堀北鈴音は二度目の高校生活を諦めない 作:ほりきたすずね
七月中旬。
期末試験が近づいていた。
放課後の図書室には、Dクラスの生徒が多く残っている。平田の提案で始まった勉強会だ。
中間試験の時と同様、成績の良い生徒が他の生徒を教える形式。堀北も、教える側として参加していた。
「須藤くん、ここの問題は――」
「ん? ああ、この公式か。なんだっけ、これ」
須藤が、ノートを覗き込みながら首を傾げる。
「二次方程式の解の公式よ。覚えてる?」
「えーと……」
須藤が、頭を掻く。
「……忘れた」
堀北は、小さくため息をついた。
前回の堀北なら、ここで突き放していただろう。「一度教えたことを覚えられないなら、自分で何とかしなさい」と。
クラスメイトを助けることに、意味を見出せなかった。
けれど今回は違う。
「じゃあ、もう一度説明するわね」
堀北は、ノートにペンを走らせながら説明を始めた。
「この公式は、xイコール、マイナスb プラスマイナス ルートb二乗マイナス4ac 割る2a。これを覚えるのが基本よ」
「うーん……長いな」
「語呂合わせで覚えると楽よ。「二次の夜、悲鳴を上げて走る4a」とか」
「なんだそれ」
須藤が、呆れた顔をする。けれど、その口元には笑みが浮かんでいる。
「まあ、語呂合わせは自分で作った方が覚えやすいかもしれないわね。とにかく、この公式を使えば、二次方程式は解けるようになるわ」
「おう。サンキュー、堀北。お前、教えるの上手いな」
須藤が、素直に礼を言う。
以前の須藤なら、堀北に教わることを嫌がっただろう。
けれど今は、素直に受け入れている。
信頼関係が、少しずつ築かれている証拠だ。
「堀北ちゃーん。こっちも教えてー」
声がして、振り返る。
池と山内が、手を挙げていた。
「何?」
「英語の文法が分かんないんだよ。助けてくれ」
「仕方ないわね。見せて」
堀北は、二人のノートを覗き込んだ。
基本的な文法の問題だ。関係代名詞の使い方が分かっていないらしい。
「ここはね、関係代名詞のwhichを使うの。先行詞が人以外の場合は――」
説明しながら、堀北はふと思った。
前回の自分は、こんなことをしなかった。
クラスメイトを「駒」としか見ていなかった。助けることに、意味を見出せなかった。
結果、孤立した。クラスをまとめることができず、苦労した。
今回は違う。
自ら教え、サポートする。クラスメイトと協力する。
小さな変化の積み重ね。それが、クラスを変えていく。
「軽井沢さん、この公式を覚えて」
堀北は、次のグループに移動した。
軽井沢が、数学のノートを広げている。
「え、あんたが教えてくれんの? ……まあ、いいけど」
軽井沢は、少し警戒した目で堀北を見た。
彼女との関係は、まだ完全には改善していない。けれど、以前よりはマシだ。
「この公式、覚えにくいよね」
「そうね。でも、語呂合わせで覚えると楽よ」
「語呂合わせ?」
「ええ。例えば、「サインコサイン、サインコサイン、タンジェント」って歌いながら覚えるの」
「……何それ、ダサくない?」
軽井沢が、呆れた顔をする。
「そうかしら。私は、これで覚えたわ」
「マジ?」
「本当よ。試してみて」
軽井沢は、しばらく渋っていたが、やがてノートに向き直った。
「……サインコサイン、サインコサイン、タンジェント……」
小声で呟きながら、公式を書いていく。
「あ、なんか覚えられるかも」
「でしょう?」
「……ありがと」
軽井沢が、小さく礼を言った。
その声は、ぶっきらぼうだったけれど、敵意はなかった。
小さな進歩。けれど、確かな進歩だ。
勉強会は、順調に進んでいた。
図書室を見回すと、クラスメイトたちが真剣に勉強している。
平田が中心となって、全体を取りまとめている。櫛田も、あちこちで生徒たちを助けている。
良い雰囲気だ。
前回の中間試験の時よりも、クラスの結束が強くなっている気がする。
ふと、視線を感じた。
図書室の隅を見ると、綾小路が座っていた。
彼は、一人で本を読んでいる。勉強会には参加せず、離れた場所で静かに過ごしている。
いつもの光景だ。
けれど、堀北は気づいていた。
綾小路の視線が、時折こちらに向けられていることを。
堀北は、図書室の一角で休憩を取っていた。
ずっと教え続けて、少し疲れた。
周囲を見回すと、クラスメイトたちが真剣に勉強している。
その中に、意外な組み合わせがあった。
綾小路と須藤。
二人は、図書室の隅で何やら話している。綾小路が、須藤のノートを指差しながら説明しているようだ。
堀北は、少し驚いた。
綾小路が、自ら誰かに勉強を教えるなんて。
彼は基本的に、目立つことを避けている。クラスメイトと積極的に関わることも少ない。
それが、須藤に勉強を教えている。
しばらく観察していると、綾小路がこちらに気づいた。
二人の視線が合う。
綾小路は、少しばつが悪そうな顔をした。
そして、須藤の元を離れ、堀北の方に歩いてくる。
「隣、いいか」
「ええ」
綾小路が、堀北の隣に座った。
「大変そうだな」
「そうでもないわ。みんな、思ったより真面目に取り組んでくれてる」
「そうか」
「あなたのおかげもあるわ」
「オレか? オレは何もしてないぞ」
「嘘ね」
堀北が、小さく笑う。
「あなた、こっそり須藤くんに勉強を教えてたでしょう。さっき、見てたわ」
綾小路が、僅かに目を逸らす。
「……見てたのか」
「ええ。ありがとう」
「……別に、大したことじゃない。須藤が赤点を取ったら、クラスポイントに響くからな」
「それだけ?」
堀北が、綾小路を見つめる。
その目は、真剣だった。
綾小路は、しばらく黙っていた。
図書室の静寂が、二人を包む。
そして――
「……お前のためだ」
綾小路が、小さく呟いた。
「え?」
「クラスのためじゃない。お前が必死に動いてるから、オレも少しだけ動いた。それだけだ」
堀北は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
綾小路が、自分のために動いてくれた。
その言葉が、胸に響く。
「……ありがとう」
「礼はいらない。お前のお陰で、それなりに楽しめてるからな」
「楽しい?」
「ああ。退屈しない、という意味でな」
綾小路が、僅かに口元を緩める。
それは、笑みと呼べるほどのものではない。けれど、彼にしては珍しい表情だった。
堀北は、嬉しくなった。
綾小路が、自分のために動いてくれた。
自分と一緒にいることを、「楽しい」と言ってくれた。
それだけで、十分だった。
「ねえ、綾小路くん」
「何だ」
「この調子で、期末試験も乗り越えましょう。そして、夏休みには無人島試験がある。そこでも、協力してほしいの」
「無人島試験……?」
綾小路が、僅かに目を細めた。
「何か知ってるのか」
「……先輩から聞いただけよ。夏休みに、大きな試験があるって」
またやってしまった。
少しでも気が緩むと、堀北はすぐにボロが出る。
そして誤魔化す意味もないのに、下手な嘘をついてしまう。
もちろん、綾小路は空気を読んで、流してくれるけど。
「そうか。……まあ、協力は惜しまない。お前が頑張るなら、な」
「ありがとう」
堀北は、微笑んだ。
綾小路の気遣いが嬉しくて、ついつい頬が緩んでしまう。
「……お前、最近よく笑うようになったな」
「そうかしら」
「ああ。前より、表情が柔らかくなったんじゃないか?」
「……そう」
堀北は、少し照れた。
「あなたのおかげかもしれないわね」
「オレ?」
「ええ。あなたがいるから、私は笑えるの」
綾小路は、しばらく黙っていた。
そして、視線を逸らした。
「……やっぱり変な奴だな、お前は」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
勉強会は、夕方まで続いた。
期末試験まで、あと一週間。
Dクラスは、着実に力をつけている。
堀北は、それを感じていた。
前回とは、違う。
クラスメイトとの関係も、綾小路との距離も。
全てが、良い方向に進んでいる。
このまま、夏休みを迎えよう。
そして、無人島試験を乗り越えよう。
堀北の目は、明るい未来を見据えていた。