【完結】仲正イチカは悪い大人についていく   作:曇りのち晴れ男

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第九話 追想のキサラズ

 

 窓の外では、珍しく穏やかな日差しがトリニティの石畳を照らしていた。

 ここ数週間、立て続けに起きた事件の処理や事後報告に追われ、私たちは息をつく暇もなかった。けれど、それもようやく一段落し、今日の「思春期相談窓口」には、けだるげな静寂が満ちていた。

 

 事務所の中には、規則的な音が二つだけ響いている。

 一つは、私が報告書の束を整える紙擦れの音。

 もう一つは、先生が百円ライターのホイールを回す、カシュッという乾いた音だ。

 

「……先生」

 

 私は手元のペンを置き、紫煙をくゆらせて天井を仰いでいる相棒に声をかけた。

 

「あ?」

 

 先生は視線を合わせず、気だるげに返事をする。

 その横顔を見つめながら、私はずっと喉の奥につかえていた「問い」を、今なら口にできる気がした。

 

「ふと思ったんすけど。……先生がここに来る前のこと、ちゃんと聞いたことなかったなって」

 

 先生の手がピタリと止まる。

 

「シャーレをクビになった理由。『生徒への過度な暴力』。……事実は知ってるっす。でも、詳細を知らないっす」

 

 これまで共に死線をくぐり抜けてきた。

 この人は、口は悪いし、態度は最悪だし、喫煙マナーも褒められたものじゃない。けれど、私が知る「佐倉(さくら) 正義(まさよし)」という人間は、理由もなく暴力に訴えるような短絡的な大人ではないはずだ。

 あのハノさんの事件の時だって、先生は誰よりも生徒の痛みに寄り添おうとしていた。

 

「……何が言いたい」

 

 声のトーンが一段低くなる。

 

「知りたいんすよ。あなたが、本当にただの『暴力教師』なのかどうか」

 

 その時、事務所の奥にあるソファで、分解されたドローンをいじっていたウタハさんが顔を上げた。

 彼女もまた、この窓口に入り浸る常連の一人になっていた。

 

「ふむ……。確かに興味深いな。私のデータ収集においても、彼の行動原理には不可解な点が多い」

 

 ウタハさんがドライバーを回しながら、援護射撃をしてくれる。

 先生は面倒くさそうに煙を吐き出すと、私を睨むように見据えた。

 

「知ってどうする。過去は過去だ。俺がクズで、暴力を振るってクビになった。それだけの話だろ」

 

「それだけじゃない気がするから聞いてるんす」

 

 私は食い下がった。

 ここで引いたら、この人との間に引かれた見えない線を超えられない気がしたからだ。

 

 先生は深くため息をつくと、吸い殻を灰皿に乱暴に押し付けた。

 

「……あー、うぜえ。そんなに知りたいなら、勝手に調べりゃいいだろ」

 

 突き放すような言葉。

 けれど、私はその言葉尻を逃さなかった。

 

「……今、『調べればいい』って言ったっすね?」

 

「あ?」

 

「言いましたよね? 自分で調べろって」

 

 私は椅子から勢いよく立ち上がった。

 ガタッと音を立てて椅子が後ろに下がる。

 

「上等っす。じゃあ、お言葉に甘えて──私、今から休暇をもらうっすよ!」

 

「は?」

 

 先生が呆気にとられた顔をする。私は机の上に積み上げられた、未処理の書類の山をバンと叩いた。

 

「私が調べている間の相談業務、および書類作成! 全部先生に任せるっす! 調べろって言ったのは先生なんですから、文句はないはずっすよね!?」

 

「おい待て、それは職務放棄だろ──」

 

「業務命令っす! 補助員は窓口担当の円滑な精神衛生を保つ義務がある! 今の私にとって最大のストレスは、相棒の過去が謎に包まれていることなんすから!」

 

 私は早口でまくし立てると、鞄をひっつかみ、ソファに座っていたウタハさんの腕を強引に掴んだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれイチカ。私はまだドローンの調整が……それに今日はレールガンで突き抜けたエンジニア部の天井を補強しなければならな――」

 

「ウタハさんも付き合ってください! 技術的な解析が必要になるかもしれないっすから!」

 

「ええ……?」

 

 困惑するウタハさんの首の後ろを引きずりながら、私は出口へと向かう。

 ドアノブに手をかけ、振り返って先生をビシッと指さした。

 

「絶対に見つけ出すっすからね! あなたが隠してる『本当の顔』を!」

 

「……勝手にしろ」

 

「あ~~れ~~……」

 

 先生は再びタバコを咥え、興味なさそうに視線を逸らした。

 その背中が、どこか寂しげに見えたのは──私の気のせいだったのだろうか。

 

 私は勢いよくドアを開け、秋晴れのトリニティへと飛び出した。

 

 まず向かったのは、ハスミ先輩のところだ。

 そもそも思春期相談窓口に先生が呼ばれたのはティーパーティーの判断。そしてその先生を最終的に連れてきたのはハスミ先輩だ。それならば何か知っているかもしれないと思い、ハスミ先輩の元へ向かった。

 

「……そうですか。佐倉さんの過去を」

 

 ハスミ先輩は少し困ったように眉を下げ、手元の紅茶に視線を落とした。

 その姿は優雅で、ここ数日の忙しい姿を知っているとつかの間の休息が取れているようで何よりだった。

 

「はい。本人に聞いても『調べたきゃ勝手に調べろ』の一点張りでして。……売り言葉に買い言葉と言いますか、私も引くに引けなくなってしまったんすよ」

 

「ふふ、彼らしいですね」

 

 ハスミ先輩は小さく苦笑したが、すぐに真剣な表情に戻る。

 

「ですが……残念ながら、私の方からも提供できる情報はほとんどありません」

 

「えっ、ハスミ先輩が経歴書とか通したんですよね? 何も知らないんすか?」

 

「彼が『元・先生』であり、『生徒への過剰な暴力行為』でシャーレの権限を剥奪されたこと。……公式に記録されているのはそれだけです。彼が具体的にどこの学園の、誰に対して、何をしたのか。その詳細な報告書は、連邦生徒会の手によって完全に凍結されています」

 

「凍結……っすか」

 

「ええ。私も雇用にあたって照会をかけましたが、全て黒塗りの資料しか渡されませんでした。ティーパーティーの権限をもってしても、閲覧は不可能です」

 

 ハスミ先輩の言葉に、隣でウタハ先輩が興味深そうに顎に手を当てた。

 

「ふむ。ただの暴力事件なら、そこまで厳重に情報を統制する必要はないはずだ。……裏を返せば、そこには公にできない『何か』があるということになるな」

 

「その通りです。……イチカ、あまり深く踏み込みすぎないように。彼が抱えている闇は、私たちが想像しているよりも深いかもしれません」

 

 ハスミ先輩の心配そうな視線を正面から受け止め、私は深く頭を下げた。

 

「忠告、感謝するっす。でも……ここで引いたら、あの人のひねくれた性格に負けた気がして癪なんで」

 

「……ふふ、貴女ならそう言うと思いました。気をつけて」

 

 ■■■

 

 正義実現委員会の本部を出て、私はスマホを取り出した。

 ハスミ先輩がダメなら、直接問い合わせるまでだ。私は一縷の望みをかけて、正義実現委員会の回線から連邦生徒会の情報公開窓口へとアクセスを試みた。

 

『──アクセス権限がありません』

『当該情報は、機密保持レベル5に指定されています』

『これ以上の検索行為は、不正アクセスとみなされ警告対象となります』

 

 無機質な自動音声と、画面に表示された赤い警告文字。

 私はため息をつき、スマホをポケットに放り込んだ。

 

「……ダメっすね。完全に門前払いっす」

 

「レベル5か。それはまた大層な扱いだな。私がハッキングを仕掛けてもいいが、流石に連邦生徒会相手だと足がつくリスクが高い」

 

 ウタハ先輩も肩をすくめている。

 行き詰まった。公式なルートは完全に閉ざされている。

 佐倉さんが隠している過去、そして彼を変えてしまった事件。それを知る手掛かりは、もうどこにもないのだろうか。

 

 トリニティの広大な敷地を歩きながら、私は記憶の糸を手繰り寄せる。

 佐倉さんに関わりのある人物。

 あの人が反応を示した相手。

 

 ふと、脳裏にある光景が蘇った。

 それは以前、ミレニアムサイエンススクールへ調査に行った時のことだ。

 

『おいコラ、なに澄ました顔してミレニアムに来てんだよ』

 

 エンジニア部の近くで絡んできた、柄の悪いチョコミントピッチャー……不良生徒たち。

 あの時、彼女たちは明らかに佐倉さんのことを知っていた。そして、佐倉さんも彼女たちに対して、明確な敵意──いや、もっと冷たい『殺意』に近いものを向けていた。

 

「……いるじゃないっすか。一人だけ」

 

「ん? 何か思いついたのか?」

 

 私は立ち止まり、ウタハ先輩の方を向いてニヤリと笑った。

 

「公式記録に残っていないなら、当事者に聞けばいいっす。……先生のことを個人的に恨んでいる連中に」

 

「なるほど。以前、部室の近くで絡んできたあの不良グループか」

 

 ウタハ先輩もすぐに察したようで、楽しそうに指を鳴らした。

 

「あいつらなら、きっと先生の『暴力』の被害者だ。……詳しく話を聞かせてもらう必要があるっすね」

 

「物理的な説得が必要になりそうだが、構わないか?」

 

「望むところっすよ。……行きましょう、ウタハ先輩。ミレニアムへ」

 

 閉ざされた扉が開かないなら、こじ開けるまで。

 私たちはトリニティの自治区を背に、再び科学の学園へと足を向ける。

 

 ミレニアムサイエンススクール。

 最先端の科学技術を誇るその学園は、表向きは洗練されたコンクリートとガラスの迷宮だ。けれど、どんなに綺麗な街にも影はある。

 ウタハさんの案内で私たちが足を踏み入れたのは、エンジニア部の部室から少し離れた、廃棄された資材や失敗作の機械が山積みになっている区画だった。

 

「……随分と、香ばしい雰囲気っすね」

 

「あぁ。エンジニア部が廃棄したジャンクパーツを狙って、質の悪い連中がたむろしているエリアだ。C&Cもあまり巡回に来ない場所だよ」

 

 ウタハさんは慣れた足取りで進んでいく。

 錆びついた鉄骨の陰、スプレーアートで汚されたコンテナの周り。そこに、彼女たちはいた。

 改造された制服を着崩し、手には鉄パイプや安物のサブマシンガンを持った、十数人の女子生徒たち。

 私たち、というよりは私の着ているトリニティの制服を見て、彼女たちの空気が一瞬で刺々しいものに変わる。

 

「あぁ? 何見てんだよ、天使サマがよぉ」

 

 ガムを噛みながら、一人の生徒が前に出てきた。リーダー格だろうか。

 私は努めて愛想よく、営業スマイルを貼り付ける。

 

「おやおや、こんにちは~。ちょっとお話を聞きたくて来たんですけど、いいっすか?」

 

「あぁん? 話だぁ?」

 

「はい。そうっすね……前に『大人の男性』と揉めたこと、ないっすか?」

 

 その言葉を出した瞬間だった。

 弛緩していた彼女たちの空気が、明確な殺意へと跳ね上がったのは。

 

「……テメェ」

 

 リーダー格の生徒が、ギリリと歯ぎしりをする音が聞こえた気がした。

 

「あの野郎の……あのクソ教師の仲間かよ」

 

「おっと。どうやらビンゴみたいっすね」

 

「ビンゴだぁ!? ふざけんじゃねぇぞ!!」

 

 彼女は持っていた鉄パイプをガンッ! と近くのドラム缶に叩きつけた。

 

「あの野郎のせいで……ウチらの先代ヘッドは病院送りになったんだ! たった一人で乗り込んできて、アタシらをボッコボコにしやがって……!!」

 

 周囲の生徒たちも、口々に罵倒を叫び始める。

「悪魔だ」「化け物だ」「あいつの目はイカれてた」

 そんな言葉が飛び交う中、ウタハさんが静かに銃を構えた。

 

「イチカ、どうやら話し合いで解決できる相手ではなさそうだ。彼女たちは恐怖と怒りで冷静さを欠いている」

 

「そうみたいっすねぇ。……はぁ」

 

 私は小さくため息をつく。

 先生。あなた、過去にどれだけ派手に暴れたんすか……。

 

 彼女たちの目には、明らかなトラウマが見える。大人の男性一人に、ここまで武装した生徒の集団が怯え、憎んでいる。

 その事実だけで、当時の先生の異常さが伝わってくるようだった。

 

「テメェらがあいつの仲間なら……ここでボコして、あいつを引きずり出す餌にしてやるよ!!」

 

「やれッ!! 撃ちまくれぇ!!」

 

 号令と共に、一斉に銃口がこちらに向けられる。

 無数のマズルフラッシュが薄暗い路地裏を照らし、乾いた銃声が反響した。

 

「ウタハさん!」

 

「分かっている! 展開!」

 

 ウタハさんが指を鳴らすと、小型のターレットが即座に展開され、エネルギー障壁と機銃掃射で弾幕を相殺する。

 私も遮蔽物に滑り込みながら、愛銃のセーフティを外した。

 

「……仕方ないっすね。少し、お灸を据えるっすよ!」

 

 この人数の生徒を相手に、私の目は真剣になる、もう笑っていられないだろう。

 彼女たちを通して、先生の過去を暴く。そのためなら、多少の手荒な真似も辞さない覚悟を決めて、私はトリガーを引いた。

 

 激しい銃声が路地裏の静寂を切り裂く。

 コンクリートの壁が弾丸で削られ、粉塵が舞う。しかし、それだけだ。

 彼女たちの射撃は数こそ多いものの、恐怖で照準が定まっていない。正義実現委員会で日々、暴力的な生徒たちや過激なデモを相手にしている私からすれば、隙だらけの弾幕だった。

 

「──射線確保。制圧するっす」

 

 私は遮蔽物から飛び出し、愛銃を構える。

 引き金を引く指に迷いはない。まずは一番手前にいた、サブマシンガンを乱射している生徒の武器を狙い撃つ。

 

「きゃあ!?」

 

 正確無比なバースト射撃が彼女の銃を弾き飛ばし、その衝撃で彼女自身も尻餅をついた。

 

「この椅子が、君たちを破滅させる」

 

 ウタハさんの冷静な声と共に、自律稼働ターレットが駆動音を唸らせる。

 ターレットが十字砲火を浴びせ、生徒たちを逃げ場のない中央へと追い込んでいく。その衝撃と圧倒的な弾幕密度は、彼女たちの戦意を挫くには十分すぎる。

 

「う、嘘だろ!? なんだよあの機械!」

 

「無理無理! こんなの勝てないよぉ!!」

 

 悲鳴が上がる中、私は距離を詰める。

 私の接近に気づいたショットガン持ちの生徒が、やけくそ気味に振りかぶってきた。

 

「おおおぉぉッ!!」

 

「……大振りっすね」

 

 私はその一撃を最小限の動きで躱し、すれ違いざまにストックを彼女の脇腹へ叩き込む。

 鈍い音がして、彼女は呼吸を詰まらせてその場に崩れ落ちた。

 

 戦闘開始から数分も経っていなかったと思う。

 立っているのは、私とウタハさん。そして、腰を抜かして震えているリーダー格の生徒だけになっていた。

 

「ひ、ひぃ……」

 

 彼女は後ずさり、背中が冷たいコンテナにぶつかる。

 私はゆっくりと歩み寄り、彼女の目の前でしゃがみ込んだ。

 いつものように目を細め、精一杯の笑顔を作る。

 

「さて。これで静かにお話ができるっすね?」

 

「あ、悪魔……あんたたち、本当に……」

 

「失礼な。私はただの通りすがりの相談員っすよ。……で、さっきの話の続きっす」

 

 私は彼女の顔を覗き込む。

 

「先生──佐倉正義が、あなたたちの先代ヘッドを病院送りにした。それは何故っすか? 彼が理由もなく暴力を振るうとは思えないんすけど」

 

 リーダーの生徒は震える唇を開く。恐怖と、忌々しい記憶を掘り返された不快感が入り混じった表情だ。

 

「……し、知らないよ……。詳しいことなんて……」

 

「思い出してほしいっすねぇ。このまま第二ラウンドをしてもいいんすけど?」

 

 私が銃口を少しだけ動かすと、彼女は「ひっ!」と短く叫び、早口でまくし立てた。

 

「き、聞いたんだよ! 先代が言ってた! 『あんな小さな学校の生徒一人に手を出したくらいで』って……!」

 

「小さな学校?」

 

「そうだよ……! ボロい学園だ……名前は確か……そう、『キサラズ』……」

 

「キサラズ……?」

 

 聞いたことのない名前だ。トリニティのデータベースにも、主要な要注意リストにも載っていない。

 

「キサラズ学園……そこにいた生徒が関わってるっぽいけどよ……アタシらが知ってんのはそれだけだ! 本当だ!」

 

「キサラズ学園……」

 

 私はその名前を口の中で転がす。

 先生が、たった一人のために組織を一つ壊滅させるほどの激情を見せた理由。その鍵が、そこにある。

 

「……感謝する。有益な情報だ」

 

 ウタハさんがタブレットを操作しながら近づいてきた。

 どうやら既に地図情報を検索しているらしい。

 

「イチカ、検索にヒットした。ミレニアム自治区のすぐ近くだ。……確かに、極めて小規模な学園のようだな」

 

「ありがとうっす、ウタハさん。……それじゃ、行ってみましょうか」

 

 私は立ち上がり、服の埃を払う。

 腰を抜かしたままのリーダーに「ご協力感謝っす~」と手を振ると、彼女は二度と関わりたくないという顔で顔を伏せた。

 

 キサラズ学園。

 

 先生が隠し続けている過去の扉が、少しだけ開いた気がした。

 

 ■■■

 

 ミレニアムサイエンススクールの高層ビル群を背に、私たちはウタハさんの運転する車で少し離れた地区へと移動した。

 最先端の科学技術が支配する学園都市とは対照的に、風景は徐々に緑が多く、どこか懐かしいものへと変わっていく。

 

「……ここっすか? その、キサラズ学園っていうのは」

 

 車を降りた私は、目の前の光景に目を丸くした。

 そこにあったのは、今のキヴォトスでは珍しい、完全に木造の校舎だった。

 コンクリートも強化ガラスも使われていない。塗装すら剥げ落ちて、木の地肌がそのまま風雨に晒されているような、古びた平屋建て。

 風が吹けばギシギシと音を立てそうなその建物は、ミレニアムのすぐそばにあるとは思えない佇まいをしていた。

 

「驚いたな。データにはあったが、まさかここまで……アナログな環境が現存しているとは」

 

 ウタハさんも珍しい景色に、興味深そうに校舎を眺めている。

 

「生徒数も極端に少なくて、廃校寸前って噂は聞いてたんすけど……なんか、時間が止まってるみたいっすね」

 

 校門──といっても、木の杭を打っただけの簡素なものだが──をくぐると、静寂が私たちを迎えた。

 放課後の時間帯のはずだが、生徒の声は聞こえない。

 ただ、校庭の隅で、箒で落ち葉を掃く音がリズミカルに響いているだけだった。

 

「おや? 珍しいねぇ。こんな寂れた場所に、トリニティとミレニアムのお嬢さんが来るなんて」

 

 声をかけてきたのは、犬の耳と鼻を持つ、穏やかそうな獣人の用務員さんだった。

 作業着を着て、竹箒を杖のようにしてこちらを見ている。その顔には、長い年月を刻んだ皺が優しく浮かんでいた。

 

「あ、急にお邪魔してすみませんっす。私、トリニティの仲正イチカと言います。こっちはミレニアムのウタハさん」

 

「ほうほう。丁寧なお嬢さんたちだ。……それで、何のご用かな?」

 

 私はウタハさんと顔を見合わせ、意を決して切り出した。

 

「実は……人を探しているというか、昔ここにいた人の話を聞きたくて。……『佐倉』という先生、ご存じないっすか?」

 

 その名前を出した瞬間、おじいさんの目が大きく見開かれた。

 そして、すぐに懐かしむような、それでいてどこか切なげな色を帯びて細められる。

 

「佐倉先生……。あぁ、知っているとも。忘れるはずがないよ」

 

 おじいさんは遠くを見るように空を見上げた。

 

「……あんなに不器用で、あんなに優しい先生は、後にも先にも彼だけだ」

 

「優しい……っすか?」

 

 今の粗暴で、すぐに悪態をつく先生の姿しか知らない私には、その言葉は少し意外だった。

 暴力事件を起こしてクビになった男。それが私の知る「佐倉正義」だ。

 

「あぁ。……もしかして、タケルちゃんのことも聞きに来たのかね?」

 

「タケル……ちゃん?」

 

「佐倉先生が、一番目をかけていた生徒だよ。……いや、目をかけていたというよりは、二人はまるで兄妹か、親友のようにいつも一緒だった」

 

 おじいさんは「立ち話もなんだ、あっちのベンチで話そう」と私たちを校庭のベンチへと案内してくれた。

 軋むベンチに腰を下ろすと、おじいさんはゆっくりと語り始めた。

 

「佐倉先生がここに来たのは、ちょうど桜が散り始めた頃だったかなぁ」

 

「……」

 

「彼と、この学園で一番元気だったタケルちゃん。二人の笑い声が、いつもこの校庭に響いていたんだよ」

 

 おじいさんの語り口は、まるで古い映画の冒頭のようだった。

 私は息を呑み、その言葉に耳を傾ける。

 私たちが知らない、先生の「空白の時間」。

 そして、先生がすべてを投げ出してまで守ろうとした少女、タケルとの日々が、静かに紐解かれようとしていた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 トリニティの自治区、思春期相談窓口の事務所。普段であれば、隣の席から「仕事サボらないでくださいっす」だの「麻雀教えてくださいっす」だの、やかましい声が飛んでくる時間帯だ。だが今日は、換気扇の回る低い音だけが響いている。

 俺は煙を吐き出し、天井の染みをぼんやりと眺めた。

 

「……静かだな」

 

 独り言が、誰の耳にも届かずに溶けていく。イチカとウタハが出て行ってから数時間が経過していた。『休暇』だなんてふざけたことを言っていたが、あの目が笑っていない時のイチカは、テコでも動かない。俺の過去を調べに行くと言った時の、あの妙な迫力。……止める気力も湧かなかった。

 知ったところでどうなるものでもない。俺はもう、終わった人間だ。暴力で生徒を傷つけ、職を追われ、掃き溜めに落ちた男。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 ふと、閉じた瞼の裏に、眩しいほどの陽光がちらつく。あの日も、こんなふうに静かだった気がする。いや、違う。あの日、俺の隣には──。

 

「……ッ」

 

 俺は乱暴に吸い殻を灰皿に押し付けた。考えるな。思い出す資格なんて、俺にはない。あの小さな手が、二度と俺に届かない場所にいってしまったあの日から、俺の時間は止まったままなんだ。

 

 感傷に浸ろうとした、その時だった。視線を落とした先に、現実という名の地獄が広がっていることに気づいたのは。

 

「……あ~……」

 

 俺のデスクの上には、まるでバベルの塔のように積み上げられた書類の山。イチカの奴、出ていく間際に『私がいない間の分も、よろしくお願いしますね~』とか言ってやがったな。その時は適当に聞き流していたが……これは、どういうことだ。

 

 相談報告書、活動経費の申請書、他学園との連携確認書、ヴァルキューレへの引継ぎ資料、備品購入の稟議書……。

 

「……おいおい、マジかよ」

 

 一枚めくる。承認印が必要。二枚めくる。手書きでの詳細記入が必要。三枚めくる。添付資料の不備を確認しろという付箋。

 俺の額に、青筋が浮かび上がる。暴力教師だの、クズだの言われている人間に押し付ける量じゃねぇぞ、これ。俺は頭を抱え、天井に向かって吠えた。

 

「クッソぉぉ!! 多すぎるだろ、この書類!! シャーレかってんだ!!」

 

 誰もいない事務所に、俺の悲鳴だけが虚しく木霊した。

 

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