堀北鈴音は二度目の高校生活を諦めない 作:ほりきたすずね
七月下旬。夏休み直前。
期末試験も終わり、Dクラスには穏やかな空気が流れていた。
教室の窓から差し込む夏の日差しが、机や床を明るく照らしている。クラスメイトたちは、夏休みの予定を話し合ったり、試験の結果に一喜一憂したりしている。
退学者ゼロ、クラスポイントの回復。
一学期の成果としては、上々と言えるだろう。
堀北は、自分の席で周囲を観察していた。
平田が、クラスメイトたちと夏休みの計画を話している。軽井沢が、女子グループと笑い合っている。須藤が、仲間と何やら盛り上がっている。
クラスの雰囲気は、良い方向に変わっている。
前回の一学期とは、比べものにならないほどに。
全てが、順調に進んでいるように見えた。
だが、小さな違和感が積み重なっていく。
ふと、通路側の窓に目をやる。
廊下を歩く生徒たちの中に、見覚えのある顔があった。
Cクラスの生徒だ。
彼は、Dクラスの教室をちらりと見て、そのまま通り過ぎていった。
それだけなら、何でもないことだろう。
だが、こういうことが、最近増えている。
龍園の動きが、読めない。
前回の記憶では、この時期にCクラスは大きな動きを見せなかったはずだ。
だが今回、龍園は頻繁にDクラス周辺に出没している。
廊下ですれ違う時、視線を感じる。食堂で食事をしている時、遠くから観察されている気配がある。
そして、龍園の手下と思しき生徒が、Dクラスの教室付近をうろつくことも増えた。
堀北は、その変化に気づいていた。
そして、その原因も理解していた。
自分だ。
須藤の事件を未然に防いだ時から、龍園は堀北を「要注意人物」として認識している。
「入学初日からSシステムの裏を見抜いていた女」
「須藤の事件を事前に予測した女」
「まるで、全てを知っているかのように動く女」
龍園は、堀北の正体を暴こうとしている。
「堀北」
声がして、振り返る。
声の主は、隣の席に座る綾小路だ。
「何?」
「Cクラスの連中が、お前を監視してるぞ」
「知ってるわ」
堀北は、短く答えた。
「対策は?」
「今のところ、様子見よ。向こうから仕掛けてくるまで、こちらからは動かない」
下手に動けば、相手に情報を与えることになる。今は、静観するのが最善だ。
「そうか」
綾小路は、少し考え込むような顔をした。
「……だが、気をつけろ。龍園は危険な男なんだろ?」
「そうね」
堀北は、また廊下に目を向けた。
一人の男子生徒が立っている。
石崎大地。Cクラスの生徒で、龍園の腹心の一人だ。
彼は、こちらを見ていた。
監視するように。威嚇するように。
堀北は、その視線を受け止めた。
目を逸らさない。怯えない。
しばらく睨み合った後、石崎が視線を外して歩き去った。
「あいつ、毎日のようにこの辺りをうろついてるな」
綾小路が、呟いた。
「龍園くんの指示でしょうね。私の動向を探れ、と」
「何か心当たりは?」
「……須藤くんの事件よ。あの時、私が事前に動いたことを、龍園くんは知っているはず」
堀北は、小さくため息をついた。
「私の事を、調べようとしてるんでしょう」
「厄介だな」
「ええ。でも、今のところ直接的な行動は取ってこない。様子見している段階だと思う」
「油断はするな」
「分かってるわ」
堀北は、頷いた。
龍園は、危険な男だ。
狡猾で、残忍で、目的のためなら手段を選ばない。
前回の三年間で、堀北は彼の恐ろしさを知っている。
だが、今は焦る必要はない。
こちらから動かなければ、相手も動きにくい。
時間を稼ぎながら、対策を考えればいい。
そう思っていた。
だが、問題は龍園だけではなかった。
翌日。終業式の前日。
放課後、堀北は一人で廊下を歩いていた。
夏休み前の解放感からか、多くの生徒は早々に帰宅している。校舎は静かで、廊下には人影がまばらだ。
図書室で借りた本を、寮に持ち帰ろうとしていた時だった。
「初めまして、堀北鈴音さん」
声がして、足を止めた。
振り返ると、一人の少女が立っていた。
小柄な体。紫色の髪。紫色の瞳。
そして、杖をついている。
坂柳有栖。
堀北は、思ってもみない人物との遭遇に動揺した。
Aクラスの生徒。表向きは「病弱なお嬢様」として知られている。
だが、その実態は、Aクラスを裏から支配する策謀家。
前回の三年間で、堀北は彼女の恐ろしさを知っている。
冷酷で、狡猾で、容赦がない。
敵に回せば、最も厄介な相手の一人だ。
「――いえ、「初めまして」で本当によろしいのでしょうか?」
坂柳が、にこりと微笑む。
その笑顔は、どこか不気味だった。
人形のように整った顔。けれど、その瞳の奥には、何か冷たいものが光っている。
「何の話かしら」
堀北は、努めて平静を装った。
声が震えないように。表情が強張らないように。
「とぼけなくても結構ですよ」
坂柳が、一歩近づく。
杖をつきながら、ゆっくりと。
コツン、コツン、と杖が床を叩く音が、静かな廊下に響く。
「あなたは、本当に面白い動きをしていますね」
「面白い?」
「はい、とても。入学初日からSシステムの裏を見抜き、クラスメイトに警告を発した。須藤くんの事件を事前に察知して、未然に防いだ。佐倉さんのストーカー問題も、誰よりも早く気づいていたそうじゃないですか」
堀北の心臓が、激しく鼓動する。
なぜ、坂柳がそこまで知っている?
Aクラスの生徒が、Dクラスの内部事情をここまで把握しているのは、異常だ。
「クラスの信頼を着実に勝ち取り、中間試験でも期末試験でもDクラスを赤点者ゼロに導いた。入学からわずか三ヶ月で、あなたはDクラスの中心人物になっています」
坂柳が、堀北を見上げる。
その紫色の瞳が、堀北を射抜くようだった。
観察するような。分析するような。獲物を見定めるような目。
「まるで、全てを知っているかのようですね」
心臓が凍りつく。
その言葉は、真実を突いていた。
堀北は、未来から来た。三年分の記憶を持っている。だから、「全てを知っている」のだ。
坂柳は、それを見抜いているのか?
いや、そんなはずはない。タイムリープなど、普通は信じない。
けれど、坂柳は何かを察している。それは確かだ。
「……何が言いたいの」
堀北は、声を絞り出した。
「別に、何も。ただ、事実を述べただけですよ」
坂柳が、くすくすと笑う。
その笑い声は、鈴のように澄んでいて、けれどどこか冷たかった。
「安心してください。別にあなたを攻撃しようとか、そういうつもりはありません。少なくとも、今は」
「今は」という言葉が、不気味に響く。
「じゃあ、なぜ声をかけてきたの」
「ただ――興味があるのです」
坂柳が、杖で床を軽く叩いた。
コツン、と乾いた音が響く。
「あなたが「何者」なのか。そして、何を「知っている」のか」
沈黙。
廊下に、静寂が満ちる。
夕日が、窓から差し込んでいる。二人の影が、長く伸びている。
堀北は、どう答えるべきか考えた。
嘘をつくか。はぐらかすか。それとも、一部だけ真実を混ぜるか。
「……私は何も知らないわ」
堀北は、慎重に言葉を選んだ。
「ただ、観察と推測で動いているだけ。それが、あなたの目には「全てを知っている」ように見えるのかもしれないけど」
「そうですか」
坂柳が、微笑む。
その笑顔は、信じているようには見えなかった。
むしろ、「嘘をついているのは分かっていますよ」と言っているかのようだった。
「……それなら、いいのですけど」
坂柳が、踵を返した。
去っていく。杖をつきながら、ゆっくりと。
コツン、コツン、と杖の音が遠ざかっていく。
だが、数歩進んだところで、振り返った。
「堀北さん」
「何?」
「あまり目立ちすぎると、余計な敵を作りますよ」
坂柳が、意味深な笑みを浮かべる。
「――例えば、あなたの知らない敵を」
その言葉を残して、坂柳は去っていった。
杖の音が、廊下の奥へと消えていく。
堀北は、その背中を見送りながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
坂柳有栖。
彼女は、何かを知っている。あるいは、何かを察している。
まさか、彼女も自分と同じようにタイムリープしてきた?
それは分からない。だが、堀北を「観察対象」として認識したことは確かだ。
「あなたの知らない敵」
その言葉が、胸に刺さる。
龍園だけでなく、坂柳まで。
敵が、増えていく。
前回の三年間では、坂柳との直接対決は少なかった。彼女は主に綾小路を標的にしていたはずだ。
だが今回は、違うのかもしれない。
堀北の「異常さ」が、坂柳の興味を引いてしまった。
それは、非常に危険なことだった。
「……気をつけないと」
堀北は、呟いた。
夕日が、廊下を赤く染めている。
その光が、血のように見えた。
夏休みが、始まろうとしている。
そして、無人島試験が待っている。
龍園の監視。坂柳の接触。
不安の種が、増えていく。
けれど、立ち止まるわけにはいかない。
前に進むしかない。
堀北は、拳を握りしめた。
何があっても、諦めない。
今度こそ、変えてみせる。