堀北鈴音は二度目の高校生活を諦めない 作:ほりきたすずね
体育館は、厳粛な空気に包まれていた。
整然と並べられたパイプ椅子に、真新しい制服を纏った新入生たちが座っている。壇上には紅白の幕が飾られ、「入学式」の文字が掲げられていた。
堀北は、Dクラスの列の中で、静かに壇上を見つめていた。
理事長の挨拶が続いている。この学校の理念、生徒に求められる姿勢、そして輝かしい未来への期待。
形式的な言葉の羅列。けれど、その裏に隠された真意を、堀北は知っている。
この学校は、甘くない。
「実力至上主義」という看板は、伊達ではない。
やがて、理事長の挨拶が終わり、次の登壇者が紹介された。
『続いて、生徒会長より祝辞をいただきます』
壇上に立ったのは、一人の男子生徒だった。
長身。端正な顔立ち。冷たく鋭い眼差し。
堀北学。
生徒会長にして、堀北鈴音の兄。
三年前、この場で兄の姿を見た時、堀北は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
認められたい。
追いつきたい。
超えたい。
そんな感情が、渦を巻いていた。兄の完璧な姿を見るたびに、自分の不甲斐なさを突きつけられる気がした。
今は、違う。
堀北は、冷静に兄を見つめている。
『新入生の諸君、入学おめでとう』
兄の声が、マイクを通じて体育館に響く。低く、落ち着いた声。威厳と自信に満ちた声。
『この高度育成高等学校は、君達の実力を試す場所だ。ここでは、努力が報われる。だが、怠惰は許されない』
相変わらずの言葉。前回も、同じような祝辞だった。
『三年後、君達がどのような結果を手にするかは、君達自身の選択と行動にかかっている。健闘を祈る』
短く、簡潔な祝辞。無駄な言葉は一切ない。それが、堀北学という人間だ。
兄が壇上を降りる。
その背中を見ながら、堀北は心の中で呟いた。
(兄さん。私はもう、あなたの影を追わない)
三年間、兄の背中を追い続けた。認められたくて、必死だった。
けれど、それは間違いだった。
他者との比較に囚われている限り、本当の成長はない。
兄は兄。私は私。
今度こそ、自分自身の意志で、この学校を生き抜く。
ふと、視線を横に向ける。
隣の列に、綾小路が座っていた。
彼は相変わらず無表情で、壇上を見つめている。何を考えているのか、その顔からは読み取れない。
(今度こそ、私は――)
堀北は、静かに拳を握りしめた。
入学式が終わり、新入生たちは再び教室に戻った。
残りのホームルームを終え、今日の日程は全て終了となる。
茶柱が最後の連絡事項を告げ、教室を去っていく。
「じゃあ、カラオケ行こうよ!」
「いいね、いいね!」
生徒たちが、帰り支度を始める。
といっても、大半は遊びに行くようだ。
堀北は、席に座ったまま、タイミングを計っていた。
綾小路清隆。
彼は、既に荷物をまとめ、席を立とうとしている。
今だ。
「綾小路くん」
声をかける。
綾小路が、こちらを振り返った。
「少し話がしたいのだけど、いいかしら」
「別に構わないぞ」
短い返答。けれど、拒絶ではない。
二人は教室を出て、校舎の中庭へと向かった。
放課後の中庭は、まだ人が少なかった。
入学初日。しかも午前で終わりということもあり、多くの生徒は寮生活の準備をしたり、遊びに行ったり、広大な敷地内を探索したりしている。
堀北と綾小路は、木陰のベンチに腰を下ろした。
春の風が、穏やかに吹き抜けていく。
しばらく、沈黙が続いた。
堀北から話しかけたものの、どう切り出すべきか、少し迷っていた。
前回の記憶がある。綾小路がどんな人間か、知っている。
けれど、「知っている」ことを悟られてはいけない。
あくまで「初対面の相手に興味を持った」という態度で接する必要がある。
「綾小路くん」
「何だ」
「あなた、茶柱先生が学校のシステムを説明してる時に違和感を覚えなかった?」
綾小路が、僅かに眉を動かした。
「……どういう意味だ?」
「毎月10万ポイントが無条件で支給される。この学校は「実力至上主義」を謳っているのに、そんな甘い制度を設けると思う?」
沈黙。
綾小路は、じっと堀北を見つめている。
その目には、さっきまでの無関心とは違う光がある。興味か、警戒か、あるいは、その両方か。
「……続けてくれ」
「おそらく、ポイントには増減条件がある。私たちに知らされていない、隠されたルールがあるはずよ」
堀北は、慎重に言葉を選びながら続ける。
「今日のホームルームで、私が質問したでしょう。「ポイントの支給額は固定なのか」と。茶柱先生は、返答を拒んだ。「それは答えられない」と」
「確かにな」
「あの答え方は、「条件がある」と認めているようなものよ。もし本当に固定なら、「固定だ」と答えればいい。それをしなかったということは――」
「何かを隠している、ということか」
綾小路が、静かに言った。
堀北は頷く。
「私たちは、入学初日で既にテストされている可能性がある。何を、とはまだ分からないけれど」
「興味深い仮説だな。だが、証拠がない」
「そうね。だから、まずは情報収集から始めるべきだと思うの」
堀北は、綾小路の目を真っ直ぐに見つめた。
「お互いに」
その言葉に、綾小路の目が僅かに細くなった。
「……協力関係を結びたいのか?」
「提案よ。乗るか乗らないかは、あなた次第」
沈黙が、二人の間に流れる。
春風が、木々の葉を揺らす音だけが聞こえる。
綾小路は、しばらく考え込んでいるようだった。
何を考えているのか、その表情からは読み取れない。
やがて、彼は口を開いた。
「どうして、それをオレに話したんだ?」
予想していた質問だった。
「あなたが、このクラスで最も冷静に状況を判断できる人間だと思ったからよ」
半分は、嘘だ。
本当の理由は、この男を仲間にしたいから。
前回、綾小路は多くの場面でクラスを救った。彼の頭脳と観察眼がなければ、Dクラスは何度も危機に陥っていた。
けれど、彼は常に「裏方」だった。表に出ることを避け、一人で動いていた。
その理由も、堀北は知っている。少なくとも、推測はできる。
彼には、隠したい過去がある。目立つことを避ける理由がある。
だから、堀北から距離を置いた。だから、最後にはクラスを去った。
今回は、違う関係を築きたい。
彼を「道具」として使うのではなく、「仲間」として迎えたい。
そのためには、最初から対等な関係を提案する必要がある。
「入学初日に、そこまで考える生徒は少ない。でも、あなたは違う気がした」
「買いかぶりすぎだ。オレは、ただの平凡な生徒だぞ」
「そうかしら。……いいえ、疑うのはよくないわよね。もし、私の勘が外れていたなら、この話は忘れて」
堀北は、わざと軽く言った。
押しすぎてはいけない。引くことも必要だ。
綾小路は、また沈黙した。
そして――
「まあ、いいか」
「え?」
「特にやることもないしな」
綾小路の口元が、僅かに緩んだように見えた。
本当に僅かに。見間違いかもしれないくらいに。
けれど、堀北には分かった。
これは、彼なりの肯定の表現だ。
「……ありがとう。よろしくね、綾小路くん」
「ああ。よろしく、堀北」
握手はしなかった。
けれど、何かが始まった気がした。
前回とは違う、新しい関係が。
帰り道、堀北は一人で歩いていた。
綾小路とは、校門の前で別れた。彼は買い物に行くと言っていた。
今日一日を、振り返る。
クラスメイトとの出会い。Sシステムの説明。入学式。そして、綾小路との会話。
小さな変化が、いくつも積み重なっている。
櫛田との関係は、前回より良好だ。少なくとも、敵対はしていない。
平田とは、まだほとんど会話していないけれど、きっかけは掴めた。
そして、綾小路。
協力関係を結ぶことができた。これが、一番大きい。
けれど、油断はできない。
歴史を変えるということは、予測できない事態を招く可能性がある。
前回の知識が、いつまで通用するか分からない。
それでも、前に進むしかない。
止まっていたら、何も変わらない。
寮の建物が、見えてきた。
堀北は、空を見上げた。
晴天が、眩しい。
(今日は、いい一日だったわね)
そう思えることが、少し嬉しかった。
前回の入学式の日、堀北は孤独だった。他人との関わりを避け、一人で寮に帰った。
今日は、違う。
少しだけ、けれど確かに、違う。
この小さな変化を、大きな変化に繋げていく。
それが、堀北鈴音の二度目の高校生活だ。
寮の入り口で、ふと足を止めた。
ポケットから学生端末でもあるスマートフォンを取り出し、今日の日付を確認する。
四月。入学式の日。
三年後、自分はどこにいるだろう。
前回は、卒業式が終わった後、校門で泣いていた。
今回は――
「笑っていたい」
小声で、呟いた。
誰にも聞こえないように。
けれど、確かに口にした。
三年後、笑顔で卒業式を迎える。
それが、堀北鈴音の目標だ。
寮の扉を開け、中に入る。
明日から、本格的な学校生活が始まる。
授業、課題、特別試験。
乗り越えるべきことは、山ほどある。
けれど、今は――
今日という日を、噛みしめていたい。
堀北鈴音は、二度目の高校生活の、最初の一歩を踏み出した。