――いつかミツキにもわかる日が来ると思う。
それは在りし日の記憶、ホシノ・ミツキがこの世の誰よりも幸福でいられた日々の追憶――夕日に照らされた街並みを背にしながら、微笑んで娘に話しかける母は優しかった。
嘘偽りなく、矛盾なく、ただひたすらに愛されていた。
――本当に好きな人ができるとね。たとえそれがいけないことでも、誰かを傷つけてしまうとしても。
母はミツキの異能を――心に干渉する力を知りながら、決して彼女を拒絶しなかった。
穏やかな人だった。
本能的にミツキが振るう生態としての
ただ慈しむ愛があった。
どこか遠く見るように目を細めて、彼女の母ホシノ・アマネは笑うのだ。
――欲しくなってしまうの。素敵な恋ってそういうものだから。
少女は知っていた。
そういう燃えるような恋の結果として、自分がこの世に生まれ落ちたことを。
そして知らなかった。
父親の顔を、名前を、存在を――いくら母の記憶を覗き込もうと、意味のある情報としてそれが再生されることはなかった。
その容姿も声も体温もにおいもわからない何か、不可侵にして不可避にして不可知であるもの、
それがホシノ・ミツキの父親の定義だった。
ホシノ・ミツキは母子家庭の生まれである。
著名な作曲家である母親は、それゆえに経済的に
人間を形作る世界は、そこにあって初めて当然のものになる。
それが如何なる形であれ、通常、人間が誕生するには遺伝子上の父と母が必要である。
例えば冷凍精子だけを買い付けて、子供を設けたという家庭もあるだろう。望まぬ妊娠の果てに生まれ、実の父には存在さえ認識されていない子供もいるだろう。
事実としてその存在を疎み、父親のことを一切知らせない母親だっているだろう。
だが、そこには
――望むことも望まないことも、この世界に存在した証明を揺るがすことはできない。
人の意思は弱くて、脆くて、儚くて――それゆえに美しい。
心の底から誰かを愛そうと、憎もうと、人の自由意思が変えられる現実には限りがある。
その限界を、古来から人間は摂理と呼んで尊んできた。
――
幸せな人を見るのが好きだった。日だまりでまどろむような平穏を愛して、隣人と共にある営みをよいものだと感じた。
不幸せな人を見るのが好きだった。痛みも苦しみも悲しみも、それだけで愛に値すると思った。
そのどちらもミツキにとっては脅威ではないから、両者の優先順位を比べることに意味はなかった。
満たされている人間は今日と変わらない明日を願うし、満たされない人間は今日とは違う明日を願う。
この二つは時と場合によってラベルが貼り替えられる。
保守とか革新とか希望とか絶望とか、それっぽい言葉遊びをするのが――人間は大好きな生き物だから。
あるいは何かの物語の悪役をするなら、どちらかに寄り添って、極端な思想を持つべきなのだろう。
普通の人々が好むエンターテイメントの基本は、そういう風にわかりやすい異物だ。
永遠に変わらない世界に固執したり、激動して多くの犠牲が出る世界を望んだり――
――ミツキはそのどちらにもなれないから、誰にも知られることない存在だった。
あるがままの人間を愛しているミツキは、それゆえに最も怠惰な異能者だ。
ささやかな日常を過ごす大多数の人々を愛しながら、苦しみもがき現実に打ちのめされていく人々のことも等しく愛する。
生きることも死ぬことも、楽しむことも苦しむことも同じものとして、当たり前の世界を肯定すること。
誰のことも傷つけず、誰のことも救わない人でなしの愛だった。
それがミツキにとっても、他者にとっても最適解なのだと少女は信じていた。
――他人に優しくしなさいって道徳があるのは、人間には打ちのめされる限界があるから。
――優しさを意識しないと、人間は他人に冷たくなってしまうから。
――でもあたしにはその限界がない。見ず知らずの誰かの心を操って、無限に世界をぐちゃぐちゃにできちゃう。
――だから何もしないのが一番いい。
そう思っていた。
精々、周囲の人間の不興を買わない程度の精神操作を行使するだけで――ホシノ・ミツキの世界は満たされるのだから。
毎日、あたたかなベッドで眠って、綺麗な服を着て、美味しいご飯を食べて、自分を愛してくれる人々に囲まれる。
これ以上の幸福を、少女は想像しなかった。
見ず知らずの誰かを救うような祈りを持たず、視界に入る半径一〇〇メートルの幸福さえあればいい。
その精神操作の有効射程に比べて、ミツキの価値観は普通だった。
普通すぎた。
重ねて言おう。
――
ゆえに考えもしなかった。
人の心に干渉する自分自身が、その実、平凡極まりない価値観であると知っていたから。
異能異形の存在が、本来、どういうものであるかを知らなかった。
あるいは教えられる機会を持たなかった。
それは少女の不幸であり、必然的にたどり着く結末だったのかもしれない。
――あれは一四歳の春。お母さんに連れられて訪れた文化劇場、アニメソングの演奏会が開かれるコンサート会場。
ミツキはアニメが好きだ。
特に深夜に放送している、ちょっと大人びたダークな作品が好きだった。
母親がその仕事柄、アニメのオープニングテーマやエンディングテーマ、あるいは映画のBGMなどを担当するから――その素晴らしい仕事に触れられるアニメが好きなのだ。
いろいろな作品があった。
時空を超えて剣士たちが斬り結ぶチャンバラ、少年と少女が出会うボーイミーツガール、願いを叶える奇跡を巡るファンタジー、遠い未来を舞台にしたSF。
お話の出来はいろいろだったと思う。
中にはミツキにとって面白くないものもあった。
だけど、いつだって母の作曲した音楽は最高だった――ドラマを劇的に盛り上げる音の連なりは美しい。
ミツキは音楽が好きだ。
母の作ったアニメソングを口ずさむのが好きだった。
うきうきと胸を弾ませ、文化劇場の観客席を眺めた。いろいろな人間の思念があった。
そこにあるのは期待感だ。
音楽に親しんでもらうため、一般人が知っているアニメソングやゲームのテーマを演奏する――その趣旨ゆえに、会場にいるのは普通の人々だった。
たまたま余暇があって、クラシック音楽のコンサートなんかに足を運ぶほどではないが、チケットを買う程度には音楽に興味があった市民。
ミツキの大好きな平凡な幸せがそこにあった。人それぞれの苦しみを抱えながら、それでもなお、今この瞬間だけはエンターテイメントに浸ろうとしている人たち。
――楽しいね、お母さん。
ミツキは隣の席に座る母の顔を見た。
長い黒髪に白い肌、整った顔立ちはミツキそっくりの美人だった。
瞳の色が違うこと以外、少女の母――ホシノ・アマネは娘とうり二つの容姿をしていた。あるいはこのまま、ホシノ・ミツキが時を重ねて成長すれば、このような姿形になるかもしれないと思わせる程度に。
そうだね、と優しい声がした。
ミツキはいつものように、自然と母の心を読んでいた。
そこにあったのは歓喜。
何かを待ち望むかのように――母アマネの胸中には、尋常ならざるよろこびが渦巻いていた。
――あれ? お母さん、音楽にわくわくしてるわけじゃない?
違和感を抱いた瞬間、コンサート会場の照明が落ちていった。
観客席を照らしていた光が弱まり会場全体が暗くなると同時に、ざわざわとあちこちから聞こえていた人の声も消えていった。まるで映画館の上映が始まるときみたいだった。
音は消えていくのに、見入るような熱気だけは伝わる沈黙。
始まりは環境音だった。
誰もが演奏者が入場するときの演出だと考えていた。
光の差さない広大な密室となったコンサート会場の中、有名なアニメソングのイントロが流れ始めた。
ミツキの知っている曲だった。
それは少女の恋をつづった、母アマネの作曲した歌。
――ぐじゅるぐじゅる、と異音。
最初はささやくように小さな音として、それは徐々に大きくなっていって――
何かが押し潰されて、引き千切られて、血と肉と骨で編まれた寄せ木細工に変わっていく過程。
暗闇の中で起きていた変事は、むせかえるような血臭によって、じわじわと観客席に伝わっていた。
ミツキは混乱していた。
明らかな異変が起きている。子供のミツキにだって、そんなことぐらいわかるのに。
舞台と観客席を区切る幕の向こう側で――何が起きているのか、
アニメソングの盛り上がりに合わせて、舞台の幕が上がる。
光に照らされて、それは現れた。
――この世界はきっと、不条理なものを忘れようとする。
その日、舞い降りてきたものは、きっと忘れ去られた