エルコンドルパサー
「あなた、とても強かったデース……」
その声を聞いた瞬間、
俺はハッと我に返った。
ゼロ
(マズい……!
この距離で顔を覗かれたら……
男だってバレる……!)
エルコンドルパサーは、
勝者を称えるために自然と距離を詰めてくる。
その瞳はまっすぐで、
勝負師としての敬意が宿っていた。
だが――
そのまっすぐさが、今の俺には怖かった。
ゼロ
「……っ!」
俺はエルコンドルパサーの視線を避けるように、
踵を返してレース場から逃げ出した。
砂を蹴り、
観客の歓声を背に受けながら、
ただ必死に走った。
---
エルコンドルパサー
「え、どこに行くデスカ!?
ちょっと……待っ……!」
伸ばした手は、
空を切るだけだった。
エルコンドルパサー
「…………」
彼女は立ち尽くしたまま、
遠ざかるゼロの背中を見つめる。
エルコンドルパサー
「負けたヤツには……用はないってこと……?」
その声は震えていた。
エルコンドルパサー
「私……まさか……完敗……」
彼女の胸にあった誇りの羽根が、
静かに地へ落ちていくようだった。
怪鳥の羽根が地に落ちた瞬間――
エルコンドルパサーは初めて、
“敗北”という痛みを知った。
………
榊原が待つ控え室に、俺は転がり込むようにして逃げ込んだ。
心臓が早鐘を打つのが止まらない。
呼吸は乱れたまま、まるで肺が空気を拒んでいるようだった。
ゼロ
「はぁ……はぁ……はぁ……っ……!」
視界が揺れる。
耳鳴りがする。
世界が遠のいていく。
消えそうな意識の中、
俺は何とか榊原の腕にしがみついた。
榊原
「……上出来だ」
その声は驚くほど落ち着いていて、
俺の荒れた呼吸とは対照的だった。
榊原
「いや、スタートダッシュ、試合運び……どれも出来すぎたと言うべきか。
逃げてきたのは賢明な判断だったな……」
ゼロ
「はぁ……っ……はぁ……っ……!」
言葉を返そうとしても、
喉が空気を吸うだけで精一杯だった。
榊原
「とにかくもう休め。
お前は……よくやった」
その声は、
まるで父親が息子にかける言葉のように優しかった。
ゼロ
「……っ……はぁ……っ……」
胸の奥が熱くなる。
苦しいのに、涙が出そうになる。
榊原は俺の背中を軽く叩き、
呼吸を整えるように促す。
榊原
「あれは誰にでもできる走りじゃない。
お前は、ちゃんと“勝った”んだ」
ゼロ
「……っ……」
震える指先が、榊原の袖を掴んだまま離れない。
榊原
「大丈夫だ。
ここには俺しかいない。
誰もお前を見ていない。
息を整えろ……ゼロ」
その言葉に、
ようやく俺の呼吸が少しずつ落ち着き始めた。
ゼロ
「とんでもないことをしてしまった……
走りたかっただけなのに……
うぅ……ぅ、ぅ、ぅ……」
言葉にならない。
胸が苦しい。
呼吸が浅くて、涙が勝手にこぼれそうになる。
榊原は、そんな俺の肩をしっかりと支えた。
榊原
「もう勝負はついた。
お前は勝った。
次は追われる立場になった。それだけだ」
その声は、叱るでも慰めるでもない。
ただ事実を告げる、揺るぎない大人の声だった。
榊原
「負けたやつは失う。
勝ったやつは勝った責任を追う。
この世界はそういう風に出来ている」
ゼロ
「……っ……」
榊原は、俺の震える手をそっと外さずに続けた。
榊原
「ゼロ。
お前もすぐに慣れるさ」
その言葉は、
“強くなれ”という命令ではなく、
“お前は強くなれる”という確信だった。
ゼロ
「……はぁ……っ……はぁ……っ……」
呼吸はまだ乱れている。
でも、榊原の声が胸の奥に落ちていくたび、
少しずつ、少しずつ、世界が戻ってくる。
榊原
「走りたかっただけ――それでいい。
それが、お前のすべてなんだからな」
ゼロ
「……っ……」
涙が一粒、膝に落ちた。
榊原はそれを見ても、何も言わなかった。
ただ、そっと背中を支え続けた。
榊原
「怖かっただろう。
でも……よく走った。
胸を張れ、ゼロ」
その言葉は、
父親が息子にかける言葉そのものだった。
ゼロ
「……はい……」
震えた声で、
それだけを返した。
第1章はここで幕を閉じます。
次に始まる第2幕は、ゼロにとって避けて通れない分岐点です。
彼をどこへ連れていくべきか――
その答えを探し続けた時間こそ、この物語の核でした。
ここから先のゼロの歩みを、どうか見届けてください。