堀北鈴音は二度目の高校生活を諦めない 作:ほりきたすずね
朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
堀北は、洗面台の前に立っていた。
鏡に映る自分の顔を、じっと見つめる。
十五歳の顔だ。
頬のラインは今より少し丸みを帯びていて、目元にはまだ三年分の疲労が刻まれていない。髪は腰にかかるくらいの長さで、寝癖が少しついている。
見慣れた顔。けれど、三年ぶりに見る顔。
堀北は、ゆっくりと右手を上げた。鏡の中の自分も、同じように右手を上げる。
頬に触れる。柔らかい。若い肌の感触。
「……本当に、戻ったのね」
声に出して、確認する。
声も少し高い。十八歳の自分より、わずかに幼い響き。
けれど、頭の中には三年分の記憶がある。Dクラスでの日々、特別試験の数々、クラスメイトたちとの関係、そして――綾小路のこと。
全て、鮮明に覚えている。
体は十五歳。精神は十八歳。
このギャップに、堀北は軽い眩暈を覚えた。
深呼吸をする。
冷たい水で顔を洗う。
鏡の中の自分に、語りかけるように呟く。
「落ち着きなさい、鈴音」
これがどういう現象なのかは分からない。タイムリープ? 平行世界? それとも、死ぬ直前に見る走馬灯の一種?
科学的な説明は、つかない。
けれど、事実として――自分は三年前に戻った。
それだけが、確かな現実だ。
堀北は、洗面台の縁を両手で掴んだ。
前回の三年間を、振り返る。
何が間違っていたのか。どこで失敗したのか。
一つ目。Dクラスに配属された理由を、理解していなかった。
入学当初の自分は、Dクラス配属を「何かの間違い」だと思っていた。自分の実力なら、本来はAクラスに入れるはずだと。
けれど、それは傲慢な勘違いだった。
高度育成高等学校は、学力や身体能力だけで生徒を評価しない。協調性、社会性、人間性――そういった目に見えにくい要素も、全て査定の対象になっている。
自分がDクラスに配属されたのは、「問題がある」と判断されたからだ。
他者を見下す態度。協調性の欠如。コミュニケーション能力の低さ。
当時の自分には、確かにそれらの欠点があった。
二つ目。綾小路の正体に気づくのが、遅すぎた。
入学当初から、彼は「普通の生徒」を演じていた。成績は平均、運動能力も平均、存在感は薄い。教室の隅で本を読んでいる、目立たない男子生徒。
堀北は長い間、その演技を見抜けなかった。
彼が裏で動いていることに気づいたのは、一年生の後半になってからだ。それも、偶然の出来事がきっかけで。
もっと早く気づいていれば、もっと早く協力関係を築けていれば――結果は違っていたかもしれない。
三つ目。兄への執着に、囚われすぎた。
堀北学。生徒会長。Aクラスの頂点。完璧な兄。
自分は、ずっと兄の背中を追いかけていた。兄に認められたい、兄と同じ場所に立ちたい、兄に「お前も優秀な人間だ」と言ってほしい。
その執着が、視野を狭くしていた。
クラスメイトのことよりも、兄のことばかり考えていた。Aクラスを目指す理由も、純粋な向上心ではなく、兄への対抗心だった。
それでは、本当の意味でクラスを導くことなどできない。
四つ目。クラスメイトを「駒」としてしか、見ていなかった。
入学当初の自分は、他の生徒を「使えるか使えないか」でしか判断していなかった。
須藤は「問題児」。池と山内は「足手まとい」。佐倉は「存在感がない」。
そんな風に、人を値踏みしていた。
けれど、三年間を共に過ごして分かった。
彼らには、彼らなりの強さがある。彼らなりの成長がある。彼らなりの、輝きがある。
それを見ようとしなかった自分は、リーダーとして失格だった。
堀北は、鏡の中の自分を見つめる。
「今度は、違う」
声に出して、誓う。
「全てを、変える」
鏡の中の自分が、同じ言葉を口にする。
十五歳の顔に、十八歳の決意を宿して。
堀北は、二度目の高校生活を始める準備を整えた。
制服に袖を通す。
三年ぶりの感覚。けれど、体は覚えている。
スカートの丈を整え、リボンを結び、髪を梳かす。
鏡の前で、最終確認。
「……よし」
完璧、とは言えない。けれど、及第点ではある。
部屋を出ようとして、ふと足を止める。
机の上に、一冊のノートが置いてあった。
真新しい、未使用のノート。
堀北は少し考えて、それを鞄に入れた。
これから起こることを、記録しておこう。前回との違いを、変化を、成長を。
自分が確かに「やり直している」という証拠を、残しておくために。
玄関で靴を履いていると、背後から声がかかった。
「鈴音」
振り返る。
母が立っていた。エプロン姿で、手には濡れた布巾。
「朝ごはん、食べていかないの?」
「……いえ、今日は」
「入学式でしょう? ちゃんと食べていきなさい」
母の声は、穏やかだけれど有無を言わせない響きがある。堀北家の女性特有の、静かな強さ。
堀北は少し迷って、頷いた。
「分かったわ」
前回は、朝食を断って家を出た。緊張と焦りで、食欲がなかったから。
けれど今回は違う。
母の作った朝食を、きちんと食べてから出発しよう。
それも、小さな変化の一つだ。
食卓には、トーストと目玉焼き、サラダとオレンジジュースが並んでいた。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
母は向かいの席に座り、コーヒーを飲みながら堀北を見ている。
「緊張してる?」
「……少しだけ」
嘘だ。緊張はしていない。これから何が起こるか、全て知っているから。
けれど、そんなことは言えない。
「大丈夫よ。あなたは堀北家の人間なんだから」
母の言葉に、堀北は小さく頷く。
堀北家の人間。
その言葉の重みを、今は前回よりも深く理解できる。
兄・堀北学は、常にその重みを背負ってきた。完璧であることを求められ、期待に応え続けてきた。
自分もまた、同じ重みを背負っている。
けれど――それを言い訳にはしない。
「ごちそうさまでした」
食器を片付けようとすると、母が止めた。
「いいから、早く行きなさい。遅刻するわよ」
「……ありがとう」
「気をつけてね」
玄関を出る。
振り返ると、母が手を振っていた。
前回は、振り返らなかった。早く家を出たくて、母の顔を見る余裕もなかった。
今回は、小さく手を振り返す。
母が少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
家を出る。
空は晴れている。四月の朝特有の、少し肌寒いけれど清々しい空気。
堀北は、深く息を吸い込んだ。
今日から、全てが始まる。
バス停までの道を歩きながら、堀北は頭の中で計画を立てていた。
まず、綾小路との関係を構築する。
前回は、彼のことを「変わった男」程度にしか認識していなかった。特に親しくなろうとも、理解しようともしなかった。
結果として、彼の正体に気づくのが遅れた。彼の力を借りることも、うまくできなかった。
今回は違う。
最初から、彼に近づく。彼を理解しようとする。彼と協力関係を築く。
ただし、慎重に。
綾小路は、観察眼に優れている。不自然な行動を取れば、すぐに怪しまれる。
「彼のことを知っている」素振りを見せてはいけない。あくまで「初対面の相手に興味を持った」という態度で接する必要がある。
次に、クラスメイトとの関係。
前回は、入学当初からほとんどのクラスメイトを避けていた。話しかけられても素っ気なく返し、グループには加わらず、一人で過ごすことを選んだ。
それが、孤立を招いた。
今回は、少しずつでも関係を築いていく。
全員と仲良くなる必要はない。けれど、最低限の信頼関係は作っておきたい。
特に、平田と軽井沢。この二人は、クラスの中核になる存在だ。早い段階で良好な関係を築いておけば、後々の展開が楽になる。
そして、兄のこと。
前回は、兄に会うたびに緊張し、認められようと必死になっていた。その必死さが、空回りを招いた。
今回は、兄への執着を捨てる。
いや、捨てることはできないかもしれない。けれど、少なくとも表には出さない。兄は兄、自分は自分。別々の人間として、それぞれの道を歩む。
それくらいの距離感を、保つ必要がある。
バス停が見えてきた。
既に何人かの生徒が並んでいる。高度育成高等学校の制服を着た生徒たち。堀北と同じ、新入生だろう。
列の後ろに並ぶ。
周囲を見回す。
前回も、この光景を見たはずだ。けれど、あの時は緊張で周りを見る余裕がなかった。今、改めて見ると――皆、緊張した面持ちをしている。
当然だ。
高度育成高等学校は、日本有数の進学校であり、同時に謎の多い学校でもある。入学できたことへの喜びと、これからの生活への不安が入り混じっている。
自分も、前回はそうだった。
今は違う。不安はない。これから何が起こるか、知っているから。
けれど、その「知っている」ことが、新たな不安を生んでいる。
前回と同じ行動を取れば、前回と同じ結果になる。
違う結果を得るためには、違う行動を取らなければならない。
けれど、違う行動を取れば、予測できない事態が起こる可能性もある。
バタフライ効果。
小さな変化が、大きな結果の違いを生む。
良い方向に転がるか、悪い方向に転がるか――それは、やってみなければ分からない。
バスが来た。
扉が開き、生徒たちが乗り込んでいく。
堀北も、列に続いて乗車する。
車内は、既にかなりの乗客がいた。制服姿の生徒がほとんどだが、中には私服の人もいる。一般の乗客だろう。
空いている席を探す。
前回、自分はどこに座った?
記憶を辿る。確か、中ほどの席だった。窓際ではなく、通路側。誰とも話さず、外を見るでもなく、ただ読書をしながら到着を待っていた。
今回は――
「……」
視線が、一点で止まった。
窓際の席に、一人の少年が座っている。
茶色がかった髪。整った顔立ち。無表情。どこか気だるげな雰囲気。
綾小路清隆。
心臓が、一度大きく跳ねた。
三年ぶりに見る、入学当初の彼。
いや、「三年ぶり」ではない。堀北にとっては、昨日の卒業式で見たばかりだ。壇上で答辞を読む彼の姿を、つい数時間前に見たばかり。
けれど、今目の前にいるのは、十五歳の綾小路だ。
三年後の彼とは、全然雰囲気が違う。
より無防備で、より未完成で、より――人間らしい。
堀北は、深呼吸をした。
ここだ。
ここで、最初の一歩を踏み出す。
綾小路の隣の席は、空いている。通路側の席。
前回は綾小路のことなど、特に意識していなかった。
でも今回は違う。
堀北は、意を決して歩み寄った。
「隣、いいかしら」
声が、思ったよりも自然に出た。
綾小路が、ゆっくりとこちらを見る。
無表情。けれど、その奥にかすかな――興味? 警戒?――のようなものが見える。
「……ああ、問題ない」
短い返答。
堀北は、彼の隣に腰を下ろした。
バスが動き出す。
窓の外を、景色が流れていく。
沈黙。
堀北は、横目で綾小路を観察する。
制服はきちんと着ているが、どこか着慣れていない感じがする。姿勢は良いが、力が入りすぎているようにも見える。
この頃の彼は、まだ「普通の高校生」を演じることに慣れていなかったのかもしれない。
いや、それとも――意図的に、そう見せているのか。
分からない。
三年間一緒にいても、結局この男のことは分からなかった。
けれど、今回は分かろうとする。諦めない。
「どうしたんだ? じっと見て」
綾小路の声で、我に返る。
彼は相変わらず無表情だが、視線はこちらを向いている。
「……いえ。初対面なのに馴れ馴れしくてごめんなさい」
「別に気にしてない」
「そう。……ありがとう」
また沈黙。
けれど、今度の沈黙は前回とは違う。
前回の自分なら、ここで会話を終わらせていた。他人に興味がなかったから。
今回は、違う。
「あなたも同じ学校の新入生?」
堀北から、話を続ける。
「ああ。高度育成高等学校だ」
「そう。私もよ」
「見れば分かる」
綾小路が、堀北の制服に視線を向ける。当然だ。同じ制服を着ているのだから。
「……そうね。愚問だったわ」
「いや、会話の糸口としては悪くないんじゃないか?」
「そうかしら」
「ああ。初対面の相手に話しかけるのは、勇気がいることだ。オレなら、多分やらない」
綾小路が、淡々と言う。
その言葉に、堀北は少し驚いた。
「あなたは、人見知りなの?」
「どうだろうな。単に、面倒くさいだけかもしれない」
「正直ね」
「隠しても仕方ないだろう」
綾小路が、窓の外に視線を戻す。
けれど、会話を拒絶している雰囲気ではない。
堀北は、小さく息をついた。
前回よりは、うまくいっている。
少なくとも、会話が成立している。それだけでも、大きな進歩だ。
「私は堀北鈴音よ。よろしくね」
「……綾小路清隆だ」
名前を交換する。
前回、この男の名前を知ったのはいつだっただろう。確か、教室に入った後だったか。クラス分けを確認して、同じDクラスにいて、しかも隣同士の席で。
今回は、教室に入る前に知ることができた。
小さな変化。
けれど、これが積み重なれば――大きな変化になる。
バスが、次の停留所に止まる。
扉が開き、乗客が乗り込んでくる。
その中に、一人の老婆がいた。腰が曲がり、杖をついている。
車内を見回すが、空いている席はほとんどない。
堀北は、立ち上がった。
「どうぞ」
老婆に、席を譲る。
「あら、ありがとうね。お嬢さん」
「いえ」
老婆が、堀北の席に腰を下ろす。
堀北は、吊革につかまって立つ。
ふと、視線を感じた。
振り返ると、綾小路がこちらを見ていた。
相変わらず無表情。けれど、その目には――かすかな、何かがある。
驚きか、興味か、あるいは――警戒か。
分からない。
けれど、見られていることは確かだ。
堀北は、視線を前に戻した。
これも、変化だ。
前回は、席を譲らなかった。老婆のことなど、気にも留めなかった。自分のことで精一杯で、他人を思いやる余裕がなかった。
今回は違う。
三年間で学んだことの一つ。
人は、小さな親切を覚えている。そして、小さな親切が、信頼関係の基盤になる。
直接的な利益がなくても、他者に手を差し伸べることには意味がある。
それを、前回の自分は理解していなかった。
視線を巡らせると、車内の別の場所に――金髪の男が座っているのが見えた。
優先席に、堂々と。
高円寺六助。
前回の自分なら、軽蔑の目で見ただろう。なぜ優先席に座っているのか、なぜ老婆に席を譲らないのか、と。
けれど、今回は違う。
高円寺という男を、堀北は知っている。
彼は自己中心的で、協調性がなく、ルールを守らない。けれど、その能力は本物だ。身体能力、知性、財力――全てにおいて、トップクラスの実力を持っている。
後の特別試験で、彼は何度もクラスを救うことになる。
自分の気分次第で動く男だが、その気分を上手くコントロールできれば――味方になる。
前回は、最後まで彼との関係を築けなかった。
今回は、違う結果を出したい。
ただし、今はまだ早い。
高円寺との関係構築は、もう少し後になってからだ。今は、綾小路との関係を優先する。
バスが、高度育成高等学校の最寄りのバス停に到着した。
扉が開き、生徒たちが降りていく。
堀北も、その流れに乗って下車する。
振り返ると、綾小路も降りてきていた。
「ここからは、徒歩ね」
「ああ」
「一緒に行きましょう」
「……構わないが、いいのか?」
「もちろんよ」
綾小路が、短く答える。
二人は、並んで歩き始めた。
他の新入生たちも、同じ方向に歩いている。皆、緊張と期待が入り混じった表情をしている。
堀北は、空を見上げた。
青空。雲一つない、晴天。
前回の入学式も、こんな天気だっただろうか。覚えていない。空を見上げる余裕など、なかったから。
「いい天気ね」
「そうだな」
「……あなた、緊張してる?」
「いや。特には」
「そう。私も、あまり」
嘘だ。
堀北は、確かに緊張している。
ただし、その緊張は普通の新入生とは違う。「初めての高校生活」への緊張ではない。「二度目の高校生活」を、うまくやれるかどうかへの緊張だ。
前回と同じ失敗は、したくない。
けれど、違う行動を取ることへの不安もある。
その微妙な心境を、堀北は表には出さないようにしていた。
「堀北、だったか」
綾小路が、唐突に名前を呼んだ。
「何?」
「どうしてオレに話しかけたんだ?」
「……どういう意味かしら」
「他にも席は空いていた。なのに、わざわざオレの隣を選んだ。何か理由があるのか?」
綾小路が、堀北を見る。
その目は、相変わらず無表情だ。けれど、その奥に――鋭さがある。
観察されている、と堀北は感じた。
この男は、入学初日から周囲を観察している。情報を集めている。人を見定めている。
油断ならない。
けれど――それは、想定内だ。
「特に理由はないわ。ちょうど目に入ったから」
嘘だ。けれど、半分は本当でもある。
「そうか」
綾小路は、それ以上追及しなかった。
けれど、納得したようには見えない。
この男は、多分――堀北の言葉を、信じていない。
そして、それでいい。
信じさせようとすれば、逆に怪しまれる。今は、「特に理由のない行動」として受け流してもらえれば十分だ。
関係は、時間をかけて築けばいい。
学校の正門が、見えてきた。
高度育成高等学校。
白い壁、大きな窓、近代的なデザイン。その向こうには、広大なキャンパスが広がっている。
堀北は、その光景を見つめた。
三年前に見た時は、ただ圧倒された。こんな立派な学校に入学できたことへの誇りと、ここで結果を出さなければという焦りで、頭がいっぱいだった。
今は、違う感情がある。
懐かしさ。
そして、決意。
ここで、全てが始まる。
ここで、全てを変える。
堀北は、一歩を踏み出した。
高度育成高等学校の、正門をくぐる。
三年後の自分が見られなかった景色を――今度こそ、見るために。