堀北鈴音は二度目の高校生活を諦めない   作:ほりきたすずね

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第8話:距離

 

 

 

 

 

 入学してから一ヶ月が過ぎた。

 

 五月の風が、校舎の窓から吹き込んでくる。

 

 堀北は、教室の自席で周囲を観察していた。

 

 Dクラスの空気は、一ヶ月前とは明らかに変わっている。

 

 ポイント激減の衝撃が、クラスに変化をもたらした。遅刻する生徒はいなくなり、授業態度も改善されつつある。完璧とは言えないが、着実に良い方向に向かっている。

 

 堀北自身の立場も、変わった。

 

 入学当初は「変なことを言う奴」と敬遠されていた。けれど今は、「先を見通していた奴」として、一定の信頼を得ている。

 

 平田との協力関係は順調だ。

 

 彼はクラスの中心として、生徒たちをまとめてくれている。堀北が直接言いにくいことも、平田を通せばスムーズに伝わる。

 

 軽井沢とも、少しずつ距離を縮めている。

 

 最初は警戒されていたが、何度か会話を重ねるうちに、彼女の態度が軟化してきた。まだ「友人」とは呼べないが、「敵ではない」程度の関係にはなれた。

 

 櫛田とは、適度な距離を保っている。

 

 彼女は相変わらず「クラスのアイドル」を演じている。堀北に対しても、にこやかに接してくる。その笑顔の裏に何があるか、堀北は知っている。けれど、今は敵対する必要はない。

 

 クラスメイトとの関係は、概ね良好だ。

 

 前回の入学時とは、比べものにならない。

 

 だが、一人だけ。

 

 距離を測りかねている相手がいた。

 

 視線を、隣に向ける。

 

 窓際の席で、一人の男子生徒が本を読んでいる。

 

 綾小路清隆。

 

 彼は相変わらず、「普通の生徒」を演じている。

 

 成績は平均。運動能力も平均。存在感は薄い。教室にいても、誰も彼のことを気に留めない。

 

 けれど、堀北は知っている。

 

 その全てが、演技だと。

 

 先日、彼は言った。

 

 「お前のことを、もっと知りたいと思ってる」と。

 

 その言葉は、堀北の胸に深く刻まれている。

 

 嬉しかった。

 

 前回の三年間、綾小路からそんな言葉を聞いたことは一度もなかった。彼は常に壁を作り、誰にも心を開かなかった。

 

 今回は違う。

 

 彼は、堀北に興味を持っている。

 

 それは、大きな進歩だ。

 

 けれど、同時に不安もある。

 

 彼が堀北に興味を持っているということは、堀北のことを観察しているということだ。

 

 堀北の「秘密」に、気づく可能性がある。

 

 

 

(慎重に、でも臆病にならずに)

 

 

 

 堀北は、自分に言い聞かせる。

 

 綾小路との関係を深めたい。彼を理解したい。彼に理解されたい。

 

 そのためには、リスクを恐れてはいけない。

 

 チャイムが鳴り、授業が始まる。

 

 堀北は、前を向いた。

 

 けれど、意識の片隅では、ずっと綾小路のことを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 

 図書室では、Dクラスの勉強会が行われていた。

 

 中間テストが近づいている。退学者を出さないために、みんなでなんとかしようという動きが生まれていた。

 

 平田が音頭を取り、成績の良い生徒が成績の悪い生徒を教えるという形式だ。

 

 堀北も、教える側として参加していた。

 

 

 

「堀北さん、ここが分からないんだけど……」

 

「ええ、ここはね……」

 

 

 

 数学の問題を教えながら、堀北は周囲を見回す。

 

 図書室の一角で、クラスメイトたちが真剣に勉強している。須藤でさえ、珍しく机に向かっている。

 

 良い傾向だ。

 

 このまま中間テストで良い成績を取れれば、クラスポイントの回復に繋がる。

 

 ふと、視線が一点で止まった。

 

 図書室の隅。

 

 綾小路が、一人で本を読んでいる。

 

 勉強会には参加せず、離れた場所で静かに過ごしている。

 

 いつもの光景だ。

 

 けれど、今日は違う行動を取ろうと思った。

 

 

 

「ごめんなさい、少し席を外すわ」

 

 

 

 教えていた生徒に断りを入れ、堀北は綾小路の元へ向かった。

 

 

 

「隣、いいかしら」

 

「……ああ」

 

 

 

 綾小路が、短く答える。

 

 堀北は、彼の隣に座った。

 

 しばらく、沈黙が続く。

 

 綾小路は本を読み続けている。堀北に話しかける気配はない。

 

 

 

「最近、あなたは何をしているの?」

 

 

 

 堀北から、話を切り出す。

 

 

 

「何って……普通に学校生活を送っているだけだが」

 

「嘘ね」

 

 

 

 綾小路が、僅かに眉を上げる。

 

 

 

「お前、よくその言葉を使うな」

 

「あなたが嘘ばかりつくからよ」

 

「手厳しい」

 

 

 

 綾小路が、本を閉じた。

 

 

 

「で、何が言いたい?」

 

「あなたは勉強会に参加しないのね」

 

「必要ないからな」

 

「必要ない? 中間テストが近いのに?」

 

「オレの成績は、平均程度あれば十分だ。それ以上を目指す理由がない」

 

 

 

 淡々とした答え。

 

 けれど、堀北は見逃さなかった。

 

 「平均程度あれば十分」という言葉の裏にある意味を。

 

 

 

「綾小路くん」

 

 

 

 堀北は、核心に踏み込むことにした。

 

 

 

「あなたの本当の学力は――全科目満点レベル。違う?」

 

 

 

 一瞬、空気が変わった。

 

 綾小路の目が、僅かに鋭くなる。

 

 

 

「……何を根拠に、そんなことを言ってるんだ?」

 

「勘よ」

 

「また勘か」

 

 

 

 綾小路が、呆れたように呟く。

 

 

 

「お前の勘は、随分と都合がいいな」

 

「そうかしら。私は、自分の直感を信じてるだけよ」

 

 

 

 綾小路は、じっと堀北を見つめている。

 

 その目には、警戒と興味が入り混じっている。

 

 

 

「どうして、そこまでオレに関心を持つ?」

 

「……分からない」

 

 

 

 堀北は、正直に答えた。

 

 

 

「ただ、あなたは私が思っている以上に重要な人間だという気がするの」

 

「重要? オレが?」

 

「ええ。根拠はないわ。ただの直感。でも、私の直感は、よく当たるの」

 

 

 

 前回の記憶が、そう告げている。

 

 この男がいなければ、Dクラスは初年度で崩壊していた。須藤の暴力事件も、無人島試験も、船上試験も。全て、綾小路が裏で動いたから乗り越えられた。

 

 その事実を、堀北は知っている。

 

 けれど、それを言葉にすることはできない。

 

 

 

「堀北」

 

 

 

 綾小路が、長い沈黙の後、口を開いた。

 

 

 

「お前の観察力は認める。普通の生徒なら、オレのことなど気にも留めない。それを、お前は入学初日から気にかけていた」

 

「……」

 

「だが、オレのことを掘り下げても、お前にメリットはない。オレは、お前が思っているほど大した人間じゃない」

 

「それは、あなたが決めることじゃないわ。私が決めることよ」

 

 

 

 堀北が、堂々と言い放った。

 

 

 

「……強情だな、お前は」

 

「よく言われるわ」

 

 

 

 綾小路は、しばらく堀北を見つめていた。

 

 そして、立ち上がる。

 

 

 

「そろそろ戻った方がいい。みんなが、待ってるだろう」

 

「ええ、そうね」

 

 

 

 綾小路は、本を抱えて歩き出した。

 

 その背中に、堀北は声をかけなかった。

 

 ただ、見送るだけ。

 

 

 

(前回、私はあなたを理解しようとしなかった。あなたを利用しようとしただけ。だから、最後まで心を開いてもらえなかった)

 

(今度は違う。あなたが何者であっても――私は、あなたを理解したい)

 

 

 

 堀北は、静かに決意を新たにした。

 

 

 

 

 

 

 

 数日後。

 

 夜、堀北のスマートフォンにメッセージが届いた。

 

 差出人は、綾小路清隆。

 

 

 

『少し話したいことがある。今から来れるか』

 

 

 

 堀北は、少し驚いた。

 

 綾小路から連絡が来るのは、珍しいことだ。しかも、夜に呼び出すなんて。

 

 

 

『分かったわ。今から行く』

 

 

 

 返信を送り、堀北は部屋を出た。

 

 夜の寮は、静かだった。

 

 廊下を歩き、男子寮へと向かう。

 

 綾小路の部屋の前で立ち止まり、扉をノックする。

 

 

 

「開いてる」

 

 

 

 中から声がして、堀北は扉を開けた。

 

 綾小路は、窓際に立っていた。

 

 カーテンが開いており、夜空が見える。月明かりが、部屋を淡く照らしている。

 

 

 

「珍しいわね。あなたから呼び出すなんて」

 

「ああ。少し、話したいことがあった」

 

 

 

 綾小路が、振り返る。

 

 その表情は、いつもより少しだけ柔らかいように見えた。

 

 

 

「堀北。お前は、オレのことを「重要な人間」だと言ったな」

 

「ええ」

 

「どうしてだ? オレは、何も特別なことをしていない。ただの、平凡な生徒だ」

 

「……本当にそう思ってるの?」

 

 

 

 堀北が、綾小路を見つめる。

 

 

 

「お前こそ、本当にオレが「平凡」だと思ってるのか?」

 

 

 

 二人の視線が、交錯する。

 

 月明かりの中で、互いの目を見つめ合う。

 

 

 

「……思ってないわ」

 

 

 

 堀北は、正直に答えた。

 

 

 

「あなたは、平凡なんかじゃない。あなたは――隠してる。本当の自分を」

 

「……」

 

「なぜ隠すの? なぜ、平凡を装う必要があるの?」

 

 

 

 綾小路は、窓の外を見つめた。

 

 長い沈黙が、流れる。

 

 やがて、彼は口を開いた。

 

 

 

「……オレは、普通の人間として生きたいだけだ」

 

「普通?」

 

「ああ。高校生らしい普通の生活を送ってみたい。少なくともこの三年間はな」

 

 

 

 その言葉には、どこか切実な響きがあった。

 

 普通の人間として生きたい。

 

 その願いの裏に、何があるのか。

 

 堀北は、問いかける。

 

 

 

「なぜ、それができないの?」

 

「……いつか、話すかもしれない。今は、まだその時じゃない」

 

 

 

 綾小路が、堀北に背を向ける。

 

 

 

「だが、お前には……いつか、話せるかもしれない」

 

 

 

 その言葉に、堀北は動揺した。

 

 「いつか、話せるかもしれない」

 

 それは、綾小路なりの信頼の表現だ。

 

 今は話せない。けれど、いつかは話したい。

 

 そう言っているのだ。

 

 

 

「待ってるわ」

 

 

 

 堀北は、静かに答えた。

 

 

 

「あなたが話してくれる時まで、待ってる」

 

 

 

 綾小路が、振り返る。

 

 その目には、驚きと、そして――どこか温かいものがあった。

 

 

 

「……ああ」

 

 

 

 短い返事。

 

 けれど、その一言には、多くの意味が込められているように感じた。

 

 月明かりが、二人を照らしている。

 

 静かな夜。

 

 二人の間に、新しい何かが芽生え始めていた。

 

 

 

 

 

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