極東の夜は、すべてを急速に冷やしていく。
だが、夜の帳がどれほど冷気を運んでこようとも、野戦司令部の大きな天幕に満ちる、肌を刺すような熱気と焦燥を消し去ることはできなかった。
卓の上に広げられた巨大な満洲の地図。その上には、赤いインクで描かれた幾筋もの曲線──ロシア満洲軍の退却路──が引かれている。
ランプの油煙が揺れる中、総司令官アレクセイ・クロパトキン大将は、両手を机につき、穴が開くほどその地図を睨みつけていた。
その額からは、夜の冷気とは裏腹に、ねっとりとした汗が滲み出ている。
「……計算が合わん」
クロパトキンは絞り出すような声で呟き、短く刈り込んだ髭を荒々しくしごいた。
「どう考えても、計算が合わんのだ、ウラジーミル。奴らは人間ではない。機関車か何かの間違いではないのか」
傍らに立つ参謀、ウラジーミル大佐は、主将のその言葉に反論することができなかった。
彼の手に握られた最新の前線報告書はすでに何度も読み返されたせいで端が酷く皺寄っている。
「第一大隊からの伝令です、閣下」
ウラジーミルは、あえて感情を排した声で事実だけを告げた。
「我が軍が退却を開始してから、すでに丸三日間、夜を徹して行軍を続けております。泥濘を考慮すれば、追撃する日本軍との距離は、少なくとも十五ベルスタ(約十六キロ)は開くはずでした」
じろり、とクロパトキンが目だけを動かしてウラジミールを見る。
表情ひとつ変えず、先を続けるウラジミール。
「しかし、先遣隊の報告によれば、敵の距離は五ベルスタにまで縮まっています」
「五ベルスタだと!?」
クロパトキンが弾かれたように顔を上げた。その目は血走っている。
「我が軍の兵でさえ、過労と酷暑と腹下しで落伍者が続出しているのだぞ!」
クロパトキンはこぶしを握りしめて叫ぶように言葉を吐き出す。
「 なぜ追う側の日本軍の速度が落ちない!? 奴らはこの泥の海を泳いでいるとでもいうのか!」
「分かりません」
ウラジーミルは首を振った。
「捕虜の証言によれば、追撃してきているのは乃木希典の第三軍に属する、桐野とかいう少佐が率いる大隊だそうです」
「大隊だと?」
「通常の一個大隊があれほどの機動力を発揮できるはずがありません。我が方の戦闘分析班は、これは偽装された『一個師団規模の別働隊』、それも乃木が隠し持っていた特別な精鋭であると結論づけました」
「乃木希典の精鋭師団、か」
クロパトキンは地図の上の『第三軍』と書かれた青い印を指先でなぞった。その指がかすかに震えている。
今までならクロパトキンであれば、ここでさらに広大な満洲の奥地へと敵を引き込み、補給線を干上がらせる「戦略的後退」を選択したであろう。
「ウラジーミル、我が軍をさらに後退させ、奉天の手前の防衛陣地へ誘い込むという、当初の作戦は……可能だと思うか?」
クロパトキンの問いは、どこか縋るような響きを帯びていた。
だが、ウラジーミル参謀は冷酷な現実が書かれた報告書を見つめたまま、重く首を横に振った。
「おやめください、閣下。あの速度の化け物どもを相手に、これ以上の野戦での退却は不可能です。背中を見せた瞬間、陣地へ誘い込む前に、我が軍の兵站線を横から食い破られ、後ろから生きたまま食われるでしょう。奴らには『疲労』という概念が存在しないのです」
天幕のなかに、沈痛な沈黙が落ちた。
パチパチと音を立てて燃えるランプの光が、二人の顔に深い影を落とす。
しばらくの沈黙の後、クロパトキンは重々しく口を開いた。
「お前も、そう思うか」
クロパトキンはまるで何十歳も老け込んだかのように、深く、重い溜め息を吐き出した。
彼は決断していた。
野戦で乃木希典の怪物師団と競争をしては確実に全滅する。
広大なロシアの国土という武器すら、あの疲れも恐れも知らぬ連中の前には無意味だ。
「ならば、選択肢は一つしか残されていない」
クロパトキンは震える手で、地図の最南端、海の突き出た半島の一点を指差した。
そこには、ロシア帝国が莫大な巨費と最新の土木工学、そして無数の巨砲を注ぎ込んで築き上げた、地球上で最も堅固なコンクリートの要塞が描かれていた。
「旅順だ」
クロパトキンは声を潜めて言った。
「全軍の進路を変更する。これより我が満洲軍は、ステッセルの守備隊が待つ旅順要塞へと合流する」
ウラジーミル大佐が目を見張った。
「要塞への籠城ですか!? しかし閣下、それでは満洲の野戦における主導権を完全に手放すことになります!」
「野戦など、あの悪魔どもとまともにやれるか」
クロパトキンはしずかに卓に手を置いた。
「奴らがどれほど強靭な肉体を持っていようとも、コンクリートの壁を素手で叩き割ることはできん。旅順の無数の巨砲と、何重にも張り巡らされた機関銃陣地」
ぐっと手を握るクロパトキン。
「あのアリ地獄に、あの傲慢な乃木の精鋭どもを誘い込み、文字通り磨り潰してやるのだ。要塞の強固な守りの中でなら、我が軍も体制を立て直せる」
それが、要塞の限られた備蓄食糧を自らの大軍で一瞬にして食いつぶし、自滅のカウントダウンを早める「最悪の手」であることに、この時のクロパトキンは気づく由もなかった。
彼の頭の中は、背後から常識外れの速度で迫りくる「見えない精鋭師団」の恐怖で完全に支配されていたのだ。
「すぐに旅順のステッセル中将に電信を打て。我ら主力軍は、これより要塞へ合流すると」
「御意」
ウラジーミル大佐が敬礼し、天幕の闇へと消えていく。
一人残されたクロパトキンは、再び地図に目を落とし、胸元で小さく十字を切った。
彼は部下の前では自信ありげにふるまっていたが、勝利を確信してはいなかった。