【完結】仲正イチカは悪い大人についていく   作:曇りのち晴れ男

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第八話 君も、オタクかい?

 

 大雪によるバスの運休が決まり、私たちは再び旅館の客室へと戻ってきていた。 予定外の連泊。普通なら足止めを食らってイライラするところかもしれないけれど、窓の外で吹き荒れる吹雪を見ていると、暖房の効いた部屋にいられるだけで天国のように思えてくる。

 

 やることもないので、私たちは畳の上でダラダラと過ごしていた。 先生はうつ伏せに寝転がり、私がその背中に乗っかるような形でマッサージ──という名の、ちょっとした実験を行っている。

 

「ここって疲労に効くらしいっすよ」

 

 私はスマホで検索した『ツボ』の画像を見ながら、先生の肩甲骨の内側に親指をぐりぐりと押し込んだ。

 

「あ……ぅ、お……!? あいだだだだだ!! やめっ……痛い痛い痛い!! イチカァッ!!」

 

 先生が畳をバンバンと叩き、海老反りになって悲鳴を上げる。 大人の男性が情けなく声を上げる姿は、なんとも愉快だ。私はさらに体重を乗せて、親指に力を込める。

 

「はは。いつもの仕返しっす。はは、は」

 

「てめぇ! これ絶対マッサージじゃねぇだろ! 破壊工作だろ!! 折れる! 肩甲骨が砕ける音したぞ今!!」

 

「大袈裟っすねぇ。ほら、もうちょっとでほぐれる気がするっすよ?」

 

「サディスト! 人でなし! 悪魔! ぎゃあああああ!! お前にも同じことしてやる!!」

 

「それは事案っす」

 

 先生が必死に身をよじって私を振りほどこうとした、その時だった。

 廊下の方から、慌ただしい足音がいくつも聞こえてきた。 悲鳴や怒号といった緊迫したものではないけれど、大勢の人が何かを求めて移動しているような、ザワザワとした気配。

 

「……ん?」

 

 先生が痛みに涙目になりながら顔を上げる。私も先生の背中から降りて、襖の方を見た。

 

「なんか、騒がしいっすね」

 

「客か? 風呂の時間にしては半端だし……飯時でもねぇぞ。……肩軽いな……」

 

 私たちは顔を見合わせると、部屋を出て廊下の様子を窺うことにした。 障子を開けると、浴衣姿の宿泊客たちが、何やらヒソヒソと話しながら一方向へ──厨房のある方へと足早に向かっているのが見えた。

 

「あの、すいません。何かあったんすか?」

 

 通りがかりの男性客に声をかけると、彼は少し興奮した様子で答えた。

 

「いやぁ、厨房で騒ぎがあったらしくてね。なんでも、夕食用の高級食材が消えちまったらしいんだよ」

 

「消えた?」

 

「あぁ。泥棒が入った形跡もないのに、まるで神隠しみたいに消えたんだとさ。みんな『やっぱり出るんだ』って大騒ぎで見に行ってるんだよ」

 

 男性客はそう言うと、野次馬の波に乗って去っていった。

 

「……食材の神隠し、か」

 

 先生がボリボリと頭をかきながら、面倒くさそうに、しかしその瞳には微かな好奇心を宿して呟く。

 

「幽霊にしちゃ随分と食い意地が張ってやがるな。……行くぞ、イチカ」

 

「えぇ? 私たち関係ないじゃないっすか」

 

「暇つぶしにはなるだろ。それに、晩飯が抜きになったら困るのは俺たちだ」

 

 先生は懐手でペタペタと雪駄を鳴らし、人波の後を追い始めた。 私は「はぁ……」と小さくため息をつきつつ、その後ろ姿を追った。

 騒ぎの元凶である厨房へ向かうと、そこはすでに修羅場と化していた。 調理場の入り口では、女将さんが数人の宿泊客に囲まれ、頭を下げ続けている。

 

「申し訳ございません、今すぐ代わりの食材を手配いたしますので……!」

 

「代わりって、外はあの大雪だぞ!? いつ届くんだ!」

 

「ただでさえバスが出なくてイライラしてるのに、飯抜きなんてふざけるなよ!」

 

 宿泊客たちの怒号が飛び交う。 無理もない。予定外の連泊に、閉ざされた雪山。ストレスが溜まっているところに「夕食の食材がない」と言われれば、爆発するのも当然だ。 女将さんは青ざめた顔で、ひたすら謝罪を繰り返すことしかできていない。

 

「……ありゃりゃ。こりゃ結構マズい空気っすね」

 

「まったくだ。飯の恨みは怖いからな」

 

 先生はポリポリと頭をかきながら、ため息交じりに前に出た。

 

「おい、そこまでにしておけよ」

 

 ドスの利いた低い声。 先生が放ったその一言だけで、場の空気が凍り付いたように静まり返った。 怒鳴っていた客たちが、ギョッとして振り向く。 先生はダルそうにポケットに手を突っ込みながら、彼らの前に立ちはだかった。

 

「女将さんを責めたところで、飯が湧いてくるわけじゃねぇだろ。外を見てみろ。この雪じゃ買い出しなんて無理だ」

 

「だ、だけどよぉ……!」

 

「厨房の在庫を確認して、あるもんで何か作るしかねぇんだよ。……アンタらも、ここで喚いて体力使うより、部屋で酒でも飲んで待ってた方が利口じゃねぇか? ほら、なんか落ちてたモルス入りの湯たんぽやるから」

 

「……あれっ!?」

 

 先生の威圧感と、もっともな正論。 それに加えて、私もにらみを利かせながら横に立ったことで、客たちは毒気を抜かれたように押し黙った。

 モルス入りの湯たんぽを渡すと、なんだか遠くの方で昨日のバーテンダーの生徒がぎょっとした目でこっちを見ている気がした。

 

「……ちっ、わかったよ。とっととしてくれよな」

 

 客たちはバツが悪そうに散り散りになっていく。 廊下が静けさを取り戻すと、女将さんがへなへなとその場に座り込んだ。

 

「あ、ありがとうございます……助かりました……」

 

「いえいえ。大変でしたね、女将さん」

 

 私は彼女の手を取り、立ち上がらせる。 少し落ち着いてもらってから、私たちは改めて事の次第を聞くことにした。

 

 ■■■

 

 厨房の隅にある休憩スペースでお茶を出され、女将さんは重い口を開いた。

 

「実は……夕食用の魚や野菜が、ごっそりと無くなってしまったんです」

 

「盗難、ということっすか?」

 

「ええ。確かに保冷庫に入れておいたはずなんです。鍵もしっかり掛けていましたし……。それに、無くなったのは食材だけじゃありません。従業員の賄い用のお菓子や、つまみ食いできそうな軽食ばかりが狙われているようで……」

 

「ふむ。金目の物には手を付けず、飯だけか」

 

 先生はお茶をすすりながら、鋭い目を保冷庫の方へ向けた。

 

「……まるで、腹を空かせた野生動物か何かが住み着いてるみたいだな」

 

「……野生動物にしては、保冷庫の鍵を開けるのは無理があるっすよね。ピッキングのできる熊でもいない限り」

 

 私がそう言うと、先生は眉間に皺を寄せ、誰もいない調理場の床をじっと見つめた。

 

「ああ。争った形跡もねぇ、足跡もねぇ。だが確かに、ここにあった『命』が消えてやがる。……イチカ、これは単なる食い物の盗難じゃねぇぞ。密室消失だ」

 

「……何言ってるんすか、大袈裟っすよ。相手はただのお腹を空かせた泥棒っす」

 

 そう強がりを言ってみるものの、外の猛吹雪で完全に陸の孤島と化したこの旅館で、外部から侵入者が入ることは考えにくい。そうなれば、犯人は内部の人間……あるいは、昨晩バーテンの生徒が話していた『透明なお客さん』という言葉が嫌でも脳裏をよぎる。

 

 私たちは旅館内の捜索を開始した。 薄暗い廊下、軋む床板。普段なら風情を感じるはずの古い木造建築が、今は何かの巨大な生き物の胎内のように感じられた。

 

「あ、あの……女将さん。誰か怪しい人を見たりしてないっすか?」

 

「ええ。従業員も全員厨房におりましたし、お客様も皆様お部屋かロビーにいらっしゃったはずで……」

 

 従業員への聞き込みも空振りに終わった。誰一人として、廊下を歩く不審な人影を見ていない。 まるで、壁をすり抜けて食材だけが消えたかのような不可解さ。

 

 私たちは、客室から離れた、今は使われていない北棟の回廊へと足を進めた。 窓の外の雪明かりだけが、青白く廊下を照らしている。

 

「……イチカ。感じるか」

 

「なにをっすか」

 

「『気配』だ。それも、とてつもなく巨大な……。何かがこの旅館の深層に潜り込み、着実に力を蓄えているような、そんな不吉な重低音だ」

 

「……先生、さっきから不吉なことばっかり言うのやめてくださいっす。ただの風の音っすよ」

 

 私は愛銃を強く握りしめた。これまでの事件——爆破、誘拐、復讐。それらには必ず『形』があった。狙うべき敵がいて、引くべき引き金があった。 けれど、この静まり返った旅館の中にあるのは、正体の見えない『空白』だ。それが、これまでのどんな凶悪犯よりも恐ろしいプレッシャーとなって、私の肌を粟立たせる。

 

 その時だった。

 

 カラン、と。

 

 静寂を裂いて、小さな音が廊下の向こうで響いた。

 

「ッ……!!」

 

 私は瞬時に銃を構える。先生もポケットから手を出し低い姿勢をとっている。しばらくすると曲がり角の先、闇に包まれた廊下からゆっくりと『それ』が姿を現した。

 

「……え」

 

 私の思考が停止した。 そこにいたのは、人ではなかった。

 

 闇の中から浮き上がるように現れたのは、一つの漆黒のお盆。 その上には、どこから持ってきたのか、握り飯が二つ、ちょこんと乗っている。

 

 お盆を支える手はない。 お盆を運ぶ身体もない。

 

 ただ、お盆だけが。 床から一メートルほどの高さを保ったまま、ふわふわと、まるで見えない誰かが運んでいるかのような足取りでこちらに向かって近づいてくるのだ。

 

「あ……あれ、お化けだよな……?」

 

 先生の声が、情けないほどに震えていた。 普段なら「トリックだ」と吐き捨てるはずの男が、私の後ろに隠れるようにして、ガタガタと膝を震わせている。

 

「せ、先生……ううう腕掴んでていいっすか……?」

 

 私もまた、銃を握る指先が凍り付いたように動かなかった。 立ち向かうべき『悪』ではない。理解を拒絶する『異界』の存在。 宙を舞うお盆は、私たちの恐怖など知らぬげに、闇の中をゆらゆらと進み続けていた。

 

 その時、静止していたお盆が、まるで意志を持ったかのようにふわりと浮き上がった。

 

「ひっ……!」

 

 私たちの目の前を、お盆は風を切るような速度で通り過ぎ、闇の深い廊下の奥へと消えていった。角を曲がる瞬間、パタパタという微かな、けれど確かな何かの音が聞こえた気がした。

 

 ……。 …………。

 

「腰、抜けたっす……」

 

「……俺もだ。足の震えが止まらねぇ……」

 

 私たちはどちらからともなくその場に座り込み、冷たい床の感触でようやく現実に引き戻された。私は先生の腕を、先生は私の肩を、お互いにちぎれんばかりの力で掴み合っていた。

 

「あ、あれ……やっぱり本物っすよね……?」

 

「バカ言え。質量のあるお盆が浮くなんて、ニュートンが泣くぞ……。だが、あの動きは……説明がつかねぇ……」

 

 しばらくの間、私たちは重い沈黙の中で、ただただ荒い息を整えるしかなかった。窓の外の吹雪が、まるで嘲笑うかのように窓を叩き続けていた。

 

 ■■■

 

 お盆が闇に消えてから数十分、私たちは客室の畳に膝を突き合わせ、嵐が過ぎ去るのを待つ敗残兵のように肩を寄せ合っていた。

 先ほどまでの恐怖が冷たい汗となって背中を伝う。私は先生の浴衣の袖をちぎれんばかりに掴み、先生は先生で、震える手で懐からタバコの箱を取り出そうとして……。

 

「……あぁ、クソッ、禁煙だったな、ここは」

 

 先生は忌々しそうに吐き捨て、タバコの箱を床に叩きつけた。ニコチンという救いすら断たれた彼の顔は、幽霊を見た時とはまた別の、この世の終わりのような絶望に満ちている。だが、そのイライラが逆に彼の頭を冷やしたのか、鋭い眼光が暗い部屋の中で光った。

 

「おいイチカ、もういい加減に腕を離せ」

 

「ああ……すみませんっす」

 

「……いいか、落ち着いて考えろ。キヴォトスに本物の幽霊なんて、そんな非効率なものがいるわけねぇんだ。あんなのは光学迷彩の類か、あるいは視覚をバグらせる何らかのトリックに決まってる。冷静になれば、あのお盆の動きだってただの物理現象だ」

 

「……そうっすよね。正義実現委員会の私が、お化けなんていう未確認生命体にビビってちゃ格好がつかないっす。あれはきっと、ミレニアムの過激な発明品か、あるいは新手の強盗っすよ。そうに決まってるっす」

 

 私は自分に言い聞かせるように力説し、ようやく先生の腕を解放した。指先の感覚が麻痺するほど強く握っていたせいで、先生の腕には私の指の形が赤く残っている。先生はそれをさすりながら、立ち上がって窓の外の吹雪を睨みつけた。

 

「正体が『モノ』や『ガキ』なら、捕まえる方法はいくらでもある。姿が見えねぇなら、見えるようにしてやりゃいいだけだ。イチカ、厨房から小麦粉を拝借してくるぞ。それとモルスもだ」

 

 先生の提案した作戦は、極めてアナログで暴力的なものだった。まずはターゲットを誘い出すための餌を廊下に設置する。あのお化けは間違いなく食い意地が張っている。夕食の食材を狙うなら、特大のカニでも置いておけば必ず食いつくはずだと。

 

 そしてお盆が浮き上がった瞬間、物陰に隠れた私が小麦粉を一気にぶちまける。どれだけ姿を隠していようと、粉を被れば真っ白な人型が浮き上がる。そこへ先生が炭酸飲料をスプレーにして吹きかけ、粉を固めて逃げ場を奪う。名付けて『天ぷら固め作戦』。高度な技術もへったくれもないが、物理的な干渉にはこれが一番効くはずだ。

 

「……これ、失敗したら私、小麦粉まみれの幽霊に追いかけ回されることになるんすけど、大丈夫っすか?」

 

「安心しろ。その時は俺がお前の後ろで、全力で応援してやる」

 

「自分だけ逃げる気満々じゃないっすか! ……あぁもう、やってやるっすよ。この手で正体を暴いて、安眠を勝ち取ってやるっす!」

 

 私たちは意を決して、再びあの冷たい廊下へと足を踏み出した。手には武器の代わりに小麦粉の袋と、ベタベタの液体を詰めたボトルを握りしめて。

 

 夜の北棟回廊は、静寂というよりはむしろ、厚い沈黙に塗り潰されていた。窓の外ではレッドウィンターの猛吹雪が荒れ狂い、古びた木造建築をきしませては、隙間風がヒュウヒュウと幽霊のさえずりのような音を立てている。廊下の隅、大きな飾り壺の陰に身を潜めた私たちは、重い寒気と正体不明の緊張感にさらされていた。

 

 隣に座る先生の気配が、いつも以上に刺々しい。全館禁煙という無慈悲な宣告のせいで、彼の指先は手持ち無沙汰に震え、苛立ちが皮膚の表面から立ち上っているようだった。

 

 廊下の中央、月明かりのスポットライトを浴びる場所に置かれたのは、先生の必死の土下座で女将さんが泣く泣く差し出した特大のズワイガニがあった。

 

「……先生、本当に来るんすかね」

 

 私が囁きかけると、先生は声を出さず、ただ顎を小さくしゃくって前方を示した。直後、廊下の奥からカツ……カツ……という、氷の上を歩くような微かな音が響いた。

 

 それは足音と呼ぶにはあまりに希薄で、けれど確実に重力を持った何かが近づいてくる気配だった。私たちは息を止め、視界の端が白く爆ぜるほどの集中力でその空間を凝視する。すると、何もない空間からゆらりと黒いお盆がせり出し、まるで透明な糸で吊り上げられたかのように、床に置かれたカニに向かって降下した。

 

 カニの脚がお盆に触れ、カチリと硬質な音が鳴る。その瞬間、お盆は重さを感じさせない滑らかな動きで再び宙に浮き上がった。

 

「今っす!!」

 

 私の叫びとともに、静寂は粉々に砕け散った。私は壺の影から弾丸のように飛び出し、抱えていた五キログラムの小麦粉の袋を、お盆が浮いている中心部へ向かって力一杯叩きつけた。

 

「くらえッ、正義の小麦粉(ジャスティス・パウダー)っす!!」

 

 袋が激しく破裂し、廊下に真っ白な爆煙が立ち込める。視界が遮られるほどの粉塵が舞い散る中、私はさらに踏み込み、腰に下げた予備の袋をも中空へと撒き散らした。真っ白な霧が空間を支配し、何もないはずの場所に、小麦粉を全身に浴びた「人の形」が不自然に浮かび上がった。

 

「そこだッ!!」

 

 先生が反対側の影から躍り出た。彼は改造されたボトルを構え、ベタつく炭酸飲料『モルス』の噴流を、その白い人型に向けて容赦なく浴びせかける。

 

「天ぷらになれ、この食い意地野郎!!」

 

 甘ったるい匂いとともに、噴射された液体が小麦粉を吸い込み、瞬く間にドロドロとした粘着質の膜へと変質させていく。白い人影は不意を突かれた衝撃にたたらを踏み、逃げようと足を動かすが、床に散らばった粉と液体が絡み合い、その動きを無様に鈍らせた。

 

「まるでステルス迷彩だな……」

 

 私はその隙を逃さず、獲物の懐へと潜り込む。正義実現委員会で培った制圧術を解禁し、白い影の腕を強引に掴んで床へと叩き伏せた。

 

「がふっ……!? ひ、ひどい……目が、目が開かない……!」

 

 床に組み伏せられたのは、小麦粉とモルスで完全に「揚げられる前の衣」状態になった一人の少女だった。

 

 彼女の気配は、捕まえている今ですら信じられないほどに薄い。もし粉を被っていなければ、手の中に実体があることさえ疑ってしまうような、そんな幽霊じみた希薄さ。けれど、私の膝の下で震えているその身体は、紛れもなく生きた温もりを持っていた。

 

「……捕獲、完了っす。先生、ライトを」

 

 先生が懐中電灯を点灯させると、強烈な光がドロドロの少女を照らし出した。彼女は真っ白な顔を歪め、涙で小麦粉の固まりを流しながら、私たちを怯えた目で見上げている。

 

「お前……名前は。どこの学園のガキだ」

 

 先生の低い問いかけに、少女は震える唇を動かした。その声は吹雪の音に消されそうなほど弱々しく、けれどこの世への未練を必死に繋ぎ止めるような切実さを帯びていた。

 

「……コトノハ、です。レッドウィンターの……でも、もう誰もそう呼んでくれないから……たぶん、コトノハだったと思います……」

 

 彼女がその名を口にした瞬間、廊下を吹き抜ける風が一段と冷たさを増した気がした。

 

 ■■■

 

 薪ストーブの中で爆ぜる薪の音だけが、静まり返ったロビーに響いていた。先ほどまでの騒乱が嘘のように、そこには重苦しく、それでいてどこか奇妙な平穏が漂っている。

 

 中央の円卓を囲むようにして、女将さんと、不機嫌そうに空のポケットをまさぐり続ける先生、そして私が座っていた。 その中心で、一人の少女が畳の上に小さく正座している。

 

 お湯で汚れを落とし、新しい浴衣に着替えたコトノハさんは、濡れた髪を肩に垂らし、消え入りそうなほど肩を窄めていた。彼女の存在感は相変わらず希薄で、じっと注視していなければ、その場に誰もいないのではないかと錯覚してしまいそうになる。

 

「……申し訳ありませんでした。皆さんの大切な食事を、何度も盗んだのは私です」

 

 コトノハさんは、板の間に額を擦り付けるようにして深々と頭を下げた。その細い指先が、畳の縁を白くなるほど強く握りしめている。

 

「私は、レッドウィンター連邦学園の生徒でした。……過去形なのかは、自分でもよく分かりません。不祥事を起こしたわけでは…………ない、のですが。停学を言い渡されて……。本来なら、旧校舎の特別クラスへ送られるはずでした。でも、あの……」

 

 彼女は一度言葉を切り、震える吐息を漏らした。

 

「チェリノ会長が、私の存在を完全に忘れてしまったようなんです。書類も、名簿も、私の名前が載っていた場所はすべて会長の気まぐれで書き換えられたり、髭を整える紙にされたりして、気づいた時には学園のシステムから私のデータが消えていました……」

 

「……え?」

 

 少しだけ、心が痛む感覚がした。

 

「どこにも行く場所がなくて、吹雪の中を彷徨って、ようやく辿り着いたのがこの旅館の屋根裏でした。幽霊のふりをしていれば、誰も私に気づかない。……そう思っていたんです」

 

 あまりに不条理で、あまりに身勝手な理由。けれど、レッドウィンターという学園を知る者なら、それが嘘偽りのない真実であることを察するに難くない。先生は、禁煙の苦しみからか、眉間に深い皺を刻んだまま天井を仰ぎ見た。

 

「……バカげた話だ。一人のガキが、トップの物忘れ一つで世界から消されちまうなんてな。ここはパトロンのいない孤児院じゃねぇんだぞ。……おいイチカ、お前はどう思う」

 

「……笑えないっすよ。そんな理由で居場所をなくして、屋根裏で泥棒をして生きるしかなかったなんて……。そんな理不尽、見過ごせるわけないっす」

 

 私は彼女の細い背中を見つめ、熱い塊が胸の奥に込み上げてくるのを感じた。犯罪は犯罪だ。けれど、彼女をそこまで追い詰めたのは、このキヴォトスのどこにでもあるような、あまりに杜撰な悪意の欠片なのだ。

 

 ロビーに沈黙が戻る。コトノハさんの処遇をどうすべきか。レッドウィンターに突き出したところで、彼女のデータがない以上、不法侵入者としてより厳しい罰を受けるだけだろう。かといって、このまま放浪させるのも死を意味する。

 

 重い沈黙を破ったのは、それまで静かに話を聞いていた女将さんだった。彼女はゆっくりと立ち上がると、正座したまま動かないコトノハさんの前へ歩み寄り、その冷えた手にそっと自分の手を重ねた。

 

「コトノハちゃん。……行く宛がないというのなら、うちで働いてみないかい?」

 

 その言葉に、コトノハさんが弾かれたように顔を上げた。

 

「……え?」

 

「うちも大雪のせいで人手が足りなくて困っていたところなんだ。その、あなたの……存在感が薄いという特技、配膳や掃除には案外向いているかもしれない。お客様に気づかれず、音もなく用事を済ませる給仕なんて、うちのような格式ある宿にはぴったりじゃないか」

 

 女将さんは優しく、けれど有無を言わせぬ慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

「警察に突き出す代わりに、ここでしっかりと働いて、盗んだ分の代償を返してもらう。それでいいね、そちらの先生も」

 

 先生は、ポケットの中で指をパチンと鳴らすと、ようやく表情を緩めた。

 

「……あぁ。お仕置きとしては重労働を課すのが一番だ。俺たちとしても、一件落着ってことにしといてやるよ。……よかったな、コトノハ。これで今日からは屋根裏の鼠じゃねぇ、この宿の従業員だ」

 

「……は、はいっ……ありがとうございます……! 一生懸命、働きますっ……!」

 

 コトノハさんの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それは悲しみではなく、ようやく自分の輪郭をこの世界に繋ぎ止めることができた、安堵の光だった。

 

 外の吹雪は、まだ止む気配を見せない。けれど、ストーブの火が照らすロビーの空気は、先ほどよりもずっと温かく感じられた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 バスのエンジンが放つ一定のリズムと、タイヤが雪を噛む鈍い音が、心地よい揺れとなって車内を包んでいた。窓の外を流れる景色は、刺すような白銀の世界から、徐々に馴染みのあるキヴォトスの市街地へと移り変わっていく。

 

 不意に、右肩にずっしりと重みが加わった。

 

 見ると、隣に座っていたイチカが、こっくりと船を漕いだ拍子に俺の肩へ頭を預けていた。糸のように細められた目は完全に閉じられ、規則正しい寝息が耳元に届く。

 

「……お前、旅館でしっかり寝たんだよな?」

 

「すぅ……すぅ……」

 

 小声で問いかけてみたが、返事はない。 普段なら「事案っすよ」だの「セクハラっす」だのと言い返してくるはずの口も、今は無防備に閉じられている。俺の肩に乗った頭は意外と重く、彼女が背負っている『正義実現委員会』の看板や、あの面倒な『相談窓口』の苦労がすべてこの重みに詰まっているような気がした。

 

「やれやれ……」

 

 俺は苦笑し、逃げようとするのをやめて、背もたれに深く体重を預けた。 まぁ、寝る子は育つと言うし。

 

 ここ最近でこいつはたくさん頑張った。オオイシやナカムラと言った基本的なことや、ハノと言う犯罪に手を出してしまった生徒の事……。あんなに全力で「相談員」をしていたら、そりゃ疲れも溜まるだろう。

 

 内心、今回の温泉旅行でこいつの肩の荷を少しでも下ろしてやれたのなら、あの特賞の玉を引いた甲斐もあったというものだ。

 

 バスがレッドウィンターの自治区を抜け、トリニティの穏やかな空気へと足を踏み入れる。 窓を叩く雪の礫はいつの間にか消え、柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 

「……あーあ、戻ったらまた仕事の山か」

 

 そんな独り言を最後に、俺もまた重たい瞼を閉じた。 イチカの温もりとバスの揺れに身を任せ、トリニティに到着するまでの短い間、俺は深い眠りへと落ちていった。

 

「……いや、眠れねぇ。……クソッ……タバコ……吸いてぇ……」

 

「ハネマンっすぅ……。すぅ……すぅ……」

 





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