聖夜断章   作:ibn_Zorkaram

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【後篇】

7 ノクターン

 

 夜、私はキャビネットに向かい合っていた。

 戸棚が開き、果実が落ちた。それを持ち上げて目を凝らす。

 修繕は終わった。

 私は棚の中へと踏み込んだ。

 スコットランドの果てからイングランドの南東へ。キャビネットが通路をつくり、ホグワーツ城の護りが貫かれる。

 降り立ったのは薄暗い店だった。硝子箱には濡れたトランプの束が収められ、無人のカウンターには曲がった骨が並べられている。

 私の靴が床板を軋ませた。その音を合図にして、店の品々はひとりでに動き出した。札が喉を裂こうと、骨が目を突こうとする。その勢いで棚から様々な商品が落ちた。

 

 「アレスト・モメンタム」

 

 私の呪文が動きを止めた。商品を元の位置へと戻していく。

 その時、それは棚から飛び出した。茶色の小さな指が私の頬を掠める。

 気には留めない。

 無害なものだ。生き物のふりをした、動く菓子。

 部屋を私が入る前の状態に戻した。

 暖炉には灰だけが見える。しかし、なぜか頬の熱が消えない。

 肌に慣れない、ひりひりとした感覚。

 動く菓子は細長い手足を動かし、窓から外へ飛び出した。そこから夜風が吹き込む。

 すぐに城へ戻ればいいのに、私は店の外へ出ていた。

 冷えた風が肌に馴染む。

 日が昇るまでしばらく時間がある。時の狭間で、ある一角だけが明かりを灯していた。

 頬の痛みは、未だ消えない。

 戸は半開きで、中が容易に伺い知れた。並んだ瓶のラベルを読み取る。全て魔法薬の名前だ。

 薬品庫……いや、診療所か。

 古い鏡には二つの影が映っていた。癒者が腰を曲げ、椅子に座る患者に屈む。包帯を解いていた。

 癒者が深く被った頭巾からは弛んだ目元がのぞく。

 患者は背の高い男だ。爛れた顔にも、そばに置かれた長柄の杖にも見覚えがあった。野営地で戦った刺客の一人、マルシベールの配下だった。

 既に私は全身を不可視の外套で覆い、診療所の中へと体を滑り込ませていた。ローブの中で杖を握り込む。

 「……闇の帝王がどっかに行って、戦争が終わってから商売上ったりでね。あんたは良い客だよ」

 癒者の老婆の声はしゃがれている。

 「この傷は治らないからな」

 ヴントは言う。露出した脚は顔と同じく、ついさっき炙ったかのよう痛々しい。

 「ああ、悪霊の火の傷は治せない。普通はそのまま死ぬ。延命はできるが……」

 老婆は膏を塗りはじめた。

 「耐えられる奴は少ない、そうだな」

 彼は呟く。彼が受け入れていたのは白い膏薬ではなく、無数の小虫だった。傷口に湧く斑点を、蛆が蠢きながら貪っている。

 虫に呪いを食わせる、原始の癒術。それで合点がいった。この癒者は鬼婆なのだ。

 ヴントは蛆が自分の体に入り、肉や膿を跳ね飛ばすのを一顧だにしていなかった。鋭い目つきがあたりを伺う。私は杖を握ったまま動かない。

 その目はやがて、羊皮紙が貼られた壁に向けられた。

 本や新聞の切り抜きの中に、手配書があった。×印がついている。既に捕縛され、監獄へ行った死喰い人の名だ。

 

 “ティベリウス・マルシベール”

 

 「まだ戦争は終わってないと言う奴もいる」

 鬼婆は低い声で笑った。

 「そうかい。それで、いつ終わるんだい?」

 「もうじきだ」

 ヴントはそう言うと、手配書から視線を外した。

 鬼婆は包帯を巻き始めた。

 

 「閉じろ」

 

 その言葉と共に傷口が塞がり、包帯が締まった。

 「言っとくがね。呪いだろうが擦り傷だろうが全部一緒だ。血が止まることはあっても、消えることはない」

 「だから、閉じるのか」

 「そうさ。言霊だよ。あんたらが杖を持って呪文を唱え出す前から、言葉には魔法が宿ってた」

 「……いつもすまないな」

 ──開くのは、これで最後だ。

 言い残すと、ヴントは出入り口へ向かう。

 私とすれ違い、やがて姿をくらました。

 彼は前を見据えていた。

 「次はあんたかい。泥棒かと思ったが」

 私の頬を鬼婆は見る。その痛みは既に薄れていたが、彼女には何かが見えているようだった。

 「何が見える」

 私は問う。

 「あんた、混ざりものだね。ヒトより私たちに近い」

 ──ああ。チョコレートは普通、ヒトを癒すものだろう?

 

 

8 水盤

 

 聖夜が迫っていた。

 その日、地下聖堂では沐浴が行われた。いつもの長椅子は取り払われている。その代わりに巨大な水盤が置かれていた。

 レースの湯衣を羽織った少女たちが浸かっている。

 端に腰かけた聖女は言う。

 「貴女たちの中に、悪魔がいます」

 動揺が広がる。

 さざなみが立つ。

 「怖がらないの」

 エリシェヴァは笑う。彼女はその半身を惜しげもなく晒している。その体には一つの傷も痣もない。

 「──罪は照らされ、そして洗われる」

 彼女は水に浸かると、赤毛の少女に近付いた。白く長い指が、少女の腕に触れた。

 少女はそれを払った。まるで魚に手を嚙まれたかのように、反射的に手を水から上げる。水面に波が立った。

 「あら」

 エリシェヴァは残念そうに言う。緋色の瞳が少女の手首をじっと見つめていた。

 

 『レベリオ』

 

 水盤の外、聖堂の端に控えていた私が、心中で唱える。

 すると彼女の髪はみるみると濃くなり、やがて真っ黒になった。

 背格好も、顔立ちも変わっている。怯えた表情だけが以前と同じだった。

 マルシベールの間者だ。

 変身を暴かれた彼女は後ずさりし、水盤から出ようとする。が、水と肌に張り付く衣が邪魔をした。足を捻ったのか、体勢を崩す。滑り、顔が水中に浸かろうとしたところを、周囲の少女たちが受け止めた。

 水盤に波紋が次々と広がる。

 「いい子ね」

 エリシェヴァは微笑む。

 今度こそ、聖女の手が触れた。左手首が皆に見えるよう持ち上げる。

 「分かるかしら?」

 問われ、少女たちは自らの左手首を見た。彼女たちは焼印を負っていた。

 毎夜、その闇を贖うために刻んだ印。

 「あなたも罪を清めなさい」

 間者の少女の手首から、滴がぽたぽたと伝い、落ちる。

 水紋は無数に重なり、揺れ動き、形を作る。

 ──それは誰の記憶だろうか。

 雑踏には仮面の男が立っていた。杖をしならせる。

 煙が立ち上った。人々が逃げ惑う。

 炎が鎌首をもたげ、ある家族を狙った。少年の前で両親が灰になる。

 少年が、そして少女たちが叫ぶと同時に、私は杖に触れた。

 冷たい霧が立ち込めた。少女たちが間者を支える手が強張る。

 そのまま私は杖身を握り込む。それに呼応して少女の体がぎりぎりと締まった。

 エリシェヴァが手を叩いた。

 間者の懐から何かが浮き上がる。小さな鏡の欠片だ。

  そのヒビの向こうから男は語った。

 「闇の帝王は、お前たちを許さない」

 ユリウス・マルシベールは落ち着き払っていた。

 エリシェヴァは水を出て、気怠げに濡れた髪を振っている。亡者の侍女が着替えを差し出す。

 「ユリウス……」

 間者の少女が喘ぎ、名を呼んだ。

 「君の死は無駄にならない」

 マルシベールの声色は依然として平坦だ。

 「復活した帝王が、血を裏切るヤックスリーを、魔法省を、ホグワーツを倒す。君の家族も牢獄から解放され、あるべき場所へと戻る。だから安心してほしい。君の、僕たちの貴い血は、無駄に流されるものでは──」

 「聞こえないわ」

 エリシェヴァの声は冷たかった。その手は赤黒く濡れ、少女の顔にあるべき器官の一部が握られていた。

一瞬の沈黙の後、マルシベールは再び語る。

 「たとえ耳で聞こえなくとも、僕の思いは彼女の心の中に届いている。繰り返された言葉こそ、人に力を与える」

 「嗚呼、弱いと大変ね」

 エリシェヴァは着衣を終えると、既に水盤に背を向けて歩き出していた。私は鏡を持ち上げ、彼女の後に続く。

 突如高い音が響き、遅れて、マルシベールの笑い声だと気付く。

 「君も同じだろう? 裏切り者の子供を集めて罪悪感を煽り、聖女気取りで言葉を与える。そうやって彼女たちを救いたいのか?そうやって、自分も父の罪から逃れられたいのか?」

 黒い門扉の前に辿り着いた私たちに、もはやマルシベールの言葉は聞こえていなかった。

 その向こうから響く声は、以前よりも大きく、そして穏やかだった。

 エリシェヴァは私から鏡を叩き落とすと、ヒールで思い切り踏みつけた。

 破片が舞う。

 彼女は一顧だにしない。

 

 

9 雪原

 

 古ぼけた蓄音機からは同じ曲しか流れない。

 その何周目かが終わる頃、エリシェヴァが食事を終えようとしていた。

 聖堂からそう遠くない私室。彼女は肉をナイフで整然と切り分けていた。目を瞑り、舌で転がし、噛み切って、喉に落とす。

 最後に余った肉を、唇に触れる寸前まで近づけた。そして思い出したかのように、ナイフごとこちらへ投げた。

 私の口から血が流れる。

 「光栄に思いなさい。聖夜の贈り物よ」

そう言うと、私の頬に刺さったナイフを抜いた。肉切れが床に落ちた。

 「ちょっと。床に落とすなんて失礼じゃなくって」

 私は跪くと、自分の血で汚れた肉を拾う。

 何も言わず、ただ肉を口へ放り込んだ。

 「獣と同じね」 

 そうやってエリシェヴァは顔をしかめるが、目は笑っている。

 「今更だろう」

 「そうね。初めて会ったときから、貴方は這いつくばっているもの」

 

 あの日も雪が降っていた。

 生家から離れ、ヤックスリー家に迎えられてしばらくのこと。中庭の隅、大樹の陰に座る私は、彼女と出会った。

 「貴方だれ?」

 長いダークブロンドの髪と、大きな吊り目が私を見下ろした。

 「……大変失礼なことを」

 幼き少女には付き人もおらず、彼女がこの家の主の娘であることに今更になって気付いた。

 彼女も何かに気付いた。

 私が木陰で合わせていた両の掌。そこには深々と雪が降り積もっていた。その結晶は、肌に触れても融けずに残る。

 「ああ、お父様が拾ってきた野良犬ね」

 令嬢は遠慮なく私に近付くと、その手を掴んだ。

 「噂は本当なのね。カンジラス家の鬼子には体温がないって」

 そう言うと、いきなり彼女は雪を私へ放った。

 突如視界が真っ白に染まる。そして見えたのは、鮮やかな赤だった。

 足元に散った血の色。そして、彼女の瞳の色。

 「大したことないじゃない」

 呆気にとられた私を彼女は笑う。

 そう言いながら彼女は地面に積もった雪を掴んでいた。服が土を擦るのも構わず雪を拾い、投げる。

 「ほら」

 戸惑いの中立ち尽くしている私に対して、彼女はため息をついた。

 おもむろに手を伸ばすと、ひときわ長い枝が震え始める。やがて弓なりに曲がり、ぼきりという音を立てて地面に落ちた。

 「貴方と同じね」

 折れた木を指差しながら言った。

 「棘をつけていても意味がない。物言わぬ木は立ち尽くし、枯れていくだけ」

 「皆同じだ」

 私の声は乾いていた。

 「魔法も、血も、魂も。私たちが選んだものじゃない」

 ヤックスリー家の娘は向き直った。

 彼女は何も言わない。値踏みするかのように、じっと私を見据えている。彼女の紅い瞳に映る影は、微かに揺れていた。

 そして彼女は手を差し出した。

 私を枝と同じく潰そうとしているのだ。そう思った。

 しかし何も起こらなかった。

 小さな指先に、雪片が落ちた。

 「──最も暗く、最も穢れた場所に蔓延る。凋落と絶望の中に栄え、平和や希望、幸福を辺りの空気から吸い取る。地上を歩く生物の中でももっとも忌まわしい生き物」

 彼女が引用したものは、とある存在に対する叙述だった。

 吸魂鬼。

 私の中にあるもの。

 「怖くないのか」

 「全く」

 彼女は告げた。

 「だって貴方はただの、何も言えない子どもじゃない」

 彼女が指を開くと、また一つ、雪玉が襲う。

 私の手はそれを受け止めていた。

 そして自分が何をしているのかも考えぬまま、投げ返した。

 少女が瞬きをする間に、その体は平衡を失う。

 倒れる。

 そう思った刹那、彼女は私の首を引いた。

 地面に仰向けに叩きつけられた私に、馬乗りになる。

 そして私の首に手を当てると、低い声で囁いた。

 「次はどうするの」

 私が手を宙へ伸ばすと風が吹き、結晶が散った。それを彼女は集めると、雪玉にして落とす。

 互いに何も喋らぬまま、それは続いた。

 時計の針がどれほど回ったころだろうか。陽が落ちる頃、ようやく彼女は私を離した。

 彼女は服の汚れを払うと、その手に視線を向けた。

 霜で赤く腫れ、わずかに血で濡れている。

 その傷跡から目が離せなかった。

 

 私は肉で汚れた口を拭いながら立ち上がる。

 「贈り物は交換するものだ」

 「そうね。じゃあキア、貴方は何をくれるのかしら」

 

 

10  辺獄

 

 聖夜が始まった。

 壇上の歌が空気を震わせると、少女たちの体は重心を失った。足をふらつかせ、一人、また一人と膝をつく。行き場のない手が空を掴んだ。

 信者たちはその身を水へと変じ、やがて地下聖堂を満たした。

 次いで侍女たちが動いた。手を胸元に突っ込んでブラウスを裂くと、蝋化した肉体が露出した。そのまま大股で水に飛び込んだ。人の皮をかなぐり捨てたことに狂喜し、飛沫を上げながら泳ぐ。

 白濁した眼が獲物を見つけた。

 地下聖堂へと続く長廊下。そこに立つ複数の柱を背にして侵入者たちが潜んでいた。

 闇を織り込んだ厚いローブを羽織り、繊細な細工が施された仮面を被っている。

 エリシェヴァ・ヤックスリーは杖を頭上へ突き出し、緩やかに回す。

 彼女の周囲に不可視の壁ができると、水流を押し流していく。亡者は顎を開きその流れに乗る。

 侵入者の一人が唱えると、大きな布が空間に広がった。布の一方が亡者たちを縛り上げると、もう一方は敷石に落ちる。溜まっていた水を弾き、あたかも絨毯のように道をつくった。

 彼もまた他の者と同じく、父祖の仮面を被っていた。

 「始めよう」

 ユリウス・マルシベールが言うと同時に、死喰い人たちが杖を上げた。

 

 バルコニーにいた私は、単身でキャビネットへと踏み込む。

 暗く長い通路は洞窟のようだった。松明が照らし出す壁画のように、その内側には朧げな情景が浮かぶ。

 過ぎた歴史なのか、やがて来る未来なのか。自らの想像なのか、誰かの記憶なのか。 狭間にあって、全ての境は曖昧になる。

 歩みを止めた。

 向こう側から、火傷の男が来る。

 彼は長柄の杖を振った。自らの手足を扱うのと同じ、しなやかな動き。

 閃光が弧を描くと、私の盾の魔法を打ち据えた。

 更にもう一撃を繰り出すと、盾が砕ける。

 私は屈んで閃光を躱すと、脚を狙うようにして突風を放った。彼の足運びを崩す。

 すかさず霧を呼び起こし、氷礫を放つ。

 「その手は見た」

 ヴントは唸ると、長柄の杖を投げ捨てた。

 杖は氷を引き寄せながら視界の端へ落ちる。

 彼は二本目の杖を取り出していた。短い。釘と同じくらいの長さだ。彼はその杖で自らの手の甲を削った。

 私は杖先から水を出すが、彼は構わずに動いた。鮮血に濡れた杖を口元に近付け、息を吐く。

 赫灼とした炎が噴き出ると、瞬く間に水を蒸発させた。煙が視界を覆う前に、私は杖を鋭く振った。

 閃光がヴントの手元に落ち、彼の杖をはたき落とした。火は彼の足元に広がる。

 ヴントは動じず、小さな杖をもう一本取り出すと、足元に向ける。そのまま口を近づけて吸い込み始めた。炎が彼の体へと戻っていく。

 「なぜ扉を開きたい」

 静かだが、はっきりとした問いかけだった。

 彼の顔を見る。

 焼けた額に、薄い眉。短く刈り込まれた髪。そんな厳めしい雰囲気に似合わず、顔立ち自体は若い。よく見れば私やエリシェヴァ、マルシベールとそう変わらなかった。

 「……今更な質問だ」

 私は杖を下に向けて揺らした。その先に再び閃光が帯びる。

 「今更、か」

 彼は私から目を放していないが、その眼差しはどこか遠い。

 「また火を吐くなら、その前に殺す」

 私の杖先は緑色に染まり始めていた。

 「大した忠誠だ。お前はなぜあの女を守る」

 「その言葉をそのまま返す。なぜマルシベールに従う」

 すると彼は安心したような、あるいは疲れ果てたような表情で目を伏せた。

 そして彼は杖を上げた。

 私も同時に杖を上げていた。呪文が中空でぶつかり合い、閃光が繋がった。

 「俺とマルシベールは何年もかけて古代の儀式を調べた。扉の開き方を。ああ、お前があの女とやっていたのと同じだ……」

 ヴントの言葉が続く。

 彼の熱が一際強まると、呪文の繋がりが乱れ、途切れた。

 

 「ぺスティス・インセンディウム」

 

 紅蓮が再び広がると、男はそこに息を吹き込んだ。見る見るうちに人の姿をとる。

 背の高い、長い髪を編んだ男だ。炎が模る輪郭は茫洋としているが、厳めしい顔立ちと残忍な目つきは本人をそのまま引き写している。

 よく知っている。

 名門の当主にして、魔法省の高官にして、闇の帝王の側近。

 今に至るまでその正体は暴かれず、裁かれていない。

 ヴントの額の傷が広がっていた。血と汗が混じり、顔を伝っている。虚ろな目は大きく見開かれていた。

 「……ある時期、コーバン・ヤックスリーは己の正体に近付くものを焼き尽くして回った。だが俺は生き残った」

 彼の皮膚から蛆が這い出る様を見ながら、私は言う。

 「その娘を殺せば、恨みは晴れるか」

 「いや」

 彼は掌に落ちた蠅の幼虫を指で潰した。

 「勝者はいない」

 悪霊が膨れ上がった。空気が砕け散るような放熱。男の眼窩に陰が落ちた。

 ──俺は扉を壊す。これ以上、誰の傷も開かせない。

 

 意識が薄れていく。

 

 あの日。

 キア・カンジラスは吸魂鬼の巣で目覚めた。

 絶望と恐怖が尽きるころ、魂は凍り付き、彼らと溶け合った。視界に霧がかかると、世界の色が薄れていく。

 

 あの日。

 ヤックスリー家に迎えられた少年は、緋色の眼の少女と出会った。

 彼女は雪を手に取った。

 頬に血が出ても声ひとつ上げない子どもを、彼女は笑った。

 白一色の世界に、赤が滲んだ。

 

 あの日。

 二人は魔法の城で再会した。部屋を見つけた。そこには開かずの扉があった。

 一緒に声を聞いた。

 彼女は言った。とても苛々すると。

 ──私が勝てないものがあるのはおかしいでしょう?

 

 傷口(ヴント)

 彼だけではない。私たちは皆、戦争が残した傷跡だ。

  

 11 戦場

 

 水が引くと、屍の兵たちは女王の元へと戻った。

 エリシェヴァは壇の上に腰を下ろすと、脚を組み替えた。亡者の一人がひび割れた仮面を差し出す。彼女が手を振ると、仮面が床に落ちた。

 マルシベールはその素顔を晒していた。握った杖はひび割れている。

 「もう終わりみたい」

 エリシェヴァは振り返り、背後の門扉に囁く。

 マルシベールは同志の名を呼ぶ。

 「デシウス」

 デシウスが自らの杖を差し出した。マルシベールがそれを振ると、緑の光が閃く。

 が、エリシェヴァの方が速い。

 彼女の閃光はデシウスの杖を真っ二つに裂いた。

 「セシリー、アデライン」

 マルシベールが呼びかけるまでもなく、同志たちは彼の前に出ていた。杖を振り、石壁を出現させる。

 エリシェヴァは手を緩めない。光芒が幾重にも降り注くど、石を溶かした。

 そうして彼の隣から一人、また一人と消えていく。

 聖女は壇上からゆっくりと降りた。杖を細剣さながらに突き出すと、激流が起こった。飛沫が散る中、亡者たちが再び姿を現す。

 

 「プロテゴ・ディアボリカ」

 

 襲撃を、黒い炎が阻んだ。マルシベールを中心として、炎の輪が広がっている。

 瞬きもしないうちに、屍たちは燃え落ちた。

 火が消えると、そこには眼鏡の青年がただ一人立っていた。

 同志たちは足元で灰と化していた。

 「嗚呼、『悪魔の護り』はそういう魔法だったわね。お仲間じゃなかったの?」

 「扉を開くのに血が必要なのは最初から分かりきっていたさ。お前こそ、飼い犬はどうした?」

 彼女は答えない。

 瞳を閉じ、そして唱えた。

 呪文ではない。章句だ。

 毎夜少女たちに語りかけたのと同じ唇が、清らかに言葉を紡ぐ。

 「聖なる威力、比類なき智慧、第一の愛、我を造れり。永遠の物のほか、我よりさきに造られしはなし。しかしてわれ永遠に立つ。汝等ここに入るもの──」

 

 「一切の望みを棄てよ」

 

 キア・カンジラスが締め括った。

 彼はバルコニーのキャビネットを抜けると、聖堂へ降り立った。

 霧が走り、石畳は凍てついていく。

 

 

 12 扉の前

 

 私をキャビネットから吹き飛ばした爆炎は一瞬のものだった。

 悪霊の炎が術者の限界を超えると、すぐに火勢は失われた。

 私に遅れてバルコニーから落ちたヴントは、受け身も取れぬまま床に崩れる。

 動かない。

 その巨躯は焦げて、朽ちていた。時折思い出したかのように火が燻った。

 マルシベールはヴントを一瞥すると、黒い炎を手繰った。

 「自らの火に焼き尽くされたか。君らしい最後じゃないか。しかし、燃え移るのはいただけない」

 黒炎の繭がヴントの体を覆うと、その姿を塗り潰した。

 マルシベールは続けて杖を構える。

 「……どいつもこいつも僕の邪魔ばかりする。本当に目障りだよ」

 彼は眼鏡の奥から睨めつけていた。扉、エリシェヴァ、私の間を視線が動く。

 ふと、その目線が落ちた。

 私の足元に転がる、ひしゃげた仮面を見ていた。

 瞬間、私とマルシベールが動いた。

 何条もの閃光がぶつかり合う。杖を振るたびに空気が震えた。黒炎が髪を揺らし、氷柱が肌を撫でる。

 攻防と共に私たちは近づいていった。

 やがて致命の間合いに入る。互いに攻撃を躱しえない距離。

 だが、割り込む者がいた。

 火傷の男が、立ち上がっていた。

 頭の上から爪の先まで炎と血を被りながら、彼は動いた。

 背後からマルシベールの杖腕を掴む。

 じんわりと肉が焼けていく。

 遅れて杖の木皮がえぐれ、黒く萎びた。その先から薄煙が立つ。

 芯が焼き切れた蝋燭のように。

 マルシベールは振り向かずに言った。

 「悪霊の火が悪魔の護りを破ったのか……。それともお前、まさか僕のことを信じていたのか?」

 その声には驚きも、怒気もなかった。

 ヴントは答えた。

 「ああ、ずっと信じている。だから、終わらせる」

 

 ──閉じろ。

 

 業火が噴き上がった。エリシェヴァと私ではなく、聖堂の奥に対して一直線に伸びる。

 扉が壊される。

 私は飛び出すと、杖で炎を受け止めた。腕、続けて全身に異様な拍動が走った。

 「本当にいい子」

 崩れ落ちた私を、ダークブロンドが見下ろす。

 「鬼子の肌が役に立ったようね」

 服が焦げ散って露わになった私の体は、熱を逃がすように冷え、白い気を放っている。

 私の手元から杖が落ちるその時、誰かの吐息が漏れた。

 そして聖堂の全ての灯りが消えた。

 暗闇の中で彼女は唱えた。

 「ルーモス」

 再び光が戻ると、そこには私とエリシェヴァしかいない。

 バルコニーから吹く風が、灰燼を巻き上げた。

 扉は小刻みに震え、艶めいている。

 分娩(ヘヴレー)が始まる。

 

 

 13 向こう側

 

 扉の奥に何があるのか。

 聖堂を調べ、儀式の方法を探した数年間、彼女がそれを口にすることはなかった。

 ただ確認していた。

 扉があること、開き方があること、奥から声が聞こえること。

 私たち二人が声を聞けること。

 それで十分だった。

 今更答えは変わらない。

 そして、私はエリシェヴァ・ヤックスリーへと向き合う。 

 緋色の眼を、真っすぐに見つめる。

 私を待っている。

 

 ──開け。

 

 初めて会った日の赤が、蘇るように滴った。

 彼女の白い指に伝い、落ちていく。

 それは敷石の溝を通り、先へと進んでいった。

 門扉の表面、黒い石の裂け目が広がった。

 古傷と共に、扉は開いた。

 まるで最初からそうであったかのように、扉はその口を開いている。

 扉が紡ぐ声は変わらず穏やかで、柔らかく、懐かしい。気付けば目を閉じていた。

 そして、声にある音が混じった。

 衣擦れの音だ。

 再び目を開けた時、目の前にベールが浮かんでいた。

 それは宙に揺られ、やがて落ちていく。

 聖女によく似合う、真っ白な美しい装束。

 向こう側から差し出されたのは、救済でも破滅ではない。ただの一切れの布だった。

 私の中で、何かが溢れた。

 「……世界に傷つけられない人間はいない」

 「……そうね」

 エリシェヴァの声は穏やかで、柔らかかった。

 「……世界から逃れることもできない」

 「……そうね」

 「でも、君は勝つ」

 ──それが私の贈り物だ。

 開いた時と同じく、あっけなく扉は閉まった。

 そして崩れた。

 通り道は跡形もなく消え、石の枠だけがアーチとして残された。そこに布が落ち、掛かった。

 

 「それでいいのね」

 

 向こう側から微かに聞こえる声は、確かにそう言っていた。

 

 冬が来るたびに私は思い出す。

 積もり行く雪は痛みを覆い隠し、色すらも奪っていく。

 それでも私は見つけられる。

 世界に刻まれた、美しく鮮烈な赤を。

 

 忘れることはない。

 

 

(了)

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