【完結】仲正イチカは悪い大人についていく 作:曇りのち晴れ男
夕暮れ時の赤色が、ブラインドの隙間から事務所に差し込んでいる。いつもなら先生の吸うタバコの煙と、私の淹れるコーヒーの香りが漂うだけのこの空間に、今日は荘厳な旋律が流れていた。
女性ボーカルの力強く、それでいてどこか悲しげな歌声。私はデスクの片隅にあるコンポをぼんやりと眺めながら、その歌声に耳を傾けていた。
「……『アメイジング・グレイス』か。お前にしては珍しい曲聞いてるな」
ソファで暇そうにスポーツ新聞を読んでいた先生が、紫煙を吐き出しながら顔を上げる。普段の私が聞くような流行りの曲でもなければ、トリニティで流れる聖歌とも少し雰囲気が違うその曲に、違和感を覚えたのだろう。
「これ……ワタヌキさんが飛び出して行ったとき、事務所に置いていった荷物の中にあったCDっすよ」
「……そうか」
先生の表情が、一瞬だけ曇った気がした。ワタヌキさんが復讐に走り、私たちの前から姿を消してしまったあの日。残された荷物を整理していた時に、このCDだけがケースから出ていたのだ。彼女がよく聞いていたのかもしれない。
「確か、ひどい放蕩息子が改心して、神の恵みに感謝する……みたいな歌詞でしたっけ」
「……『かつて迷子だった私を、今は見つけ出してくれた』。そんな歌詞じゃなかったか?」
先生は天井を見上げ、ポツリと呟く。その何を考えているかわからない横顔は、どこか自分自身と重ね合わせているようにも、ワタヌキさんの身を案じているようにも見えた。
「詳しいっすね」
「まあな。……迷える羊を導く歌だ。俺みたいなクズ教師にゃ耳が痛い曲だが」
「そんなことないっすよ。……ワタヌキさんもきっと、誰かに見つけ出してほしかったのかもしれないっすね」
しん、と静寂が落ちる。曲が終わると、また事務所にはいつもの静けさが戻ってきた。センチメンタルな空気に浸りそうになったその時、私のスマートフォンが振動した。
「ん……あ、ウタハさんだ」
『イチカ、今、暇か?』
スマホの画面には、丁寧にそう書かれていた。暇……ではあるが、こう、暇なのかどうかだけ聞かれると、面倒なことを言われるパターンに見えてしまってならない。
そのメッセージに返信すると、すぐに既読がついて新しくメッセージが返ってきた。
「……誰からだ?」
「ミレニアムのウタハさんからっす。『新しい機械の動作テストを行うのだが、トリニティの地形データとの照合も兼ねて立ち会ってほしい』だそうっす」
「動作テスト? なんで俺たちなんだよ。あそこの部員だけでやればいいだろ」
「『不確定要素としての観測者が必要だ』とか書いてあるっすね……。要は、手伝ってほしいみたいっす」
私は時計を見る。本日の窓口受付時間は、あと十分ほどで終了だ。これといった相談も来ていないし、少し早じまいしても文句は言われないだろう。それに、少し湿っぽくなってしまったこの空気を換えるには、外に出たほうがいい気がした。
「どうします? 先生」
「……へいへい。どうせ暇だしな。パチ勝ったし飯でも奢ってやるか」
先生はよっこらせ、と重そうに腰を上げ、ジャケットを羽織った。
「じゃあ、行きましょうか。ミレニアムへ」
私たちは戸締りを済ませ、夕焼けに染まるトリニティの街を後にした。
自治区を離れ、景色はトリニティの自治区から市街地へ、市街地から近未来的な土地へと変わっていった。
……やっぱりいつ見ても現代の学園じゃないよなぁ。空を飛ぶドローン、幾何学的なビル群、そしてすれ違うロボットたち。トリニティのクラシックな雰囲気とは対極にあるその景色に、私はいつものように圧倒されながらエンジニア部の部室へと向かった。
「よう、ウタハ。差し入れだ」
部室に入った途端、先生が手に持っていたビニール袋をドサリと机に置いた。中から漂ってくるのは、食欲をそそる甘辛いタレの匂い。大手牛丼チェーンの特盛牛丼が人数分、山積みになっている。
「……随分と脂っこい差し入れだな。どういう風の吹き回しだ?」
ウタハさんが半田ごてを置き、呆れたように眉を上げる。先生は悪びれもせず、タバコをくわえながらニヤリと笑った。
「パチンコで勝った。あぶく銭は早めに使うに限る」
「……教育者、いや元教育者のセリフとは到底思えないな」
ウタハさんはため息をつきつつも、牛丼の容器を手に取った。どうやら徹夜続きだったらしく、その表情には明らかな疲労の色が見える。温かい食事は素直にありがたいようだ。私たちも一緒に牛丼をかきこみ、腹ごしらえを済ませると、すぐに実験が始まった。
実験内容は、新型ドローンの自律姿勢制御のテストだった。先生がターゲットマーカーを持ち、私が障害物を動かす係。ウタハさんの指示に従って動き回ること一時間。テストは大きなトラブルもなく、あっさりと終了した。
「助かったよ。おかげでいいデータが取れた」
「そりゃどうも。……じゃあな、またなんかあったら呼べよ」
「あぁ。……それと、牛丼。礼を言う」
まだ先生に対して少し棘のある態度を残しつつも、ウタハさんは礼儀正しく私たちを見送ってくれた。
「ところで、なんで天井にあんな穴が開いてるんすか?」
「レールガンで……つ、突き抜けた」
「……そっすか」
……大変そうだった。
■■■
帰りの闊歩。行きとは違い、先生が私の前を歩いている。私たちの周りを流れる景色は、ミレニアムの無機質なビル群から、雑多な看板が並ぶ一般の商店街へと変わっていた。どこの学園の自治区かも知らない、普通の商店街だ。
「……ん? なんか騒がしいっすね」
ふと、人だかりができているのが見えた。赤と白の幕が張られ、鐘の音がカランカランと景気よく鳴り響いている。私はなんとなしに看板の文字を目で追ってみた。
『歳末大感謝祭! ガラガラ抽選会!』
「へぇ、くじ引きっすか。懐かしい感じっすね」
「くっだらねぇ、どうせ当たりなんて入ってねぇよ。ポケットティッシュが関の山だ。天ぷらにでもするか?」
先生は興味なさそうに無視しようとしたが、私はその看板の横に書かれた『特賞』の文字を見逃さなかった。
『特賞:ペアで行く! レッドウィンター自治区・秘湯温泉宿泊券』
「せ、先生!! ストップっ!」
「あぁ!? なんだ急に! 敵襲か!?」
「違います! 温泉っすよ温泉!! タダで温泉に行けるチャンスっす!!」
私は先生の腕を揺さぶり、無理やりくじ引きの会場に引っ張った。日々の業務、相次ぐ事件、そして先生の世話。
……いや、主に先生の世話ッッ!
私の体と心は、癒しを求めて悲鳴を上げていたのだ。
「……おいおい、本気かよ。当たるわけねぇだろ」
「やってみなきゃわかんないっすよ! それに、さっきエンジニア部で牛丼食べた時のレシート! あれがあれば一回引けるはずっす!」
私は嫌がる先生を引きずり、熱気に包まれた抽選会場へと駆け出した。くじ引きを進行している人がこちらに気付いたようで、すぐに場を盛り上げに入った。
「さぁさぁ寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 本日の特賞はなんと、高級温泉旅館ペア宿泊券だよ!! こちらの可愛らしいお嬢さん、挑戦していくかい!?」
「はいっす! さっきの牛丼屋のレシート、合算でいけるはずっす!」
私は鼻息荒く、ポケットからくしゃくしゃになったレシートを取り出した。先生は「やれやれ」といった顔で少し離れた場所でタバコを吹かそうとしているけれど、そんなの構っていられない。温泉。日々の激務、銃撃戦、そして先生の世話……疲れた体に染み渡るお湯を想像するだけで、アドレナリンが出てくる。
「よし、行くっすよ……!」
私の腕に合わせて木製の抽選機が回り、コロンと一つの玉が出てきた。
白。
「あーっと残念! 参加賞のポケットティッシュだね!」
「……うぅ」
無情な白い玉を見て、私はガックリと肩を落とした。やっぱり、そう都合よくはいかないものだ。私の日頃の行いはいいはずなんだけどなぁ。
「……何やってんだ、お前は」
項垂れる私の背中に、呆れたような声が降ってくる。先生がタバコを携帯灰皿にしまい、面倒くさそうに歩み寄ってきた。
「だって……欲しかったんすもん、温泉……」
「貸してみろ。……チッ、お前のレシートじゃもう回せねぇじゃねぇか」
「先生持ってないんすか? さっき私の分まで牛丼買ったじゃないっすか」
「あぁ、あれか」
先生はスーツの内ポケットから、パンパンに膨らんだ財布を取り出した。中からは大量のレシートや、パチンコ店の景品交換の半券なんかが雪崩のように出てくる。
「……生活感がありすぎて引くっす」
「うるせぇ。……お、あったあった。これなら一回分回せるな」
先生が取り出したのは、まさにさっきの牛丼屋のレシートと、コンビニのレシートの合算だった。係のおじさんがそれを確認し、「はい、一回分ですね!」と笑顔で頷く。
先生は意気揚々と袖をまくり上げ、抽選機の取っ手に手をかけた。
「よく見てろイチカ。パチで勝った俺の豪運舐めんなよ」
不敵に笑う先生に、私はジト目を向ける。
「……でも、昨日私に役満を振り込んだっすよね?」
「ッ……!」
先生の手がピクリと止まる。昨晩のオンライン麻雀。私が国士無双をあがった時、放銃したのは他でもない先生だった。
「お前、帰ったら処刑」
「八つ当たりは良くないっすよー」
「うるせぇ! 見てろ……!」
先生は気を取り直し、力強く、けれど慎重にガラガラを回し始めた。中の玉が跳ねる音が響く。世界がスローモーションになったかのように、私の目にはその回転がゆっくりと映った。赤か、青か、それともまた白か。先生の無駄に真剣な眼差しと、私の祈るような視線が交錯する。
受け皿に落ちたのは、照明を反射して眩く輝く──金色だった。
「おおおめでとうございまーす!! 特賞! 特賞出ましたァァ!!!」
係のおじさんが鐘を勢いよく鳴らし、周囲の客から「おおー!」という歓声が上がる。私は目を見開き、数秒固まった後、爆発的な歓喜に包まれた。
「せ、先生……!!」
「……はっ」
先生もまた、驚いたように金色の玉を見つめ、それからニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべた。
「先生の運は最高っすうぅぅ!!!」
「だろぉぉぉ!? っしゃあ!!」
私たちは人目もはばからずハイタッチを交わし、その場で飛び跳ねた。さっきまでの疲れも、牛丼屋でのハズレも全部吹き飛んだ。特賞の目録を受け取った私たちは、まるで子供のようにはしゃぎながら、夕暮れの道を歩き出した。
「いやー、流石っす先生! 一生ついていくっす!」
「現金なやつだなテメー。……まぁ、たまにはこういうのも悪くねぇ」
「帰ったらすぐに日程決めるっすよ! ハスミ先輩にも休暇申請しなきゃ!」
「おう。……あ、その前にコンビニ寄らせろ。タバコ切れた」
「もう、しょうがないっすねぇ~♪」
「……お前っ、なんかっ、気持ち悪いな」
手に持った目録を大事に抱えながら、私たちは軽い足取りでトリニティへの帰路についた。ただの教師と生徒のように、私たちは笑い合っていた。
■■■
休暇の申請は、驚くほどスムーズに通った。ウキウキでハスミ先輩に事情を話すと、「貴女には休息が必要です」と、むしろ背中を押されたくらいだ。
そうして数日後。私たちは旅行会社が手配してくれた送迎バスに揺られ、キヴォトスの北限、レッドウィンター連邦学園の自治区外れへと向かっていた。
窓の外は一面の雪景色。暖房の効いた車内から見る分には風情があるけれど、外に出たら凍えそうな白銀の世界だ。バスの揺れが心地よい眠気を誘う中、隣の席で先生が窓の外を眺めながら欠伸を噛み殺した。
「ま、ちょうどいい機会じゃねぇか? ここ最近お前詰めすぎだしな」
「……そうっすね」
窓口業務に、委員会としての治安維持活動、そしてこの人の監視役……確かに、ここ最近は目の回るような忙しさだった。
「(……先生のお世話が一番大変かもしれないことは、黙っておくっす)」
私は心の中でこっそりと毒づきながら、苦笑いで誤魔化した。バスは山道を登りきり、少し開けた場所へと出る。その瞬間、視界の先にモクモクと白い湯けむりを上げる、立派な日本家屋が見えてきた。
「あ……! 先生、あれっすか!?」
私は思わずシートベルトがロックされる勢いで、前のめりに身を乗り出した。降り積もる雪の中に佇む、風情ある木造建築。入り口には『秘湯・雪解けの宿』という看板が掲げられている。
「おぉ、パンフレット通りだな。悪くねぇ」
「すごいっす……! 本物の温泉旅行っすよ……!」
私の目は、きっと今、キラキラと輝いているに違いない。日々の喧騒も、硝煙の匂いも忘れて、私は久しぶりの休日に子供のようにはしゃいでいた。
旅館に着くなり部屋に案内された私たちは、そのまま脱衣所で着替えを済ませて浴室へと足を踏み入れた。
レッドウィンターの辺境にあるこの秘湯は、どうやら昔ながらの混浴スタイルらしい。とはいえ、もうもうと立ち込める白い湯気が天然の目隠しになっていて、数メートル先も見通せない状態だった。今の時間は貸し切りだし、そこまで気まずさはない。
私は体に巻いたタオルが落ちないように気を付けながら、洗い場にある木の椅子に腰を下ろし、先生に背中を預けていた。シャンプーの香りが湯気の中に広がる。
先生の大きく無骨な手が、ワシャワシャと私の頭を泡立てていた。
「……お前、いっつもこんなの洗ってるのか? 切れよ。ウルフカットとか似合いそうじゃねぇか」
「うーん、まぁ考えておくっす。……というか先生、意外と手際いいっすね」
「あぁん? 昔、犬洗ってたからな」
「犬じゃないっす……ッ!」
軽口を叩きながらも、私は目を閉じてその感触に身を委ねる。乱暴なようでいて、爪を立てないように気を使っている指先。日々の激務と先生の世話で凝り固まった頭皮が、じわじわとほぐれていくようだった。たまには、こういうのも悪くない。
「ほら、流すぞ」
「はーい。お願いしま……ひゃうっ!?」
お湯をかけられた瞬間、背中に電流が走ったような感覚が襲った。先生の手が、泡を流そうとした拍子に私の羽の付け根──一番敏感な部分に触れてしまったのだ。
「っ、ちょ、そこダメっす!!」
私の意志とは無関係に、背中の黒い翼が大きく展開した。反射的に暴れてしまった翼は、背後にいた先生の顔面を強打し、さらにその勢いのまま下半身へと振り下ろされる。
ぺちん、という乾いた音と共に、何かが湿った床に落ちる気配がした。
「……いやぁん、えっち」
湯気の中で、野太く、かつ棒読みの声が響く。私が恐る恐る振り返ると、そこには腰に巻いていたタオルを弾き飛ばされ、生まれたままの姿で仁王立ちする先生がいた。
「『いやぁん』……はこっちなんすけど!? 早くしまってください!! 目が! 私の目がぁ!!」
私は慌てて手で目を覆いながら叫んだ。
先生は悪びれもせず、床に落ちたタオルを拾い上げている。
「お前が弾き飛ばしたんだろうが。……ったく、暴れんなよ、むっつり」
「不可抗力っすよ! あーもう、乙女のデリケートな部分に触るからっす!」
「鳥ってのは面倒だな」
「鳥じゃないっす!!」
「鳥ニティ……w」
「トリニティ!!!」
私は真っ赤になった顔を隠すように、湯船の方へと逃げた。まったく、体を癒しに来たはずなのに、心臓に悪いことこの上ない。
■■■
風呂上がり特有の、体の芯から力が抜けていくような脱力感。私は少し大きめの浴衣の袖をパタパタとさせながら、先生の隣を歩いていた。先ほどの浴室でのハプニングを何とか記憶の隅に追いやり、私たちは「大人の保養」を楽しむべく、旅館に併設されたバーラウンジへと足を踏み入れた。
薄暗い照明の落ち着いた空間。カウンター席に腰を下ろすと、木の温かみのある感触が心地よい。
「いらっしゃーい。……おや、随分と湯あたりが良さそうな顔をしてるね」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、一人の女子生徒だった。レッドウィンター連邦学園の生徒だろうか。ゆったりとした着崩した浴衣姿に、特徴的なイタチのような耳と大きな尻尾。
手元にはシェイカー……ではなく、なぜか琥珀色の液体が入った怪しげなスキットルを持っているのが気になったけれど、その雰囲気は妙にこの場所に馴染んでいた。
「これ、サービスしてあげる」
その人は突然先生に向かって一つのグラスを渡した。その中にはスキットルの中身と同じであろう、透明感あふれる琥珀色の液体が入っている。
「ん、サンキュ……ぶっ……ぶぉぉぉあぁぁあ!?」
先生がそのグラスを口に傾けると、突然霧状にして噴き出した。テンポと言い、あまりにも芸術点が高い。
「おまっ……これっ……ハイボール!? 濃いっっっ!!」
「おいしーかもー♪」
「おぉ、おぉ……ぶっ飛ばしてやるよお前……」
開幕とんでもないドッキリを仕掛けられたのもつかの間、その生徒はグラスを片付けた後カウンターを拭いて、改めて私たちに向き直った。
「ご注文は?」
「……フルーツ牛乳を二つ、頼む」
先生がメニューも見ずにオーダーすると、彼女はクスクスと喉を鳴らした。
「ふふ、見る目があるね」
彼女は手際よく冷蔵庫から複数の飲み物を取り出し、フルーツ牛乳を作り始めた。
……都度手作りなのだろうか。彼女の背中で何をしているのかは見えなかったが、そのうちカコン、と軽快な音を立てて目の前に置かれたそれを、私と先生は同時に手に取り、腰に手を当てて一気に煽った。
「……ぷはぁっ!」
「んん~っ! 最高っす……!」
甘くて冷たい液体が、火照った体に染み渡っていく。これだ。これがないと温泉旅行は始まらないし、終わらない。
私がグラスを置いて息をついていると、バーテンダーの少女が頬杖をつきながら、面白そうにこちらを眺めていた。
「いい飲みっぷりだねぇ。……ところで、お客さんたち。この旅館の『噂』、聞いたことある?」
「噂、っすか?」
「そう。出るんだよ、ここ」
彼女は声を潜め、意味深に天井の方を指さした。
「『透明なお客さん』がね」
「……は? 透明?」
先生が眉をひそめる。少女はスキットルを弄びながら、怪談を語りだした。
「昔から言うんだよ。雪深い夜には、姿の見えない客が混ざり込むってね。誰もいないはずの廊下で足音がしたり、脱衣所のカゴが勝手に動いたり……。一番有名なのは、『湯船に浸かると、隣にお湯が割れる波紋だけが見える』って話かな」
「うっ……やめてくださいよ、そういうの」
私は思わず身震いして、浴衣の襟を合わせた。先ほどまで入っていたお風呂場を想像してしまう。
「ふふっ、怖がりだねぇ。でも、悪いオバケじゃないらしいよ? ただ、温泉が好きで好きでたまらなくて、成仏できずに浸かりに来てる……なんて話もある」
「くだらねぇ。どうせ建付けの悪い床の音か、風の音だろ」
先生は鼻で笑い、空になった牛乳瓶を置いた。
「現実主義だねぇ。でも、レッドウィンターの冬は不思議なことが多いからね。……もしかしたら、今も君たちの隣で、一緒に牛乳を飲みたがっているかもしれないよ?」
彼女はイタズラっぽくウィンクをして、尻尾をゆらりと揺らした。その語り口はどこか芝居がかっていて、からかわれているだけのようにも思えたけれど、窓の外で強くなり始めた吹雪の音と相まって、私の背筋を少しだけ寒くさせた。
「……先生。今日は早めに部屋に戻って寝るっすよ」
「あ? ビビってんのか、イチカ」
「ち、違いますっ! 明日に備えるだけっす!」
私は強がりを言って、逃げるように席を立った。背後で「おやすみ、良い夜を」と笑う少女の声が、妙に耳に残った。
客室に戻ると、ムワッとした暖房の空気と、新しい畳の匂いが鼻をくすぐった。先生はといえば、すでに浴衣を着崩して大の字で寝転がっている。
「あー……タバコ吸いてぇ……。なんだよ全館禁煙って。ここは監獄か?」
「健康的な監獄っすね。諦めて寝ててください」
私は先生を跨いで窓際の広縁へと向かった。カーテンを開けると、そこには音もなく降り積もる雪景色が広がっている。窓ガラスは冷たく、指を近づけるとひんやりとした冷気が伝わってくるようだった。
レッドウィンターの雪は、トリニティで見るそれよりもずっと深く、重い。世界を白く塗りつぶしていくその光景を見ていると、ふと、胸の奥に沈めていた澱のようなものが浮き上がってくる。
──ワタヌキさんは、今どこにいるんだろうか。
あの日、私の手からすり抜けていった彼女。季節は巡り、寒さは厳しくなる一方だ。もし、誰の助けも借りられず、路地裏で凍えているとしたら? 食べるものもなく、ただ静かに衰弱していっているとしたら?
「(……ブラックマーケットに拾われていれば、まだマシっすね)」
犯罪組織の手先になっていても、利用されていても、生きてさえいれば。「正義」を掲げる私が、そんな最悪の選択肢を「マシ」だと願っている。その矛盾に、私は自嘲気味に笑うしかなかった。
ガラスに映る私の顔は、温泉で温まったはずなのに、どこか青ざめて見えた。
「…………」
背後で衣擦れの音がした。畳を踏む足音が近づいてくる。振り返ろうとした瞬間、ぽすん、と。頭の上に、大きく無骨な手のひらが乗せられた。
「あ……」
「眉間にしわ寄ってんぞ」
窓ガラス越しに、先生と目が合う。先生は私の隣に並んで、同じように雪景色を見つめていた。タバコの匂いはしない。代わりに、旅館のシャンプーの香りが微かに漂う。
「……別に、なんでもないっすよ」
「嘘つけ。どうせまた、辛気臭いこと考えてたんだろ」
先生の手が、私の頭を乱暴に、けれどどこか一定のリズムで撫でる。子供扱いしないでください、と言おうとした言葉は、喉の奥でつっかえて出てこない。その掌の温度が、冷え切った私の思考をじんわりと溶かしていくようだった。
「ワタヌキのことか」
「……っ」
図星を突かれ、私は唇を噛む。先生は窓の外、暗闇に沈む森の方へ視線を投げたまま、独り言のように呟いた。
「生きてるさ。あいつの眼には、まだ光があった」
「……でも、確証はないっす」
「ないな。だが、俺たちは『相談窓口』だ。来るもの拒まず、去る者追わず……なんて悠長な商売じゃねぇ」
先生の手が止まる。そして、私の頭をポン、と力強く叩いた。
「窓口の仕事をしてれば、いつかたどり着くさ。お前が諦めない限り、糸は切れてねぇよ。だからそんなに気にするな」
「先生……」
「ほら、さっさと寝るぞ。明日は雪かきさせられるかもしれねぇからな」
先生は照れ隠しのように手を引っ込めると、あくびを噛み殺しながら布団の方へと戻っていった。残された私は、頭に残るその温もりを確かめるように、そっと自分の髪に触れた。
窓の外の雪は、相変わらず静かに降り続いている。けれど、先ほどまでの凍えるような不安は、少しだけ和らいでいる気がした。
■■■
「おい……こいつは、いったい、どういうことだ……」
「……私が聞きたいっす」
旅館のロビーは、不測の事態にざわつく宿泊客たちで溢れかえっていた。ガラス張りの窓の外は、昨晩の風流な雪景色とは打って変わって、視界を真っ白に染め上げる猛吹雪。私たちの帰りの足となるはずだった大型バスは、タイヤの半分以上が雪に埋まり、完全に沈黙している。
その前で、旅行会社の添乗員さんが拡声器を持って必死に声を張り上げていた。
「申し訳ありません! ご覧の通りの大雪で、除雪車の手配も遅れており、現在バスが出られない状況です……!」
客たちから「仕事があるんだぞ!」「いつ帰れるんだ!」という怒号が飛ぶ。添乗員さんは額に脂汗をかきながら、さらに声を張り上げた。
「このまま何時間もお時間をいただくわけにはいきませんので……本日の宿泊費は全額当社負担にて、もう一泊サービスさせていただきます! お食事もご用意いたしますので!」
その言葉に、怒号が少しだけ静まり、代わりにどよめきが広がる。タダでもう一泊。その響きに心を動かされた客も多いようだ。だが、当然急いでいる客もいる。
「どうしてもお急ぎの方はいますか!? 人数に限りはありますが、近隣の自治区からヘリコプターを手配しました! 順次ピストン輸送を行いますが──」
「ヘリだってよ、イチカ」
先生が他人事のようにあくびを噛み殺しながら言った。私は窓の外の猛吹雪と、先生の顔を交互に見る。
「……どうするっすか? 私たちは一応、休暇扱いですけど」
「あんなうるせぇ乗り物は御免だ。それにこの吹雪だぞ? 飛んだとしても揺れるに決まってる」
先生は面倒くさそうに手を振ると、懐からタバコの箱を取り出し、手持ち無沙汰に弄び始めた。
「それに、『タダ』だぞ? タダ飯、タダ風呂、タダ酒だ。帰って書類の山と格闘するより、ここで雪見酒と洒落込む方が建設的だろ」
「……先生、単に働きたくないだけじゃないっすか?」
「おうコラ、人聞きが悪いな。英気を養うと言え」
「ま、たまにはいいっすよね」
「……タバコが吸えないのが、非常に悔やまれるがな……」
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
場所は変わり、トリニティから遠く離れた吹き溜まり──ブラックマーケット。ネオンの光がどす黒い水たまりに反射し、治安の悪さを彩るその場所で、ワタヌキは重たいアタッシュケースを抱えて立っていた。
「……は、はい。これが代金です」
震える手でクレジットチップを差し出してくるのは、他学園の不良生徒だ。ワタヌキは慣れない手つきでそれを受け取ると、アタッシュケースを開き、怪しく蛍光色に輝く小瓶──『強化薬剤』を取り出した。
「ありがとうございます。……商品です」
「く、くれ! 早く!」
生徒はひったくるように小瓶を受け取ると、その場で蓋を開け、喉を鳴らして一気に飲み干した。直後、彼女の瞳孔が開き、荒い息と共に不自然な力が身体に満ちていくのが分かる。理性が飛び、暴力的な衝動に支配されていく様を、ワタヌキはただ呆然と見つめていた。
「(……あぁ)」
胸の奥が、焼けつくように痛い。また一人、堕としてしまった。道を踏み外し、戻れなくなった自分と同じ場所まで、未来ある生徒を引きずり下ろしてしまった。
「うぉぉぉぉッ!! 力が……力が湧いてくるぞぉ!!」
叫びながら走り去る生徒の背中を見送り、ワタヌキはアタッシュケースを強く握りしめる。吐き気がする。自分の手が汚れている感覚が消えない。けれど、もう戻れない。私には、この闇の中で生きるしか道はないのだから。
鉛のように重い足を引きずり、ワタヌキはネオンの海を歩く。辿り着いたのは、ブラックマーケットの深部にある、元締めが所有する高級クラブの裏口だった。
重厚な扉を開け、低音が響く店内を抜け、最奥のVIPルームへと入る。そこには、革張りのソファに優雅に腰かけ、ワイングラスを揺らす元締めの姿があった。
「……戻りました」
ワタヌキが力なく報告すると、元締めの女はつまらなそうにスマートフォンを放り投げ、ねっとりとした甘い声で出迎えた。
「あら、ワタちゃんおかえり~♪」
彼女の視線はワタヌキではなく、その背後の虚空に向けられているようだった。彼女は深いため息をつき、長い足を組み替えながらぼやく。
「も~、矯正局脱獄の手引するの大変。強い手駒のくせに捕まらないでよねって感じだよ。少し前から警備配置がやたら強固だし……」
どうやら先日捕まった手駒たちを、裏から手を回して脱獄させているらしい。犯罪すらもゲームの駒の配置程度にしか考えていないその口ぶりに、ワタヌキは背筋が凍る思いだった。
「さぁて、在庫は捌けた? まだまだ『お客さん』は待ってるんだから、休んでる暇はないよ?」
「……はい」
ワタヌキは感情を押し殺し、ただ頷くことしかできなかった。