堀北鈴音は二度目の高校生活を諦めない 作:ほりきたすずね
七月第一週。
期末試験まで、あとニ週間。
放課後のDクラス教室は、いつもより静かだった。
試験が近づいているせいか、クラスメイトたちの顔には緊張の色が浮かんでいる。五月のポイント激減を経験した彼らは、成績の重要性を理解し始めていた。
堀北は、自分の席で荷物をまとめていた。
今日も勉強会がある。平田と協力して、クラス全体の成績を底上げする計画だ。
そんな時だった。
「堀北鈴音はいるか」
教室の入り口に、一人の上級生が立っていた。
生徒会の腕章をつけている。三年生だろう。見覚えのない顔だ。
クラスメイトたちの視線が、一斉に堀北に集まる。
「私ですが」
堀北は、立ち上がった。
「生徒会長がお呼びだ。生徒会室まで来てくれ」
教室が、ざわめいた。
生徒会長。
その名前は、一年生の間でも知れ渡っている。
堀北学。
この学校の頂点に立つ男。生徒会長として、絶対的な権力を持つ存在。
そして、堀北鈴音の兄。
「堀北さん、生徒会長に呼ばれたの?」
「マジかよ。生徒会長って、あの堀北学だろ?」
「堀北さんと生徒会長って、兄妹なんだよね……」
ひそひそと囁く声が、あちこちから聞こえてくる。
堀北は、それを無視した。
「……分かりました」
内心の動揺を押し殺して、堀北は答えた。
上級生の後について、教室を出る。
廊下を歩きながら、堀北は考えていた。
兄が自分を呼び出すのは、知っていたことだ。
けど、前回とは状況がだいぶ異なる。
もっと早く呼び出されると思っていたが、入学してから三カ月後にようやくきた。
なぜだろうか。
これもバタフライ効果の一部なのだろうか? 原因は、いまいち分からない。
いずれにしろ、今回、兄と対面するのはこれが初めてだ。
前回は、入学してすぐに呼び出され、きつい言葉を浴びせられた。
「お前には、上を目指す力も資格もない」と。
堀北は、その言葉に深く傷ついた。
悔しくて、情けなくて、必死に反論した。「私はAクラスに行ける」「兄さんを超えてみせる」と、虚勢を張った。
けれど、結局は何も変えられなかった。
三年間、兄の背中を追い続けた。兄に認められたくて、兄を超えたくて、必死に足掻いた。
でも、最後まで届かなかった。
卒業の日、堀北はBクラスとして校門を出た。兄が目指した高みには、一度も手が届かなかった。
今回は違う。
三年分の経験を経て、堀北は変わった。
もう、兄の言葉に振り回されない。
もう、兄の影に縛られない。
生徒会室の前に着いた。
上級生が、扉の前で立ち止まる。
「ここだ。中で会長が待っている」
「ありがとうございます」
堀北は、深呼吸をした。
心を落ち着ける。
そして、扉をノックする。
「入れ」
聞き慣れた声が、中から響いた。
冷たく、威厳のある声。
堀北は、扉を開けた。
生徒会室は、広く整然としていた。
大きな窓から、夕日が差し込んでいる。室内が、赤く染まっている。
本棚には、書類や資料がきちんと並んでいる。机の上も、整理整頓されている。
そして、窓際に一人の男が立っていた。
堀北学。
長身で、端正な顔立ち。黒い髪。冷徹な瞳。
完璧という言葉が、似合う男だった。
三年間、堀北が追いかけ続けた背中。
そして、最後まで届かなかった存在。
「久しぶりだな、鈴音」
兄が、振り返った。
その目は、相変わらず冷たかった。
「……兄さん」
堀北は、兄の前に立った。
堀北学は、変わらない。
冷徹で、完璧で、近づきがたい存在。
兄が卒業する日には、二人は互いを認め合って、抱擁を交わすことになる。
前回はそうだった。
けれど、今の兄はまだ変わっていない。冷たく、厳しい兄のままだ。
「座れ」
兄が、ソファを指し示した。
堀北は、促されるままに座った。
兄は、向かいのソファに腰を下ろす。
しばらく、沈黙が続いた。
夕日が、窓から差し込んでいる。
兄は、じっと堀北を見つめている。観察するような、値踏みするような目。
「また、性懲りもなく俺を追ってきたようだな」
兄が、口を開いた。
「Dクラスに配属されたと聞いたが、そんな人間には上を目指す力も資格もない」
前回と同じ言葉。
同じ見下すような目。
前回の堀北なら、ここで反発した。「私はAクラスに行ける」「兄さんを超えてみせる」と、必死に反論した。
けれど、今回は違う。
「そうかもしれません」
堀北は、静かに答えた。
兄が、僅かに眉を上げる。
「……何?」
「私がDクラスに配属されたのは事実です。この学校の評価基準では、私は最下位のクラスに相応しい人間。それは、認めます」
「……」
「でも、それが最終結果じゃない」
堀北は、真っ直ぐに兄を見つめた。
目を逸らさない。逃げない。
「Dクラスからでも、Aクラスに上がる道はある。私は、その道を歩みます」
「口だけならなんとでも言える」
兄が、冷たく言い放つ。
「Dクラスの生徒がAクラスに上がった例は、過去にほとんどない。お前は、現実を見ていない」
「現実は、見ているつもりです。だからこそ、結果で示すと言いました」
堀北は、立ち上がった。
兄を、見下ろす形になる。
「私は、兄さんに認められるために、ここに来たわけじゃありません」
「……」
「昔の私は、兄さんの背中を追いかけていた。兄さんに認められたくて、兄さんを超えたくて、必死だった」
堀北は、兄の目を見据える。
「でも今は違います。私は、私のクラスを――私の仲間を、Aクラスに導くために来ました。兄さんは関係ありません」
妹の宣言を受けて、兄はしばらく黙っていた。
生徒会室に、静寂が満ちる。
夕日が、二人を照らしている。
堀北学の表情に、初めて変化が生じた。
困惑か、驚きか、それとも――
「……変わったな、鈴音」
兄が、呟いた。
「はい。変わりました」
堀北は、小さく微笑んだ。
三年分の成長を胸に、堀北は兄の呪縛から自らを解き放つ。
「失礼します、兄さん」
堀北は、一礼して生徒会室を出た。
扉を閉めた瞬間、堀北は深く息を吐いた。
心臓が、激しく鼓動している。
緊張していた。
兄の前に立つのは、いつだって緊張する。三年分の経験があっても、それは変わらない。
けれど、不思議と気分は軽かった。
ずっと、兄の影に縛られていた。
兄に認められたい、兄を超えたいという想いに、囚われていた。
でも今、その呪縛から解放された。
もう、兄の顔色を窺わなくていい。兄の評価を気にしなくていい。
自分の道を、自分の足で歩いていける。
堀北は、廊下を歩き出した。
夕日が、窓から差し込んでいる。
その光は、どこか温かかった。
生徒会室。
堀北鈴音が去った後、堀北学は窓の外を見つめていた。
「堀北君、どうかしたんですか?」
声がして、振り返る。
生徒会書記の橘茜が、心配そうな顔で立っていた。
「……いや、何でもない」
堀北学は、短く答えた。
けれど、その視線は遠くを見ている。
「妹さん、堀北君から聞いてた話と少し違いましたね」
橘が、控えめに言う。
「もっと……堀北君の事を妄信してる、幼い少女のイメージだったんですけど」
「……ああ、俺もそう思っていた」
堀北学は、呟いた。
確かに、鈴音は自分の知っている妹とは違った。
以前の鈴音は、兄の前に立つと萎縮した。必死に虚勢を張り、認められようと足掻いていた。
けれど、今日の鈴音は違った。
落ち着いていた。自信を持っていた。
そして、何より――兄を見る目が、変わっていた。
以前は、兄を「目指すべき存在」として見ていた。羨望と、劣等感と、焦燥が入り混じった目だった。
今日は、違った。
兄を「関係ない存在」として見ていた。
冷静で、落ち着いていて、迷いのない目だった。
その変化が、堀北学には理解できなかった。
妹と離れてから二年近い空白がある。その間に、何があったのか。
何が、鈴音をあそこまで変えたのか。
(あの目は……何だ?)
鈴音の目には、迷いがなかった。
まるで、全てを理解しているかのような。全てを経験したかのような。
そんな目だった。
「堀北君?」
橘が、再び声をかける。
「……何でもない」
堀北学は、首を振った。
けれど、妹の異変が、彼の興味を引いたことは確かだった。
Dクラスに配属された妹が、この先どうなるのか。
堀北学は、それを見届けることにした。