人間の認識する世界を決定しているのは、情報を伝達する事象の速度である。
いきなり小難しい言い回しだが、要するにこういうことだ。
──人間は光の速さで伝わってくる物事しか知ることはできない。
光の速さは秒速三〇万キロメートルだ。
例えば身近なものならば、地球から見た太陽との平均距離はおよそ一億四九六〇万キロメートル──つまり地球上の人類が目にしているのは、八分二〇秒前に太陽から放射された電磁波ということになる。
途方もなく馬鹿でかい核融合反応の塊が、ギラギラと輝き、膨大な量のエネルギーを吐き出している。
それが人間の知覚する世界の姿だが、実像としては物理的距離に隔てられ、かなりの時間差を経て届いた報せを認識しているのだ。
この宇宙の原理は冷酷だ。
それがなんであれ、光よりも速く世界を知る術はない。電磁波も重力も秒速三〇万キロメートルという、宇宙の広大さに対して遅すぎる速度でしか伝わらないのだ。
──だから仮にわたしの前世が、世界を改変できる全能者だったとしても、実際に知っている世界の範囲はびっくりするぐらいせまい。
ベルカ・テンレンにはうっすらと前世の記憶がある。
時間と空間を縦横無尽に駆け巡り、積み上げられた膨大な過去を改変して、望む現在を作りあげる
あるいはベルカの出自そのものが、この世界に横たわる原理原則を示していた。
そう、ありとあらゆる物事には限界がある。
情報伝達の
どんなに優秀で万能な超がつく天才だろうと、この世は広すぎて絶対に一人ではカバーしきれない。
めちゃくちゃ壮大な前振りはここまでにしておこう。
──幼馴染みのクソボケ野郎が、突如として異世界の美少女とデートすることになったという異常な報せは防御不可能だった。
その精神は打ち砕かれ、ベルカの脳みそは第一報から一二時間が経過してなお、完全修復できていなかった。
それでも廃人と化さずに、イヌイ・リョウマの監視と護衛という仕事の段取りをきっちり作れていたのは、少女の飛び抜けた優秀さゆえである。
だが、一度砕けた情緒は元には戻らない。
金髪碧眼の美しい少女は、脳に受けた不可逆的ダメージにうめき声を上げた。
「…………うっ……わ、わたしの脳みそが、秒単位でぐちゃぐちゃになっていくのを感じる……!」
死にそうな顔色のベルカは、楽しく休日のショッピングに繰り出している市民に紛れて街中にいた。駅前で待ち合わせしているというリョウマとアシュモを監視するためだ。
華やかな私服姿のベルカ・テンレンは、白を基調とした半袖のブラウスに青いキュロット、そこに変装用の野球帽とサングラスで季節に対応した装いである。
流れるような金髪と相まって、飛び抜けて可愛らしいのは言うまでもない。
少女が手にしている携帯端末を通して、耳につけているマイクつきイヤホンが音声を発した。
『落ち着いてください、ベルカさん! どんなに他の女の子に鼻の下伸ばしていようと……最後にリョウマさんの隣に立っているのが勝者です……!』
「発想が恋愛っていうよりルール無用の残虐ファイトだよね、ホシノさん。こう、闇討ち上等のデスゲームの果てみたいな」
『愛って怖いですよね』
「そんな怖い発想してるの、あなただけだと思うなぁ!」
倫理観が愉快なことになっている通話相手はホシノ・ミツキである。
在野の超能力者である少女は、その類い希な異能を買われてゼロハンターの民間協力者というポジションに落ち着いていた。
紆余曲折あってのことである。
何せこの少女、倫理観がゆるくてふわふわしてるのもさることながら出自が凄まじく胡散臭い。
すでにベルカ・テンレンの手で討伐されたとはいえ、現世に降臨して何十人もの人間を死に至らしめた怪異の落とし子──それもほぼ分身と言っていい眷属だ。
これほどまでに強烈な厄ネタもそうはあるまい。
しかしながらミツキはその能力の割にはかなり善良な部類の異能者だった。
そして何より異能の射程と探知精度と到達速度が異常すぎて、下手に排除する選択肢を選ぼうものなら、血で血を争うことになる恐れがあった。
この宇宙の原理は冷酷だ。
光よりも速い事象はありえない。だが、ホシノ・ミツキの人の精神に干渉する力は、明らかにその原則を逸脱している。
──結局のところ、わたしとセットで監視付きの人型特異に指定して様子見ってわけだ。
特異対策局ゼロハンターの一員として、ベルカもできる限りの根回しはした。
その甲斐あって勝ち取った現在だったが──よもや、こんなにも早くその助力を得る機会が訪れようとは。
ベルカは今、ミツキの読心能力の力を借りていた。
ミツキの異能はベルカやアシュモのような普通ではない人間には通用しないが、読み取るだけならリョウマに対してひたすら有効なのだ。
イヌイ・リョウマの人権を
初めての秘密組織のエージェントとしてのお仕事とあって、ホシノ・ミツキはやる気に満ちあふれていた。
「頼むね、ホシノさん。残念ながらドローンの類は全部が使用不能になってる。アシュモ・カーダドートは現代ガジェットにもすこぶる強い女の子みたいだ」
高度なジャミングが行われていた。
剣と魔法のファンタジーでございます、みたいなことを言っていたが、最近の魔法は高高度を飛ぶ無人偵察機にすら干渉できるらしい。
異世界からの来訪者を名乗る少女の正体は不明だ。ここ数日でそのプロフィールについて調べてみたが、欧州に根を張る秘密結社のひとつが浮かび上がってきた。
表社会での身分は、欧州市民の一人であることを示していたが、その背後にいるのは貴族社会に由来する異能者の互助組織だ。
すこぶる厄介な気配がした。
下手にこちらが手を出すと国際問題に発展しかねないのだ。
アシュモの背後にいるのは国際的NGOとしてしっかりと世間に認知されている組織だったし、別段、パスポートの不備があったりはしなかった。
『えっと、アシュモさんって国籍とかパスポートとか、そういうのは大丈夫だったんですよね?』
「うん、立派な欧州市民だよ。経歴上は成人しているけど、実年齢かはわからない。まあバックについてるのは胡散臭い秘密結社のフロント組織なんだけど……このまま仮にリョウマと婚約して、
ベルカは自爆した。
自分で口にしておいて、その空想された虚構の未来──異郷の地からやって来た褐色の肌をした美少女と、一八歳になったリョウマが国際結婚する景色がありありと脳裏をよぎった。
少し緊張した様子で服に着られている新郎のリョウマ、頬を赤らめてはにかむ新婦のアシュモ。
二人は純白の衣装に身を包んだ新郎新婦として、永遠の愛を誓い合って──抱き合いながら、そっと愛情深いキスを。
「……うっ……!」
ベルカ・テンレンの脳は軋みをあげた。ちょっと脳髄に深いダメージが入ってしまった気がする。
金髪碧眼に白い肌、西洋人形のように整った目鼻立ち、引き締まったお腹に豊かな胸の膨らみ。
ベルカは誰がどう見たって類い希な美少女だったし、自分の容姿端麗さを自覚している。
なのに恋愛ではひたすら無意味に自信がないから、突然、リョウマとの関係に割り込んできた少女たちに脅威を感じてしまう。
『落ち着いてください、ベルカさん。爆弾抱えたまま撃墜された爆撃機みたいになってます!』
「ありがとうホシノさん。うん、今のはバカみたいな自爆だね」
落ち着くために深呼吸する。
こんなに辛いのは、今年の春に訪れた人生の危機──幼馴染みに全能者の真実を暴露された、地獄のような時間以来かもしれなかった。
自嘲すると通話アプリの向こう側で、ミツキは押しの強い言葉を放ってきた。
『ミツキでいいですよ! むしろ呼び捨てにしてくれていいですよ』
「もしかしてなんだけどね?」
『はい』
「わたしに呼び捨てさせることで、リョウマのやつにも呼び捨てを強要する感じ?」
油断していたが、そもそもホシノ・ミツキもまたリョウマのことを深く想っている少女である。
そう、とても綺麗な恋する乙女だ。
長い黒髪に抜けるように白い肌、切れ長の目にはめ込まれた赤い瞳に、折れそうなほど細い腰つき、すらっとと伸びた長い手足。
あるいはベルカの目から見ても、こんなに浮世離れした美人がいるものかと思うぐらいだ。
そして惚れっぽすぎてチョロすぎるイヌイ・リョウマは、明らかにミツキのことも好きになっていた。
立派な恋敵である。
少なくともリョウマに自分だけを選んでほしい気持ちがあるので、ベルカの側はそう思っているのだけれど。
イヤホンから、くすっと笑い声。
『はい、頭脳戦ですね!』
「ここで悪びれないのすごいよ……尊敬しちゃう」
軽口を叩きながら、ベルカは遠目に駅前の広場を見た。無人偵察機も近距離用のドローンも使えないから、監視はベルカ自身の肉眼でする必要があった。
結局のところ、これが一番確実な気がした。
前世が全能者であり、今生においては宇宙から落ちてきた地球外生命体に由来する異能を持つベルカは──その五感が常人よりもはるかに鋭く、強い刺激に対する耐性もあり、電波を用いた無線通信などの小技も使える特異体質だ。
確実を期すならば高度なセンサー類を積んだ無人偵察機を使いたかったけれど、今回のようにジャミングを息するようにしてくる相手には、肉眼が一番効果的だ。
何よりベルカという監視者の存在は、リョウマにもアシュモにも隠す必要がない。
見えた。
──本当に穏やかに、その仕草からも恋情が読み取れるほどに、アシュモは嬉しそうに少年に話しかけている。
──対するリョウマの方はといえば、どうにも緊張たっぷりという感じの振る舞い。
まったく我が幼馴染みながら、女の子とデートするなら、もっと堂々としていろと思った。
いや、こういう初々しいリョウマもそれはそれで美味しいのだけれど。
ベルカと二人の間の距離は二〇メートルほど。
その気になれば一瞬で詰められる間合いだ。
流石に白昼堂々、アシュモと戦う気はないとはいえ──自分の金髪碧眼は目立つから、たぶん遠目にもこっちの存在は察知されているだろう。
それでいい、と思った。
──リョウマのやつはアシュモの動向を掴むために、デートの誘いを受けたっていうけど。
──あいつは全能者の力の欠片だ。ひょっとしなくても、その力を狙って近づいてきたのかもしれない。
そうである可能性がある、というだけでアシュモは排除できない。そういう風になるように、あの少女は用意周到に自分の身分を形作ってきている。
なので危機感を抱きながら、デートを尾行するとかいう不本意なアクションをしなきゃいけない。
まったく自分は今、しなくていい苦労をしている気がする。
そう思ってベルカがため息をついた瞬間だった。
通話中のミツキが、通話アプリの向こうで息を呑むのがわかった。
『……えっ? 嘘、どういうこと……?』
「ミツキちゃん、どうしたの?」
呼び掛けに対して、数秒間ほどミツキは困ったように唸っていたが──やがて観念したように報告を入れてきた。
ホシノ・ミツキはずっとイヌイ・リョウマの心を監視しているし、ほとんど遅延なく、その五感を
かなり深刻な人権侵害が起きているが、それはさておき、今回のような異能者絡みの面倒ごとの最中だと頼りになる。
そのはずだった。
『あの……リョウマさんなんですけどっ……!
非常識すぎるデートの始まりに、さしものベルカだって絶句した。
「…………終わってる青春だね」
全力で少年のプライバシーを侵害している自分の行為を棚に上げ、ベルカ・テンレンは天を仰いだ。
とても綺麗な青空だった。
1章:デスお花見
2章:デス・デート
リョウマくんは死に隣接したイベントに飛び込む習性がある模様