思春期相談窓口の事務所に完全に軟禁状態となっていた。正義実現委員会のパトロール任務も、ハスミ先輩に『しばらく事務作業に専念しなさい』と強権を発動されて休まされている。
「文句言うな。死ぬよりマシだろ」
ソファで横になりながら競馬新聞を広げている先生が、私を見向きもせずに言い放つ。
あの日以来、先生は本当に私から片時も離れなくなった。ちょっと給湯室に行くだけでも後ろをついてくる徹底ぶりで、流石の私もドン引きしているレベルだ。
「いくらなんでも過保護すぎっすよ。私、一応正義実現委員会の武闘派なんすけど」
「大砲の弾を素手で弾き返せるようになってから言え」
「ぐぬぬ……」
正論で殴られると弱い。実際、あの徹甲弾をまともに食らえば私でも即死だろうな。
とはいえ、外の空気を吸えないのは精神衛生上非常によろしくない。私がため息をつきながら、ポストから回収してきたばかりの郵便物の束をパラパラと捲っていた、その時だった。
「ピザ屋のチラシ、ウタハさん宛ての謎の電子部品の請求書……って、なんでここに請求書が来るんすか。……あれ?」
束の中に紛れ込んでいた、一通の白い封筒。
そこに書かれた差出人の名前を見て、私の手はピタリと止まった。
「……先生」
「なんだよ。俺宛ての借金の督促状なら、見なかったことにして破り捨てとけ」
「は? 借金してたんすか?」
「パチンコで負けて、数万円だけ……」
「まったく……違うっすよ。……ワタヌキさんからっす」
「────」
バサッ、と先生が顔に被せていた競馬新聞が床に落ちた。
先生は勢いよく上体を起こし、私の手にある封筒を食い入るように見つめた。
「ワタヌキから……? 面会手続きはまだ先だったはずだがな」
「……手紙っすね。検閲済みのスタンプが押してあるっす」
私たちは顔を見合わせた。
あの凄惨なブラックマーケットの抗争に巻き込まれ、自らも薬物に手を染めながら、最後に私たちを助けてくれた少女。私たちが減刑のために駆け回り、今は社会復帰を前提とした更生施設に入っているワタヌキさん。
施設に入ってからは、規則の都合でまだ直接の連絡は取れていなかったのだ。
私は震える手で封を開け、中に入っていた便箋を取り出した。
だが、そこに書かれていたのは、私が想像していたような近況報告や感謝の言葉ではなかった。
『イチカ先輩、佐倉先生。急なお手紙でごめんなさい。
どうしても、お二人に真っ先にお伝えしなければならないことがあります。
とりあえず説明はあとで必ずしますから、なるべく早く、面会に来ていただけないでしょうか』
「……」
私は便箋を読み終え、先生にそれを手渡した。先生は素早く文面に目を通し、忌々しそうに舌打ちをする。
「……異常事態ってとこか? あいつがこんな、言葉を濁してまで緊急の呼び出しをしてくるなんてよ」
「先生、私……会いに行きたいっす。あの子がこんなSOSみたいな便りを寄越すなんて、ただ事じゃないっすよ!」
私が訴えると、先生は険しい顔で頭を掻いた。
「おいおい、お前は今、正体不明の狙撃手に命を狙われてる身だぞ。外出は……」
「更生施設の中なら安全じゃないっすか! あそこはキヴォトスでも屈指のセキュリティレベルっすよ! それに、装甲車みたいな車で行けば狙撃も防げるっす!」
私は食い下がった。こんな手紙をもらって、じっとしていられるわけがない。
先生は私の必死な目を見て、しばらく黙り込んだ後……やがて、深く長いため息をついた。
「……ハスミに連絡して、正実の車両庫から一番装甲の厚い公用車を回してもらえ。ルートも直行直帰。寄り道は一切なしだ。いいな?」
「先生……! はいっ! ありがとうございますっす!」
私は弾かれたように立ち上がり、急いでコートを羽織った。
命を狙われている恐怖より、ワタヌキさんの焦燥を孕んだ手紙の文面が、私の背中を強く押していた。
■■■
『更生施設』。
カノンが送られたような重警備の暗黒牢とは違い、ここは罪を悔い改め、社会復帰を目指す生徒たちのための施設だ。
高いフェンスと厳重なゲートこそあるものの、敷地内には陽の光が降り注ぎ、清掃の行き届いた花壇が並んでいる。
私たちは防弾仕様の装甲車を降り、厳重な金属探知と手荷物検査を抜け、面会室へと通された。
分厚いアクリル板で仕切られた部屋ではなく、監視官が一人同席するだけの、対面で話せる開放的な面会室だ。
パイプ椅子に座って待つこと数分。
ドアが開き、施設の職員に連れられて、一人の少女が入ってきた。
「……ワタヌキさん」
私は思わず立ち上がった。
そこにいたのは、あのスタジアムで絶望に濡れた瞳をしていた少女ではない。
質素な施設の制服を身に纏い、規則正しい生活と農作業などの労働のおかげか、以前のような不健康な細さは消え、顔色も随分と良くなっていた。
「イチカさん……佐倉先生!」
ワタヌキさんは私たちを見た瞬間、ホッとしたような、それでいてどこか引き締まった顔でテーブルの向こう側の椅子に腰を下ろした。
「急に呼び立ててしまって、本当にごめんなさい。……お二人とも、お変わりないみたいで安心しました」
「お前もな。随分と健康そうな顔色じゃねぇか」
先生が椅子に深く腰掛けたまま、ぶっきらぼうに言う。
ワタヌキさんは少し照れくさそうに笑った。
「はい。ここ、ご飯も美味しくて、毎日お掃除とか畑仕事で身体を動かしてるから……。アオちゃんも、よく手紙をくれるんです。『待ってるからね』って」
「そうか。何よりだっす。……それで、わざわざ手紙で呼び出した理由は何なんすか? 施設で何かトラブルでも?」
私が尋ねると、ワタヌキさんは首を横に振り、監視官が少し離れた場所にいることを確認してから、テーブルに身を乗り出して声を落とした。
「違います。施設の人たちはみんな親切ですし、トラブルなんてありません。……ただ、昨日施設に入ってきた子から、どうしてもお二人に伝えておかなきゃいけない『噂』を聞いたんです」
「噂?」
ワタヌキさんの両手が、膝の上で固く握りしめられている。
だが、その瞳に以前のような絶望やパニックの色はない。ただ、私たちを信頼し、事態の深刻さを的確に伝えようとする「戦士」の目がそこにあった。
「カノンが、矯正局の最深部から脱獄したらしいんです」
「…………は?」
「……んだと」
私と先生の思考が、一瞬だけ完全に停止した。
カノンが。あの、他人の心を読み、世界をオモチャとして壊して回った怪物が。
キヴォトスでも最高レベルのセキュリティを誇る矯正局から、脱獄した?
「……おいおい、冗談だろ。あそこは七囚人クラスの化け物を閉じ込めるような場所だぞ。面会すら制限されてるはずだ。それを、単独で脱獄だと?」
先生がギリッと奥歯を噛みしめる音がした。
ワタヌキさんは静かに頷く。
「単独じゃないかもしれません。……カノンには、ブラックマーケットの莫大な資金と、彼女を心から崇拝するカノン信者たちがいますから……。それに、あいつの『読心』があれば、看守の弱みを握るのも、警備の穴を突くのも……」
「可能、ってことっすね……」
私は背筋に冷たい氷柱を突き立てられたような悪寒を覚えた。
あの大砲のような狙撃。
執念深く私を名指しで狙う不審者。
バラバラだった点が、最悪の形で一本の線に繋がっていく。
カノンが外に出ているのなら。
真っ先に狙うのは、自分をあそこまで追い詰め、プライドを粉々に砕いた私たち『思春期相談窓口』のメンバー以外にあり得ない。
「私、その噂を聞いた時、すぐに『狙われる』と思いました。……あいつが外に出たなら、絶対にイチカさんたちに復讐しに来るって」
ワタヌキさんは、私と先生を交互に真っ直ぐに見つめた。
「でも、お二人なら……きっと何とかしてくれるって、そう思って。だから、早く逃げるなり、迎え撃つ準備をしてほしくて、手紙を書いたんです」
「……ワタヌキさん」
私は立ち上がり、テーブル越しに彼女の手をしっかりと握りしめた。
その手は温かく、力強い。
「教えてくれて、ありがとうっす。ワタヌキさんのおかげで、最悪の事態になる前に警戒できるっす」
「はい。……どうか、気をつけてください」
「安心しろ」
先生が、立ち上がってジャケットのポケットに手を突っ込む。
「あいつが脱獄したってなら、もう一度ぶちのめして首根っこ掴んで矯正局に叩き返すだけだ。今度は、二度と出てこれねぇようにな」
「……ふふっ、相変わらずですね」
ワタヌキさんが、頼もしげに笑った。私たちの戦いは、まだ終わっていなかったのだ。
最悪の敵が、再び暗闇から牙を剥き出しにして迫っている。
私たちは、負けてしまうだろうか?
いや。必ず勝とう。
「行くっすよぉ!!」
「……どこへ?」
「……不明っす」
■■■■■
ワタヌキさんとの面会を終え、更生施設の重い鉄扉を背にしたその時だった。
先生のジャケットのポケットで、スマートフォンのバイブレーションが悲鳴のような音を立てる。
「……チッ、誰だ」
不機嫌そうに端末を取り出した先生の顔が、画面に表示された名前を見た瞬間に凍り付いた。
「ウタハか。どうした、今はちょっと──」
『二人とも! すぐにキサラズ学園へ行ってくれ!!』
スピーカーから漏れ聞こえるウタハさんの声は、かつてないほどに切迫していた。常に冷静沈着な彼女が、声を荒らげている。それだけで事態が「最悪」であることを理解するには十分だった。
「キサラズに……? なんでだウタハ!」
『キサラズが攻撃されたらしい! とにかく早く!!』
「……ッ!!」
先生の顔から血の気が引き、瞳に焦燥の炎が灯る。
キサラズ学園。そこには、先生がかつて守り抜き、ようやく笑顔を取り戻したばかりのタケルさんがいる。
「イチカ! 乗れッ!!」
「了解っす!!」
私たちはハスミ先輩から借りた装甲車のドアを蹴るようにして開き、車内へと飛び込んだ。先生はアクセルペダルを床まで踏み込み、タイヤがアスファルトを削る凄まじい音と共に車を発進させた。
更生施設を飛び出した私たちの視界には、空がすでに深い紺色に染まり始めているのが見えた。空の端にはまだ僅かな朱色が残っているが、それはみるみるうちに夜の闇へと塗り潰されていく。
「(間に合え……間に合って……!!)」
私は助手席で指が白くなるほど拳を強く握りしめた。
先生の横顔は、もはや怒りを超えて無機質なまでの「冷徹さ」に支配されている。法定速度などという概念はとうに捨て去り、装甲車はは夜の帳を切り裂く弾丸となってひた走る。
キサラズ学園の自治区に辿り着いた頃には、世界は完全に夜の底に沈んでいた。
静かだったはずの木造校舎が、今は不気味な硝煙の匂いに包まれている。
そして、聞こえてきたのは──あの、聞き覚えのある重低音だった。
スタジアムでの死闘で何度も耳にした、対物ライフルの無慈悲な銃声。
それに応戦するように、鋭いサブマシンガンの乾いた発火音が夜の校庭に響き渡る。
「タケル!!」
車が完全に止まるより早く、先生は運転席から飛び出した。私もその後を追う。
校庭の真ん中、月明かりの下で、一人の少女がボロボロになりながら舞っていた。
タケルさんだ。
彼女はあの超人的な動体視力と身体能力をフルに使い、飛来する銃弾を紙一重で避け続けていた。
そして、彼女を追い詰めているのは──全身を黒いローブで覆った不審な人物。
だが、その手にあるのは、カンナ局長のところへ持ち込んだような規格外の『対人徹甲弾』を撃つ大砲ではなかった。そいつが構えているのは、私たちもよく知る、見覚えのある対物ライフルだ。私を狙撃したあの切り札の巨砲は、今はどこかに隠しているらしい。
「あっ……先生ッ!!」
校舎の陰で腰を抜かしていた用務員のおじいさんが、先生の姿を見つけて悲鳴に近い声を上げる。
「おっちゃん!! 離れてろ!!」
先生が叫ぶ。その視線の先で、黒いローブの人物がタケルさんを捉え、対物ライフルの銃口を固定した。
「させないっすよ!!」
私は石畳を蹴り、弾丸よりも速い踏み込みで空間を制圧した。
抜銃する時間は惜しい。私は全身のバネを右拳に集中させ、黒いローブの顔面……フードの奥の闇に向かって、渾身のストレートを叩き込んだ。
肉を打つ音ではない。硬質な金属同士が激突する音が響く。
黒いローブの人物は、驚くべき反応速度で対物ライフルの重厚な銃身を盾にし、私の拳を真っ向から受け止めたのだ。
「ぐ……ぅっ!」
拳と銃身。互いの力がぶつかり合い、しのぎを削る。その至近距離で、私はフードの奥にある気配と視線を交わした。
「……この目で見るまでは信じたくなかったっすよ。久しぶりっすね……カノン」
私は低く、怒りを込めてその名を呼んだ。
対峙する相手は、隠すのをやめたようにフードを跳ね除ける。月光を浴びて現れたのは、白髪のウルフカットを揺らし、憎悪と歓喜の混ざった笑みを浮かべるカノンの姿だった。
「あら……気づいてたの。仲正イチカァっ!!」
カノンの口角が三日月のように吊り上がり、対物ライフルの重厚な銃身から凄まじい反発力が伝わってくる。
読心能力を持つ彼女は、私の踏み込みに合わせて完璧なタイミングで力を込めていたのだ。
「くっ……!」
私は強引に弾き飛ばされ、宙を舞った。
だが、スタジアムで薬漬けにされていたあの時とは違う。私は空中でクルリと身を捻り、石畳の上に音もなく、綺麗な着地を決めた。
衝撃を殺すと同時に背中に回していた愛銃を抜き放ち、流れるような動作でカノンへ銃口を向ける。
「イチカさん!」
横合いから、息を切らせたタケルさんが駆け寄ってきた。
その清楚な私服は土埃で汚れ、金髪には枯れ葉が混じっているが、瞳の奥の闘志は少しも衰えていない。
「タケルさん、無事っすね! 怪我はないっすか!?」
「はい! でも、あの人……私の動きを全部読んでいるみたいで……!」
「ええ、知ってるっすよ。最高にタチの悪い能力持ちっすからね!」
「へぇ……ワタヌキから聞いたの……。余計なことをしてくれるわ、ほんと」
私は叫びながらトリガーを引いた。
牽制のバースト射撃。しかし、カノンはまるであらかじめ弾道にレールが敷かれているのを見ているかのように、ステップ一つで全ての弾丸を躱していく。
「あはははは! 遅い遅い! 全部聞こえてるわよぉ!!」
カノンはステップの勢いそのままに、対物ライフルを腰溜めに構えて発砲した。
轟音。空気を引き裂く巨大な弾丸が、私とタケルさんの間をすり抜けて背後の花壇を粉砕する。
「散るっす、タケルさん!」
「了解です!」
私たちは左右に別れ、カノンを挟み込むような陣形をとった。
タケルさんの超人的な動体視力と、私の正義実現委員会仕込みの制圧戦術。普通に考えれば、どんな相手でも瞬時に追い詰められる連携だ。
だが、カノンの『読心』は、私たちの思考の先を読み、連携のタイミングをことごとくズラしてくる。
「右……ほらっ!」
「っ!?」
タケルさんが死角から飛び出そうとした瞬間、そこに置かれるようにライフルの銃身が振り抜かれた。タケルさんは咄嗟に身を屈めて躱すが、その隙にカノンの銃口が私を向く。
「(撃たれる──!)」
私が回避行動を取ろうと筋肉を収縮させた瞬間、カノンは撃たずに私へと突進してきた。銃を撃つという私の『予測』すらも読み切り、裏をかいてきたのだ。
「ふふっ、隙あり♡」
カノンの蹴りが私の腹部を掠める。
激しい攻防がキサラズ学園の校庭で繰り広げられるが、お互いの戦力が完全に均衡してしまい、なかなか決着がつかない。
私たちが攻め込めば読心で躱され、カノンが攻めに出ればタケルさんの動体視力と私の援護で決定打を許さない。
ジリ貧だ。スタジアムの時のように、自ら強化薬剤を飲んで思考を暴走させるような無茶は、できない。
「しぶといクソ虫共ね……! さっさと潰れなさいよ!!」
カノンが苛立ちを露わにし、対物ライフルを乱射し始めた。
その時だった。
夜の静寂を引き裂くように、猛烈なエンジンの咆哮が響き渡った。
私たちが驚いて音の方向を見ると、校舎の裏手から、ヘッドライトをハイビームにした一台の古びたセダンが、土煙を上げながら猛スピードで突っ込んできたのだ。
「なっ……!?」
読心で『思考』にばかり集中していたカノンは、機械の突進という全くの規格外の不意打ちに、完全に反応が遅れた。
「いっけぇぇぇぇぇッ!!」
ハンドルを握っていたのは、なんとキサラズ学園の用務員のおじいさんだった。
車は悲鳴を上げるような音を立てながら校庭を爆走し、カノンの身体をボンネットで跳ね飛ばした。
「ぐぇあっ!?」
カノンの身体が宙を舞い、そのまま学園の外壁に激突する。車もまた、壁に半ば突っ込む形で急停止し、動きを止めた。
「ああっ! 俺の車!! てっきりもう廃車になったと思ってたのに!!」
少し離れた安全圏から様子を見ていた先生が、頭を抱えて絶叫した。
「い、いやぁ……」
エアバッグに顔を埋めていたおっちゃんが、ふらふらと運転席から這い出してくる。
「キサラズ学園の敷地で、しっかりメンテナンスして保管してたのを忘れてたぜ、先生……。いざって時のために、エンジンはかかるようにしといたんだがなぁ」
「早く出せぇ! おっちゃんコラ!」
先生が悪態をつくが、その声には怒りが全くない。用務員の彼が車を保管してくれていたことに喜びを隠しきれていなかった。
だが、今は車の心配をしている場合ではない。
銃を構え直し、崩れた壁の土煙の奥を睨みつける。
「……ゲホッ、ゴホッ……」
瓦礫を押し退け、黒いローブをボロボロに引き裂きながら、カノンが立ち上がってきた。
額から一筋の血を流し、その目は先ほどまでの余裕を完全に失い、純粋な殺意で濁っている。
「クソッ……! 相も変わらず、クソ虫共が……私の邪魔ばっかりして……!」
対物ライフルを杖代わりにし、カノンが憎々しげに私たちを睨みつける。
さすがに車ではねられて壁に激突すれば、ダメージは大きいらしい。足取りはふらついていた。
私は油断なく銃口を向けたまま、ずっと疑問に思っていたことを投げかける。
「どうやって矯正局から抜け出してきたっすか? あそこは、ちょっとやそっとの協力者がいたくらいで脱獄できるようなザルな設備じゃないはずっす」
私の問いに、カノンは血の混じった唾を吐き捨て、鼻で笑った。
「簡単な事よ」
彼女は、自身のこめかみをトントンと指差す。
「毎日毎日、独房の中で叫び続けてやったのよ。『カノンが逃げた!』『今ここにいるのは変装させられてる別人だ!』ってね。最初は看守たちも警戒してたけど、何日も何日も同じホラを吹き続ければ、言葉の信用なんて完全に失われる」
「オオカミ少年、っすか……」
「そう。言葉の信用を完全に失った瞬間、適当な看守を捕まえて、自分の服を着せて顔を隠し、私に変装させる。ある程度声や顔が違ってようが、看守たちは『言葉に信ぴょう性を持たせるためのだまし芸』としか認識されないわよ」
カノンは、いかにも馬鹿げたマジックの種明かしをするように、ケラケラと笑った。
「誰も、目の前で叫んでいるのが『本当に変装させられた看守』だなんて思いもしない。だから……今矯正局の私の独房に入っているのは、ただの関係ない生徒よ」
人間の心理的な死角、思い込みを逆手に取った、あまりにも悪辣で狡猾な脱獄劇。
私は背筋が寒くなるのを感じながら、改めて目の前の少女の「異常性」を肌で感じていた。
「ここで戦闘を続けるのは得策じゃない、かしら……」
カノンは口元の血を乱暴に拭い、忌々しそうに舌打ちをした。
読心の能力があろうと、物理的なダメージと数の不利はどうにもならない。彼女は一瞬で戦況を見切り、踵を返した。
「逃がすかッ!」
私が踏み込もうとした瞬間、カノンは懐から取り出した煙幕弾を足元に叩きつけた。再び視界が真っ白な煙に覆われる。
ゲホゲホと咳き込みながら煙を抜けると、彼女の姿はすでに校庭の端へと遠ざかっていた。キサラズ学園の正門付近、街灯の光が届かない深い暗がりに、一台の黒いスポーツカーが息を潜めるように停まっていたのだ。
「あんなところに車を……!」
カノンは流れるような動作で運転席に滑り込み、エンジンを咆哮させる。ヘッドライトが夜の闇を切り裂き、タイヤが激しいスキール音を上げて校門を飛び出していった。
「クソッ! 追うぞイチカ!!」
「はいっ!」
先生が叫び、先ほどおっちゃんがカノンをはね飛ばした、ボンネットのひしゃげた古いセダンへと駆け寄る。
ラジエーターから白煙が上がり、運転席にはしぼみかけたエアバッグがだらしなく垂れ下がっていた。
「邪魔くせぇなこれ!」
先生は懐からライターを取り出すと、その金具の角でエアバッグを乱暴に破き、むりくりハンドルの奥へと押し込んだ。私も助手席に飛び乗り、シートベルトを引っ張り出す。
「エンジン、まだ生きてるっすか!?」
「応よ! 頑丈さだけが取り柄の遺物だからな!」
先生がギアを叩き込み、アクセルを踏み抜く。ひしゃげた車体が悲鳴を上げながらも、凄まじいトルクで土煙を巻き上げ、カノンの後を追って夜の闇へと飛び出した。
「先生……どうか無事で……」
「大丈夫さ。今の先生を見て、負けると思うかい? タケルちゃん」
「……ええ、そうですね。私たちの先生が負けるわけありませんでしたね」
■■■
キサラズ学園の自治区は、トリニティやミレニアムのような平坦に整地された市街地とは全く異なる地形をしている。
山肌にへばりつくように作られた居住区。そこへ至る道は、ブラインドカーブが連続し、アップダウンの激しい、ほぼ峠道に近い過酷なルートだった。
「うぉぉぉっ! 先生、ちょっとスピード出しすぎじゃないっすか!?」
私は助手席でアシストグリップを両手で必死に握りしめ、悲鳴を上げた。
右に左に強烈なGがかかる。古いセダンのサスペンションが限界を訴えるような音を立てているが、先生のハンドルさばきには一切の迷いがなかった。
「タケルとよくドライブしててよかったぜ……この道は走り慣れてる……!」
先生は前方を鋭く見据え、滑らかにシフトダウンを決める。車体がスライドしながらも、無駄なくコーナーを立ち上がっていく。
「それは心強いっすね! でも、安全運転の概念はどこに置いてきたんすか!」
「そんなモンは免許センターのゴミ箱に捨ててきた! しっかり掴まってろよイチカ、特にこの先のコーナーは、うまい具合に走ると車が消えるみたいに走っていけるんだ!」
「消える!? 物理法則無視しないでくださいっす!!」
先生の言葉通り、続く複合コーナーの入り口で、先生はブレーキを残しながら強引にノーズをイン側へとねじ込んだ。
まるで崖から飛び出すかのようなライン取り。だが、アウト側に膨らむ遠心力を、絶妙なアクセルワークで抑え込み、最短距離でコーナーを駆け抜ける。
「(……すごい。本当に、道を知り尽くしてる)」
タケルさんとの平和な休日の思い出が染み付いているのか。先生のドライブテクニックは、先行するカノンのスポーツカーとの性能差を、見事に埋めていた。
暗闇の奥、赤いテールランプが徐々に大きくなってくる。
「見えた! このままケツを突っつくぞ!」
先生がニヤリと笑い、さらにアクセルを踏み込む。
距離は確実に縮まっている。次のストレートで並べるかもしれない──そう確信した、その時だった。
「……え?」
突然、前を走るカノンの車の動きが変わった。
それまで、性能に任せて荒っぽくコーナーを曲がっていた黒いスポーツカーが、吸い付くような、まるでレールの上を走るような滑らかなコーナリングを見せ始めたのだ。
「なっ……あいつ、急にライン取りが……!」
先生が舌打ちをする。
私たちが得意としていた「地元民ならではの最短ルート」を、カノンの車が寸分違わずトレースし始めた。いや、スポーツカーの加速性能が乗っている分、立ち上がりで明らかに引き離されている。
「距離が……開いていくっす……!」
私は目を凝らし、先行する車の動きを分析した。
初見の峠道で、あんな完璧なレコードラインを走れるわけがない。ナビを見ている? いや、ナビのマップデータだけで走れるような甘い道ではないはずだ。
「先生! あいつ、もしかして……」
私は目を凝らし、前を走る車のバックミラーを凝視した。
暗闇の中だが、街灯の光が車内を照らした一瞬、ルームミラー越しにカノンの瞳がこちらを覗き込んでいるのが見えた、気がした。いくらなんでも遠すぎて確信はない。だが、そう思うしかないだろう。
「読心っす!!」
「あぁ!?」
「バックミラー越しに、先生の姿を捉えてるんすよ! 視界に入れば『読心』が強制発動する……あいつ、先生の脳内にある『コースの形状』と『走り方』を、リアルタイムでインプットしてるんす!!」
背筋がゾクリと冷えた。
カノンは、自分自身で道を走っているのではない。
先生がこの道で培ってきた経験、どこでブレーキを踏み、どうハンドルを切るかという「正解の思考」を読み取り、それをハイスペックな車でそのまま実行しているだけなのだ。
「なるほどな……俺のナビで、俺より速い車を走らせてるってわけだ。クソッタレが……!」
先生が忌々しそうにハンドルを叩く。
どんなに先生の腕が良くても、思考が筒抜けの状態で、車の絶対的な性能差を覆すことはできない。
「見えなければいいんだろ……! 要するによ……!」
先生はステアリングを片手で抑えながら、もう片方の手をウィンカーを出すところへと伸ばす。
「いや、そりゃそうなんすけど、いったい何する気っすか!?」
私が助手席でパニックになりながら叫ぶのをよそに、先生はニヤリと、狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「(あー、最高。本当に便利ね、この力)」
漆黒の闇に包まれたキサラズの峠道を、私は鼻歌交じりに、そして信じられないほどのハイスピードで駆け抜けていた。
バックミラーに映る、追跡してくるボロ車の運転席。あの「元・先生」の顔を視界の端に捉え続けるだけで、彼の脳内で弾き出される『最適なブレーキングポイント』『レコードライン』『ステアリングの舵角』が、まるでカーナビの音声案内のようにはっきりと流れ込んでくる。
「次は……そうなのね。本当に優秀な教習車だわ」
このまま圧倒的なマシンスペックで引き離して逃げ切る。そして安全な隠れ家にたどり着いたら、とっておきの『対人徹甲弾』をセッティングしてやるのだ。
今度は絶対に外さない。あの小賢しい正義実現委員会の小娘──仲正イチカの頭を、スイカみたいに吹き飛ばしてやる。
その凄惨な光景を想像しただけで、笑いが止まらなくなる。
「あははははっ! 傑作! アンタたちが頑張って追いつこうとすればするほど、私が速く逃げられるんだから!」
強烈な横Gを感じながら、険しいヘアピンコーナーを鮮やかにクリアした。立ち上がり、ストレートに向けてアクセルを踏み抜こうとバックミラーに視線を戻した、その時だった。
「はっ……? クソ虫の車が消えた……?」
ルームミラーにも、サイドミラーにも。
つい数秒前まで、鬱陶しいほどに背後にへばりついていた二つのヘッドライトの光が、完全に消失していた。
当然、光がなければ視界には夜の闇しか映らず、ヤツの顔を見ることもできない。読心能力への接続が、プツリと強制終了された。
「クラッシュした……? いやでも、そんな音はしなかった……むしろ……」
怪訝に思い、窓の外に耳をそばだてる。
自身のスポーツカーのエンジン音に混じって、静かに、けれど確実に、重く唸るような複数のエンジン音が背後から迫ってきているのが聞こえる。
「まさか……そんなわけ……」
ありえない。この街灯すらない真っ暗闇の峠道だ。月に雲がかかり、数メートル先すら見通せない漆黒の世界。
そこで、後方のエンジン音が、背後から……横の車線へと差し掛かった。
その瞬間、真横、運転席の窓ガラスのすぐ隣で。
パッシングするかのように、唐突に二つの強烈なヘッドライトが『点灯』した。
「なっ……」
真横に並んでいたのは、あのボロいセダンだ。
ヤツは、バックミラーに映らないようにするためだけに、この常軌を逸した暗闇の峠道を『ヘッドライトを完全に消した状態』で、前の車のテールランプとわずかな月明かりだけを頼りに猛追してきたのだ。
「(正気じゃないわ!! こんな真っ暗闇をヘッドライトを消して走るなんて!!)」
読心を防ぐためとはいえ、一歩間違えれば崖下に転落して死ぬ狂気の沙汰。いや、そもそもまともな人間の神経でできる芸当ではない。
「(前にやられた時といい、こいつら人間じゃない!!)」
背筋に凍るような悪寒が走る。
私は恐怖を振り払うように、アクセルペダルを床が抜けるほど踏み込んだ。
目の前には、長い直線が広がっている。
「(もう
相手はポンコツのセダン。こちらはチューンされたスポーツカーだ。直線勝負になれば、マシンスペックの差で一気に引き離せる。
「さよならよ、イカれ野郎!!」
勝利を確信し、タコメーターの針が跳ね上がろうとした、その刹那。
真横に並んでいたヤツの車が、ありえない挙動を見せた。
直線を加速するのではなく、ステアリングを私の車線へと強引に切ったのだ。
タイヤが白煙を上げ、ボロセダンが真横を向いて猛烈なスピンを始める。
それはパッシングでもブロックでもない。私の車の『真正面』に、自らの車体の側面を壁のように晒して飛び込んできたのだ。
「なっ──!?」
ブレーキを踏む暇などなかった。
目を見開き、真横を向いたセダンの窓ガラスを見た瞬間。
窓ガラス越しに、視線が完全に交差した。
強制的に読心のスイッチが入り、ヤツの脳内に渦巻く、灼熱のような思考の塊が私の脳髄へと直接流れ込んでくる。
「(どうせ聞こえてるんだろ。……これはレースじゃない。お前を意地でも逃がさないための、勝負だ!!)」
それは言葉以上の、圧倒的な質量を持った「覚悟」の鉄槌だった。
二台の車が、恐ろしい速度のまま激突する。
私の乗っていたスポーツカーはセダンの側面に深々と突き刺さり、その凄まじい運動エネルギーは二台の車体を纏めて吹き飛ばした。
ガードレールをへし曲げ、車体は絡み合ったまま、土煙と轟音を撒き散らして夜の峠道に沈黙した。盛大な、ダブルクラッシュだった。
凄まじい衝撃と、鼓膜を破るような金属の破砕音。
視界がぐるぐると回転し、ガラスの破片が星屑のように夜の闇を舞うのが見えた気がした。
「あ、脚ががくがくする……ひぃぃぃ……」
「ライト消して峠走るなんて、二度とやらねぇ……」
その、ひどく後悔に満ちた、けれどどこかやり遂げた安堵を含む声が耳に届いたのが最後。
急激なアドレナリンの切れと、クラッシュの衝撃による脳震盪で、私の意識は暗く、深い闇の中へと落ちていった。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
カノンとの熾烈を極めたカーチェイスの決着をつけた後。
私たちは持っていた結束バンドとガムテープを総動員して、カノンを文字通りの簀巻き状態にしてトリニティへと帰還したのだった。
「帰ったぞ~」
思春期相談窓口の事務所のドアを、先生がダルそうに開けた。
その手には、まるで不燃ゴミの袋でも引きずるかのように、ぐるぐる巻きにされたカノンの襟首が握られている。
「あ、ウタハさん、来てたんすね」
私がボロボロの制服の埃を払いながら中に入ると、そこには完全武装状態のウタハさんが待ち構えていた。
事務所の入り口には自動迎撃タレットが三基用意され、窓には防弾用のシャッターが下ろされている。さらにはウタハさん自身も、銃を構えて異常なほどの警戒態勢を敷いていた。
「イチカ! キサラズはどうだった! 私も今から向かおうと思っ……。はぁっ!?」
ウタハさんの声が、間抜けなほど高く裏返った。
彼女は目を丸くして、私の無事な姿と、そして先生がズルズルと引きずり込んできた「荷物」を交互に凝視した。
「……そ、それは……」
「ええ、捕まえてきたっす。カノンっす」
私がVサインを作って見せると、ウタハさんは持っていた銃をガシャリと床に取り落とした。
「な、ななな……何を言っているんだ君たちは!? なぜ、コンビニ帰りのようなテンションで引きずって帰ってくるんだ!!」
ウタハさんがかつてないほど取り乱し、目をカッと見開いて私たちに詰め寄ってくる。
「いやー、実はかくかくしかじかありまして……キサラズの峠でカーチェイスして、正面衝突して捕獲したんすよ」
「論理が飛躍しすぎている!! そもそもなぜ君たちがそんな危険な真似を……ッ!」
「まぁまぁ、ウタハ。細かいことはいいじゃねぇか。結果オーライだろ」
先生がカノンを部屋の隅のソファにドサリと放り投げ、いつものように自分のデスクへと向かった。
「結果オーライで済むか! 相談窓口のソファに転がしておくなど……!」
ウタハさんが頭を抱えていると、ソファの上で「ん……うぅ……」と低い呻き声が上がった。
カノンが目を覚ましたのだ。
「おっ、起きたっすね」
私が油断なく距離を詰めると、カノンは重い瞼をゆっくりと開いた。
見慣れぬ天井。タバコとコーヒーの匂いが染み付いた部屋。
自分がどこにいるのか、一瞬状況を理解できなかったのだろう。だが、私と先生の顔を視界に捉えた瞬間、彼女の瞳に獰猛な殺気が蘇った。
「……ッ! 仲正イチカ……!」
カノンは拘束されていることにも構わず、獣のような動きで跳ね起きた。
結束バンドで縛られた両手を無理やり引きちぎろうと力を込め、そのまま私に向かって突進してこようとする。
手元に対物ライフルはない。ならば白兵戦で私を殺し、活路を開こうという本能的な戦闘態勢だ。
「死ねッ!!」
カノンが叫び、私に向かって蹴りを放とうとする。
当然、彼女は『読心』を発動している。私の脳内に浮かぶ回避の軌道、カウンターのタイミングを読み取り、それを上回る速度で制圧するつもりなのだろう。
カノンの瞳が怪しく光り、私の思考を完璧に先読みした。
──だが。
「……あっ?」
カノンが左足に体重を乗せようとした瞬間、彼女の身体はカクンと無様に崩れ落ちた。
車での正面衝突。あの猛烈なダブルクラッシュのダメージが、彼女の身体を根本から破壊していたのだ。
全身の筋肉は悲鳴を上げ、三半規管は揺れ、足には力が入らない。
「思考が読めても、身体がついてこないんじゃ意味ないっすよ」
私が冷たく言い放ち、体勢を崩したカノンの胸ぐらを掴んだ。
「がはっ……! 離しなさいよ、このクソ虫が……!」
「大人しくするっす。もう、あなたのオモチャはどこにもないんすから」
『読心』がどれだけ私の動きを正確に予測しようとも、今の彼女のボロボロの肉体では、それを回避するための行動に移ることすらできない。
「私の動きが読めてるなら、次にどうされるかも分かるっすよね?」
私が関節をギリッと極めると、カノンは屈辱と激痛に顔を歪めた。
「ぐ、あぁぁっ……! ふざけるな……! こんな、こんな所で……!」
「はい、そこまでだ」
先生が、火のついていないタバコを咥えたまま、静かに口を開いた。
「……今からでも、更生を始めないか?」
それは、警察の尋問でも、敗者への嘲笑でもなく、ただの「先生」としての素直な提案だった。
だが、カノンは血走った目で私たちを睨みつけ、鼻で笑った。
「……ふざけんな。私はこの世界を壊してみせるのよ」
その言葉には、一切の迷いがない。彼女の中から抜け落ちた良心が、その答えを絶対のものとして出力させているのだ。
数秒の沈黙。
先生はため息をつき、首をポリポリと掻いた。
「そうか……よし、イチカ、ウタハ。やっておしまい」
「了解、した……?」
「了解っす!」
先生の号令と共に、私とウタハさんは一斉に動いた。
カノンが身構えたその目の前で、私たちは壁にかかっていた『エプロン』をバサッと羽織り、給湯室へと向かった。
おもむろに寸胴鍋の火にかけ、冷蔵庫からタッパーを取り出す。
そう、思春期相談窓口の隠れたお約束──「一から作る特製ラーメン」の準備である。
これまでの数々の徹夜作業や事件の合間で、私たちのラーメン技術は飛躍的に向上していた。麺の生地は常に最適な加水率で寝かせて常備しており、スープに至ってはウタハさんの科学的アプローチによって、日々レシピの研究とアップデートが繰り返されている状態だ。
ザルで湯切りをする小気味良い音と、鶏ガラと魚介の濃厚な香りが事務所に充満していく。
「……何よこれ」
床に転がされたままのカノンが、完全に毒気を抜かれた顔で呟いた。
「俺らの特製ラーメン」
先生が、さも当然のように答える。
「意外とうまいっすよ。ほら、私の記憶を読んでみてくださいよホラホラ。豚骨の配合比率から、かんすいの絶妙な分量まで全部イメージするっすよ~!」
私は寸胴鍋をかき混ぜながら、脳内でこれでもかというほど高解像度のラーメンを思い浮かべ、カノンの読心ネットワークへと意図的に垂れ流した。
「私の頭にクソみたいなレシピを流し込んでくるな!!!!」
数分後。
湯気を立てる四つの丼がテーブルに並べられた。
私たちはカノンの右腕だけが自由に動かせるように拘束を緩め、彼女をパイプ椅子に座らせた。
「ほら、冷めないうちに食うっすよ」
私が箸を差し出すと、カノンは警戒心剥き出しの目で丼と私たちを交互に睨みつけた。
「なぜ、こんな施しをするのよ」
毒でも入っていると疑っているのか、あるいはこの状況が全く理解できないのか。彼女の声には、先ほどまでの絶対的な狂気とは違う、純粋な困惑が混じっていた。
「ん~、前からイチカと話してたんだよ。お前のことを純粋に悪と見て懲らしめるのは、相談窓口の形としてどうなんだろうってな」
先生が麺を啜りながら、なんでもないことのように言う。
「は……?」
「すべての生徒に平等に。シャーレの先生も自分で言ってる信念っすね。無論、それならば私たち相談窓口もそれに則らないとって思ってたんすよ」
私がチャーシューをかじりながら答えると、カノンは呆然としたように目を瞬かせた。
私たちが命を狙われ、あれだけ散々な目に遭わされた相手だ。憎んで当然、痛めつけて当然。それが彼女の知る「世界のルール」だったはずだ。
けれど、ここは『相談窓口』だ。迷子になった生徒を、どんなに泥だらけでも、どんなに悪に染まっていても、同じテーブルに座らせて温かいものを食べさせる。
「……だからこうして、良心を思い出させようとしてるってわけ」
カノンが、自嘲するように鼻で笑った。
良心。それを一杯のラーメンで取り戻せるほど、彼女も世界も単純ではないことは分かっている。
それでも、私たちはこの形を選ぶのだ。
「端的に言えばそうなるな」
ウタハさんが、レンゲでスープを味わいながら静かに肯定した。
そして先生の方を向く。
「……先生、次は辛みそにでも挑戦しようか。このベーススープなら、カプサイシンの刺激と味噌のコクが論理的なマリアージュを生み出すはずだ」
「アリ寄りのアリ」
先生が即答し、二人は真剣な顔で次回のラーメンの構想を練り始めた。
カノンは、自分を囲んで繰り広げられるあまりにも日常的で平和な会話に、完全に置き去りにされている。
彼女はプルプルと肩を震わせ、ついに耐えきれなくなったように声を荒らげた。
「こっちを混乱させるだけさせて、ラーメンの話してんじゃないわよ……ッ!!!!」
大悪党の、渾身のツッコミ。
私たちがそれを見て思わず吹き出すと、カノンは忌々しそうに舌打ちをし、不貞腐れたように割り箸を割って、乱暴にラーメンを啜り始めたのだった。
「ほんで美味いわね……!」
「あら意外と素直」
「見直したっす」
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
冷たく、無機質な電子音だけが規則的に響く、連邦矯正局の最深部。
分厚い特殊防弾ガラスと、何重にもロックが掛けられたチタン合金の扉に閉ざされた特別独房の中で、私は薄暗い天井を睨みつけていた。
全身を厳重な拘束衣で縛られ、冷たいベッドの上に横たわることしか許されていない屈辱的な状況。
「……クソ虫どもが」
乾いた唇の隙間から、呪詛が漏れる。仲正イチカ。そして、あの元・先生。
私の完璧な遊戯盤を滅茶苦茶に破壊し、この薄汚い檻へと再び私を叩き落とした連中。
絶対に許さない。次に外に出た時は、あいつらの大事なものを一つ残らず奪い尽くし、絶望の中でそのヘイローを壊してやる。
「(私は、まだ負けてない……。こんな檻、いつでも抜け出せるんだから)」
私は拘束衣の中で身をよじりながら、凶悪な笑みを口の端に浮かべた。
そう、一度できたことだ。看守の心さえ読めば、弱みを握り、脅迫し、前回と同じように身代わりを仕立て上げて脱獄することなど造作もない。
私の『読心』さえあれば、この世界に私を閉じ込めておける壁など存在しないのだ。
「ふ、ふふ……まだ手はある……!」
私は狂気を孕んだ瞳で、独房の扉の向こう側へと意識を集中させた。
ちょうど、巡回の看守の足音が近づいてくるのが聞こえたからだ。
カツッ、カツッ、という重いブーツの音。
普段であれば、足音が聞こえるよりも前に、その人間の思考が極彩色の文字や音声となって、私の脳内に流れ込んでくるはずだった。
『今日の夕飯は何にしよう』『早くシフトが終わらないか』『あの囚人は気味が悪い』……そんな、凡人どもの取るに足らない思考の垂れ流しが。
「(さあ、あなたの秘密を教えて。一番見られたくない、ドロドロの欲望を……)」
私は、扉の向こうに立つ看守の気配に向かって、目線を動かした
「……え?」
私は微かに眉をひそめた。
聞こえない。
いや、何かは聞こえる。しかしそれは、今までのようにクリアで鮮明な他者の「声」ではなかった。
まるで、水の中に頭を突っ込んでいるかのような、あるいはチューニングの合っていない古いラジオのような、ひどくノイズまじりのくぐもった音。
看守が扉の小窓からこちらを覗き込んでいるのが分かる。目が合っている。
普段なら、強制的に思考が流れ込んでくるはずの絶対的な条件。
だというのに、看守の考えていることが、まったく読み取れない。濃い靄がかかったように、ピントが合わないのだ。
「な、なに……これ……」
恐怖はない。ただ、純粋な疑問だけがあった。
他者の心が読めない。
それは、私の遊戯盤を組み立てるための唯一の武器が、砂のようにこぼれ落ちようとしている証拠だったのに。
私はただ首を傾げ、不審に思いながら呟いた。
「心が……読みづらい……なんて」
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
ラーメンを完食したカノンを、私たちはヴァルキューレ警察学校のカンナ局長へ引き渡した。
カノンはパトカーに押し込まれるその瞬間まで「絶対にぶっ殺す」「次会ったらそのヘイローをへし折ってやる」と凄まじい悪態をつき続けていたが、肉体的なダメージと読心のオーバーフローでもう抵抗する力は残っていなかった。
こうして、ブラックマーケットの闇からトリニティにまで手を伸ばしていた『強化薬剤』の元締めは再逮捕され、私たちの長く危険な「課外授業」はついに終わりを告げたのだった。
そして、数日後。
雲一つない、抜けるような秋の青空。
キサラズ学園の古びた木造校舎を背景にしたのどかな校庭のど真ん中で、なぜか極彩色のLEDを無駄に輝かせる『ゲーミング全自動雀卓・改』の機械音が響き渡っていた。
「ん~っ! たまにはこういう、青空の下でのマージャンもオツっすねぇ!」
私はパイプ椅子に深く腰掛け、澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込みながら背伸びをした。
木々の間を吹き抜ける風が心地よく、日差しはポカポカと暖かい。まさに絶好の行楽日和、もとい麻雀日和である。
「……腰が痛ぇ。この無駄に重い雀卓を、車から下ろして校庭のど真ん中まで運んでセッティングするのがどれだけ大変だったか……。俺は二度とやりたくないがな」
対面に座る先生が、腰をトントンと叩きながら恨めしそうに呟いた。
電源はどうしたのかといえば、ウタハさんが自作のポータブル大容量バッテリーを持参して繋いでいる。そこまでして外で全自動卓を囲む執念には恐れ入る。
「まあまあ。日光浴はセロトニンの分泌を促し、精神衛生を保つのに極めて有効だと論理的にも証明されている。それに、屋外での稼働テストも兼ねているからな」
下家で理牌を素早く済ませたウタハさんが言った。
「テストってなんのテストっすか。これ以上光らせなくていいっすからね」
私たちがそんな軽口を叩き合っていると、上家に座っていたタケルさんが、ふわりと春風のような微笑みを浮かべて、手元の牌をパタンと倒した。
「あ、先生。それ、当たりです♪」
「……は?」
「四暗刻です♪」
「タケルーッッ!! お前なんか強くなってねぇか!?」
先生が素頓狂な声を上げて立ち上がり、タケルさんの手牌を凝視した。
綺麗に揃った暗刻が四つ。役満である。
先ほどから、タケルさんのアガリ方が尋常ではない。迷いなく危険牌を通し、スジを読み、そして恐ろしいまでの豪運で役満をツモり、あるいは直撃させてくるのだ。
「えへへ、気のせいですよ♪」
「気のせいじゃねぇ! お前、俺の理牌の癖とか、伏せてる牌の裏側のわずかな傷とか読み取ってんだろ!」
「ひどい言いがかりです。私はただ、先生の捨て牌のリズムから『そろそろこの牌が出るかな?』って予測しただけですから」
「それをプロの雀士は『読み』って呼ぶんだよ!!」
頭を抱えて点棒をむしり取られる先生を見て、私とウタハさんは思わず吹き出した。
暴力でも読心でも敵わなかった相手に、麻雀というテーブルゲームで完膚なきまでに叩きのめされている。かつて命を懸けて守り抜いた少女に、今は点棒をむしり取られて涙目になっているのだ。
この平和で、どうしようもなく間抜けな光景が、たまらなく愛おしかった。
ジャラジャラと、再び卓が牌をかき混ぜる。
新たな牌山がセットされ、それぞれが配牌を取り始めた時、ふとウタハさんが静かな声で口を開いた。
「……結局、カノンは更生の兆しが見えなかったな」
その名前に、卓の空気がほんの少しだけ引き締まる。
ヴァルキューレに引き渡される前、私たちが用意したラーメンを文句を言いながらも完食した彼女だったが、最後に残した言葉は呪詛そのものだった。
良心の欠落。他者の痛みをエンターテインメントとして消費する、底なしの悪意。
「まぁ、あの性格ならしょうがない気もするっすけどね」
私は手元の牌を整理しながら、軽く肩をすくめた。
「一朝一夕で人が変わるなら、キヴォトスに警察も正実もいらないっす。ああいう手合いは、一生かけて自分のやったことの重さを思い知らせるしかないっすよ」
それが、治安維持に関わる者としての現実的な見解だった。
だが、牌を見つめていた先生が、短く息を吐いてから、ゆっくりと顔を上げた。
「……それでも、俺は信じてみたい」
先生の声は低く、けれど青空に溶けていくように穏やかだった。
「もちろん、仲間に危害を加えるならそれは容赦しない。その時はまた、車ごと突っ込んででも物理的に止める。……だが」
先生は、自身の指先──かつて暴力で生徒を傷つけた指先。でも今は確かに正義のもとに生きている指先。
「一人の生徒として、アイツが更生する可能性があるなら、俺は信じたい」
その言葉に、私は思わず牌を取る手を止めた。
かつて、「自分はただの暴力装置だ」「先生じゃない」と自暴自棄になっていた男。
タケルさんを守れなかった後悔に押し潰され、社会の暗がりに身を潜めていた男。
そんな彼が今、自分たちを殺そうとした大悪党の生徒にすら、「更生の可能性を信じたい」と口にしている。
見放さない。諦めない。
どんなに泥だらけでも、どんなに歪んでいても、生徒の明日を信じて手を伸ばし続ける。
私は、自然と口角が上がるのを止められなかった。
目を少しだけ開き、目の前に座る不器用な相棒を真っ直ぐに見つめる。
「……やっと、先生らしいこと言ったじゃないっすか」
からかうような、けれど心からの敬意を込めた私の言葉に、先生は気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「やっと、は余計だ。元から俺はこういうスタンスだ」
「はいはい、そういうことにしておくっすよ」
「……でも、それが俺たち『思春期相談窓口』だろ。糸目」
先生がこちらを見返し、ニヤリと笑った。
その顔は、もう過去の亡霊に囚われた犯罪者のものではない。
トリニティ総合学園、思春期相談窓口顧問。佐倉正義という、一人の「先生」の顔だった。
「……ええ、そうっすね。あとイチカっす」
私は深く頷き、手元の牌に視線を戻した。どれだけ厄介な相談が来ようと、どれだけ危険な事件に巻き込まれようと。
この窓口がある限り、私たちは生徒の話を聞き、共に走り続けるのだ。
そう、胸に温かい決意を抱きながら、心地よい風に吹かれていた、その時──。
「あ、先生。国士無双です♪」
タケルさんが、純真無垢な、天使のような笑顔と共に、一九字牌が美しく並んだ手牌をパタンと倒した。
「タケルーッッ!?」
「……っぷ、ぶぁっはっはっはっは!! 先生! 振り込みすぎっすよ!!」
「く……くくく……ぶふっ……」
「いや違うこいつが悪い! 振り込みすぎとかじゃなくて! 引きがおかしいの!!!」
キサラズ学園の青空に、本日二度目となる、先生の断末魔の絶叫が響き渡った。
私は耐えきれずに吹き出し、ウタハさんは腹を抱えて笑い転げている。
「いつもの先生風に言うなら、『佐倉先生、爆撃ィ!!』ですかね♪」
「やかましい!」
終わりのない青春の喧騒が、どこまでも続く青空へと溶けていく。
私たちの『相談窓口』は、今日も元気に営業中だ。
▼ちなみに▼
書くの忘れてて急いでここに書き足しましたが……。
蛇足にするつもりはないので、このおまけ3をもって完全に完結となります。
あくまでもおまけのエピソードですし……。
ありがとうございました。