7 ノクターン
夜、私はキャビネットに向かい合っていた。
戸棚が開き、果実が落ちた。それを持ち上げて目を凝らす。
修繕は終わった。
私は棚の中へと踏み込んだ。
スコットランドの果てからイングランドの南東へ。キャビネットが通路をつくり、ホグワーツ城の護りが貫かれる。
降り立ったのは薄暗い店だった。硝子箱には濡れたトランプの束が収められ、無人のカウンターには曲がった骨が並べられている。
私の靴が床板を軋ませた。その音を合図にして、店の品々はひとりでに動き出した。札が喉を裂こうと、骨が目を突こうとする。その勢いで棚から様々な商品が落ちた。
「アレスト・モメンタム」
私の呪文が動きを止めた。商品を元の位置へと戻していく。
その時、それは棚から飛び出した。茶色の小さな指が私の頬を掠める。
気には留めない。
無害なものだ。生き物のふりをした、動く菓子。
部屋を私が入る前の状態に戻した。
暖炉には灰だけが見える。しかし、なぜか頬の熱が消えない。
肌に慣れない、ひりひりとした感覚。
動く菓子は細長い手足を動かし、窓から外へ飛び出した。そこから夜風が吹き込む。
すぐに城へ戻ればいいのに、私は店の外へ出ていた。
冷えた風が肌に馴染む。
日が昇るまでしばらく時間がある。時の狭間で、ある一角だけが明かりを灯していた。
頬の痛みは、未だ消えない。
戸は半開きで、中が容易に伺い知れた。並んだ瓶のラベルを読み取る。全て魔法薬の名前だ。
薬品庫……いや、診療所か。
古い鏡には二つの影が映っていた。癒者が腰を曲げ、椅子に座る患者に屈む。包帯を解いていた。
癒者が深く被った頭巾からは弛んだ目元がのぞく。
患者は背の高い男だ。爛れた顔にも、そばに置かれた長柄の杖にも見覚えがあった。野営地で戦った刺客の一人、マルシベールの配下だった。
既に私は全身を不可視の外套で覆い、診療所の中へと体を滑り込ませていた。ローブの中で杖を握り込む。
「……闇の帝王がどっかに行って、戦争が終わってから商売上ったりでね。あんたは良い客だよ」
癒者の老婆の声はしゃがれている。
「この傷は治らないからな」
ヴントは言う。露出した脚は顔と同じく、ついさっき炙ったかのよう痛々しい。
「ああ、悪霊の火の傷は治せない。普通はそのまま死ぬ。延命はできるが……」
老婆は膏を塗りはじめた。
「耐えられる奴は少ない、そうだな」
彼は呟く。彼が受け入れていたのは白い膏薬ではなく、無数の小虫だった。傷口に湧く斑点を、蛆が蠢きながら貪っている。
虫に呪いを食わせる、原始の癒術。それで合点がいった。この癒者は鬼婆なのだ。
ヴントは蛆が自分の体に入り、肉や膿を跳ね飛ばすのを一顧だにしていなかった。鋭い目つきがあたりを伺う。私は杖を握ったまま動かない。
その目はやがて、羊皮紙が貼られた壁に向けられた。
本や新聞の切り抜きの中に、手配書があった。×印がついている。既に捕縛され、監獄へ行った死喰い人の名だ。
“ティベリウス・マルシベール”
「まだ戦争は終わってないと言う奴もいる」
鬼婆は低い声で笑った。
「そうかい。それで、いつ終わるんだい?」
「もうじきだ」
ヴントはそう言うと、手配書から視線を外した。
鬼婆は包帯を巻き始めた。
「閉じろ」
その言葉と共に傷口が塞がり、包帯が締まった。
「言っとくがね。呪いだろうが擦り傷だろうが全部一緒だ。血が止まることはあっても、消えることはない」
「だから、閉じるのか」
「そうさ。言霊だよ。あんたらが杖を持って呪文を唱え出す前から、言葉には魔法が宿ってた」
「……いつもすまないな」
──開くのは、これで最後だ。
言い残すと、ヴントは出入り口へ向かう。
私とすれ違い、やがて姿をくらました。
彼は前を見据えていた。
「次はあんたかい。泥棒かと思ったが」
私の頬を鬼婆は見る。その痛みは既に薄れていたが、彼女には何かが見えているようだった。
「何が見える」
私は問う。
「あんた、混ざりものだね。ヒトより私たちに近い」
──ああ。チョコレートは普通、ヒトを癒すものだろう?
8 水盤
聖夜が迫っていた。
その日、地下聖堂では沐浴が行われた。いつもの長椅子は取り払われている。その代わりに巨大な水盤が置かれていた。
レースの湯衣を羽織った少女たちが浸かっている。
端に腰かけた聖女は言う。
「貴女たちの中に、悪魔がいます」
動揺が広がる。
さざなみが立つ。
「怖がらないの」
エリシェヴァは笑う。彼女はその半身を惜しげもなく晒している。その体には一つの傷も痣もない。
「──罪は照らされ、そして洗われる」
彼女は水に浸かると、赤毛の少女に近付いた。白く長い指が、少女の腕に触れた。
少女はそれを払った。まるで魚に手を嚙まれたかのように、反射的に手を水から上げる。水面に波が立った。
「あら」
エリシェヴァは残念そうに言う。緋色の瞳が少女の手首をじっと見つめていた。
『レベリオ』
水盤の外、聖堂の端に控えていた私が、心中で唱える。
すると彼女の髪はみるみると濃くなり、やがて真っ黒になった。
背格好も、顔立ちも変わっている。怯えた表情だけが以前と同じだった。
マルシベールの間者だ。
変身を暴かれた彼女は後ずさりし、水盤から出ようとする。が、水と肌に張り付く衣が邪魔をした。足を捻ったのか、体勢を崩す。滑り、顔が水中に浸かろうとしたところを、周囲の少女たちが受け止めた。
水盤に波紋が次々と広がる。
「いい子ね」
エリシェヴァは微笑む。
今度こそ、聖女の手が触れた。左手首が皆に見えるよう持ち上げる。
「分かるかしら?」
問われ、少女たちは自らの左手首を見た。彼女たちは焼印を負っていた。
毎夜、その闇を贖うために刻んだ印。
「あなたも罪を清めなさい」
間者の少女の手首から、滴がぽたぽたと伝い、落ちる。
水紋は無数に重なり、揺れ動き、形を作る。
──それは誰の記憶だろうか。
雑踏には仮面の男が立っていた。杖をしならせる。
煙が立ち上った。人々が逃げ惑う。
炎が鎌首をもたげ、ある家族を狙った。少年の前で両親が灰になる。
少年が、そして少女たちが叫ぶと同時に、私は杖に触れた。
冷たい霧が立ち込めた。少女たちが間者を支える手が強張る。
そのまま私は杖身を握り込む。それに呼応して少女の体がぎりぎりと締まった。
エリシェヴァが手を叩いた。
間者の懐から何かが浮き上がる。小さな鏡の欠片だ。
そのヒビの向こうから男は語った。
「闇の帝王は、お前たちを許さない」
ユリウス・マルシベールは落ち着き払っていた。
エリシェヴァは水を出て、気怠げに濡れた髪を振っている。亡者の侍女が着替えを差し出す。
「ユリウス……」
間者の少女が喘ぎ、名を呼んだ。
「君の死は無駄にならない」
マルシベールの声色は依然として平坦だ。
「復活した帝王が、血を裏切るヤックスリーを、魔法省を、ホグワーツを倒す。君の家族も牢獄から解放され、あるべき場所へと戻る。だから安心してほしい。君の、僕たちの貴い血は、無駄に流されるものでは──」
「聞こえないわ」
エリシェヴァの声は冷たかった。その手は赤黒く濡れ、少女の顔にあるべき器官の一部が握られていた。
一瞬の沈黙の後、マルシベールは再び語る。
「たとえ耳で聞こえなくとも、僕の思いは彼女の心の中に届いている。繰り返された言葉こそ、人に力を与える」
「嗚呼、弱いと大変ね」
エリシェヴァは着衣を終えると、既に水盤に背を向けて歩き出していた。私は鏡を持ち上げ、彼女の後に続く。
突如高い音が響き、遅れて、マルシベールの笑い声だと気付く。
「君も同じだろう? 裏切り者の子供を集めて罪悪感を煽り、聖女気取りで言葉を与える。そうやって彼女たちを救いたいのか?そうやって、自分も父の罪から逃れられたいのか?」
黒い門扉の前に辿り着いた私たちに、もはやマルシベールの言葉は聞こえていなかった。
その向こうから響く声は、以前よりも大きく、そして穏やかだった。
エリシェヴァは私から鏡を叩き落とすと、ヒールで思い切り踏みつけた。
破片が舞う。
彼女は一顧だにしない。
9 雪原
古ぼけた蓄音機からは同じ曲しか流れない。
その何周目かが終わる頃、エリシェヴァが食事を終えようとしていた。
聖堂からそう遠くない私室。彼女は肉をナイフで整然と切り分けていた。目を瞑り、舌で転がし、噛み切って、喉に落とす。
最後に余った肉を、唇に触れる寸前まで近づけた。そして思い出したかのように、ナイフごとこちらへ投げた。
私の口から血が流れる。
「光栄に思いなさい。聖夜の贈り物よ」
そう言うと、私の頬に刺さったナイフを抜いた。肉切れが床に落ちた。
「ちょっと。床に落とすなんて失礼じゃなくって」
私は跪くと、自分の血で汚れた肉を拾う。
何も言わず、ただ肉を口へ放り込んだ。
「獣と同じね」
そうやってエリシェヴァは顔をしかめるが、目は笑っている。
「今更だろう」
「そうね。初めて会ったときから、貴方は這いつくばっているもの」
あの日も雪が降っていた。
生家から離れ、ヤックスリー家に迎えられてしばらくのこと。中庭の隅、大樹の陰に座る私は、彼女と出会った。
「貴方だれ?」
長いダークブロンドの髪と、大きな吊り目が私を見下ろした。
「……大変失礼なことを」
幼き少女には付き人もおらず、彼女がこの家の主の娘であることに今更になって気付いた。
彼女も何かに気付いた。
私が木陰で合わせていた両の掌。そこには深々と雪が降り積もっていた。その結晶は、肌に触れても融けずに残る。
「ああ、お父様が拾ってきた野良犬ね」
令嬢は遠慮なく私に近付くと、その手を掴んだ。
「噂は本当なのね。カンジラス家の鬼子には体温がないって」
そう言うと、いきなり彼女は雪を私へ放った。
突如視界が真っ白に染まる。そして見えたのは、鮮やかな赤だった。
足元に散った血の色。そして、彼女の瞳の色。
「大したことないじゃない」
呆気にとられた私を彼女は笑う。
そう言いながら彼女は地面に積もった雪を掴んでいた。服が土を擦るのも構わず雪を拾い、投げる。
「ほら」
戸惑いの中立ち尽くしている私に対して、彼女はため息をついた。
おもむろに手を伸ばすと、ひときわ長い枝が震え始める。やがて弓なりに曲がり、ぼきりという音を立てて地面に落ちた。
「貴方と同じね」
折れた木を指差しながら言った。
「棘をつけていても意味がない。物言わぬ木は立ち尽くし、枯れていくだけ」
「皆同じだ」
私の声は乾いていた。
「魔法も、血も、魂も。私たちが選んだものじゃない」
ヤックスリー家の娘は向き直った。
彼女は何も言わない。値踏みするかのように、じっと私を見据えている。彼女の紅い瞳に映る影は、微かに揺れていた。
そして彼女は手を差し出した。
私を枝と同じく潰そうとしているのだ。そう思った。
しかし何も起こらなかった。
小さな指先に、雪片が落ちた。
「──最も暗く、最も穢れた場所に蔓延る。凋落と絶望の中に栄え、平和や希望、幸福を辺りの空気から吸い取る。地上を歩く生物の中でももっとも忌まわしい生き物」
彼女が引用したものは、とある存在に対する叙述だった。
吸魂鬼。
私の中にあるもの。
「怖くないのか」
「全く」
彼女は告げた。
「だって貴方はただの、何も言えない子どもじゃない」
彼女が指を開くと、また一つ、雪玉が襲う。
私の手はそれを受け止めていた。
そして自分が何をしているのかも考えぬまま、投げ返した。
少女が瞬きをする間に、その体は平衡を失う。
倒れる。
そう思った刹那、彼女は私の首を引いた。
地面に仰向けに叩きつけられた私に、馬乗りになる。
そして私の首に手を当てると、低い声で囁いた。
「次はどうするの」
私が手を宙へ伸ばすと風が吹き、結晶が散った。それを彼女は集めると、雪玉にして落とす。
互いに何も喋らぬまま、それは続いた。
時計の針がどれほど回ったころだろうか。陽が落ちる頃、ようやく彼女は私を離した。
彼女は服の汚れを払うと、その手に視線を向けた。
霜で赤く腫れ、わずかに血で濡れている。
その傷跡から目が離せなかった。
私は肉で汚れた口を拭いながら立ち上がる。
「贈り物は交換するものだ」
「そうね。じゃあキア、貴方は何をくれるのかしら」
10 辺獄
聖夜が始まった。
壇上の歌が空気を震わせると、少女たちの体は重心を失った。足をふらつかせ、一人、また一人と膝をつく。行き場のない手が空を掴んだ。
信者たちはその身を水へと変じ、やがて地下聖堂を満たした。
次いで侍女たちが動いた。手を胸元に突っ込んでブラウスを裂くと、蝋化した肉体が露出した。そのまま大股で水に飛び込んだ。人の皮をかなぐり捨てたことに狂喜し、飛沫を上げながら泳ぐ。
白濁した眼が獲物を見つけた。
地下聖堂へと続く長廊下。そこに立つ複数の柱を背にして侵入者たちが潜んでいた。
闇を織り込んだ厚いローブを羽織り、繊細な細工が施された仮面を被っている。
エリシェヴァ・ヤックスリーは杖を頭上へ突き出し、緩やかに回す。
彼女の周囲に不可視の壁ができると、水流を押し流していく。亡者は顎を開きその流れに乗る。
侵入者の一人が唱えると、大きな布が空間に広がった。布の一方が亡者たちを縛り上げると、もう一方は敷石に落ちる。溜まっていた水を弾き、あたかも絨毯のように道をつくった。
彼もまた他の者と同じく、父祖の仮面を被っていた。
「始めよう」
ユリウス・マルシベールが言うと同時に、死喰い人たちが杖を上げた。
バルコニーにいた私は、単身でキャビネットへと踏み込む。
暗く長い通路は洞窟のようだった。松明が照らし出す壁画のように、その内側には朧げな情景が浮かぶ。
過ぎた歴史なのか、やがて来る未来なのか。自らの想像なのか、誰かの記憶なのか。 狭間にあって、全ての境は曖昧になる。
歩みを止めた。
向こう側から、火傷の男が来る。
彼は長柄の杖を振った。自らの手足を扱うのと同じ、しなやかな動き。
閃光が弧を描くと、私の盾の魔法を打ち据えた。
更にもう一撃を繰り出すと、盾が砕ける。
私は屈んで閃光を躱すと、脚を狙うようにして突風を放った。彼の足運びを崩す。
すかさず霧を呼び起こし、氷礫を放つ。
「その手は見た」
ヴントは唸ると、長柄の杖を投げ捨てた。
杖は氷を引き寄せながら視界の端へ落ちる。
彼は二本目の杖を取り出していた。短い。釘と同じくらいの長さだ。彼はその杖で自らの手の甲を削った。
私は杖先から水を出すが、彼は構わずに動いた。鮮血に濡れた杖を口元に近付け、息を吐く。
赫灼とした炎が噴き出ると、瞬く間に水を蒸発させた。煙が視界を覆う前に、私は杖を鋭く振った。
閃光がヴントの手元に落ち、彼の杖をはたき落とした。火は彼の足元に広がる。
ヴントは動じず、小さな杖をもう一本取り出すと、足元に向ける。そのまま口を近づけて吸い込み始めた。炎が彼の体へと戻っていく。
「なぜ扉を開きたい」
静かだが、はっきりとした問いかけだった。
彼の顔を見る。
焼けた額に、薄い眉。短く刈り込まれた髪。そんな厳めしい雰囲気に似合わず、顔立ち自体は若い。よく見れば私やエリシェヴァ、マルシベールとそう変わらなかった。
「……今更な質問だ」
私は杖を下に向けて揺らした。その先に再び閃光が帯びる。
「今更、か」
彼は私から目を放していないが、その眼差しはどこか遠い。
「また火を吐くなら、その前に殺す」
私の杖先は緑色に染まり始めていた。
「大した忠誠だ。お前はなぜあの女を守る」
「その言葉をそのまま返す。なぜマルシベールに従う」
すると彼は安心したような、あるいは疲れ果てたような表情で目を伏せた。
そして彼は杖を上げた。
私も同時に杖を上げていた。呪文が中空でぶつかり合い、閃光が繋がった。
「俺とマルシベールは何年もかけて古代の儀式を調べた。扉の開き方を。ああ、お前があの女とやっていたのと同じだ……」
ヴントの言葉が続く。
彼の熱が一際強まると、呪文の繋がりが乱れ、途切れた。
「ぺスティス・インセンディウム」
紅蓮が再び広がると、男はそこに息を吹き込んだ。見る見るうちに人の姿をとる。
背の高い、長い髪を編んだ男だ。炎が模る輪郭は茫洋としているが、厳めしい顔立ちと残忍な目つきは本人をそのまま引き写している。
よく知っている。
名門の当主にして、魔法省の高官にして、闇の帝王の側近。
今に至るまでその正体は暴かれず、裁かれていない。
ヴントの額の傷が広がっていた。血と汗が混じり、顔を伝っている。虚ろな目は大きく見開かれていた。
「……ある時期、コーバン・ヤックスリーは己の正体に近付くものを焼き尽くして回った。だが俺は生き残った」
彼の皮膚から蛆が這い出る様を見ながら、私は言う。
「その娘を殺せば、恨みは晴れるか」
「いや」
彼は掌に落ちた蠅の幼虫を指で潰した。
「勝者はいない」
悪霊が膨れ上がった。空気が砕け散るような放熱。男の眼窩に陰が落ちた。
──俺は扉を壊す。これ以上、誰の傷も開かせない。
意識が薄れていく。
あの日。
キア・カンジラスは吸魂鬼の巣で目覚めた。
絶望と恐怖が尽きるころ、魂は凍り付き、彼らと溶け合った。視界に霧がかかると、世界の色が薄れていく。
あの日。
ヤックスリー家に迎えられた少年は、緋色の眼の少女と出会った。
彼女は雪を手に取った。
頬に血が出ても声ひとつ上げない子どもを、彼女は笑った。
白一色の世界に、赤が滲んだ。
あの日。
二人は魔法の城で再会した。部屋を見つけた。そこには開かずの扉があった。
一緒に声を聞いた。
彼女は言った。とても苛々すると。
──私が勝てないものがあるのはおかしいでしょう?
彼だけではない。私たちは皆、戦争が残した傷跡だ。
11 戦場
水が引くと、屍の兵たちは女王の元へと戻った。
エリシェヴァは壇の上に腰を下ろすと、脚を組み替えた。亡者の一人がひび割れた仮面を差し出す。彼女が手を振ると、仮面が床に落ちた。
マルシベールはその素顔を晒していた。握った杖はひび割れている。
「もう終わりみたい」
エリシェヴァは振り返り、背後の門扉に囁く。
マルシベールは同志の名を呼ぶ。
「デシウス」
デシウスが自らの杖を差し出した。マルシベールがそれを振ると、緑の光が閃く。
が、エリシェヴァの方が速い。
彼女の閃光はデシウスの杖を真っ二つに裂いた。
「セシリー、アデライン」
マルシベールが呼びかけるまでもなく、同志たちは彼の前に出ていた。杖を振り、石壁を出現させる。
エリシェヴァは手を緩めない。光芒が幾重にも降り注くど、石を溶かした。
そうして彼の隣から一人、また一人と消えていく。
聖女は壇上からゆっくりと降りた。杖を細剣さながらに突き出すと、激流が起こった。飛沫が散る中、亡者たちが再び姿を現す。
「プロテゴ・ディアボリカ」
襲撃を、黒い炎が阻んだ。マルシベールを中心として、炎の輪が広がっている。
瞬きもしないうちに、屍たちは燃え落ちた。
火が消えると、そこには眼鏡の青年がただ一人立っていた。
同志たちは足元で灰と化していた。
「嗚呼、『悪魔の護り』はそういう魔法だったわね。お仲間じゃなかったの?」
「扉を開くのに血が必要なのは最初から分かりきっていたさ。お前こそ、飼い犬はどうした?」
彼女は答えない。
瞳を閉じ、そして唱えた。
呪文ではない。章句だ。
毎夜少女たちに語りかけたのと同じ唇が、清らかに言葉を紡ぐ。
「聖なる威力、比類なき智慧、第一の愛、我を造れり。永遠の物のほか、我よりさきに造られしはなし。しかしてわれ永遠に立つ。汝等ここに入るもの──」
「一切の望みを棄てよ」
キア・カンジラスが締め括った。
彼はバルコニーのキャビネットを抜けると、聖堂へ降り立った。
霧が走り、石畳は凍てついていく。
12 扉の前
私をキャビネットから吹き飛ばした爆炎は一瞬のものだった。
悪霊の炎が術者の限界を超えると、すぐに火勢は失われた。
私に遅れてバルコニーから落ちたヴントは、受け身も取れぬまま床に崩れる。
動かない。
その巨躯は焦げて、朽ちていた。時折思い出したかのように火が燻った。
マルシベールはヴントを一瞥すると、黒い炎を手繰った。
「自らの火に焼き尽くされたか。君らしい最後じゃないか。しかし、燃え移るのはいただけない」
黒炎の繭がヴントの体を覆うと、その姿を塗り潰した。
マルシベールは続けて杖を構える。
「……どいつもこいつも僕の邪魔ばかりする。本当に目障りだよ」
彼は眼鏡の奥から睨めつけていた。扉、エリシェヴァ、私の間を視線が動く。
ふと、その目線が落ちた。
私の足元に転がる、ひしゃげた仮面を見ていた。
瞬間、私とマルシベールが動いた。
何条もの閃光がぶつかり合う。杖を振るたびに空気が震えた。黒炎が髪を揺らし、氷柱が肌を撫でる。
攻防と共に私たちは近づいていった。
やがて致命の間合いに入る。互いに攻撃を躱しえない距離。
だが、割り込む者がいた。
火傷の男が、立ち上がっていた。
頭の上から爪の先まで炎と血を被りながら、彼は動いた。
背後からマルシベールの杖腕を掴む。
じんわりと肉が焼けていく。
遅れて杖の木皮がえぐれ、黒く萎びた。その先から薄煙が立つ。
芯が焼き切れた蝋燭のように。
マルシベールは振り向かずに言った。
「悪霊の火が悪魔の護りを破ったのか……。それともお前、まさか僕のことを信じていたのか?」
その声には驚きも、怒気もなかった。
ヴントは答えた。
「ああ、ずっと信じている。だから、終わらせる」
──閉じろ。
業火が噴き上がった。エリシェヴァと私ではなく、聖堂の奥に対して一直線に伸びる。
扉が壊される。
私は飛び出すと、杖で炎を受け止めた。腕、続けて全身に異様な拍動が走った。
「本当にいい子」
崩れ落ちた私を、ダークブロンドが見下ろす。
「鬼子の肌が役に立ったようね」
服が焦げ散って露わになった私の体は、熱を逃がすように冷え、白い気を放っている。
私の手元から杖が落ちるその時、誰かの吐息が漏れた。
そして聖堂の全ての灯りが消えた。
暗闇の中で彼女は唱えた。
「ルーモス」
再び光が戻ると、そこには私とエリシェヴァしかいない。
バルコニーから吹く風が、灰燼を巻き上げた。
扉は小刻みに震え、艶めいている。
13 向こう側
扉の奥に何があるのか。
聖堂を調べ、儀式の方法を探した数年間、彼女がそれを口にすることはなかった。
ただ確認していた。
扉があること、開き方があること、奥から声が聞こえること。
私たち二人が声を聞けること。
それで十分だった。
今更答えは変わらない。
そして、私はエリシェヴァ・ヤックスリーへと向き合う。
緋色の眼を、真っすぐに見つめる。
私を待っている。
──開け。
初めて会った日の赤が、蘇るように滴った。
彼女の白い指に伝い、落ちていく。
それは敷石の溝を通り、先へと進んでいった。
門扉の表面、黒い石の裂け目が広がった。
古傷と共に、扉は開いた。
まるで最初からそうであったかのように、扉はその口を開いている。
扉が紡ぐ声は変わらず穏やかで、柔らかく、懐かしい。気付けば目を閉じていた。
そして、声にある音が混じった。
衣擦れの音だ。
再び目を開けた時、目の前にベールが浮かんでいた。
それは宙に揺られ、やがて落ちていく。
聖女によく似合う、真っ白な美しい装束。
向こう側から差し出されたのは、救済でも破滅ではない。ただの一切れの布だった。
私の中で、何かが溢れた。
「……世界に傷つけられない人間はいない」
「……そうね」
エリシェヴァの声は穏やかで、柔らかかった。
「……世界から逃れることもできない」
「……そうね」
「でも、君は勝つ」
──それが私の贈り物だ。
開いた時と同じく、あっけなく扉は閉まった。
そして崩れた。
通り道は跡形もなく消え、石の枠だけがアーチとして残された。そこに布が落ち、掛かった。
「それでいいのね」
向こう側から微かに聞こえる声は、確かにそう言っていた。
冬が来るたびに私は思い出す。
積もり行く雪は痛みを覆い隠し、色すらも奪っていく。
それでも私は見つけられる。
世界に刻まれた、美しく鮮烈な赤を。
忘れることはない。
(了)