■■市文化劇場崩落事故。
二〇XX年■月■日、■■県■■市に所在する■■市文化劇場において、音楽コンサート開催中に天井の大規模崩落が発生した。
これにより来場者および演奏関係者に、多数の死傷者を出す重大事故となった。
老朽化した天井支持構造の疲労破壊、および当日の音響振動による共振現象が複合的に作用した結果の崩落――おおむね、施設管理体制の不備が原因であった。
それが表向き、報道されているこの事故のすべてである。
一年前、極東の弧状列島で全国ニュースとなり、ワイドショーで専門家やコメンテーターが入り乱れて好き勝手に言及したりもした。
少しでもテレビ放送やニュースサイトを見ていれば、興味がなくとも小耳にはさんだことはある。
建築物の老朽化という社会問題、ずさんな管理体制の常態化、予算の少ない地方行政の問題点が最悪の形で噴き出た。
そんな風にまとめられる事件だった。
――でもあたしは知っている。そんなのは嘘でしかないって。あの崩落を生き延びた人たちは、誰もが呪われていることを。
ホシノ・ミツキは異能者である。
人の感情を読み取り、記憶を閲覧し、思考を索引のように取り扱うことができる。ミツキにとって他人の心とは、本を読むというよりも、自動的に取得される環境情報だった。
それは例えば高台から見下ろす景色を、視覚情報として処理する人間のように。
それは例えば海を泳ぐイルカが、地磁気を感じ取って自らの現在位置を知るように。
それは例えばインターネットに走ったアルゴリズムが、大量の情報を取得して学習素材にしていくように。
存在すること、活動すること、知ることのすべてが同意義であるもの。
それがミツキにとっての人の心のありようだった。
――イヌイさんの心の乱れを感じる。動揺している。混乱している。細切れになって忘れ去った過去を、必死に思い出そうとしているから。
悲鳴はない。罵倒はない。彼にはそれを口にする権利も必然もあるのに、少年は実直に衝動に耐えていた。
生き残った誰もが、何かを失ったあの崩落事故。
家族を失った人がいる。肉体の一部を失った人がいる。精神の均衡を失った人がいる。
そこには苦しみがあった。悲しみがあった。痛みがあった。
彼らの大半は、あの日あのとき、何があったのかを記憶できなかった――それは別段、リョウマが懸念していたように、秘密組織が記憶を封印していたからではない。
ミツキはそれを知っている。
この都市の病院に運び込まれた生存者たち――その心の動きのすべてを、少女は病室の一角から手に取るように探知していた。
個々人の顔や名前を知る必要はなかった。
ミツキ自身が覚えているものを鍵にして、共感して共鳴する個人に焦点を合わせるだけでいい。
ホシノ・ミツキはそうして、あの日あのとき、自分たちが
――心が本当に壊れてしまうほどの恐怖と絶望。理不尽と不条理に満ちた景色。
――ぐねぐねとねじ曲がる光の波長。暗く濁った流動体が、空間の歪みを広げながら虚空を這いずり回る。
――凍てつくほどの寒さと、火傷するほどの熱さが渦を巻く大気の壁。
――内臓をねじ切られて、臓物の断片と血液と糞尿の混ざり合った肉袋。
――全身の体液が凍り付きながら皮膚が炭化した矛盾する焼死体。
――全身の骨が小刻みにへし折られ、数百箇所の骨折によって折り畳まれた死骸。
――人間の腕の形をした触手が、
――絶え間なく聞こえる耳障りな音が、常に誰かが喉を絞り上げる絶叫だと気づくまでの数分間。
――その終点。限界を迎えた天井が崩落して、悲鳴すらも轟音と暗闇に覆われて消え去った。
そこには死を超えた悪があった。
途方もない邪悪な
ミツキがすべての生存者の記憶をつなぎ合わせ、掴んだのは――そういう
誰もが何かを失った。誰もが何かを忘れた。誰もが何かを恐れた。
それは異形異能であるホシノ・ミツキすら例外ではなかった。
少女は知らない。
――お母さんが何を期待していたのかを、あたしは知らないまま。
――あたしの見ていないところで、いつの間にかホシノ・アマネは死んでいた。
――あたしはお母さんの死に顔がどんなものだったのかを知らない。
病院に運び込まれて意識を取り戻したとき、すでに母アマネの葬儀は終わっていたのだから。
疑問は無限にある。
一体、自分の父親とは何者であるのか。あの日あのとき、起きてしまった惨事に母はどのようにかかわっていたのか。
答え合わせは許されなかった。
ただ、救いようのない永遠の空白だけが横たわっていた。
――あたしは今、とても残酷なことをしている。
自分が口をしたのは、イヌイ・リョウマにとっても、ベルカ・テンレンにとっても寝耳に水のおぞましい物語だったことだろう。
ちりばめられた不穏な断片的情報、耳を覆いたくなるような惨劇の情景、そのくせ真実を掴むためには何かが足りない。
聞かされた方は困るに違いない。
そして何より――リョウマのように、あの事件でボロボロに傷つけられた人間は、もう一度、傷つけられたに違いない。
忘却は決して悪いことではないのだ。
心を守るために選ばれたその防衛反応を、ミツキは今、台なしにした。
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
室内に満ちた沈黙の帳は、たぶん気のせいではなかった。
先ほどまで軽口をたたき合っていた、
――歯を食いしばるように、あなたは思い出された苦痛に耐えている。
――喚きたいほどの怒り、泣き出したいほどの悲しみ、目を閉じたいほどの絶望。
痛ましいと思った。
そんな風に苦しんで欲しくなかった。笑っているあなたの姿を見ていたかった。戸惑うその横顔を、ずっと眺めていたいと望んでいた。
きっとあなたはもう覚えていない記憶の中で――何度でも、何度でも恋をしたから。
ああ、本当にそう思っているのに。
それでもこう感じてしまう――苦しみもがき、痛みと共にある姿は、他の何よりも美しいのだと。
ほの暗い感情を胸に秘めて、ミツキは自らの物語を語り終えた。
「イヌイ・リョウマさん。これが、あたしの覚えている真実です。たぶんあの日あのとき、あなたを傷つけた原因に……
現実は変わらない。
客観的に情報を整理してみると、ミツキの出自には怪しい点が多すぎた。
対人間という観点で見れば、ひたすら有利であるはずの心に干渉する異能――それが唯一、通じなかった相手がベルカ・テンレンだったのも、確信を強める材料だった。
何度も時を繰り返しているリョウマの記憶によれば、ベルカの正体は人ならざるものだという。
天使と呼ばれる異形の血を混ぜて作られた、少女の形をした怪物だ。
――あたしの
現実逃避はしない。
そんな卑怯な真似、できるはずがなかった。
今こうして、友人みたいな面をして――少年の前にいること自体が、恥知らずで愚かなことだとわかっているのに。
ホシノ・ミツキは矛盾に満ちていた。
彼女は客観的に見て、想い合う相手がいる少年に恋をした。それが所詮、横恋慕と切り捨てられるものかもしれないと知りながら――燃え上がるような感情を留める術を知らなかった。
愛を求めて走り続けた。
自分の手では汚せない綺麗なものに焦がれながら、安易に心を操ってその寵愛を受けようとした。
――あたしは幸運だった。自分がバカだったことで、この人の純粋さを失わせずに済んだ。
すべてを台なしにするような熱を、イヌイ・リョウマが笑って受け流す人だったのは、奇妙な巡り合わせの中で一番の奇跡だった。
何度も何度も、意を決して彼を呼び出して、告白した時間を思い返す。
つい先日、日曜日にしたばかりの出会い――今日が月曜日の夜だということを忘れ去ってしまうぐらいに濃密な時間だった。
リョウマの記憶を深く読み取ったとき、ミツキの胸中にあふれた驚きは言葉にできなかった。
何度も何度も繰り返される死の螺旋、何度も何度も繰り返される出会い、積み重ねられる言葉と好意――こんなにも都合のいいことがあっていいのかと思った。
リョウマの記憶の中で、幾度となくミツキは死んでいた。
ベルカの手で肉片になるまで解体された。襲い来るヘリコプターからの機銃掃射で吹き飛んだ。まともな骸が残る死に方を許されていなかった。
――知ってしまったから。どれだけ不条理で理不尽な目に遭おうと、あなたは、あたしに歩み寄ってくれることを。
潤んだ瞳でリョウマを見た。
ホシノ・ミツキの恋の始まりは、もう誰も覚えていない忘却の彼方にある。きっとリョウマ自身、知らない物語のひとつにすぎない。
だからそれを口にしようとは思わなかった。
少女が本当に少年のことを知ったのは、何度も何度も繰り返された日曜日の告白――あの瞬間から始まっているのだから。
重ねていおう。
――こんなにも歩み寄ってもらったことがうれしいのに、あたしはそれを台なしにしようとしている。
ミツキはたぶん、対等な誰かを求めていた。
だからこそ異能が通じないのに、こちらに歩み寄ってくれるリョウマのことが好きになった。自分と同じような存在であるベルカのことを好きになった。
孤独であることだけを尊べるほど、ミツキは完全な個ではない。
そして二律背反に襲われた。
顔を合わせて話してみるだけでどんどん好きになってしまう人たちに、自分が抱えている秘密を隠し通すなんて――
わかっている。
純粋な利害関係だけで考えるなら、こんなこと話すべきではなかった。
今度こそ疎まれて、嫌われて、憎まれて、殺されるかもしれないと思う。
――あたしはたぶん、裁かれたいんだと思う。
現実感がない一年間を、ホシノ・ミツキは生きてきた。
自分が人間ではないかもしれないという孤独感と、誰にも言えないおぞましい真実を抱えて、すべての傷がなかったかのように振る舞って生きてきた。
それが間違いだとは思わない。
でも
あるいは破滅願望の発露にすぎないのかもしれない、救いようがない痛みのかたち。
黒髪の少女はそうして、恐る恐る順繰りに二人の顔を見た。
――ベルカさんは何かを考えている。その気になれば、いつでもあたしを殺せるのに。
こういう恐ろしい事件の専門家だという少女の下す判断が、どういうものかはわからなかった。
ホシノ・ミツキにとって彼女は、人ならざる同胞であり、同時にきっと正しい裁きを下してくれる処刑人だった。
つい先刻、顔を合わせたばかりの相手なのに――親近感が湧いてしまうのは、きっとリョウマの記憶を追体験したせいである。
彼の思い出の中で、いつだって金髪の少女は鮮やかに色づいていた。
綺麗なものに憧れるから、ミツキはきっと、何度だってベルカのことを好きになれた。
そしてリョウマの顔を見た。
――イヌイ・リョウマさん。あたしの初恋の人。たぶん、あたしを断罪する権利がある人。
少年はじっとこちらを見ていた。
その目にどれだけの暗い感情が、激しい感情が渦巻いているのかと恐怖しながら――少女はその瞳を覗き返して。
そこに
――どうして? なんで? 今のあたしの話を聞いて、どうしてそんな反応ができるの?
覚悟していた罵声がなかったことに、ミツキが混乱していると――リョウマはただ静かに、演技なんて欠片もない声音でこう言った。
少年が立ち上がる。
それまで腰掛けていた勉強机の椅子から腰を浮かせ、数歩、足を動かして。
そうしてミツキの目の前で来た彼は、そっと身をかがめて、少女の手を取った。
恐怖に震えるホシノ・ミツキの細い指先を、花束でも握るかのように優しく包んで。
「――どんな言葉をかけるべきかなんて、俺にはわからない。でもさ、ホシノさん。これだけはわかるんだよ。俺が死にたいぐらい傷ついてたみたいに、君だって一番辛い目に遭ってた。俺たちはそれぞれが、誰にも分かち合えない孤独を抱えてる。絶望を知ってる」
少年は言葉を句切って、力強く言い切った。
「だから……
どれほどの葛藤があったのだろう。どれほどの理性を働かせて、荒れ狂う感情を鎮めたのだろう。
そのすべてを手に取るように感じ取れたのに、ミツキはそれでも――リョウマの言葉が綺麗事ではないと信じられた。
意味がわからなかった。
たった今、断罪される未来を願っていたはずの自分が、どうして泣いているのか――何もわからないまま、少女は大粒の涙をこぼした。
白い頬を伝い落ちる雫が、何度も何度もジャケットの布地に吸い込まれては消えていく。
感情が抑えきれなかった。
喉からあふれ出すもの――
ホシノ・ミツキは子供のように泣きじゃくって、ようやく自分の本心を知った。
「たぶん、あなたは
ぽつり、とベルカが呟いた。
幾ばくかの同情と郷愁と共感を込めた、小さな声だった。
ベルカ「そういうところだぞリョウマ(後方幼馴染み面)」
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