追走祭は、1着のウマ娘が逃走するという前代未聞のアクシデントこそあったものの、
表向きは滞りなく幕を閉じた。
翌日。
俺は職員として、いつも通りの朝を迎えようとしていた。
だが――
日が落ち、校舎にほとんど人がいなくなった頃。
ふと、校舎の影から小さな嗚咽が聞こえた。
エルコンドルパサー
「う……えぐ……負けた……
完全に追いつけなかった……
声すら……かけてもらえなかった……」
その声は、
あの華やかな怪鳥のものとは思えないほど弱々しかった。
校舎の影で、
エルコンドルパサーが一人、声を殺して泣いていた。
ゼロ
(……っ)
胸が締め付けられる。
俺のせいだ。
俺が勝ったから。
俺が逃げたから。
でも――
ゼロ
(声なんて……かけられるわけがない)
近づけば、顔を見られる。
声を出せば、男だとバレる。
それ以前に、
俺には彼女にかける言葉なんて持っていなかった。
ゼロ
(……ごめん……)
心の中でそう呟くことしかできない。
足が勝手に後ずさる。
視線を逸らし、影から離れる。
そして――
俺は逃げるように榊原のもとへと急いだ。
ゼロ
(また……逃げた……)
胸の奥が痛む。
でも、どうすることもできなかった。
榊原のトレーナー室のドアが、ゆっくりと開く。
榊原
「ゼロか……
まぁ、座れ……」
ゼロ
「ここでいいです。
その……俺、もう全部白状したいんです。
ゼロバンゲートのことも、レースに変装して出たことも……
俺はもう走れない……」
榊原は、俺の顔を見てすぐに察した。
何かを“見てきた”顔だ。
榊原
「……何か見てきたようだな。
だが、そんな話を聞くつもりはない」
ゼロ
「……っ」
榊原
「レースの後も言ったことだが、
お前は勝者だ。
負けるまで追われる宿命だ」
ゼロ
「でも……理事長に頼んで、また何とか許してもらえるようにできるんじゃないですか……!?」
その声は震えていた。
逃げたい。
でも逃げられない。
その狭間で潰れそうな声だった。
榊原
「……」
榊原の表情が強ばる。
沈黙が落ちる。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
榊原
「負かした相手……おそらくエルコンドルパサーのことを気に病んでいるのなら、
それは思い違いだ。
この世界じゃ“勝ち逃げ”は許されない……」
ゼロ
「勝ち逃げなんて……!
俺はそもそも、あんたらのいる世界のウマ娘じゃないし……!」
その瞬間だった。
バンッ!!
榊原が机を叩き、勢いよく立ち上がる。
榊原
「都合よく自分の境遇に逃げるな!!」
その声は怒鳴り声ではなかった。
怒りよりも、
“必死さ”が勝っていた。
俺は息を呑む。
榊原は続ける。
榊原
「お前がどこの世界の生まれだろうが関係ない。
走ったのはお前だ。
勝ったのもお前だ。
そして――負けたやつの涙も、お前が背負うんだ」
ゼロ
「……っ」
榊原
「それが“勝負の世界”だ。
お前はもう、その中に足を踏み入れた。
戻れないんだよ、ゼロ」
膝が震える。
胸が痛い。
呼吸が浅くなる。
榊原は、少しだけ声を落とした。
榊原
「……逃げたいなら逃げてもいい。
だが、“自分は枠外だから”なんて理由で逃げるな。
それは……お前自身を侮辱することになる」
ゼロ
「……榊原さん……」
榊原
「ゼロ。
お前は、もう“走る側の人間”なんだ」
その言葉は、
ゼロの胸に深く突き刺さった。
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ゼロの「走りたい」という願いは純粋なものでした。
けれど、その純粋さがエルコンドルパサーを傷つけたことは、
彼にとって暴力と変わらない重みを持ちます。
誰かの涙の上に自分の勝利があるという事実。
その痛みを知った瞬間から、ゼロの物語は次の段階へ進み始めます。