1. セミナーの計算外
ミレニアムサイエンススクールの象徴である超高層ビル、セミナー本部。その最上階にある会議室には、かつてない緊張感が漂っていた。
「……信じられない。この熱力学の第二法則を無視したかのようなエネルギー循環効率。これ、本当に実用化されているデータなの?」
セミナーの会計、早瀬ユウカは、目の前の端末に表示された数式を凝視し、計算機を叩く指を震わせていた。彼女の隣では、セミナー会長の調月リオが、無機質な視線をボンドルドへと向けている。
「ボンドルド様。貴方が持ち込んだこの『アビドス再生プラン』の根幹にある技術……。これはミレニアムの物理学の枠組みでは説明がつきません。……いえ、それどころか、この数式のいくつかは『観測者の精神状態』を変数に組み込んでいるように見えます。これは科学ではありません。……オカルトです」
リオの冷徹な指摘に対し、ボンドルドは優雅に椅子に腰掛けたまま、バイオレットのスリットを静かに明滅させた。
「おやおや、リオ様。実に鋭い。ミレニアムの知性は、すでに世界の皮を一枚剥ぎ取るところまで来ているのですね。……ええ、おっしゃる通り。真の探求において、主観と客観を分かつ境界など存在しません。……祈り、願い、そして愛。それらが物理現象を歪め、新たな『真実』を形作る。それこそが、私が提唱する『黎明の科学』なのです」
「……非論理的です」リオは切り捨てた。「私たちは先生からの要請で貴方を支援しますが、この技術の無断使用、および生徒への接触については、厳重な監視下に置かせていただきます」
「当然です。……真実への道は、常に多くの眼差しに晒されるべきですから」
ボンドルドの答えは完璧だった。しかし、ユウカは彼の足元で「メヤァ」と鳴くメイニャの、その生物学的に説明のつかない構造を目の当たりにし、計算式では導き出せない「生理的な嫌悪感」を拭えずにいた。
2. ゲーム開発部と、プルシュカの「夢」
セミナーとの緊迫した会議を余所に、プルシュカはボンドルドの「許可」を得て、学園内を自由に散策していた。彼女の案内役を任されたのは、なぜかちょうど部室を追い出されかけていたゲーム開発部の面々だった。
「わあ……! このお部屋、機械がいっぱい! これ、全部パパの装置よりピカピカしてる!」
「ふふーん! これこそがミレニアムが誇るレトロゲームの結晶、およびジャンクパーツの山なのだ!」
小鳥遊モモイが胸を張り、プルシュカを歓迎する。
「プルシュカさん、これは『ゲーム』という、仮想世界を冒険するプログラムです。……パパさんとやっている『探険』とは、少し違うかもしれませんが」
ミドリが補足し、プルシュカにコントローラーを握らせた。
「ゲーム……! パパはいつも、『現実こそが最高の冒険だ』って言ってるけど、こんなに楽しい世界があるなんて知らなかった!」
プルシュカは、双子の指導を受けながら、画面の中で飛び跳ねるキャラクターに夢中になった。彼女の肩ではメイニャが「メヤァ、メヤァ」とはしゃぎ、天童アリスはその様子をじっと観察していた。
「分析完了しました。プルシュカさんの笑顔……出力値は最大です。メイニャさんも、非常に高い幸福度を示しています。……プルシュカさん、あなたは勇者ですか?」
「勇者? ううん、私はパパの助手だよ! パパが世界の夜明けを見つけるのを、一番近くでお手伝いするのが私の役目なの!」
プルシュカが笑う。アリスはその無垢な答えに、どこか共鳴するものを感じていた。
「……助手の使命。理解しました。アリスも、先生の助っ人であり、勇者です。……でも、プルシュカさん。あなたのパパさんは、あなたに何を『装備』させているのですか?」
アリスの純粋な問いに、部屋の空気がわずかに変わった。
「装備……? ううん、これだよ! トリニティのヒフミお姉ちゃんにもらった、ペロロ様のキーホルダー!」
プルシュカは、ボンドルドのベルトではなく、今は自分の胸元に付け直したキラキラのキーホルダーをアリスに見せた。
「パパはね、私に何も強制しないよ。ただ、『君が君自身でいられることが、私にとっての救いだ』って言ってくれるの」
「……パパさん、いい人ですね」
モモイが感動して涙ぐむ。だが、ミドリだけは、プルシュカのカバンの中から微かに漏れる「駆動音」に気づいていた。それは、ミレニアムのどの機械とも違う、重苦しく、心臓の鼓動を模したような、不吉なリズム。
3. 鏡合わせの「怪物」
その頃、セミナーの秘密地下室では、リオとボンドルドが二人きりで対峙していた。
リオは、ボンドルドが持ち込んだ「装置の試作機」を分解し、その内部構造に戦慄していた。
「……ボンドルドさん。単刀直入に伺います。この回路の核心部にある、この有機的なパーツ……。これは、ヘイローを持つ者の『生体データ』を直接変換するコンバーターですね?」
「おやおや。隠し通せるとは思っていませんでしたが、これほど早く見抜かれるとは。……流石、ミレニアムの『合理性』を体現するお方だ」
ボンドルドは、装甲のスリットを眩いほどに光らせた。
「ええ、そうです。……大きな変革には、それに相応しい『質』の伴ったエネルギーが必要です。……キヴォトスにおいて、それを提供できるのは生徒たちのヘイロー以外にありません。……リオさん、貴方もかつて、学園を守るために『要塞都市』を建設し、多くの犠牲を容認しようとした。……貴方と私は、同じ景色を見ているはずだ」
リオの顔から血の気が引く。彼女が過去に犯そうとした「過ち」——全体の利益のために個を切り捨てるという冷徹な合理性。ボンドルドはそれを、鏡のように彼女に突きつけていた。
「……私は、後悔しました。その道が間違いであったと、先生に教えられた。……貴方のやろうとしていることは、かつての私以上の狂気です」
「狂気、ですか。……私はただ、子供たちの未来を愛しているだけですよ。……彼女たちが、自分の限界を突き抜け、新たな生命の形へと昇華する。その瞬間の美しさを、貴方は想像できないのですか?」
ボンドルドの指が、空間に仮想の座標を描く。
「……リオさん。貴方の合理性は、まだ『人間の枠』に囚われている。……私の愛は、その枠を食い破り、神の領域へと至るためのハシゴなのです」
4. ヴェリタスの解析:暴かれた「空虚」
一方で、ミレニアムのハッカー集団「ヴェリタス」の部室では、部長のチヒロとハレが、ボンドルドの装甲服から密かに傍受した通信パケットを解析していた。
「……何これ。暗号化されてない……? いえ、これ、文字列じゃないわ。……脳波? 神経信号が直接パケットとして流れてる?」
ハレがヘッドホンを放り出した。「……チヒロ部長、これ以上は無理。この信号を聞いてると、頭の中が紫色の霧に包まれるみたいで……。吐き気がする」
「……待って。一つだけ、解析できた階層がある。……ボンドルドの『個体識別信号』よ」
チヒロが大型モニターに結果を表示する。そこに現れたのは、ミレニアムのデータベースでも見たことのない「異常な波形」だった。
「……信号が、一つじゃない。……数千、数万の『残響』が、一人の男の意識に上書きされている。……この男、一人じゃないわ。……たくさんの意識が、データの屑となって、彼の装甲の中に……」
チヒロの手が止まる。
「……チヒロ部長、それって……」
「……ええ。このボンドルドという男。……彼は、自分を犠牲にした者たちの『成れの果て』でできている。……彼がプルシュカさんを愛しているのは、彼女を『自分の一部』に書き換えるためよ」
その時、部室のドアが静かに開いた。
「おやおや……。私の内面に、これほどまでの関心を寄せていただけるとは。探求者として、これ以上の名誉はありません」
そこに立っていたのは、いつの間にか警備網を抜けたボンドルドだった。
チヒロとハレは即座に端末を閉じたが、ボンドルドは怒る様子もなく、むしろ称賛するように拍手をした。
「ヴェリタスの皆さん。素晴らしい知性だ。……ですが、一つだけ訂正を。……私は彼女たちを『消費』したのではありません。……彼女たちは私の中で、今も共に黎明を見続けているのです。……プルシュカも、いずれその一人となる。……それは、彼女にとっても至上の幸福なのですから」
「……貴方を、今すぐミレニアムから叩き出したいわ」
チヒロが震える声で告げる。
「ええ、構いませんよ。……すでに、必要な計算(データ)はすべて揃いましたから。……ミレニアムの皆さん、素晴らしい刺激をありがとうございました。……次は、アビドスで。……真の『夜明け』を共に見守りましょう」
5. 旅立ち:キーホルダーの輝き
翌朝、ミレニアムの校門前。
ゲーム開発部のメンバーに見送られ、プルシュカはボンドルドと共にアビドス行きの飛行船に乗り込もうとしていた。
「プルシュカさん! また新しいゲームができたら、通信してね!」
モモイが大きく手を振る。
「……プルシュカさん。勇者の装備、大切にしてください」
アリスが、少しだけ悲しげな瞳で見つめる。
「うん! みんな、ありがとう! 科学って、とっても楽しいね! 私、パパと一緒にアビドスを緑にして、そしたらみんなを招待するね!」
プルシュカのカバンに付いた、ペロロ様のキーホルダーが朝日に反射して眩しく光る。
その光を、少し離れた場所からユウカとリオが見つめていた。
「……会長。先生には、何と報告しますか?」
ユウカが尋ねる。彼女の計算機には、どうしても「マイナス」にしかならない未来の予測値が表示されていた。
「……『怪物は、すでに檻を開いた』と。……そして、『次に彼がその装置を起動させたとき、キヴォトスの理の一つが死ぬ』と」
リオの言葉に、ユウカは何も答えられなかった。
飛行船がゆっくりと浮上する。その影が、ミレニアムの白亜の校庭を黒く塗りつぶしていった。
飛行船の中。
プルシュカは、ボンドルドの膝の上でスヤスヤと眠りについていた。その頭を、ボンドルドの無骨な装甲の指が、優しく、あまりにも優しく撫でる。
「……素晴らしい。プルシュカ、君はミレニアムの『理論』までも吸収し、これほどまでに豊かな魂へと成長した。……ああ、愛おしい。……君を最高の形で完成させる日が、すぐそこまで来ている」
「メヤァ……」
メイニャは、眠るプルシュカの顔を悲しげに舐めた。
その鳴き声は、エンジンの轟音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
物語は、ついに最終決戦の地、アビドス砂漠へと回帰する。
全ての「愛」と「友情」を燃料に変える黎明の装置が、今、静かにその口を開こうとしていた。