西区、旧・刀鍛冶街。かつては名だたる職人が軒を連ねたこの場所も、今では錆びたトタンと放置されたスクラップが積み上がる、都市の死体のような路地と化していた。算出した座標まであと数百メートル。ケリーが影の伸びる路地を横切ろうとしたその時、仮面の内側に設置された聴覚デバイスが、境対の緊急事態速報を無機質に読み上げた。
『緊急入電。西区三番街にて武装呪詛強盗団による店舗襲撃が発生。現在、犯行グループは旧・鍛冶街方面へ逃走中。近隣の祓魔師は直ちに確保、または排除に当たれ――』
同時に、ケリーの網膜上に逃走経路の予測図が展開される。彼女は歩みを止めることなく、不快そうに鼻先を動かした。
「……最悪。安物のガソリンを飲まされたみたいな味。鼻の奥が痺れるわ」
彼女の鋭敏な知覚が、後方から接近する複数の濁った電気を捉える。直後、路地の角から、血と煤に汚れた男たちが飛び出してきた。奪った金品を抱え、剥き出しの殺意を撒き散らす五人の影。彼らが手にする粗悪な違法祭具から漏れ出すノイズが、鍛冶街の静寂を暴力的にかき乱していた。
「おい、どけ! 死にてえのかガキ――」
先頭を走る男が、血脂の浮いた鉈を振り上げる。ケリーは振り返ることもせず、心底から疎ましそうに溜息を吐いた。
「ノイズね。……消えなさい。不味い電気を撒き散らすのは、それだけで罪よ」
ケリーはハースニールを抜かなかった。ただ、背後の気配に対し、鞘に収めたままの剣の先を、石畳の隙間に突き立てる。
「……あ?」
男の足が、ケリーの領域に踏み込んだ瞬間。彼女の神経信号がリミッターを外れて爆発的に加速した。加速した世界において、強盗団の動きは粘つく泥の中に沈んだかのように停滞する。彼らが振り上げた凶器の角度、荒い呼吸、飛び散る汗のひと粒までが、ケリーの演算回路によって処理すべきログへと変換された。
一歩。ケリーが影を滑るように男たちの中心へ入り込む。それと同時に、彼女の全身から放出された高圧の電磁フィールドが、狭い路地裏の空間を再定義した。
「まずは、運動神経の同期を解除……はい、切断」
ケリーが虚空で指を弾くと、強盗たちの脚が、まるで操り糸を切られたマリオネットのように崩れた。膝が不自然な方向に折れ曲がり、悲鳴を上げる間もなく地面に叩きつけられる。
「次は……感覚神経の閾値を、最大に。痛みは、鮮やかな方がいいでしょ?」
ケリーの瞳に、紫電の混じった黒い悦楽が宿る。彼女はハースニールを抜くことさえしない。自らの呪詛出力による暴力で、男たちの肉体を内側から蹂躙していく。一人の男が、震える手で懐の祭具を起動させようとした。だが、その腕は自分の意志を裏切り、自身の喉を全力で掴み、絞め上げ始めた。
「あ、が……っ、ご……っ!」
「あはっ、面白い。自分の手で首を絞めるなんて、どんな気分? 心臓がバクバク言ってるわよ。……回路が真っ赤。オーバーヒートしちゃうわね」
ケリーは楽しげに、その様子を観察する。彼女にとって、彼らの命の灯火が消えかける様子は、美しいグラフがゼロに収束していくような、極上の鑑賞だった。五人のうち四人が、すでに物言わぬ肉の塊へと変わり果て、あるいは自分自身の筋肉の暴走によって絶命していく。残された最後の一人――リーダー格の男は、腰を抜かしながら這いずり、夜の闇へと逃げ出そうとした。
「……あ。待ちなさいよ。まだ最適化のテストが終わってないのに」
ケリーが面倒そうにため息をつき、逃げる背中に向けて指先を向けた。だが、その時。ケリーの仮想視界に、強烈な金属の不協和音が飛び込んできた。
「――来た」
彼女の関心は、一瞬で這いずる男から消え去る。街中のセンサーが、一箇所に収束していく異常な殺気を捉えていた。
「三津寺刃。……ようやく、主役の登場ね」
逃げ出した男の先、工廠の奥にある暗がりから、抜刀の音が響く。それはケリーが今まで聞いてきたどんな剣の音よりも、不純で、歪んだ飢えを孕んだ音であった。
強盗団の最後の一人が、這いずりながら暗がりの奥へと逃げ込んでいた。ケリーによって神経系をかき乱され、下半身を麻痺させた男が、絶望に顔を歪めて闇の先を見上げる。そこには、ケリーとは別の、しかし同様に濃密な死が立ち尽くしていた。
「……黒不浄、一振。鑑定完了。だが――傷がついているな。8点。折る価値もない」
低く、悦楽を噛み殺したような声。闇の中から現れた三津寺刃の姿は、ケリーの予想に反して、不気味なほど洗練されていた。
彼は、光沢を抑えた漆黒の戦闘狩衣を纏っていた。それは最新の防弾・防呪繊維で編み上げられた現代的な機能美を放ち、関節部には補助動力を備えた強化外骨格が露出している。だが、そのスマートな装いとは裏腹に、彼が背負う大剣《万軍の鞘》だけは、呪詛に塗れた無数の折剣の破片を強引に溶接し、肥大化させた鋼の怪物のようであった。
三津寺が無造作にその大剣を振り下ろす。肉を断つ重い音と共に、強盗犯の命が絶たれた。断面からは命の灯火が零れる間もなく、その残滓さえもが三津寺の剣へと吸い込まれていく。三津寺は返り血も拭わず、ゆっくりと視線を上げた。その先には、路地の入り口で銀紫色の髪をなびかせ、肌から蒸気を立ち昇らせている仮面の少女、ケリーがいた。
ケリーは、一言も発さない。仮面の奥、紫電を湛えた瞳だけが、三津寺という存在を冷徹にスキャンしている。彼女の舌を刺すのは、三津寺の放つ歪な殺意。誰かに認められたいという子供じみた自己愛と、名剣への異常な執着が混じり合った、ヘドロのような電気の味。彼女は、ただ静かに、蔑むように首を僅かに傾けた。その所作一つが、三津寺という男の全人生を無価値と断じているかのようだった。
「……なんだ、その目は。僕を、鑑定しているつもりか?」
三津寺の濁った瞳に、狂信的な光が宿る。彼はケリーが携える一振りの長剣《ハースニール》を凝視した。
「……なんだ、その剣は。これほどまでの密度の呪詛の波動、これほどまで怖気を感じるその力……ああ、素晴らしい。それは、僕に折られるために生まれてきた剣だ」
三津寺の執着に満ちた言葉が投げかけられても、ケリーは応じない。ただ、仮面の奥に宿る紫電の瞳が、侮蔑の色を深めるだけだ。彼女はゆっくりと、左足を半歩後ろへ引いた。重心をわずかに落とし、右手を柄へと添える。その一連の動作には、剣士としての敬意も、対話の余地も存在しない。あるのはただ、不快なノイズを排除しようとする、機械的な殺意のみであった。
しゅぅ、とケリーの首元の装甲の隙間から、白い蒸気が激しく噴き出した。昂ぶる感情を抑え込むように、あるいは戦いに向けた出力上昇の余波として。
三津寺が身構える。ケリーは無言のまま、磁界のハミングを周囲の空気に響かせた。彼女の指先が柄を握り込むかすかな革の軋みだけが、静寂を破る唯一の合図となった。
三津寺が地を蹴った。漆黒の戦闘狩衣に備わった強化外骨格が、路地の石畳を粉砕するほどの瞬発力を生み出す。
「さあ、見せてくれ! 君のその剣が、どんな悲鳴を上げて折れるのかを!」
咆哮と共に、《万軍の鞘》から抜き放たれた略奪刀が頭上から振り下ろされる。それは最新の工学と、歪んだ呪詛が融合した、文字通りの必殺の一撃。
ケリーは応えない。加速した世界の中で、彼女は三津寺の筋肉が発する微弱な電位信号を捉え、その軌道を完全に先読みしていた。彼女は流れるような動作でハースニールを抜き放ち、最小限の動きで大剣の腹を叩く。
キンッ!
火花が散る。本来、華奢なケリーが大剣を受け止めれば、その腕ごと粉砕されるはずであった。しかし、ハースニールの刀身は、接触の瞬間に高周波の電磁振動を発生させ、大剣の衝撃を物理法則に反して無慈悲に弾き飛ばした。弾かれるはずのケリーの剣は微動だにせず、逆に三津寺の腕に、神経を直接焼くような猛烈な高電圧が駆け抜けたのだ。
「……っ!? 硬い……いや、弾かれたのか?」
「驚いた? ……無理もないわね。この《ハースニール》は、貴方が今まで折ってきた、そこらの中途半端な名剣とは訳が違うもの」
三津寺の目に激しい蒐集欲が灯る。 彼にとって、ケリーの言葉は真実として響いた。この圧倒的な手応え、自分の剣をボロボロにする破壊力。それは彼が今まで追い求めてきた“黒不浄狩りの死火”の領域に匹敵する、伝説級の魔剣の輝きに見えたのだ。
「『ハースニール』……。聞いたこともない名だが、その輝き、その力……間違いない、それこそが俺のコレクションの頂点にふさわしい!」
「あはっ、いい顔。……でも、貴方のそのボロボロの玩具じゃ、この子に触れることすら許されないわよ」
三津寺の驚愕を余所に、ケリーは無機質な動作で一歩踏み込む。仮面の下でクスクスと、毒を孕んだ笑い声を漏らした。彼女が手首を返すと同時に、ハースニールの電磁結合が瞬間的に弛緩した。
「なっ……!?」
三津寺は反射的に身を引くが、間に合わない。延伸した刃が彼の頬を浅く切り裂いた。傷口からは血ではなく、微弱な紫電が火花となって散る。ハースニールの表面を構成する微細なパーツが超高速で回転し、彼の細胞を微塵に削り取っていた。超反射で略奪刀でハースニールの更なる追撃に対し受け流しを試みる、
再び重なり合う刃。だが、ハースニールは三津寺の剣を斬るのではなく、その結合部を電磁誘導で直接加熱し、脆く変質させていく。
「……くっ、何という呪詛出力だ! 俺の剣が、刃合わせをする度に死んでいく……!」
ケリーは追撃の手を緩めない。剣を振るうというより、磁界の糸で獲物を絡め取るような、剣術の常識から逸脱した異形の連撃。一呼吸の乱れもない。ただ、首元のリミッターから立ち昇る白い蒸気だけが、彼女が内側に秘めた苛烈な演算の熱量を物語っていた。
「当然よ。この剣は、貴方みたいな『偽物』を拒絶するように造られているんだから。……折れるものなら、折ってみなさい」
ケリーの挑発。 それは、三津寺を剣士としての真っ向勝負に引きずり込み、このハースニールという鎖の集合体を、「折るべき対象である一本の剣」だと思い込ませるための、甘い毒だった。
三津寺の手元で、略奪刀が耐えかねて真っ赤に焼けていく。 彼はもはや、ケリーが「魔女」であることなど忘れていた。彼の前にはただ、自分が人生をかけて折らねばならない史上最高の名剣が立ちはだかっている――その幻想に、完全に支配されていた。
三津寺は、もはや鉄屑と化した愛刀を投げ捨て、狂おしいほどの情熱をケリーへと向けた。 指先を走る痺れ、脳を焼くような高電圧。その全てが彼にとって、史上最高の名剣に出会えたという証明に思えていた。だが、再戦のために彼が《万軍の鞘》に新たな略奪刀を求めて手をかけた。同時に、ケリーは静かに剣を構え直した――仮面の奥の瞳が、いっそう冷たく、鋭く輝く。それはこの“遊び”を終わらせ、対象を完全に制圧するフェイズに移行する合図でもある。彼女が《グレイプニル》の拘束を解き、全方位からの圧殺に移行しようとしたその時。二人の間に、電子的なノイズの混じった声が響いた。
『――18点。いや、現時点では
三津寺の耳元で、ノイズの混じった、酷く不快な電子音声が響いた。
「……ッ、
『そう。僕だよ……残念だけど今日の狩りは此処までだ。君がその“名剣”の輝きに目を焼かれている間に、境界対策課の増援部隊が半径五百メートルを完全に包囲した。……上坂光という狂人の影が見えるよ。今の君じゃ、自分の力で彼らの『班』を相手に逃げ切る確率は、ゼロだ』
三津寺の背筋に、冷たい氷が滑り落ちた。 そうだ。目の前の魔女の個としての力に圧倒され、忘れていた。境界対策課とは、本来こうした強力な異常個体を組織力で圧殺する集団だ。魔女一人でこれならば、彼女をバックアップする部隊が到着すれば、自分はコレクションごと廃棄される。
「……チッ。最悪だ」
三津寺はケリーを睨み据えた。 今すぐにでもその剣を折って奪いたい。だが、彼の蒐集哲学は「生き残って、自分の棚に飾る」ことだ。ここで死んでは意味がない。
「ハースニール、と言ったか……認めよう、その剣は俺の想定を遥かに超えていた」
三津寺はゆっくりと後退し、赤い鞘を強く握りしめた。
「だが、今日のところは預けておいてやる……対策課の猟犬どもが群れてくる前に、俺は退散させてもらうよ。次に会う時は、君のそのプライドごと、その名剣を粉々にしてやるからな」
『賢明な判断だね、ジン。……ケリー君、君にも挨拶をしておこうか。君のその“剣”、僕の観測データには存在しない、とても面白い祭具だね……次に会う時までに、もっと面白い『音』を聞かせてくれることを期待しているよ』
空間が不自然に歪み、三津寺の足元に黒い幾何学模様の陣が浮かび上がる。 C.C.S.が提供する転移術式。
ケリーは無言のままハースニールを振るい、延伸する刃で転移の渦を貫こうとする。だが、一瞬早く、三津寺の姿は空間ごと掻き消えた。
「…………」
静まり返った路地裏で、ケリーはゆっくりとハースニールを鞘に収めた。全身を襲う、激しい熱。排熱が追いつかず、仮面の隙間から白い蒸気が激しく噴き出し、彼女の輪郭を曖昧にぼかしていく。
三津寺を仕留めきれなかったという事実。そして、予想はしていたものの正体不明の観客に横槍を入れられた不快感。彼女は一度だけ、三津寺の消えた空間を忌々しげに睨みつけると、音もなく闇の中へと消えていった。