堀北鈴音は二度目の高校生活を諦めない 作:ほりきたすずね
三月。
高度育成高等学校の体育館には、厳かな空気が漂っていた。
整然と並べられたパイプ椅子、壇上に飾られた紅白の幕、そして数百人の生徒たちが纏う制服の赤。卒業式という名の儀式が、粛々と進行していく。
堀北鈴音は、その光景をどこか他人事のように眺めていた。
視線の先には壇上がある。答辞を読み上げているのは、Aクラス代表――綾小路清隆。
彼の声が、マイクを通じて体育館に響き渡る。抑揚のない、けれどもどこか人を惹きつける不思議な声。
三年間、何度も聞いたはずのその声が、今はひどく遠い。
『――私たちは、この高度育成高等学校で多くのことを学びました』
綾小路の言葉は、模範的で、当たり障りがなくて、彼らしくなかった。
いや、違う。
彼らしい、のかもしれない。
結局のところ、堀北は三年間かけても、綾小路清隆という人間を理解できなかった。
ふと、隣の席に目を向ける。
空席。
本来なら、そこには綾小路がいたはずだった。入学式の日からずっと、気づけば隣にいた男。Dクラスの問題児たちを上手く利用し、数々の特別試験を乗り越え、共にAクラスを目指した――はずの、仲間。
けれど今、その席には誰もいない。
三年生になって間もなく、綾小路は突然クラスを移動した。退学した坂柳有栖の穴を埋める形で、初期Aクラスへ。
理由は明かされなかった。
堀北にも、何も。
『――本日、私たちは新たな一歩を踏み出します』
壇上の綾小路は、相変わらず無表情だった。
あの日もそうだった、と堀北は思い出す。
クラス移動が発表された朝、教室で綾小路と目が合った。何か言おうとして、けれど何も言えなかった。
綾小路もまた、何も言わなかった。ただ一度だけ、小さく頷いて――そして、教室を去った。
それが、最後だった。
その後も学校で顔を合わせることはあった。けれど、言葉を交わすことはほとんどなくなった。まるで、最初から他人だったかのように。
式典の間、堀北の脳裏には三年間の記憶が断片的に蘇っていた。
一年生の頃。
入学早々、クラスポイントが0になった絶望。須藤が暴力事件を起こし、退学の危機に追い込まれた緊張。無人島試験で自分の無力さを痛感した屈辱。ペーパーシャッフルで櫛田の本性を垣間見た衝撃。
あの頃の自分は、何も分かっていなかった。
綾小路が裏で動いていたことにも気づかず、クラスメイトを見下し、兄の背中ばかりを追いかけていた。
孤立することを誇りだと勘違いして、助けを求めることを恥だと思い込んでいた。
二年生になって、少しずつ変わり始めた。
体育祭でクラスが一丸となった時の高揚感。文化祭で仲間と何かを創り上げる喜び。修学旅行で見た、いつもと違うクラスメイトたちの顔。
綾小路との距離も、縮まったと思っていた。
放課後に図書室で勉強を教えてもらったり、特別試験の作戦を二人で練ったり。言葉は少なくても、隣にいることが当たり前になっていた。
信頼、と呼べるものが芽生え始めていた――少なくとも、堀北はそう思っていた。
だから、三年生になって綾小路がいなくなった時、堀北は何も理解できなかった。
裏切られた、とは思わなかった。綾小路がそんな単純な人間ではないことくらい、分かっていたから。
ただ、置いていかれた、と思った。
理由も告げられず、説明もなく、ただ静かに去られた。
それが、何よりも堪えた。
三年生の一年間は、戦いの日々だった。
綾小路という最大の戦力を失ったDクラスは、一時的に大きく後退した。龍園のCクラスには容赦なく攻め込まれ、坂柳と葛城がいないAクラスも新たなリーダーの下で結束を強めていた。
それでも、堀北は諦めなかった。
平田の統率力を頼り、軽井沢の情報網を活用し、須藤の成長した力を前面に押し出した。櫛田との確執は解消できなかったけれど、それでもクラスは前に進んだ。
Dクラスは、Bクラスまで上り詰めた。
けれど、Aクラスには届かなかった。
最後の特別試験で、わずかな差で逆転を許した。堀北たちのクラスは、二位で終わった。
――二位。
兄・堀北学は、Aクラスを卒業した。完璧な成績で、完璧な結果を残して。
自分は、それに届かなかった。
『――ありがとうございました』
綾小路の答辞が終わり、拍手が響く。
堀北は、機械的に手を叩いた。
気づけば式典は終わっていた。生徒たちがざわめきながら席を立ち、体育館の出口へと向かっていく。
「堀北さん」
声をかけられて振り返ると、平田が立っていた。いつもの穏やかな笑顔。
「卒業、おめでとう」
「……ええ。あなたもね、平田くん」
「三年間、ありがとう。君のおかげで僕たちはここまで来れた」
「けれどAクラスには届かなかったわ」
「それでも僕たちは変われた。それは君が導いてくれたからだよ」
平田の言葉に、堀北は何と答えればいいか分からなかった。
ただ小さく頷いて、その場を離れた。
体育館を出ると、三月の冷たい風が頬を撫でた。
空は曇っている。今にも雨が降り出しそうな、重たい灰色。
堀北は、人の流れに逆らうように校門へと向かった。
本当ならクラスメイトたちと写真を撮ったり、連絡先を交換したりするべきなのだろう。けれど今の堀北には、そんな気力がなかった。
校門の前で、立ち止まる。
振り返ると、三年間を過ごした校舎が見えた。
白い壁、大きな窓、整備された中庭。何度も見た光景。けれど、もう二度と日常として見ることはない光景。
「……終わった」
呟いた声は、風に溶けて消えた。
三年間。
長いようで、あっという間だった。
入学した時は、ただ兄に認められたかった。兄と同じAクラスを卒業して、「お前も優秀な人間だ」と言ってほしかった。
けれど、いつの間にかそれだけではなくなっていた。
クラスメイトたちと過ごすうちに、彼らのことを――仲間だと思うようになった。
須藤の不器用な優しさ。平田の揺るぎない誠実さ。軽井沢の意外な強さ。佐倉の静かな勇気。
そして、綾小路清隆という、理解できない男。
理解したかった。
彼が何を考えているのか、何を求めているのか、何から逃げているのか。
けれど、結局――
「私は……何も変えられなかった」
声が震えた。
兄の背中を超えることも。
綾小路を理解することも。
クラスをAクラスに導くことも。
何一つ、成し遂げられなかった。
目頭が熱くなる。
堀北鈴音は、人前で泣かない。それが、自分に課したルールだった。弱さを見せることは、敗北を認めることだと思っていた。
けれど今、誰も見ていないこの場所で――涙が、頬を伝った。
一粒。
また一粒。
止まらなかった。
三年分の悔しさが、後悔が、寂しさが、涙となって溢れ出していく。
「……っ」
嗚咽を堪えようとして、けれど堪えきれなかった。
その瞬間――
世界が、白く染まった。
眩しい。
目を開けようとして、けれど光が強すぎて開けられない。
何が起きているのか分からない。ただ、体が浮いているような、落ちていくような、奇妙な感覚だけがあった。
そして――
目が覚めた。
最初に見えたのは、見慣れた天井だった。
白い壁紙。小さな照明。窓から差し込む朝日。
「……?」
堀北は、ゆっくりと体を起こした。
ベッドの感触が、懐かしい。
周囲を見回す。本棚、机、クローゼット。見覚えのある家具。見覚えのある配置。
ここは――実家の、自分の部屋だ。
「なぜ……」
混乱する頭で、状況を整理しようとする。
卒業式が終わって、校門にいたはずだ。涙を流して、それから――光に包まれて――
夢?
いや、あまりにも鮮明すぎる。三年間の記憶が、今も頭の中にはっきりと残っている。
枕元に目を向けると、スマートフォンが置いてあった。
手を伸ばして、画面を確認する。
日付は――
四月。
三年前の、四月。
入学式の、朝。
「……嘘」
思わず声が出た。
もう一度、日付を確認する。間違いない。三年前だ。自分が高度育成高等学校に入学した、あの日の朝。
自分の手を見る。
小さい。
華奢で、まだ何の苦労も知らないような、十五歳の手。
鏡を見る。
そこには、三年前の自分がいた。髪は今より長くて、目は今より少し鋭くて、表情は今より少し硬い。
「夢……よね」
声に出して、確認する。
けれど、頬をつねると痛かった。
夢じゃない。
「じゃあ、これは――」
堀北は、ベッドの上で膝を抱えた。
三年間の記憶は、確かにある。
須藤の暴力事件も、無人島試験も、船上試験も。体育祭も、文化祭も、修学旅行も。綾小路がクラスを去ったことも、最後の特別試験で負けたことも、卒業式で泣いたことも。
全部、覚えている。
けれど、体は三年前に戻っている。
これは――やり直し、なのか。
信じられない。信じたくない。こんな非現実的なことが、起こるはずがない。
けれど、現実として――堀北鈴音は、三年前の朝に戻っていた。
しばらく、動けなかった。
混乱と、困惑と、そして――小さな、けれど確かな何かが、胸の奥で芽生え始めていた。
やり直し。
もし本当にそうなら――
今度こそ、変えられるかもしれない。
クラスをAクラスに導くことも。
兄の背中を超えることも。
そして――綾小路清隆を、理解することも。
「……っ」
堀北は、拳を握りしめた。
分からないことだらけだ。なぜ戻ったのか、どうすればいいのか、本当にやり直せるのか。
けれど、一つだけ確かなことがある。
前回は、失敗した。
後悔だけを残して、終わった。
なら――今度は、違う結果を掴み取る。
堀北は、ベッドから立ち上がった。
窓の外には、春の朝日が差し込んでいる。
今日は、入学式。
全てが、もう一度始まる日。
「今度こそ――」
堀北は、静かに呟いた。
「――諦めない」
その決意を胸に、彼女は新しい一日を――いや、新しい三年間を、歩み始めた。