さて幼馴染みには釘を刺されたけれど。
実際問題、ホシノ・ミツキの誘いはリョウマにとって、さほど不利益のあるものではなかった。
異能の少女と同じ部活に入る。
そもそも常時、周囲の人間の心を読みながら洗脳を仕掛けているという行為を、とがめ立てするならば――これほど危険な選択はない。
だが、リョウマには彼女の洗脳が効かないし、どうやら向こうに悪意がないのもわかってしまう。
そして何よりイヌイ・リョウマは興味のある部活がなかった。
いっそのこと帰宅部でもいいかと思うぐらいに。
「だからまあ、いい機会だと思ってるよ」
「イヌイさんが前向きで、あたしもうれしいです! 頑張りましょうね、部活!」
ミツキは上機嫌だった。真っ白な頬をほんのりと赤く染めて、黒髪の少女は微笑んでいる。
ここは屋内だった。
校舎の一角にある空き部屋を借りたらしい部室――会議室で使うような長テーブルに、これまた安物のパイプ椅子。如何にも学校の備品ですという感じ。
その部屋に個性があるとすれば、それは所狭しと並べられた本棚だった。
ずらりと本が並んでいるのだ。
その多くは過去の部員の私物らしく、図書室に置いていないようなラインナップが特徴的だ。
挿絵つきの小説本――ライトノベルの類――が充実している。
「……頑張ること?」
「イヌイさん、見学中でも一年生なんですから、もっと態度よくした方いいですよ?」
「うっ、正論……!」
イヌイ・リョウマは自身のうかつな呟きを悔いた。
しかしながら幸いなことに、彼の言葉をとがめ立てするような部員はいなかった。
ここは文芸部の部室である。
部員はさほど多くないらしく、さほど広くない部室の中も空きスペースの方が多い。
つまり部員が集まって何か作業している空間と、見学で訪れた新入生の座っている空間には隔たりがあった。
ちらり、とこちらを見ているのはわかる。
だが、あまり話しかけられたりはしない。
理由はたぶん――ホシノ・ミツキが美人すぎるせいだろう。
「めっちゃ警戒されてないか?」
「そんな……あたし、人に好かれることには自信があります」
「すげえな、超能力が絡んでなければ胸を張れる特技だと思うぜ」
「人を洗のぅ……アレしても、人に好かれるのは誇っていいことじゃないですか? 嫌われるよりはずっと素敵です」
「俺に人間の自由意思の尊さについて弁論させようとしてる?」
「イヌイさん、たまに面倒くさくなりますよね」
何故かリョウマの側がたしなめられていた。
シャープな金属フレームの眼鏡をかけた男である。年齢はたぶんリョウマたちより一個上ぐらい、温和な人柄が見て取れる表情だった。
「やあ、楽しんでるかい二人とも。すまないね、
「あ、どうも。大丈夫です。俺らもゆっくり見学できて、だいぶ助かってますから」
「イヌイさん、入るのは文芸部で決まりですしね」
ミツキが楽しげに口を
らんらんと輝く深紅の瞳は、紙面ではなく隣のリョウマの方を見ていたけれど。
「そうなのかい? まだ水曜日だよ? 新入生なら金曜日まで目一杯、いろんな部活を見て回った方がいいと思う」
「なんか……意外ッスね。もっと勧誘されたりするもんかと」
「ははは、うちは来る者拒まず、去る者追わずがモットーなのさ。必死に新入生集めてる運動部と違って、ほら、途中で入部する子もいるし」
「あー……なるほど」
目の前の上級生は見た目に違わず気さくで話しやすい人だった。
ここまで話して気づく。
まだ彼の名前も肩書きも知らないことに。
「ああ、申し遅れました。僕は二年生のサナダ。文芸部の副部長をしてる。部長は今、ちょっと修羅場だから代わりに挨拶しておくね」
「一年生のイヌイ・リョウマです」
「ホシノ・ミツキです。あのっ、修羅場ってどういうことでしょう? 文芸部って何か、大会あったりするんですか?」
「いや、うちはそんなに厳しくないよ。部誌は出すけど、それだって数は多くないしね。今の時期だと――」
サナダはちらり、と目を横に向けた。
そういえばさっきから、カタカタとキーボードを叩く音がしていた。部の備品らしき、年季の入ったノートパソコンに向き合って、黙々と字を打つ少女がいた。
真剣な表情である。
飾りっ気のないショートヘア、顔立ちは整っているが、さりとて華やかではない。
そんな雰囲気の娘が、ひたすら高速でタイピングしていた。
「あれが部長のエンドウ先輩だ。恋愛、ホラー、バトル、あらゆるジャンルに挑戦する多芸な物書きさ。公募で忙しい」
「公募? えーっと」
「ああ、ごめんごめん。商業誌の公募に、うちの部長殿は応募してるんだよ。今はその原稿作業中」
知らない世界の話だった。
イヌイ・リョウマは別段、本を読む側の人間ではないし書く側になったことなど一度もない。
なので真剣に小説を書いている先輩を茶化す気など毛頭なかった。
ただ純粋な疑問だけがあった。
「……それって難しいんですか?」
「うん、うちの部長は歴戦の一次選考落ちさ」
サナダ副部長は笑顔だった。
次の瞬間、エンドウ部長というらしい少女は、ノートパソコンのディスプレイから顔を上げて――へらへらと笑っている副部長を睨みつけた。
「
低音のハスキーボイスだった。リョウマは困惑した。
文芸部という言葉から想像されるイメージにそぐわない、やけに荒々しい言葉使いが印象的すぎる。
ちなみに真横のミツキは、キラキラした笑顔になっている。
小声でささやきかけてきた。
「イヌイさん、文芸部がたぶん――うちの高校だと一番
細面の美人が、その小さくて綺麗な顔に喜悦をにじませていると、それだけですごく絵になった。
新入生二人に対して手招きすると、サナダ副部長はゆるすぎる笑顔で、きしゃーと怒り心頭のエンドウ部長を紹介した。
「文芸部はアニオタ、読み専、アマチュア作家、プロ作家志望、どんな人間にも居場所を提供するゆるい部活だよ。もちろん部長みたいに公募の鬼になってもいいし、時間の使い方は自由さ。オタクなら誰でも大歓迎」
「うん、文芸部はそういうところだから、是非とも入部してくれると嬉しい。私は一年生のやる気ある部員を募集中だ――それとなサナダ、公募で落ちまくってるのはお前もだろ」
「やだなあ先輩。僕はネットの投稿サイトで適当に書いて、適当に参加してるだけですよ? ガチ勢の先輩とは格が違います」
「嫌味かキサマッ……!」
文芸部はどうやら、部長と副部長の仲は良さそうだった。
イヌイ・リョウマには部活の良し悪しはよくわからない。
中学最後の一年間などはそれどころではなく、日常生活に復帰できるようカウンセリングを受けながら学校に通っていたぐらいである。
なのでまあ、ミツキが言うところの面白い人間が云々は、さっぱりわからないのだが。
「いい趣味してるね、ホシノさんは」
「はい、あたしはとーっても趣味がいい女の子なんです!」
「皮肉をガン無視するのすごいな……!」
ひとつわかりきっているのは、どうやらイヌイ・リョウマは――ホシノ・ミツキのこういうところが、あまり嫌いではないという事実だった。
予感はあった。
おそらくベルカのうめき声をまた聞くことになるだろう、と。
◆
結論から言えば、文芸部は大変ゆるくていい感じの部活だった。
バリバリの体育会系だった
そういう厄介な精神的爆弾があるのなら、ゆるい文化系の部活に参加して、まったりと放課後を過ごすのも悪くないと思えた。
少年がそう思考したのを読み取って、ミツキは笑った。
並んで校門を通り過ぎる。すっかり日の落ちた夕暮れ時の通学路を、二人は並んで歩いた。
「よかったです。イヌイさんが気に入ってくれて」
「もしかして俺のために探してくれたのか、いい感じの部活」
「ダメでしたか?」
「ああいや……正直助かった。見学だけで全部わかるわけはないけど、最初から候補があるとすげえ楽だし」
にっこりとミツキは微笑んだ。
風が吹いて、長い黒髪がさらりと揺れる。まるで舞台女優みたいな美しい少女から、ほんのりといいにおいがした。
いい感じの雰囲気だった。
リョウマは困ったことに、そういう空気になるとつい、醒めた発言をしてしまいたくなる人種だった。
「……待ってくれ。よく考えたらホシノさんが洗脳するなら、どんな部活でもいい感じになるんじゃないか?」
「イヌイさん、怖いことを言わないでください。物事には限度がありますよ。初見の印象をよくするぐらいの印象操作と、がっつり思考書き換えるレベルの洗脳はステージが違います。全国大会目指してる人たちが可哀想じゃないですか」
「尊厳を
「究極的にはそういうことです。なので今日見た文芸部は、そういうのが要らなさそうなところです。これならイヌイさんの潔癖な
「おかしいな、俺が面倒くさい人みたいになってる……!」
ホシノ・ミツキの倫理観は間違いなく常人のそれから
この娘には悪意がない。
とことん他人を振り回すし、イヌイ・リョウマの日常は間違いなく、彼女のせいで破滅の瀬戸際にあるというのに。
そのせいか自分は、ミツキを異常だと断じているのに好きになってきている。
むしろちょっと嬉しいのだ。
途方もない美人がこちらを振り回しつつ、それとなく人生の新しい楽しみに連れて行ってくれる――なるほど、これはまた都合のいい話である。
「イヌイさんって……面倒くさい考え方しますよね。そういうの、好きか嫌いかだけでいいんじゃないですか?」
「ああ、俺もそう思いたいよ。でもまあ、難しいよな。譲れない一線みたいのって、一回気づくと無視できなくなるから。俺の場合、みんなよりそういうのが余分に多いんだ」
「苦労しそうですよね」
「んんんん、いや、ホシノさんのせいで現在進行形だけどね!?」
「つまり
「ポジティブに言い換えるの禁止していいか?」
リョウマは笑った。
ホシノ・ミツキは間違いなく疫病神であり、イヌイ・リョウマの日常を不可逆的に変質させてしまった。旧知の幼馴染みであるベルカ・テンレンが、冗談めかしつつ警戒を隠さない理由もよくわかった。
普通ではないものと交わり続ける日々は、きっと日常と呼ぶには恐ろしすぎる。
その変化を恐れるべきなのだろう。
「イヌイさん」
ふとミツキが足を止めた。リョウマが顔を横に向けると、ホシノ・ミツキは真剣な表情でこちらを見ていた。
深紅の瞳が、自分のことを見つめていた。
少女の桜色の唇が、意を決したように言葉を吐き出した。
「
たぶんそれは文学的な比喩表現などではなかった。
他の動物と比較した場合、人間は優れた色彩を持つという。可視光線の領域の電磁波を視認する肉体組織――眼球は、人体が持つ最も優れた感覚器のひとつであり、多様な色彩に満ちた世界を受け取る。
だが、他の感覚器であれば、人間には知覚できない領域を持つ動物は数多い。
犬の嗅覚は人間の一〇〇万倍から一億倍ほどの鋭さを持ち、嗅覚を司る体組織もまたそれに比例して発達している。
コウモリは自らが発した超音波を反射させ、周囲を感知するエコーロケーションを持つ。
いずれも人間には備わっていない感覚と、それによって形作られる世界を備えている。
――たぶんホシノ・ミツキにとっての人間の心はそういうものなんだ。直接、見て聞いて触れることができるから、それがどういうものなのか知っている。
犬の嗅覚が嗅ぎ分ける化学物質の痕跡を、人間が知覚できないとしても――それが存在することに疑問の余地はない。
ホシノ・ミツキは超能力者であり、それゆえに見ている世界が根本的に異なるのだ。
異質さがあった。
なのにたった今、宣言されたのは――もっと青春らしい意味合いの言葉だった。
ミツキは薄く微笑んでいる。
「横恋慕って言われてもいいですよ、イヌイさん。あたし、泥棒猫って言われるのも面白そうだと思ってますから」
「それは……言われない方がいい人生だと思うぜ」
「なら――今ここで、あたしのことを選んでくれますか?」
冗談めかしていたが、同時に完全に拒絶されることはないと読み切っているがゆえの一言だった。
参った。
どうやら自分はつくづく美人に弱いらしい。
従姉妹のセンリや幼馴染みのベルカから、優柔不断のクソ野郎と罵られる日も遠くない気がする。
「……あれ? あたしが人間関係を破壊していくモンスターみたいな扱いになってませんか……?」
「そこは自覚してくれよ!?」
「大丈夫です、破壊のあとには再生が待っていますから!」
「マジで?」
「はい、昔の人も神話とか宗教でそんな感じのこと言ってました!」
「ソースは神話かあ……」
馬鹿馬鹿しいやりとりだった。
困ったことに、ホシノ・ミツキと話すのは楽しい。自分が彼女に振り回されているのか、彼女が自分に振り回されているのかは皆目見当がつかないけれど。
とはいえ、心地よさに浸ってやるべきことを忘れるのはよくない。
リョウマは意を決した。
「ホシノさん、教えてくれないか。あのとき俺が聞いた歌は――君にとって
視線の先にはホシノ・ミツキがいた。
沈みゆく太陽の残滓、オレンジ色の西日を浴びて黄昏に染まった街並み――そのすべてを背負って、黒髪の少女は微笑んでいる。
昼と夜の境界を、昔の人間は
この世ならぬ怪異と出くわす、魔の時間帯であると。
――その少女はどうしようもなく綺麗で、ぞっとするほどに魔性を感じさせる美の化身だった。
ミツキはそっと、恋歌でも口ずさむように歌い始めた。
そのメロディには聞き覚えがあった。
あの歌だ。
切れ長の目を細めて、悪戯っぽくミツキが笑う。
「これ、昔のアニメのテーマソングなんです。作曲者はあたしのお母さんです」
リョウマは絶句した。
「…………へっ?」