【完結】仲正イチカは悪い大人についていく   作:曇りのち晴れ男

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第六話 ごめんね

 

 配信が始まってから、ちょうど12時間が経過していた。

 画面の向こうのハノさんは、淡々と、しかし確実に心を削るような声で、ホソバさんとの思い出を語り続けている。語り続けて喉が枯れているのが加工音声越しでもわかる。

 その横には、猿轡をされた二人の生徒と、動かないホソバさんの姿。

 

 私たちは正義実現委員会の管轄区域の端、人気のない駐車場に立っていた。夜の帳が下り、冷たい空気が肌を刺す。焦燥感で胃が焼けつくようだ。

 

「……待たせてしまいましたね」

 

 静寂を破って現れたのは、ハスミ先輩だった。その表情には明らかな疲労の色が見える。

 エデン条約……今、トリニティとゲヘナの間で結ばれようとしている和平条約の準備で、上層部は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていると聞いている。本当なら、こんな個別の案件に時間を割ける立場じゃないはずだ。

 

「いいえ、来てくれただけでありがたいっす。……ハスミ先輩、状況は」

 

「最悪です。犯人の要求通り、正義実現委員会としての公的な包囲網は敷けません。もし制服を着た部隊が動けば、即座に人質と……自身を破壊すると宣言されていますから」

 

 ハスミ先輩は悔しげに唇を噛み、私の後ろで気だるげにタバコを吹かしている先生を一瞥した。

 

「ですから、動けるのはあなたたちだけです。これはあくまで『思春期相談窓口』の独自行動……そういう建前を通すしかありません」

 

 そう言って、ハスミ先輩はキーを私に投げ渡した。受け取ったのは、正義実現委員会のロゴが入っていない、一般車両に見せかけた黒のセダンだ。

 

「整備班に無理を言って、エンジンと足回りを強化させた車両です。これなら、多少荒い運転をしても壊れません。ごめんなさい……私にできるのはこれしか……」

 

「助かるっす。徒歩での捜索には限界が来てたんで」

 

「……イチカ。そして、佐倉さん」

 

 ハスミ先輩の声色が、一段低くなる。

 

「失敗は許されません。ですが、焦って判断を誤らないでください。……特に佐倉さん、あなたが暴走しないか、それだけが心配です」

 

 先生は煙を吐き出し、吸い殻を携帯灰皿に押し込むと、ニヤリと笑った。

 

「善処するよ。だが時間はねえんだ、説教なら全部終わってから聞く」

 

「……相変わらずですね。頼みましたよ、イチカ」

 

「必ず連れて帰るっす!」

 

 ハスミ先輩は短く頷くと、踵を返して闇の中へと消えていった。背負っているものの重さを感じさせない、凛とした背中だった。私は手の中にあるキーを強く握りしめる。

 

「行くぞ、イチカ。運転は俺がやる」

 

「え、やだ……」

 

「とろとろ走ってる暇はねえだろ。それに、お前はずっと端末を見てろ。背景の些細な変化、音、光の加減……ヒントを見逃すな」

 

 先生は強引に私からキーをひったくると、運転席へと乗り込んだ。その横顔は、いつものふざけた態度は鳴りを潜め、獲物を追う狩人のように鋭くなっていた。

 

「……了解っす」

 

 助手席に乗り込み、シートベルトを締める。 エンジンが唸りを上げ、私たちは夜のキヴォトスへと滑り出した。

 タイムリミットまで、あと12時間。 広大なトリニティの自治区の中に隠された、たった一つの「死に場所」を見つけ出さなければならない。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

「……また弾かれたか。単純なプロキシ経由のくせに、随分と厄介な回線を組んでいるな」

 

 私はキーボードから手を離し、椅子の背もたれに体重を預けて大きく息を吐いた。

 ミレニアムの技術をもってしても、特定には至らない。

 相手が高度なハッカーというわけではない。むしろ逆だ。

 捨て駒の回線を使い捨てにし、物理的に場所を移動し続けているアナログさが、かえってデジタルな追跡を困難にしている。

 

「……」

 

 サブモニターでは、未だにあの不快な配信が続いている。

 ハノという生徒の、淡々とした、けれど呪詛のような独白。

 タイムリミットだけが無慈悲に削られていく。

 

 思考を整理するために、私はブラックコーヒーを一口啜り、視線を巡らせた。

 私の隣にある、主のいないデスク。

 佐倉の席だ。

 

 吸い殻が山盛りになった灰皿。読みかけのゴシップ雑誌。整理されていない書類の山。

 彼の人となりそのもののような、混沌とした机上。

 エンジニアとして整理整頓を好む私からすれば、見ているだけで頭痛がする惨状だが──ふと、書類の隙間に埋もれるようにして置かれている、ある物体に目が留まった。

 

「……写真立て?」

 

 無機質な事務所には似つかわしくない、木製のフレーム。

 私はつい好奇心に駆られ、その写真を手に取り覗き込んだ。

 

「────」

 

 息を呑んだ。

 そこに写っていたのは、今の彼からは想像もつかない光景だったからだ。

 

 写っているのは二人。

 一人は佐倉だ。だが、今のやさぐれた雰囲気はない。

 スーツを正しく着こなし、穏やかな表情をしている。

 

 そしてその隣に並んでいる少女。

 腰まで届く長い金髪。

 清楚な白を基調とし、煌びやかな金のアクセントがあしらわれた私服を身に纏っている。

 お嬢様学校の生徒だろうか。育ちの良さと、無垢な輝きを感じさせる少女だ。

 

 何より目を引いたのは、その表情だった。

 少女は花が咲いたような満面の笑みを浮かべ、佐倉の腕に自分の腕を絡めている。

 そして佐倉もまた──困ったように、けれど愛おしそうに、優しく微笑んでいたのだ。

 

「……こんな顔も、できるのか」

 

 今の粗暴で、どこか自暴自棄な彼とは別人のようだった。

 写真の中の彼は、確かに「先生」の顔をしていた。

 

 この少女は誰なのか。

 今の彼にとって、どういう存在なのか。

 なぜ、こんなにも幸福そうな写真が、あの荒んだデスクの片隅に置かれているのか。

 

 モニターから聞こえるハノの慟哭と、写真の中の静かな幸福。

 そのあまりの落差に、私は得体の知れない胸のざわつきを覚えた。

 

「……詮索は趣味じゃないが、な」

 

 私は写真を戻し、再びメインモニターへと向き直る。

 今は、彼らが現場で動けるよう、私がここを守らなければならない。

 

 私はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干すと、再びキーボードへと指を走らせた。

 

「もしもし。イチカ、次の候補を送る」

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 雨足が強くなっていた。

 トリニティの自治区は広い。その中で「使われていない」「ネット回線が生きている」「監禁に適している」という条件の廃墟は、絞り込んだとしても絶望的な数だった。

 

 私たちはハスミ先輩から借りた車両で、リストアップされた廃墟を片っ端から潰していた。

 だが、どこも「ハズレ」だ。

 

「……ここも、違うっすね」

 

 廃ビルのカビ臭い空気の中、私は懐中電灯を下ろした。

 誰もいない。生活痕もない。

 ただ、雨漏りの音だけが響いている。

 

 私は泥だらけになった靴で、重い足取りのまま車に戻った。

 運転席に座り、ハンドルに突っ伏す。

 疲労と焦燥感で、視界がチカチカと点滅しているようだった。

 

「次だ。次は旧市街の──」

 

 運転席で地図アプリを見ていた先生が、淡々と次の目的地を告げる。

 その声が、今の私には酷く遠くに聞こえた。

 

「……先生」

 

「あ?」

 

「もう、無理なんじゃないっすか」

 

 言葉にしてしまった。

 口に出した瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れたような気がした。

 

「トリニティは広すぎるっす。あの子がどこにいるのか、手がかりは『映像』だけ。背景の特徴もない、音も反響音だけで特定できない……。こんなの、雲をつかむような話じゃないっすか」

 

 顔を上げることができない。

 情けない。生徒たちの相談に乗る立場でありながら、一番大事な場面で諦めようとしている自分が。

 

「警察組織が動けば、あの子は人質を殺して自殺する。私たちが動いても、見つからなければ同じ。……これ、もう詰んでるっすよ」

 

 車内に重苦しい沈黙が落ちた。

 先生がライターを擦る音と、紫煙を吐き出す音だけが聞こえる。

 罵倒されるだろうか。それとも、呆れられるだろうか。

 そう思っていた時だった。

 

「お前、こないだ泣いてたな」

 

 唐突な言葉に、私は顔を上げた。

 先生はスマホの画面を見たまま、煙草を燻らせている。

 

「え……?」

 

「あのふ頭での一件だ。復讐に走ったワタヌキを見て、お前はボロボロ泣いてた。『善良な生徒を復讐の鬼にしてしまった』ってな」

 

 心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。

 忘れるはずがない。私の判断ミスで、一人の少女が修復不可能な傷を負ったあの日。

 

「あの時のお前は無力だった。結果を変えられなかった。……だが、今回はどうだ?」

 

 先生がゆっくりとこちらを向き、その鋭い瞳で私を射抜いた。

 

「ハノはまだ、引き金を引いちゃいねぇ。人質もまだ生きてる。あのクソみたいな配信はまだ続いてる」

 

「でも、場所が……!」

 

「場所が分からないのに探し続けるのは虚しいか? ……わかるまで足掻くんだよクソボケ」

 

 先生は吸い殻を携帯灰皿に押し込むと、私の胸ぐらをつかんだ。

 

「お前があの日流した涙は、ただの感傷か? 『次は絶対に救う』って、そう思ったから泣いたんじゃねぇのか!!」

 

「ッ……」

 

「ここで諦めたら、お前はまた泣くことになるぞ。今度は『復讐の鬼』にすらなれずに死んでいくガキの死体を見てな」

 

 その言葉は、冷たく、乱暴で──しかし、何よりも熱い叱咤だった。

 

 そうだ。

 私はあの時、誓ったはずだ。

 二度とあんな思いはさせないと。この「思春期相談窓口」で、こぼれ落ちそうになる生徒の手を掴むのだと。

 

 ハノさんは今、まさに境界線に立っている。

 一線を越えて「あちら側」に行ってしまう寸前で、誰かが来るのを待っている。

 それを見捨てて、何が「平和的に機能させたい」だ。

 

「……うぅー、っ!!」

 

 私は両手で自分の頬を、赤くなるほど強く叩いた。

 痛みで意識が覚醒する。弱音ごと、軟弱な思考を叩き出す。

 

「……目が覚めたか」

 

「はい。……ダサいところ見せたっす」

 

 私は助手席に座り、シートベルトを締めた。

 指先にもう震えはない。

 

「次は旧市街っすね。……どんどん飛ばしてください。悲鳴上げないんで」

 

「へっ。……頼もしいこった」

 

 エンジンを唸らせ、私たちは再び雨の降りしきる街へと飛び出した。

 まだ、終わっていない。

 残り六時間。何としても見つけ出す。

 

 ■■■

 

 車内には、重苦しい沈黙と、タブレットから流れるハノさんの乾いた声だけが響いていた。

 

『……もう、声も出なくなってきちゃったな。この後本当に出なくなるし変わらないか』

 

 配信開始から22時間。

 ハノさんの声は枯れ、時折咳き込む音が混じる。

 私と先生は、可能性のありそうな廃工場、旧校舎、地下施設……思いつく限りの場所を回った。だが、どこも空振りだった。

 すべてが徒労。すべてが外れ。

 

「……クソッ」

 

 ハンドルを握る先生が、珍しく焦りを露わにして舌打ちをした。

 残り時間は二時間を切っている。

 ここから移動して探索する時間を考えれば、次に向かう場所が実質的に「最後の一か所」になる。

 外せば、タイムアップだ。

 

 私はタブレットの画面を食い入るように見つめた。

 暗がりの中、ハノさんの背後に映る景色は相変わらず判別不能だ。

 コンクリートの壁、剥き出しの鉄骨、そして時折響く風の音。

 

「(風の音……?)」

 

 違和感があった。

 廃工場や屋内施設なら、こんな風に音が反響するだろうか。

 もっと高く、鋭い音。まるで巨大な空洞を風が吹き抜けていくような──。

 

『友達と言ってたんだ。ここはまるで、私たちの夢みたいだねって』

 

 ハノさんが独り言のように呟く。

 

『大きくて、立派になるはずで……でも、途中で誰からも見捨てられて。あばら家のまま、雨風に晒されて』

 

 見捨てられた、巨大な場所。

 あばら家のまま、雨風に晒されている場所。

 

 私の脳裏に、以前トリニティの古い資料整理をしていた時に見た、ある建物の図面がフラッシュバックした。

 建設が凍結され、解体費用すら捻出できずに放置された、トリニティ自治区の端にある負の遺産。

 

「……『未完の蜃気楼』」

 

「あ?」

 

「先生、進路変更っす! 北区、第7建設予定地跡へ向かってください!」

 

 私は身を乗り出して叫んだ。

 先生は眉をひそめ、バックミラー越しに私を見る。

 

「おい、あそこはここから一時間はかかるぞ。もし外れだったら、戻ってくる時間はねぇ!」

 

「分かってます!」

 

「それに、あそこは壁もない吹きっ晒しの廃墟だ。監禁に向いてるとは思えん」

 

 先生の指摘はもっともだ。

 合理的に考えれば、もっと隠れやすい場所はある。

 私の閃きは、根拠としてはあまりに薄い。ハノさんの抽象的な言葉と、風の音だけ。

 もしそこじゃなかったら? 

 私の判断ミスのせいで、ハノさんと人質二人の命が消えることになる。

 その責任を、一生背負うことになる。

 

 手が震える。

 

 喉が渇く。

 

 怖い。間違えることが、たまらなく怖い。

 

 でも。

 

『私の声、届いてますか? N・Iさん』

 

 画面の向こうのハノさんが、虚空を見つめながら問いかける。

 彼女は待っているのだ。誰かが自分を見つけてくれるのを。あるいは、見つけてもらえない絶望を証明するのを。

 

 ここで安全策を取って近場の廃墟を潰しても、きっと彼女はいない。

 直感が告げている。彼女は、自分たちと重ね合わせた「あの場所」にいると。

 

「……賭けさせてください、先生」

 

 私は震える手を膝の上で握りしめ、顔を上げた。

 

「もし間違っていたら、私は一生、この選択を後悔すると思います。正義実現委員会の名折れだと、自分を罵り続けると思います」

 

 私の瞳から、迷いの色は消えていたはずだ。

 

「それでも……彼女の言葉が、あそこを指している気がするんす。理屈じゃなくて、彼女の悲鳴が、あそこから聞こえるんすよ!」

 

 私の叫びに、先生は一瞬だけ目を見開き──そして、ニヤリと口の端を吊り上げた。

 

「……上等だ」

 

 激しいスキール音と共に、車体が大きく傾く。

 先生はハンドルを切り、アクセルを床まで踏み込んだ。

 

「お前のそのリーチに、俺も乗ってやる。外したら地獄まで道連れだ。恨むなよ!」

 

「望むところっす……!!」

 

 車は猛スピードで雨の降るハイウェイを駆け抜ける。これが最後のチャンス。

 待っていてください、ハノさん。

 今度こそ、その手を掴んでみせるから。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 トリニティの空が黒くなり、生徒たちが放課後に羽を伸ばす頃。

 しかし、学園自治区内のネットワーク・トラフィックは、かつてないほどのピークを迎えていた。

 

「おい見ろよこれ、マジだって!」

 

「うわ、まだ続いてる。あと何分?」

 

「N・Iって誰だよ。早くこいつ見つけないと、この三人全員死ぬんだろ?」

 

 放課後の教室、カフェテリア、あるいは路地裏にたむろする不良たち。

 彼女らの手にある端末の画面には、薄暗い廃工場と、覆面姿の配信者が映し出されている。

 

 彼女たちは、この凄惨な状況を一種の「エンターテインメント」として消費していた。

 誰が死ぬのか。誰が助かるのか。

 まるで映画かドラマのクライマックスを見守るように、無責任な野次と興奮がコメント欄を埋め尽くしていく。

 

『やれー!』

 

『N・Iまだかよ、無能すぎw』

 

『これヴァルキューレとか動いてないの?』

 

『組織は動かないっつってんだろ』

 

 画面の向こうにある「痛み」は、電波を通すことで希釈され、ただの刺激的なコンテンツへと変質していた。

 

 一方で、沈黙が支配する場所もあった。

 とある教室の一角。数人の生徒が、青ざめた顔で一つの端末を囲んでいる。

 

 彼女たちは気づいていた。

 画面の中で、猿轡を噛まされ、恐怖に震えている二人が「誰」なのか。

 そして、その背後で物言わず横たわっている袋の中身が「誰」だったのか。

 さらに言えば、顔を隠してはいるが、その独特の立ち振る舞いをする配信者が「誰」なのかも。

 

「……ねえ、これ」

 

「言わないで」

 

 一人の生徒が震える声で遮った。

 

「私たちが悪いわけじゃないでしょ? だって、直接何かしたわけじゃないし」

 

「でも、笑ってたじゃない。ホソバさんが教科書を隠された時、私たち……」

 

「やめてよ! ……そうしないと、次は私たちが標的になったかもしれないんだから」

 

 彼女たちは「加害者」ではなかったかもしれない。だが、決して無実な「善人」でもなかった。

 見て見ぬふりをした。関わりたくないから距離を置いた。

 その「事なかれ主義」の積み重ねが、ハノという怪物を生み出し、ホソバという犠牲を生んだ。

 

 彼女たちは祈るように、画面にコメントを打ち込む。

 

『N・Iさん、お願い』

 

『助けてあげて』

 

『もうやめて』

 

 それはハノたちへの贖罪ではない。

 自分たちが、最悪の結末を目の当たりにして「一生消えない罪悪感」を背負うことから逃れたいだけの、利己的な祈りだった。

 もはや、自分たちではどうすることもできない。

 顔も知らない『N・I』というイニシャルの人間に、全ての責任と解決を押し付けることしかできなかった。

 

 画面の中、廃工場の埃っぽい空気の中で、ハノはカメラを見つめている。

 その瞳は、有象無象のコメントなど見ていない。

 ただ一点、来るはずのない──あるいは、来てくれると信じている救済者を待っている。

 

 奇しくも彼女は今、トリニティで最も注目される「ステージ」の上に立っていた。

 かつては誰にも見向きもされず、教室の隅で息を潜めていた彼女が、今は数千、数万の視線を一身に浴びている。

 

 皮肉な喝采。無責任な歓声。

 彼女は、そんなものを望んでいただろうか。

 友と二人、ただ平穏に笑い合える日々があれば、それだけでよかったはずなのに。

 

 無機質なレンズの向こう側で、タイムリミットへのカウントダウンだけが、残酷に時を刻み続けていた。

 

 一方。

 

 トリニティ自治区の最果てへ続く道を、一台の車両が黒い弾丸となって突き進む。

 前を見据える仲正イチカの表情から、いつもの柔和な笑みは消え失せていた。

 常に糸のように細められ、感情を覆い隠していたその双眸は、今はカッと見開かれ、ヘッドライトが照らすアスファルトの一点を見据えている。

 その瞳は、深淵を覗き込むような深い紫色。

 愛想や社交辞令といった「大人びた仮面」をすべて剥ぎ取り、ただ一つの目的──「生徒を救う」という意志だけが、彼女の身体を突き動かしていた。

 

 対照的に、無機質な画面の向こう側にいるハノは、奇妙なほど静かだった。

 工場の薄暗い照明の下、彼女の瞳からは光という光が失われている。

 絶望、悲嘆、憤怒。それらすべてが飽和し、通り過ぎた果てにある「虚しさ」。

 だというのに、彼女の口角だけは不自然に吊り上がっていた。

 それはまるで、壊れた人形に無理やり描かれた笑顔のようであり、観客を喜ばせるためのピエロの仮面のようでもあった。

 

 思春期とは、なんと脆く、残酷な季節なのだろうか。

 

 身体は大人に近づき、力も、知恵もつく。

 銃を握れば大人顔負けの戦闘すらこなすことができる。

 だが、その心はあまりにも柔らかく、未熟だ。

 自分という輪郭がまだ定まりきっていない彼女たちは、他者からの悪意や、社会の理不尽に対して、あまりにも無防備なまま晒される。

 

 かつて、仲正イチカも折れかけた。

 雨の降る埠頭で、己の正義が他者を復讐の鬼に変えてしまった事実に、膝をついた。

 彼女が再び立ち上がれたのは、隣に佐倉正義という異質な大人がいたからだ。

 道を踏み外しそうになった時、強引に腕を引いてくれる存在がいたからだ。

 そして何より、イチカ自身の心に、まだ「信じたい」という火種が残っていたからだ。

 

 だが、ハノはどうだ。

 彼女は求めた。相談窓口という「救い」に手を伸ばした。

 イチカたちは応じたはずだった。釘を刺し、解決への道を模索したはずだった。

 しかし、その手は届かなかった。

 思春期の闇は、大人の理屈や制度が追いつくよりも早く、深く、彼女たちの心を蝕んだ。

 ホソバという唯一の支えを失ったハノの心は、もはや自力で修復不可能なほどに粉砕されている。

 

 人が絶望から立ち直るには、周囲の助けだけでなく、本人の「心の強さ」が不可欠だ。

 だが、その強さが育ちきっていない時期を「思春期」と呼ぶのなら──彼女たちを救うことなど、最初から不可能な願いなのだろうか。

 

「……いいえ」

 

 車内で、イチカが小さく、けれど鋭く呟いた。

 不可能だと諦めてしまえば、そこで終わる。

 未熟だからこそ、間違える。間違えるからこそ、正してくれる誰かが必要なのだ。

 たとえその手が、一度はすり抜けてしまったとしても。

 

 事態はもはや、一介のいじめ問題の枠を超越している。

 トリニティ総合学園という巨大な枠組みが、この配信を固唾を飲んで見守っていた。

 すでに一人の生徒が自ら命を絶っている。

 その事実だけでも学園にとっては痛恨の極みだが、もしこの衆人環視の中で、さらに三人の生徒──加害者二人と、被害者一人のヘイローが破壊されるようなことがあれば。

 

 それはトリニティの自治能力の欠如を露呈させることになる。

「正義」や「慈愛」を掲げる学園の威信は地に落ち、生徒たちの不安は爆発するだろう。

 そしてその動揺は、現在進行形で進められている『エデン条約』の締結にも致命的な影を落とす。

 平和条約を結ぼうとする学園が、足元の生徒すら守れずに内側から崩壊しているとなれば、条約そのものが白紙になりかねない。

 

 数多の政治的思惑、学園のメンツ、大人の事情。

 そんな重圧がのしかかる中、先生はアクセルペダルを床まで踏み抜く。

 

「(間に合え……っ!!)」

 

 見開かれたイチカの瞳と、光を失ったハノの瞳。

 二つの視線が交わることはないまま、運命の時間は刻一刻と削られていく。

 未完の巨大廃墟──『未完の蜃気楼』の巨大な骨組みが、雨に煙る視界の先に黒々と浮かび上がってきた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 手の中にあるスマートフォンの画面が、唐突に暗転した。

 ハノさんの配信が切れたのだ。それは通信の不具合などではない。明らかに、こちらの接近に気づいた彼女が、動揺して切断したのだ。

 

「──当たりだ。ビンゴだな」

 

 先生がニヤリと笑い、スマートフォンをポケットにねじ込む。

 私たちは未完の巨大廃墟、『未完の蜃気楼』のコンクリートむき出しの廊下を駆けた。

 

「上の階っす! 配信に映っていた窓の外の景色……あの角度は恐らく3階!」

 

「了解。先に行け、俺は裏口を塞ぐ!」

 

 先生と二手に分かれ、私は階段を駆け上がる。心臓が早鐘を打っている。間に合うか。いや、間に合わせる。

 3階の奥、一室だけ不自然に真新しい照明の光が漏れている部屋があった。

 

 私は迷わず、その部屋の窓ガラスに向けて跳躍した。窓を蹴破って私は中に転がり込む。

 ガラスの破片と共に、私は『ステージ』へと踊り出た。

 

「動かないでッ!!」

 

 悲鳴のような叫び声が響く。

 着地した私が顔を上げると、そこには残酷な舞台装置が完成していた。

 

 部屋の中央、パイプ椅子に縛り付けられ、猿轡を噛まされた二人の生徒──いじめの主犯格たち。

 そしてその奥、天井から吊り下げられたロープを首にかけ、踏み台の上に立つハノさんの姿があった。

 

 彼女の手にはハンドガンが握られ、その銃口は震えながらも私に向けられている。

 その瞳は、配信のときのような不気味な光すら失い、ただただ暗い絶望の色だけを湛えていた。

 

「……近づいたら、私は今ここで死にます」

 

 引き金にかかった指が震えている。脅しではない。彼女はもう、生きることを放棄している。

 私はゆっくりと両手を上げ、敵意がないことを示しながら、糸のように細めていた目を開いた。

 

「……ハノさん」

 

「来ないで……来ないでよ……!」

 

「あなたが死んだら、あなたたちという者がいたことを、どうやって伝えればいいっすか……?」

 

 私の言葉に、ハノさんの表情が歪む。

 

「……イチカ先輩、あなたが私のことをよく知っているはずです。配信で、全部話しましたから」

 

「ええ、聞きました。ホソバさんとのこと、苦しかった日々のこと」

 

 私は一歩、また一歩と、刺激しないように距離を詰めるのではなく、言葉を届けるために声を張る。

 

「でも、それを伝えて……一人の少女を助けられなかった人々は、ただ落ち込むだけっす。消費されて、哀れまれて、それで終わりっす」

 

「っ……!」

 

「そんなの、ホソバさんが望んでたことなんすか?」

 

「うるさいッ!!」

 

 ハノさんが叫び、銃口が激しく揺れる。

 

「……じゃあどうすればいいっていうの!? 私は……この舞台をキヴォトスに配信した! この手で復讐を始めて、もう後戻りはできないの!」

 

 彼女の視線が、足元のいじめっ子たちに向けられる。彼女たちは恐怖で失神寸前だったが、ハノさんの中では、彼女たちを拉致し、断罪の配信を行った時点でもう「殺人者」と同義なのだ。社会的に、そして精神的に、彼女は一線を越えてしまったと思い込んでいる。

 

「一緒に……自首をするっす。まだ間に合うっすよ」

 

 私は静かに、けれど力強く告げた。

 

「いやよ!! どうせおとなしく捕まったって、矯正局から出ればまた絶望の人生よ! 私はもう普通の人生なんて生きられないの! 人殺し予備軍のレッテルを貼られて……一生後ろ指を指されて……!」

 

「……確かに、普通は無理かもしれないっす」

 

 私は肯定した。嘘をついて「元通りになる」なんて言えなかった。

 けれど、道が途絶えたわけではない。

 

「でも、普通に見えるよう、協力はいくらでもできるっす」

 

「な……にを……」

 

「矯正局から出たら、一緒に正義実現委員会で活動するっすよ」

 

 ハノさんの目が大きく見開かれた。

 予想だにしない提案に、思考が追いついていないようだった。

 

「……え?」

 

「あなたほど、痛みがわかる子がメンバーにいれば、きっと救える子も出てくるっす」

 

 私は彼女の目を見据える。

 

「もちろん、自ら命を絶ったホソバさんは帰ってこないっす。殺そうとした事実も消えないっす。……だけど、せめてこれ以上被害者が出ないように、止めてあげることはできるっすよ」

 

「……」

 

「私が保証するっす。あなたのその『経験』は、誰かを傷つけるためじゃなく、誰かを守るために使えるはずだと」

 

「……そんなの」

 

 ハノさんの力が抜けていく。

 

「……ばかみたい。人を殺そうとした私が正義だなんて……きれいごともいいとこよ!」

 

「……ダメっすか?」

 

 私は首をかしげて見せた。

 

 数秒の沈黙。もうどう転ぶのか、分からなかった。

 

 それでも。

 

 ハノさんは唇を噛みしめ、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。

 

「……どこで、どこで間違っちゃったんだろう……うぅっ……ホソバちゃん……ごめん……ごめんねぇ……」

 

 彼女の手から力が抜け、ハンドガンが床に落ちた。

 乾いた音が響く。

 彼女は首にかけていたロープを乱暴に外すと、その場に泣き崩れた。彼女は落ちた銃を私の方へ蹴り飛ばす。

 

 私は近づいて、彼女の小さな体を抱きしめた。

 

「……確保、っす」

 

 涙があふれてくる。この子を止めれたことは確かに成功と言える。だが振り返れば失敗だったのではないだろうか。

 終わり良ければすべてよしという言葉はある。でも、どうしても私はよしにできなかった。

 

「……ごめんね……ごめん……ごめん……」

 

 声が震えて、いつものような優しい声をかけられない。

 

 薄暗い部屋の中で、ハノさんも私も子供のように泣きじゃくっていた。

 

 ■■■

 

 現場にはすぐにヴァルキューレ警察学校の車両が到着し、いじめっ子たちは保護され、ハノさんは連行されることになった。

 雨が上がり、雲の切れ間から夕日が差し込んでいる。

 

 パトカーの赤色灯が、濡れたアスファルトを照らしていた。

 

「……今回は、えらい手柄だったじゃないか」

 

 背後から、煙草の煙と共に先生の声がした。

 振り返ると、彼は気まずそうに頭をかいている。結局、彼は突入してこなかった。あくまで私に任せたのだ。

 

「……先生、捜査には参加してたのに、最後はおいしいところ譲るんすか?」

 

「バカ言え。大人がしゃしゃり出て解決しても、あの子には響かねぇよ。……お前が言ったから、あの子は銃を置いたんだ」

 

 先生は短くなった吸い殻を携帯灰皿に収める。

 私は、連行されていくハノさんの背中を見つめた。

 

「……私も、あんなふうになるときがあるっす」

 

 ぽつりと、本音が漏れた。

 今回の事件、ハノさんに自分を重ねていたのは事実だ。怒りに任せて暴走しそうになる自分。正義という皮を被っていなければ、私もあちら側にいたかもしれない。

 

「へぇ、珍しいな。優等生のイチカ様が?」

 

「滅多にないっすけどね。……けど、自分が抑えられない瞬間があるのは確かっす。その時は、先生が止めてくださいね」

 

 冗談めかして言ったつもりだったが、先生は真面目な顔でこちらを見た。

 

「……それを止めるのが、俺たち大人の仕事だ。偉そうに自分を語ってんじゃねぇ、ガキが」

 

 ぶっきらぼうな物言い。けれど、そこには確かな信頼があった。

 元・先生。暴力でクビになった男。けれど、誰よりも生徒の痛みを知る人。

 

「……あ」

 

 遠くで、パトカーに乗せられる直前のハノさんが、こちらを振り返った。

 彼女は深々と、私たちに向かってお辞儀をした。

 その表情は、配信の時の死んだような顔ではなく、罪を償い、その先にある微かな光を見つけたような、そんな顔に見えた。

 

「……いつか、正義実現委員会で待ってるっすよ」

 

 私の呟きは、夕風に乗って消えた。

 こうして、長い長い24時間の「ゲーム」は幕を閉じたのだった。

 

 長い、本当に長い一日が終わった。 トリニティの自治区から戻り、馴染み深い思春期相談窓口の事務所のドアを開ける頃には、時間が一周したトリニティの日差しが差していた。いや、疲労で時間の感覚などとうになくなっていた。

 

「……戻ったぞ」

 

「ただいま戻りましたっす……」

 

 先生が気だるげにドアノブを回し、私たちは重い足を引きずって中に入った。 すると、奥のデスクに座っていたウタハさんが、バッと勢いよく立ち上がり、私たちを出迎えた。

 

「お帰り。二人とも、無事で何よりだ」

 

「ああ……疲れた。寝る」

 

「まあ待て。君たちが外で奔走している間、私もただ指をくわえて待っていたわけじゃない」

 

 ウタハさんはニヤリと不敵に笑うと、部屋の中央を指差した。 そこには、先生が愛用している全自動卓が鎮座している──はずだった。

 

「……なんすか、これ」

 

 私が目にしたのは、異様な光景だった。

 

 この前の時点では、せいぜい五色に点滅する程度だった雀卓の縁が、今は七色に輝くレインボーカラーの光を放ち、激しく明滅している。 まるで、ブラックマーケットの安っぽいネオンサインのような装飾だ。

 

「ふふん、名付けて『ゲーミング全自動雀卓・改』だ! LEDの発光パターンを7色に増強し、さらにリーチやテンパイ、ドラが乗った瞬間の音声認識に合わせて、戦況を盛り上げるBGMが流れる機能を搭載した!」

 

 ウタハさんが誇らしげにスイッチを入れると、雀卓からファンファーレのような大音量の電子音が鳴り響き、七色の光がぐるぐると回転し始めた。

 

 薄暗い事務所の中で、その光景はあまりにもシュールで、そしてあまりにも──

 

「……あー……いざこうやって見ると、くっだらねぇ」

 

「……目がチカチカするっす……」

 

「……目がイチカイチカ?」

 

「……はっ倒されたいっすか?」

 

 24時間張り詰めていた緊張の糸が、その馬鹿馬鹿しい光の回転とともに、プツリと切れる音がした。

 

「なっ、くだらないとはなんだ! これはプレイヤーの精神状態を高揚させ、よりアグレッシブな打牌を……」

 

「いったん休ませてほしいっす……あとで感想文提出するっすから……」

 

 私は力なく手を振り、先生の後ろをついていく。目指すは部屋の隅にある、使い古された革張りのソファだ。先生がドカッと腰を下ろし、私もその隣に雪崩れ込むように深く沈み込んだ。

 

「ふぁぁ……」

 

 二人して、大きなあくびが出る。 隣から、煙草の匂いと、少しの汗、そして雨の匂いがした。いつもなら顔をしかめるその匂いが、今は不思議と落ち着く。

 

「……先生」

 

「……あ?」

 

「……お疲れ様っす」

 

「……お前もな」

 

 先生のぶっきらぼうな声を聞きながら、私の瞼は鉛のように重くなっていった。 ウタハさんが「せっかく作ったのに……」と何かブツブツ言いながら、雀卓のスイッチを切る音が遠くで聞こえる。 事務所の中に、静寂が戻ってくる。

 

 私の意識は、急速に深い闇へと落ちていった。 重力に逆らえず、私の頭がカクンと横に傾く。 硬いクッションか何かにぶつかった気がしたが、それは予想よりも温かく、安定していた。 先生の腕か、肩か。 普段ならすぐに跳ね起きるところだけれど、今は指一本動かせない。

 

「(……まあ、いいっすよね。今日くらいは……)」

 

 先生は、私を退けようとはしなかった。

 ただ、深く息を吐く気配だけが伝わってくる。 先生の不器用な優しさに包まれながら、私は泥のような、けれどとても安らかな眠りへと落ちていった。

 





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