【完結】仲正イチカは悪い大人についていく   作:曇りのち晴れ男

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第四話 裁きは誰がために

 

 トリニティ総合病院の一室。

 規則的な電子音だけが響く静寂の中で、ワタヌキはベッドの横の丸椅子に座っていた。

 

 白いシーツの上には、アオゾラの手が力なく置かれている。

 顔にはまだ包帯が巻かれており、その瞳が閉じられてからもう数日が経っていた。意識が戻る気配は、まだない。

 

「……ごめんね、アオちゃん」

 

 ワタヌキは震える手で、アオゾラの冷たい手に触れた。

 本来なら、あの食事会には自分が参加するはずだった。たまたま急用が入って、代わりに行ってくれないかと頼んだのは自分だ。

 もし自分が予定通り行っていれば、今ここで眠っているのは自分だったかもしれない。

 そう思うと、申し訳なさと悔しさで胸が張り裂けそうになる。

 

「でもね、安心して」

 

 ワタヌキは涙をこらえ、努めて明るい声を出すようにした。

 

「私、相談に行ったの。『思春期相談窓口』っていう、新しくできたところに」

 

 彼女の脳裏に、あの二人の姿が浮かぶ。

 一人は、どこか気だるげで怖い雰囲気を持った、元・先生の男性。

 もう一人は、正義実現委員会の制服を着た、優しそうだが芯の強そうな生徒。

 

「最初はちょっと怖かったけど……あの人たち、本気だよ。きっと、アオちゃんをこんな目に遭わせた犯人を見つけてくれる」

 

 返事はない。それでも、ワタヌキにはアオゾラが聞いてくれているような気がした。

 

「だから、私もできることをしなきゃ。……これ、あの人たちに持っていくね」

 

 ワタヌキは膝の上に置いていた小さな紙袋を手に取った。

 中には、彼女が徹夜で焼いたクッキーが入っている。お礼というにはささやかすぎるかもしれないが、感謝の気持ちを伝えたかった。それに、糖分を取れば捜査の疲れも少しは癒えるかもしれない。

 

「行ってくるね。……戻ってきたら、また話そうね」

 

 ワタヌキは深く一礼すると、病室を後にした。

 廊下の窓から差し込む光は穏やかだが、彼女の足取りは少し急いでいた。

 一刻も早く、あの二人に感謝と応援を伝えたい。

 

 トリニティの石畳を歩き、彼女は相談窓口の事務所へと向かった。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 トリニティの優雅な石畳とは似ても似つかない、油と鉄錆、そして淀んだ欲望の臭いが充満する場所。ブラックマーケット。

 治安維持活動で何度か踏み込んだことはあるけれど、こうして「客」として歩くのは初めてで、私は生理的な嫌悪感に眉をひそめていた。

 

「……先生。本当にここにあるんすか?」

 

「カイザー製の軍用品だぞ。正規ルートで流れるわけがない。ここに来れば履歴くらいは残ってる」

 

 先生は慣れた足取りで路地裏を進んでいく。

 その背中は、トリニティの制服を着た私よりも、この薄汚い街の風景に馴染んでいた。それが少し、癪に障る。

 

 辿り着いたのは、ジャンクパーツが山積みにされた薄暗い露店だった。

 店主の男──ヘルメットで顔を隠した裏社会の住人が、値踏みするような視線を向けてくる。

 

「……何の用だ、お嬢ちゃん。ここは優等生のお遊戯場じゃねえぞ」

 

「商談に来たんすよ。客を選り好みするほどの身分っすか?」

 

 私は努めて平静を装い、懐から巾着袋を取り出した。

 中に入っているのは、正義実現委員会で押収し、廃棄予定だった銃器のカスタムパーツだ。この界隈では金よりも信用のある通貨になる。

 

「カイザーインダストリー製の起爆信管、『K-DETO 4型』。最近、それを購入した人間の履歴が知りたいっす」

 

 袋をカウンターに置くと、重みのある音が響く。

 店主は中身を確認し、口元をニヤリと歪めた。

 

「上玉だな……いいだろう」

 

 店主は薄汚い端末を叩き、面倒そうに答えた。

 

「ああ、確かに売ったな。三日前の深夜だ」

 

「誰にっすか?」

 

「さあな」

 

 店主は肩をすくめ、手元のパーツを懐にしまい込もうとする。

 私はカウンターを強く叩いた。

 

「とぼけないでください! 対価は払ったはずっすよ!」

 

「あぁ? 俺は『売ったかどうか』と『いつか』は教えたぜ? どこまで話すかなんて線引きしてなかったしなぁ……もっと知りたきゃ、倍は出しな」

 

「なっ……!?」

 

 足元を見られた。

 ここは契約や信義が通じる世界じゃない。騙される方が悪い、奪われる方が弱い。そういう論理が支配する場所だ。

 私が唇を噛み、銃に手を伸ばしかけた、その時だった。

 

「んがっ……!?」

 

 隣にいた先生が、私の制止も聞かずにカウンターを乗り越え、店主の胸倉を掴み上げた。

 

「おい、クソガキ。勘違いすんなよ」

 

 先生の声は低く、地を這うような威圧感があった。

 タバコの煙を店主のヘルメットの吹きかけ、至近距離で睨みつける。

 

「俺たちがここに来たのは『買い物』じゃねえ。『確認』だ」

 

「て、手ぇ離せ! ここの警備を呼ぶぞ……!」

 

「呼べよ。どうせ来る頃には、お前の店は更地になってる」

 

 先生の手が、近くにあったドライバーを掴み、躊躇なく店主の眼球──ヘルメット越しの目の前──に突き立てるような動作を見せた。

 店主が悲鳴を上げて仰け反る。ドライバーの先端は、ヘルメットにコツンと当たり、そこで止まっていた。

 

「……俺は気が短いんだ。特に今日は、アイス食った直後で腹が冷えてるんでな」

 

 その目は、教育者のものではない。

 暴力と恫喝を呼吸するように行う、ごろつきの目だった。

 

「ひーっ! わ、わかった! やる! データごとやるから!!」

 

 店主は震える手で端末を操作し、メモリチップを抜き出してカウンターに放り出した。

 

「……ちっ。最初からそうすりゃいいんだよ」

 

 先生は乱暴に店主を突き放すと、メモリチップを拾い上げ、私に放って寄越した。

 

「ほら、行くぞ。イチカ」

 

「……は、はいっす」

 

 私はチップを握りしめ、逃げるように店奥へ引っ込んだ店主を一瞥してから、先生の後を追った。

 背中を向けて歩く先生は、何事もなかったかのように新しいタバコを取り出している。

 

「(……やるときはやるんすね、わりと最低っすけど)」

 

 心の中で褒めながらも、少しだけ悪態をついた。

 けれど、私の「正しさ」では何も手に入らなかったのは事実。先生の「悪さ」が、情報をこじ開けたのだ。

 その事実が、ブラックマーケットの空気よりも重く、私の胃の腑にのしかかっていた。

 

 ■■■

 

 ブラックマーケットから持ち帰ったデータを、事務所のデスクに広げる。

 安っぽい電子端末の画面には、無機質な購入履歴の羅列が光っていた。

 

「……先生、これ」

 

 私が指さしたのは、起爆信管を購入したIDの履歴だ。

『カイザーインダストリー製・汎用電子信管』。

 ブラックマーケットの情報屋を締め上げて吐かせたそのIDは、今回の事件だけに留まっていなかった。

 

「3ヶ月前、5ヶ月前、そして半年前……。これ、全部同じIDっすよね?」

 

「ああ。ご丁寧に会員ポイントまで貯めてやがる」

 

 先生は椅子の背もたれに深く体重を預け、紫煙を吐き出しながら別の端末を操作していた。

 その画面には、キヴォトス各地の過去のニュース記事が表示されている。

 

「見ろ。俺がキヴォトスに来る前の日付からすでに事件が起きてる。3ヶ月前、ゲヘナ自治区外縁部の倉庫火災。5ヶ月前、ミレニアム自治区第4区画の実験施設ガス爆発。半年前……トリニティの商店街でのボイラー事故」

 

 先生が読み上げる事件の日付と、目の前の購入履歴の日付を照らし合わせる。背筋が凍るような感覚が走った。

 購入日の数日後、必ずどこかで「事故」が起きている。

 

「これ……全部、事故として処理されてるっす」

 

「現場に証拠を残さねぇプロの仕業か、あるいは捜査機関が無能か。……恐らく両方だろうな」

 

 先生は煙草の灰を携帯灰皿に落とし、冷ややかな目でモニターを見つめた。

 

「購入履歴のIDから割り出した生徒の名は『ヒガ』。所属は不明だが、これだけ派手にやっておいて足がつかないのは異常だ。ただの破壊衝動か、あるいは金のための請負か……」

 

 先生はそこで言葉を切り、吐き捨てるように言った。

 

「どっちにしろ、その性根の腐り方は『七囚人』にも匹敵するな」

 

「……間違っても先生にだけは言われたくないと思うっすよ?」

 

 たった一人の生徒が引き起こしたとは信じがたい被害規模だが、データは冷酷な事実を突きつけている。

 今回、アオゾラさんが巻き込まれた廃ビルの爆発も、この連続爆破事件の一つに過ぎないのだ。

 

「先生、すぐにヴァルキューレ警察学校に連絡を……いえ、正義実現委員会の本部に増援を要請するっす」

 

 私は端末を取り出そうとした。

 しかし、先生の低い声がそれを制した。

 

「無駄だ」

 

「どうしてっすか! 相手は連続爆弾魔かもしれないんすよ!?」

 

「ヴァルキューレは今回の件を『ガス爆発事故』と断定した。それを覆して捜査を再開させるには、膨大な書類と手続き、そして『間違いを認める』時間が必要になる」

 

「じゃあ、正実なら……!」

 

「ハスミやツルギにこれ以上、仕事を増やす気か? 前々から進めてる……なんっつったか、『エデン条約』の件で業務はパンク寸前だろ。正規の手順で動けば、会議だの承認だので数日はかかる」

 

 私は言葉に詰まる。

 先生の言う通りだ。今の正義実現委員会は、通常の治安維持だけで手一杯。

 確たる証拠もなしに「事故」として処理された案件に、即座に大規模な戦力を割くことは難しい。

 

「奴は信管を買った。そして次の標的を探しているかもしれねぇ。数日も待ってれば、ヒガは逃げるか、次の花火を打ち上げるかだ」

 

 先生は立ち上がり、ジャケットを羽織る。

 その動作には、一切の迷いがなかった。

 

「行くぞ、イチカ。俺たちで動く」

 

「……了解っす。私たち『思春期相談窓口』の管轄内で起きた問題っすからね」

 

 私は頷き、愛用の銃を点検してホルスターに収める。

 ここがトリニティの治安を守る最前線なのだと言い聞かせるように。

 

 私たちは慌ただしく事務所を出た。

 机の上には、ヒガの購入履歴と、過去の爆発事故の記事が印刷された資料が散らばったまま。

 片付ける余裕さえ惜しかった。

 

 事務所を飛び出し、私たちはトリニティ自治区の周辺地域で聞き込みを続けていた。

 しかし、成果は芳しくない。

 

「私の足でも舐めれば手伝わんこともないぞ?」

 

「……まさか舐めないっすよね?」

 

「そんな奴いるわけねぇだろ、いたら大人としてのプライドとか無いだろ。……すまん、他をあたる」

 

 一般人やいろんな学園の生徒に聞き込みをしたが、「ヒガ」という名前を出しても、誰もが首を横に振るか、関わり合いになりたくないと露骨に顔を背けるかだ。

 

「……空振りっすね。こうも情報が出ないと、逆に不自然なくらいっす」

 

 私がため息交じりにこぼすと、前を歩く先生は気だるげにタバコの箱を振っていた。中身が空なのか、舌打ちが聞こえる。

 

「痕跡を消すのが上手いのか、それとも単にビビられてるのか。……どっちにしろ、手詰まりだな」

 

「一度事務所に戻って、もう少し情報を調べるべきじゃないっすか?」

 

「いや、あいつの購入履歴の頻度からして、悠長に待ってる時間は──」

 

 先生が言葉を切り、足を止めた。

 一瞬の静寂。

 その直後、背筋が粟立つような爆音が鼓膜を叩いた。

 

「ッ! 先生、危ない!!」

 

 私が叫ぶと同時に、先生は反射的に横へと飛んだ。

 直後、猛烈なスピードで突っ込んできた改造車両が、さっきまで先生が立っていたアスファルトを削りながら通過していく。

 タイヤが焦げる臭いと、排気ガスの悪臭が鼻をつく。

 

「げほっ……! いきなりなにするんすか!」

 

 私は即座に銃を構え、停車した車へと銃口を向ける。

 甲高い音を立てて止まった車のドアが開き、中から武装したヘルメット団のような不良たちが数名、わらわらと降りてきた。

 

「あーあ、外しちまったか。あんなナリしてすばしっこい野郎だ」

 

 リーダー格らしき生徒が、鉄パイプを肩に担ぎながらニヤニヤと笑っている。

 

「おいおい、どこのどいつかと思えば……最近ウワサの『暴力教師』と、正実の腰巾着じゃねぇか」

 

「……あ?」

 

 アスファルトに転がった先生が、ゆっくりと身を起こす。スーツは砂埃で汚れ、膝の部分が少し擦り切れていた。

 しかしその表情に焦りはない。あるのは、吸えなかったタバコへの未練と、底冷えするような殺気だけだ。

 

「ここらでコソコソ嗅ぎまわってるネズミがいるってヒガさんから聞いてな。掃除しに来てやったんだよ」

 

 不良たちが銃器を構え、私たちを取り囲む。

 完全に待ち伏せされていたようだ。

 私は冷や汗を流しながら、先生の前に立って射線を塞ぐ。

 

「先生、下がっててほしいっす。私がなんとか道を切り開くんで……」

 

「いや、いい」

 

 先生はパタパタとスーツの埃を払い、懐から愛用のハンドガンを抜いた。

 

「え?」

 

「探す手間が省けたじゃねぇか」

 

 カチャリ、とスライドを引く音が、張り詰めた空気に響く。

 先生は凶悪な笑みを浮かべ、不良たちを見据えた。

 

「まぁ、情報網が向こうから来てくれたと思えばラッキーだな」

 

「ハッ、強がり言ってんじゃねぇぞ! やっちまえ!!」

 

 不良の合図とともに、乾いた発砲音が路地に響き渡る。

 

「くっ!」

 

 私は即座にトリガーを引き、牽制射撃を行う。

 私のライフルが火を噴き、先頭にいた不良の足元をあぶった。彼らがひるんだ隙に、近くの遮蔽物へと滑り込む。

 

「イチカ、右!」

 

 先生の短い指示。

 私が反応するより早く、先生のハンドガンが二発、的確に右から回り込もうとしていた敵の武器を弾き飛ばした。

 ただの大人が、銃撃戦の真ん中で平然と引き金を引いている。その異常さに、私は背筋が寒くなるのと同時に頼もしさを感じてしまっていた。

 

「……了解っす!」

 

 私は遮蔽から飛び出し、距離を詰める。

 相手は数こそ多いが、所詮はゴロツキ。訓練を受けた正義実現委員会の相手ではない。

 懐に入り込み、銃床で一人を殴り倒し、返す刀で別の一人の足を払う。

 

「ギャッ!?」

 

「寝ててほしいっす!」

 

 至近距離からの制圧射撃。

 わずか数分の交戦で、立っているのはリーダー格の生徒だけになった。

 

「ひ、ひぃ……ッ!?」

 

 リーダーが逃げようと背を向けた瞬間、乾いた音がして、彼女の足元のアスファルトが弾けた。

 

「おっと。まだ話は終わってねぇぞ」

 

 硝煙の漂う銃口を向けたまま、先生がゆっくりと歩み寄る。

 その姿は、教育者というよりも、取り立て屋か何かのようだった。

 

「ひ、ヒガさんは……ヒガさんは俺たちを寄こしただけだ! 俺は何も知らねぇ!」

 

「そうか。じゃあお前には用はねぇな」

 

 先生は冷淡に言い放ち、銃口を不良の眉間へ向ける。

 本気だ。

 この人は、引き金を引くことに躊躇がない。

 

「ま、待て待て待てッ! 言う! 言うから撃つな!!」

 

 リーダー格の生徒は腰を抜かして涙目で叫んだ。まぁ、あんな気迫で銃口を向けられたら無理もないだろう。

 

「ふ、ふ頭だ! 第3区画の古い倉庫街……あそこの一番奥にある倉庫をたまり場にしてる!」

 

「ふ頭……」

 

「そ、そうだ! そこにいるはずだ! だから……!」

 

 先生は銃を下ろすと、興味を失ったように視線を外した。

 

「行こうぜ、イチカ。ビンゴだ」

 

「……はぁ。もう少し穏便に聞けないんすかね」

 

 私は気絶している不良たちを横目に、ため息をつく。

 だが、これで手掛かりは掴めた。

 ヒガという人物がいる場所へ、道は繋がったのだ。

 

「急ぐぞ。これだけ派手にやり合ったんだ、逃げられる前に押さえる」

 

 先生は早足で歩き出す。

 その背中は、怒りとも焦燥ともつかない、暗い感情を帯びているように見えた。

 

■■■

 

 潮風が錆びた鉄の臭いを運んでくる。

 案内されたふ頭の奥、コンテナが迷路のように積み上げられた一角に、その生徒はいた。

 夕暮れの逆光を背に、波止場のボラードに腰掛けて海を眺めている。

 ヒガだ。

 

 こちらに気づいているはずなのに、彼女は振り返りもしない。

 

「……思ったより早かったな。あのバカども、少しは時間を稼ぐかと思ったが」

 

 ヒガがゆっくりとこちらを向く。

 その表情には焦りも恐怖もない。あるのは、獲物を見定めた狩人のような冷徹な眼差しだけだった。

 

「あなたがヒガさんっすか。連続爆発事件の件で、少し話を聞きたいんですが」

 

「正実がわざわざお出ましか。……話? 時間の無駄だ」

 

 ヒガが腰掛けていたボラードから滑り降りると同時、その手が背中へ回る。

 会話の余地なし。私は即座に自身の銃を構えた。

 

 ヒガが取り出したのはアサルトライフルだった。マズルフラッシュが瞬き、殺意の塊が飛来する。

 私は近くのコンテナの陰に滑り込み、その連射を回避した。

 アスファルトが削れ、跳弾が火花を散らす。

 

「先生、下がって!」

 

 私が叫ぶのと、先生が舌打ちをするのは同時だった。

 

「チッ、威勢がいいな!」

 

 先生も遮蔽物に身を隠すが、ヒガの制圧射撃は正確で、私たちの隠れたコンテナの縁を執拗に削り取っていく。

 弾切れのタイミングを見計らって反撃しようと私が身を乗り出した、その瞬間だった。

 

 ヒガの姿が遮蔽物の裏に消える。

 リロードか。そう判断して踏み込もうとした私の視界に、再びヒガが飛び出してきた。

 だが、その手に握られていたのはアサルトライフルではない。

 長い銃身。スナイパーライフルだ。

 

「なっ……!?」

 

 咄嗟に首を引っ込める。

 直後、空気を切り裂くような高音と共に、私の髪の毛数本が焼き切られた。

 コンテナの角が大きく弾け飛び、粉塵が舞う。

 

「アサルトからスナイパーへの持ち替え……あの速度で?」

 

 私が驚愕していると、ヒガは再び遮蔽物に隠れ、今度は反対側から飛び出してきた。

 両手には二丁のハンドガン。

 十字砲火のような弾幕が、私たちを釘付けにする。

 

 アサルトライフルで制圧し、スナイパーライフルで狙撃し、ハンドガンで近接戦闘を行う。

 それを息をするような自然さで、流れるように切り替えているのだ。

 

「……イチカ、こいつはマズい」

 

 隣で様子を窺っていた先生が、焦りを含んだ声で言った。

 先生は冷静な目で、ヒガの動きを観察している。

 

「ただの不良じゃない。武器のスイッチ速度、射線管理、どれを取っても一級品だ。俺がチョロチョロ動いてたら、お前の足手まといになる」

 

 先生は自身の非力さを──キヴォトスの生徒相手に生身の人間がいかに脆いかを、瞬時に理解したようだった。

 流れ弾一発で致命傷になりかねない彼が前線にいれば、私は彼を庇いながら戦わなければならない。

 このレベルの相手に、それは自殺行為だ。

 

「俺はあそこの死角にあるコンテナまで下がる。そこから指示を出す」

 

「えっ、一人で大丈夫っすか!?」

 

「お前が守るべきは俺の命じゃなくて、自分の脳天だろ。集中しろ!」

 

 先生はそう言い捨てると、ヒガの射撃が途切れた一瞬の隙を突いて、後方のより安全な物陰へと走った。

 ヒガがそれに反応し、スナイパーライフルの銃口を先生に向ける。

 

「させないっすよ!」

 

 私は威嚇射撃を行い、ヒガを牽制する。

 ヒガはチッと舌打ちをして再び遮蔽物に隠れた。

 

 安全圏へ滑り込んだ先生から、鋭い声が飛ぶ。

 

「イチカ! 奴の右側! ハンドガンだ、距離を詰めてくるぞ!」

 

 先生の指示通り、私は右側の空間へ銃口を向ける。

 予測通り、ハンドガンを構えたヒガが飛び出してきた。

 私の置きエイムが直撃しそうになり、ヒガは驚いたようにステップを踏んで回避行動を取る。

 

「……よく見てるな、指揮官」

 

 ヒガの声色が、わずかに変わる。

 先生は安全圏から戦場全体を俯瞰し、ヒガの武装変更の癖やリズムを見切ろうとしているのだ。

 

「次は左、アサルトライフルでの制圧だ! 3秒後に顔を出せ、そこが隙だ!」

 

「了解っす!」

 

 私は先生の声を信じ、カウントに合わせて飛び出す。

 ヒガがアサルトライフルを撃ち尽くし、次の武器へ持ち替えようとしたその一瞬。

 私の放った弾丸が、ヒガの隠れるコンテナを掠め、彼女の頬に薄い傷を作った。

 

「面白い……!」

 

 ヒガが口元を歪め、獰猛に笑う。一対一の火力勝負ではない。

 先生の目と、私の銃。

 即席のバディによる、久しぶりに高レベルの戦闘が幕を開けた。

 

 ヒガの戦闘能力は、私の想定を遥かに超えていた。

 彼女は遮蔽物に隠れる一瞬の間に、まるで手品のように武器を持ち替える。

 遠距離ではスナイパーライフルによる正確無比な狙撃。

 私が距離を詰めようとすれば、アサルトライフルによる弾幕が視界を埋め尽くす。

 そして、懐に入り込んだと思えば、いつの間にかハンドガンを握っており、カウンター気味に急所を狙ってくる。

 

 私の呼吸は乱れ、制服は冷や汗と煤で汚れていた。

 弾薬もすでに心許ない。先生はコンテナの陰から戦況を見守っているが、迂闊に飛び出せば即座に蜂の巣にされるだろう。

 

「(まずいっすね……)」

 

 私は歯を食いしばりながら、コンテナの角から牽制射撃を行う。

 だが、ヒガは私の射撃リズムを完全に見切っている。

 彼女は嘲笑うかのように、こちらの弾切れの瞬間を狙ってスナイパーライフルを構えていた。

 

 

 あっ

 

 

 これっ

 

 

 死ぬかもっ……

 

 

 脳裏に敗北の二文字がよぎった、その時だった。

 

 ヒガが私にとどめを刺そうと、引き金を引き始めた瞬間。彼女の死角から、何者かが猛烈な勢いで飛び出してきた。その手には、無骨で重厚なショットガンが握られている。

 

 ヒガが反応するよりも早く、その銃身がフルスイングで振り抜かれた。鈍い打撃音と共に、ヒガの顔面が歪む。

 無防備な側頭部を鉄塊で殴打されたヒガは、悲鳴を上げる間もなく、たたらを踏んで横合いへと吹き飛ばされた。

 

「え……?」

 

 私は呆気にとられ、その乱入者を見つめる。

 肩で荒い息をしながら、よろめくヒガに対して容赦なく銃口を向けるその姿。

 見慣れたトリニティの制服。

 そして、怒りに燃える瞳。

 

「ワタヌキ……さん?」

 

 そこに立っていたのは、アオゾラさんの病室にいるはずの、あの大人しいワタヌキさんだった。

 彼女の手にあるショットガンは震えていたが、その指はしっかりと引き金にかかっていた。

 

「あ……が……」

 

 ヒガが呻き声を上げ、身を起こそうとする。ワタヌキさんは無言のまま銃口を突きつけ、躊躇なく引き金を引いた。

 

 轟音と共にマズルフラッシュが咲く。至近距離からの散弾。いくらキヴォトスの生徒でも、その衝撃は凄まじいだろう。まるで電気を流されたカエルのように、ヒガの体が地面で跳ねる。

 

 だが、それは始まりに過ぎなかった。

 

「あなたのせいで……」

 

 ポンプが引かれ、排莢される。次弾が装填される音が、私の耳にはひどく冷たく響いた。

 

「あなたのせいで……!」

 

 二発目。ヒガの身体がのけ反る。もはや両手での防御姿勢すら取れていない。

 

「あなたのせいでッ! あなたのせいでぇッ!!」

 

 三発、四発。ワタヌキさんは叫びながら、ただひたすらに引き金を引き続けた。殺意というよりは、呪詛を吐き出すような連射。ヒガはすでにうめき声一つ上げられず、人形のように衝撃を受け続けている。

 

 弾切れを知らせる音が虚しく響いた。私の制止の声が出るよりも早く、ワタヌキさんの手が動く。 ポケットからシェルを取り出し、装填ポートへ押し込む手つき。それは、震えながらも恐ろしくスムーズだった。 この復讐のために、どれほどの練習を繰り返したのか。その手際が、彼女の抱えてきた暗い情熱を物語っていた。

 

「死ね……死ねっ……返せよ……アオちゃんを返せよぉッ!!」

 

 リロードを終えた彼女は、再びヒガに向けて銃撃を再開する。過剰な暴力。 私たちが守りたかった「普通の生徒」の姿はそこにはなかった。

 

「やめるっす! ワタヌキさん!!」

 

 私が叫びながら駆け寄ろうとした時、最後の轟音が響き渡り、静寂が訪れた。ヒガはピクリとも動かない。気絶している。

 

 ワタヌキさんは肩で息をしていた。過呼吸のような、ひきつけを起こしたような浅い呼吸。銃身から立ち上る硝煙が彼女の顔にかかる。

 

「はっ、はっ、ひゅっ……」

 

 彼女は自分の両手を見つめた。赤く腫れあがり、火薬の煤で汚れた手。興奮が冷めていくにつれ、自身が犯した暴力の熱が、遅れて彼女の理性を焼き始めたようだった。

 

「わ、私……」

 

「ワタヌキさん、銃を下ろしてください。もう終わったっす」

 

 私が手を伸ばそうとすると、彼女は怯えたように身をすくませた。そして、私と倒れているヒガを交互に見ると、弾かれたように背を向けた。

 

「待って!」

 

 私の静止も聞かず、彼女はコンテナの隙間へと走り去っていく。追いかけようと足を踏み出したが、私の足元には意識を失ったヒガがいる。この主犯を放置するわけにはいかない。私は立ち尽くし、遠ざかっていくワタヌキさんの背中を見つめることしかできなかった。夕暮れのふ頭に、波の音だけが虚しく響いていた。

 

「……逃げ足だけは速いな」

 

 先生が煙草を取り出しながら、つまらなそうに呟く。

 私は銃を下ろすこともできず、ただ暗い闇の向こうを凝視していた。彼女を追い詰め、引き金を引かせたのは誰だ。

 ヒガか。それとも──。

 

「はぁ、はぁ……ッ、間に合わなかったか……!」

 

 背後から、荒い息遣いと共に駆け寄ってくる足音が聞こえた。

 振り返ると、そこには膝に手をついて肩で息をしているウタハさんの姿があった。

 

「ウタハさん!? どうしてここに……」

 

「君たちに……信管のことで伝え忘れたことがあって……事務所に向かったんだ……」

 

 ウタハさんは呼吸を整えながら、厳しい表情で顔を上げた。

 

「そうしたら、入れ違いで……ものすごい形相の生徒が、事務所から飛び出してくるのを見た」

 

「え……?」

 

「鬼のような顔だった。声をかける間もなく、彼女は走り去っていったよ。……気になって中を確認したんだが」

 

 ウタハさんは視線を、足元のヒガへと向けたあと、痛ましげに私を見た。

 

「机の上に、今回の調査資料が広げられていた」

 

 心臓が、早鐘を打った。

 調査資料。ヒガの正体、居場所、そして過去の犯行履歴。

 先生が調べ上げ、私たちがここへ来る直前まで精査していた書類だ。

 

「鍵は……壊されていなかった。最初から開いていたようだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中が真っ白になった。

 記憶がフラッシュバックする。

 ここへ来る前、先生は「急ぐぞ」と言って先に向かった。

 私は資料を机に置きっぱなしにして、慌てて装備を整え、後を追った。

 

 あの時。

 

 私は──鍵を、かけたっけ? 

 

「あ……」

 

 口から、間の抜けた声が漏れた。

 

「……かけ忘れたのか。鍵」

 

 先生の声には、呆れも怒りもなく、ただ事実を確認するだけの冷たさがあった。

 私は答えられなかった。肯定する言葉を発することさえ、喉が拒絶した。

 

「その生徒……ワタヌキという子だろう? 彼女はそこで全てを見たんだ。犯人が誰で、今どこにいるのかを」

 

 ウタハさんの言葉が、重い楔となって胸に突き刺さる。

 ワタヌキさんは、きっと捜査の進捗を聞くために事務所に来たはずだ。

 誰もいない事務所。鍵が開いていて、中に入ると机の上に資料があった。

 そこには、親友を意識不明に追いやった犯人の情報が記されていた。

 

 となれば……。

 

 もし、それを見た人の性格によっては。

 

 何かを開放してしまうのではないか……? 

 

 彼女にショットガンを握らせたのは、ヒガの悪意だけではない。

 私の──「うっかり」だ。

 

「……私の、せいです」

 

 震える声で、ようやくそれだけを絞り出した。

 私の初歩的なミスが、あの子を復讐者に変えてしまった。

 

「……ここじゃなんだ。一旦戻るぞ」

 

 先生は吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し込むと、ヒガの襟首を掴んで引きずり始めた。

 

「ウタハ、悪いがこいつの搬送を手伝え。イチカ、お前は──」

 

 先生の声が、ふいに途切れた。

 私の様子を見て、言葉を飲み込んだのだと思う。

 

 ガクリ、と。

 

 私の膝が、硬いコンクリートを叩いた。

 

 力が入らなかった。立っていることすら、今の私には許されない行為のように思えたから。

 

 あの子は、ただの生徒だった。友達が傷つけられたことを悲しみ、それでも私たち相談窓口を信じて、時折クッキーを持って事務所に来てくれるような、優しくて善良な女の子だった。

 銃を乱射するような子じゃなかった。

「死ね」なんて言葉を吐く子じゃなかった。

 

 それを、私が。

 

「あ……ぁ……」

 

 私の不手際が。私の甘さが。私の油断が。

 あの子に引き金を引かせた。

 あの子の純白の心を、どす黒い復讐の色で塗りつぶしてしまった。

 私が、彼女を「壊した」のだ。

 

 ふと頬に冷たいものが当たった。空を見上げる余裕すらない。

 次々と落ちてくる雨粒が、私の制服を、髪を濡らしていく。

 

「う……ぐ……っ」

 

 喉の奥から、熱い塊が込み上げてくる。

 抑えようとしても、唇が震えて止まらない。

 視界が涙と雨でぐしゃぐしゃに歪んでいく。

 

 何も悪いことをしていないはずの子を、地獄の淵に立たせてしまった。

 彼女がヒガに向けて放った銃弾は、彼女自身の青春をも撃ち抜いてしまったに等しい。

 もう、彼女は知ってしまった。奪うことの味を。暴力による解決の味を。私たちが一番、彼女たちから遠ざけなければならなかったものを。

 それが彼女を今後どう変えてしまうのか、私に責任なんて取れないくせに。

 

 冷たい雨が、容赦なく私の身体を打ち据える。

 それはまるで、私の傲慢さと無能さを叱責する、天からの罰のようだった。

 

「私……っ、守れなか……た……っ」

 

 地面に手をつき、アスファルトを爪が割れるほど強く握りしめる。

 嗚咽が止まらない。言葉にするのが怖いけれど、認めなければならない絶望がそこにあった。

 

「私……あの子を……トリニティの生徒のままで……いさせてあげられ……なかった……!!」

 

 慟哭は雨音にかき消されることなく、無人の埠頭に響き渡った。

 自分の無力さが、死ぬほど悔しかった。

 

 ■■■

 

 ヒガをヴァルキューレ警察学校の生活安全局に引き渡した後。

 私はその手続きに立ち会う気力すらなく、近くの公園のベンチに座り込んでいた。

 

 雨はまだ降り止まない。

 屋根のないベンチで、私は制服が濡れるのも構わずに膝を抱えていた。

 冷たい雨粒が体温を奪っていくけれど、胸の奥にへばりついた鉛のような重みは、冷えるどころか熱を持って私を苛んでいた。

 

「(……なんで、こんなに)」

 

 今までだって、任務の失敗がなかったわけじゃない。どうしようもない現実に直面したことだってある。そのたびに私は、「まあ、仕方ないっすね」と自分に言い聞かせてきた。

 トリニティの正義実現委員会の一員として、あるいは「その他大勢」の一人として、感情に蓋をして業務を遂行するのが私の処世術だったはずだ。

 

 なのに、涙が止まらない。

 ワタヌキさんの、あの鬼のような形相が瞼に焼き付いて離れない。

 彼女の手を汚させたのは私だ。

 復讐という引き金を引かせたのは、私の詰めの甘さだ。

 

 ジャリ、と濡れた砂利を踏む音が近づいてくる。

 視線を上げる気力もなかったけれど、私の頭上から降り注いでいた雨が、ふっと途切れた。

 

「……風邪引くぞ」

 

 聞き慣れた、だらしない低い声。顔を上げると、先生がビニール傘を私に差しかけていた。

 その少し後ろには、ウタハさんが複雑そうな表情で立っている。

 

「……ヒガは?」

 

「ヴァルキューレの留置所に放り込んできた。矯正局に行って一生出てこなきゃいいんだがな」

 

 先生は短くそう答えると、濡れたベンチの空いているスペースに腰を下ろした。

 タバコを取り出そうとして、湿気で火がつきにくいのか、何度かライターをカチカチと鳴らす。

 紫煙が雨の匂いに混じる。

 

「……私、おかしいんすよ」

 

 私は膝に顔を埋めたまま、ポツリと呟いた。

 

「普段なら、こんな……こんなに落ち込むことなんてないんす。反省はしても、次は頑張ろうって切り替えられるはずなんすよ。いつも通り、適当に、平均的に……」

 

 言葉にするほど、喉が詰まる。

 自分の声が情けないほど震えているのがわかった。

 

「なのに、胸が苦しくて、自分が許せなくて……涙が出てくるんす」

 

 私は濡れた顔を拭うこともせず、横にいる男を見た。

 彼は元先生で、犯罪者で、最低の暴力教師で。

 それでも今、私の隣にいる唯一の「相談員」だ。

 

「思春期相談窓口の、佐倉さんに質問するっす……。これって、なんなんすか……?」

 

 すがるような問いかけだった。

 このわけのわからない感情に名前をつけてほしかった。

 「失敗しただけだ」と切り捨ててくれれば楽になれる気がした。

 

 先生はふぅ、と煙を吐き出すと、雨に濡れる公園の遊具を見つめたまま口を開いた。

 

「……お前が、『その他大勢』であることをやめた副作用だ」

 

「……え?」

 

「ただの事務処理係なら、結果だけ見て報告書書いて終わりだ。だがお前は今回、あいつの人生に踏み込んだ。踏み込んで、救おうとして、守ろうとした」

 

 先生はそこで言葉を切り、私の方を見た。

 その瞳は、いつものようなやる気のない色ではなく、もっと暗く、深い色をしていた。

 

「誰かのために本気になって、その結果が最悪な形になったんだ。傷つかないわけがない」

 

「……」

 

 私の頭に手が置かれる、濡れている髪を触るのを躊躇わずに。まるで私の心まで包んでくれているような気がして。

 

「その痛みは、お前が『仕事』じゃなく、『心』であの生徒に向き合った証拠だ。……それを背負うのが、大人になるってことなんだよ」

 

 その言葉は、慰めではなかった。

 むしろ、突き放すような事実の提示だった。

 けれど、その冷たさが今の私には何よりも芯に響いた。

 

 私はただの係員じゃなかった。

 ワタヌキさんを救いたいと、心から願ってしまったのだ。

 だからこそ、この痛みは罰であり──同時に、私が私であるための証明なのだと。

 

「……うぅ……っ」

 

 堪えていた嗚咽が、再び漏れた。

 先生はもう何も言わなかった。

 ウタハさんも、ただ黙って雨音に耳を傾けてくれていた。

 

 冷たい雨の中、傘の下だけが少しだけ温かい。

 私はその温もりに甘えて、もう少しだけ、泣くことにした。

 

 ■■■

 

 時刻は17時を回り、外は厚い雨雲のせいで夜のように暗くなっていた。

 窓を叩く雨音だけが、事務所の中に響いている。

 

 私はウタハさんが展開してくれた携帯用簡易シャワールームから上がり、タオルで髪を拭きながら事務所内へと戻った。

 温かいお湯のおかげで、冷え切っていた身体の感覚はどうにか戻っている。けれど、心の奥底にへばりついた重たい鉛のような感覚は、まだ完全には拭えていなかった。

 

 ふわりと、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐった。

 醤油とごま油、それにネギの香り。

 

「お、上がったか」

 

 給湯室の方から、先生が顔を出す。

 その手には湯気を立てる丼が三つ、お盆に乗せられていた。

 

「これ……」

 

「ただのインスタントだがな。ウタハが『分子レベルで麺のコシを最適化する茹で方がある』とか言い出すもんで、無駄に手間がかかった」

 

「無駄とは心外だな。最適な熱湯浸透率を計算した結果だよ。それに、この人がチャーシューと煮卵を買ってきてくれたおかげで、栄養バランスも改善されている」

 

 テーブルに並べられたのは、具材がたっぷりと乗せられた特製ラーメンだった。

 コンビニで買えるカップ麺や袋麺のはずなのに、湯気だけで空腹を刺激してくる。

 

「……ありがとうございます」

 

 椅子に座り、私は割りばしを割った。

 一口、スープを啜る。

 温かくて、少ししょっぱい味が、喉を通って胃袋に落ちていく。その熱が、じわりと身体の内側に広がった。

 

「うまい……っす」

 

「そりゃどうも」

 

 先生は短く答え、ズルズルと行儀悪く麺を啜り始めた。

 ウタハさんも静かに箸を進めている。

 二人とも、私の失敗を責めず、かといって過剰に慰めることもせず、ただ温かい食事を用意して待っていてくれた。

 その不器用な優しさが、今の私には痛いくらいに染みた。

 

「ウタハ、お前の後ろにある七味取ってくれ」

 

「自分で取りたまえ、あなたと馴れ合うつもりは依然として無い」

 

「あぁん!?」

 

「……ふふっ」

 

「なんだ、気持ち悪いな」

 

「いや……なんか、こういうのも悪くないなって思っただけっすよ」

 

 私は小さく笑って、またラーメンを口に運んだ。

 外の雨音はまだ止まないけれど、ここには確かな温もりがあった。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 一方その頃。

 トリニティ自治区から少し離れた、ブラックマーケットへと続く裏路地。

 

 冷たい雨が、容赦なくアスファルトを打ち付けていた。

 街灯の光も届かない暗がりの中を、一人の生徒がふらふらと歩いている。

 

 ワタヌキだった。

 

「はぁ……はぁ……ッ」

 

 制服はずぶ濡れで、重く身体に張り付いている。

 靴は泥だらけで、足の感覚はもうない。

 けれど、それ以上に彼女を苛んでいたのは、掌に残る感触だった。

 

 引き金を引いた時の重み。

 発砲の反動。

 目の前で弾け飛んだヒガの身体。

 

『あなたのせいで……!』

 

 自分の口から出た叫び声が、耳の奥で反響して消えない。

 

「帰れない……もう、帰れない……」

 

 トリニティに戻れば、きっと捕まる。正義実現委員会か、あるいは他の誰かに。

 アオゾラのお見舞いにも、もう行けない。

 あんなことをしてしまった自分に、陽の当たる場所を歩く資格なんてない。

 

「あ……」

 

 足がもつれ、ワタヌキは水たまりの中に無様に倒れ込んだ。

 冷たい泥水が頬を濡らす。

 起き上がる気力さえ、もう残っていなかった。

 

「(このまま……ここで……)」

 

 意識が遠のきかけた、その時だった。

 

 チャプ、チャプ、と雨水を踏む足音が近づいてくる。

 ワタヌキは霞む視線を上げた。

 

 逆光で顔は見えない。

 けれど、その人物は倒れ伏すワタヌキを見下ろし──ゆっくりと、その手を差し伸べた。

 

「あらっ。随分な姿の迷子ちゃん♫」

 

 その声は、悪魔の囁きのように甘く、そしてどこまでも不気味だった。

 ワタヌキの瞳に、その手のひらが映る。

 それが救いの手なのか、さらなる地獄への入り口なのか。

 今の彼女には、判断することすらできなかった。

 

 ただ、冷え切った闇の中で、その手だけが白く浮かび上がっていた。

 





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