仮想戦記   作:Shigy20250620

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道しるべ

 雨上がりの大連。

 日本とロシア帝国の交渉が大荒れにあれつつある、1906年の春。

 石炭の煙と潮風が混ざる港湾都市の空気が、窓の隙間から会議室へ入り込んでいた。

 円卓ではなく、長机を並べた実務的な会議室。

 壁には遼東半島の地図、鉄道計画図、埠頭の設計図。

 国際貿易都市化計画実行委員会の定例会議。

 そこにいる誰もが、この都市が「次の時代の港」になる可能性を感じていた。

 だが、どう作るべきかは、誰も決めきれていなかった。

 日本政府から派遣されている逓信・商務系の官僚が、分厚い書類束を机に置いた。

「本日は、皆様にひとつ、参考資料をお持ちしました」

 ざらり、と紙の擦れる音。

 英国人投資家が眼鏡を上げる。

「また鉄道予算の追加案ですかな?」

 軽い笑い。

 官僚は首を横に振った。

「いえ。これは外部の方が作られた資料です。しかし……デキが良い。十分に議論の土台になると判断し、共有いたします」

 その場にいた秘書たちが資料を配る。

 表紙には簡潔に、こうあった。

『遼東半島南部交易都市化に関する基礎提案』

 オランダ人銀行家がページをめくる。

 ギリシャ人海運会社重役は、最初の港湾図を見ただけで眉を上げた。

「……ふむ」

 発起人である日本人実業家は、紙を受け取った瞬間に微かに目を細めた。

 その書き方。

 段落。

 要点整理。

 リスク項目。

 収益予測の置き方。

 かつて嫌というほど見た提案書の形式だった。

(……いるな)

 思わず口元が緩む。

 隣の英国人、ロイド保険の中堅幹部であるサー・アーサー・ウェリントンが、数ページ読んでから言った。

「これは非常にいい」

 全員の視線が向く。

「港湾機能だけではない。火災、疫病、物流停滞、凍結、暴動、封鎖……リスクマネジメントが最初から織り込まれている」

 サー・アーサーは保険屋らしい冷静さでページを叩く。

「普通、この種の計画は“夢”だけを書く。これは違う」

 アメリカ人実業家が低く唸る。

「ヒトとモノだけじゃない」

 彼は通信網の項目を指差した。

「情報の移動まで考えてるぞ。電信局、新聞社、相場通信、外国語翻訳員の育成……港湾都市を“市場”として見てやがる」

 ギリシャ人重役が笑う。

「港を作るんじゃない。“流れ”を作るつもりだ」

 若いころにいくつも海を渡り歩き、船を降りてなお第一線にいる歴戦の勇士が、不敵な笑いを浮かべていた。

「実に海運屋好みだ」

 オランダ人銀行家は数字のページを見つめていた。

「……為替決済の滞留まで考慮している。これを書いた人物は、銀行業務を知っているのか?」

 日本政府の官僚が静かに答えた。

「おそらく、体系的には学んでおりません」

 一呼吸の間。

 それが彼に視線を集めた。

「しかし、理解している」

 その言い方に、皆が顔を上げた。

「この提案書は、素案として十分に価値があります」

 官僚は少し間を置く。

「そして、これの利点は他にもあります」

 空気が変わる。

「誰が書いたのか、です」

 ぱたり、と紙を閉じる音。

 官僚は視線を巡らせ、淡々と言った。

「乃木保典氏による提案です」

 数秒、沈黙。

 最初に反応したのはアメリカ人だった。

「……軍人が?」

 オランダ人銀行家も困惑を隠せない。

「いや、待て。乃木……あの乃木将軍の?」

「ご子息です」

 ギリシャ人重役が吹き出した。

「日本の軍人は港湾収支まで勉強するのか?」

 英国人投資家は資料を見直し、ぽつりと呟く。

「いや……軍人の文章じゃない」

 その時だった。

 会議の端で黙っていた発起人の実業家が、静かに笑った。

 嬉しそうに。

 どこか懐かしそうに。

「なるほど」

 彼は資料を閉じる。

「理解者がいたか」

 誰かが見る。

 だが彼はそれ以上説明しなかった。

「これはいいものだ」

 ただ、ゆっくりと言った。

「大いに参考にさせてもらおう」

 その言葉に、会議室の空気が決まった。

 この瞬間。

 大連は単なる占領地の港ではなく、”世界を繋ぐ交易都市”として動き始めた。

 

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