若竹型駆逐艦淡竹沈没事件(わかたけがたくちくかん あわたけ ちんぼつじけん)は、1940年(昭和15年)2月7日、第二次世界大戦中の北大西洋において、日本海軍の若竹型駆逐艦が連合国側輸送船団の護衛任務中にドイツ海軍のUボートによる雷撃を受け沈没した事件である。本事件は、輸送船団を守るため意図的に魚雷を受けた可能性が指摘されており、日本海軍の行動がアメリカ世論に大きな影響を与えたとされる。
背景
1939年11月1日、日本はイギリス寄りの中立を破棄し、連合国側であるが第三者としてナチス・ドイツと交戦状態に入った。これにより、北大西洋における通商破壊戦への対処として、日本海軍はイギリス海軍と協調し、護送船団方式の強化に参加した。
当時、ドイツ海軍のUボート部隊は日本海軍の参戦により成果を上げられず、一部の部隊が民間船舶を含む無差別攻撃に踏み切っていたとされる。
護衛任務
本事件で沈没した若竹型駆逐艦淡竹は、就役から年数を経た老朽艦であり、機関不調を抱えることが多かった。そのため、本艦は高速機動によるゾーンディフェンスではなく、輸送船と同速で航行する「エスコートディフェンス」を担当していた。
1940年2月7日、淡竹は駆逐艦2隻および水上機母艦1隻からなる護衛部隊の一員として、イギリス政府の疎開計画に基づき、民間人をカナダへ輸送する船団の護衛任務に就いていた。この船団は、中立国経由でドイツに民間人が移動する船であることが事前に通達されていた。
交戦と沈没
航行中、淡竹は機関不調により速度が低下した直後、水上機によってUボートが発見された。護衛の水上機は爆雷攻撃を実施し、最終的に当該Uボートを撃沈したとされるが、その直前に発射された魚雷が淡竹に接近した。
証言によれば、淡竹は回避行動を取る代わりに、魚雷に対して艦腹を向けるような姿勢を取り、同時に注水によって喫水を深くしたとされる。この行動については、輸送船団への被害を最小化するための意図的な判断であった可能性が指摘されている。
「総員甲板」の命令が出される中、艦橋では艦長と航海長が冷静に会話を交わしていたとされる。
「アセニア号は防げなかったが、シティ・オブ・ベナレス号は防げそうだな」
「老朽艦の最後の武勲としては十分すぎますね」
その直後、魚雷が命中し、淡竹は沈没した。戦死者は乗組員の約2割に及んだが、輸送船団は全船無事に航行を継続した。
影響
本事件の3週間後、輸送船アルフレッド・マーザ号がUボートの無差別攻撃を受け、アメリカ人を含む女性・子供を中心とした100名規模の民間人犠牲者が発生した。この事件はアメリカ国内で大きく報道され、参戦を支持する世論が決定的となった。
一方、淡竹の沈没については、老朽艦が輸送船団を守るために自ら盾となった行為として連合国内で高く評価された。
評価と論争
戦後、一部の研究者や回想録において、艦長および航海長が魚雷接近時にも極めて平静であったことから、「艦の沈没は艦長にとって誤算だったのではないか」という説が提起された。
ブリッジに居合わせた乗員の証言によれば、
「二人とも魚雷が目の前にいるのにまったく平然としていて、私に『とっとと甲板に行け』と命令したほどでした」
とされる。
特に艦長が言及した「シティ・オブ・ベナレス号」は実在の客船であり、戦後の1955年に嵐による浸水で廃船となるまで、大きな事故や故障はなかった。このため、「彼らは何を“防いだ”のか」という点については、現在も議論が続いている。