夕暮れの兵站幕舎は、湿った紙と墨の匂いがしていた。
主計大尉・村瀬は、届けられた書類を無言で読み返し、眉間を指で押さえた。
「……ぬか漬け野菜、味噌漬け肉、味噌漬け魚の定期支給を試験的に実施、か」
向かいに座る大隊長の桐野少佐が煙草をくわえたまま笑う。
「乃木閣下らしいな。理由は?」
村瀬は書類をめくる。
「“兵の食欲増進及び福利厚生向上のため”だそうです」
「絶対それだけじゃないな」
二人同時にため息をついた。
沈黙。
外では炊事班が鍋をかき回す音がしている。
桐野が煙を吐きながら言う。
「で、お前はどう読む」
村瀬はしばらく考え、書類の端を指で叩いた。
「まず保存性。輸送中に腐りにくい」
「うむ」
「それと塩分。夏場の行軍で兵が倒れにくくなる」
「……続けろ」
「発酵食品です。腹を壊しにくくなる可能性がある」
桐野の目が細くなる。
「可能性、か」
「ええ。乃木閣下はこういう時、“医学的に証明された”とは絶対に書かない。だが実際には何か見てる」
「いつもの奴だな」
「はい」
村瀬は苦笑した。
乃木保典という男は、妙な提案をする。
しかも後から「なぜ今までやっていなかった」と言われる類の提案ばかりだ。
靴下の予備支給。
水筒の改良。
携帯食の乾燥化。
細縄の増配。
全部、最初は変人扱いだった。
だが、今では小隊長の少尉でありながら『閣下』とあだ名されるほど、良い意味で注目されている。
桐野が机を指で叩く。
「兵站への負担は?」
「むしろ減るかもしれません」
「ほう?」
「漬物なら保存が利く。味噌漬けも同様です。塩と樽があれば現地加工も可能でしょう」
「現地加工……」
桐野がニヤリとする。
「つまり輸送重量を減らせる」
「おそらくは」
「福利厚生向上、ねえ」
二人とも笑った。
そんな綺麗事だけで乃木が書類を回すはずがない。
村瀬は声を落とした。
「閣下は“兵が飢える”ことを異常に嫌いますから」
「知ってる」
「空腹は士気を削る。病気も増える。行軍速度も落ちる。つまり戦力低下だ、と」
桐野は煙草を灰皿へ押し付ける。
「で、お前はどうする」
村瀬は書類を閉じた。
「通します」
「理由は?」
村瀬は少しだけ笑う。
「何か裏がある、と判断しました」
桐野が吹き出した。
「お前も大概だな」
「今まで、あの人の“裏”で損した試しがありませんので」
桐野は立ち上がると軍帽を取った。
「よし。大隊として協力する。炊事班にも伝えておけ」
「はっ」
幕舎を出かけた桐野が、ふと思い出したように振り返る。
「そういや以前、“乾いた靴下を増やせ”と言ってきた時も、お前、“何か裏がある”って言ってたな」
村瀬は真顔で答えた。
「結果的に冬季演習の凍傷が半減しました」
「彼が軍人やってるのは運がいいのか悪いのか。……怖いな、乃木少尉」
「ええ」
村瀬は静かにうなずく。
「たぶん、我々より先に答えを知っている人です」