堀北鈴音は二度目の高校生活を諦めない 作:ほりきたすずね
入学してから一ヶ月が過ぎた。
五月の風が、校舎の窓から吹き込んでくる。
堀北は、教室の自席で周囲を観察していた。
Dクラスの空気は、一ヶ月前とは明らかに変わっている。
ポイント激減の衝撃が、クラスに変化をもたらした。遅刻する生徒はいなくなり、授業態度も改善されつつある。完璧とは言えないが、着実に良い方向に向かっている。
堀北自身の立場も、変わった。
入学当初は「変なことを言う奴」と敬遠されていた。けれど今は、「先を見通していた奴」として、一定の信頼を得ている。
平田との協力関係は順調だ。
彼はクラスの中心として、生徒たちをまとめてくれている。堀北が直接言いにくいことも、平田を通せばスムーズに伝わる。
軽井沢とも、少しずつ距離を縮めている。
最初は警戒されていたが、何度か会話を重ねるうちに、彼女の態度が軟化してきた。まだ「友人」とは呼べないが、「敵ではない」程度の関係にはなれた。
櫛田とは、適度な距離を保っている。
彼女は相変わらず「クラスのアイドル」を演じている。堀北に対しても、にこやかに接してくる。その笑顔の裏に何があるか、堀北は知っている。けれど、今は敵対する必要はない。
クラスメイトとの関係は、概ね良好だ。
前回の入学時とは、比べものにならない。
だが、一人だけ。
距離を測りかねている相手がいた。
視線を、隣に向ける。
窓際の席で、一人の男子生徒が本を読んでいる。
綾小路清隆。
彼は相変わらず、「普通の生徒」を演じている。
成績は平均。運動能力も平均。存在感は薄い。教室にいても、誰も彼のことを気に留めない。
けれど、堀北は知っている。
その全てが、演技だと。
先日、彼は言った。
「お前のことを、もっと知りたいと思ってる」と。
その言葉は、堀北の胸に深く刻まれている。
嬉しかった。
前回の三年間、綾小路からそんな言葉を聞いたことは一度もなかった。彼は常に壁を作り、誰にも心を開かなかった。
今回は違う。
彼は、堀北に興味を持っている。
それは、大きな進歩だ。
けれど、同時に不安もある。
彼が堀北に興味を持っているということは、堀北のことを観察しているということだ。
堀北の「秘密」に、気づく可能性がある。
(慎重に、でも臆病にならずに)
堀北は、自分に言い聞かせる。
綾小路との関係を深めたい。彼を理解したい。彼に理解されたい。
そのためには、リスクを恐れてはいけない。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
堀北は、前を向いた。
けれど、意識の片隅では、ずっと綾小路のことを考えていた。
放課後。
図書室では、Dクラスの勉強会が行われていた。
中間テストが近づいている。退学者を出さないために、みんなでなんとかしようという動きが生まれていた。
平田が音頭を取り、成績の良い生徒が成績の悪い生徒を教えるという形式だ。
堀北も、教える側として参加していた。
「堀北さん、ここが分からないんだけど……」
「ええ、ここはね……」
数学の問題を教えながら、堀北は周囲を見回す。
図書室の一角で、クラスメイトたちが真剣に勉強している。須藤でさえ、珍しく机に向かっている。
良い傾向だ。
このまま中間テストで良い成績を取れれば、クラスポイントの回復に繋がる。
ふと、視線が一点で止まった。
図書室の隅。
綾小路が、一人で本を読んでいる。
勉強会には参加せず、離れた場所で静かに過ごしている。
いつもの光景だ。
けれど、今日は違う行動を取ろうと思った。
「ごめんなさい、少し席を外すわ」
教えていた生徒に断りを入れ、堀北は綾小路の元へ向かった。
「隣、いいかしら」
「……ああ」
綾小路が、短く答える。
堀北は、彼の隣に座った。
しばらく、沈黙が続く。
綾小路は本を読み続けている。堀北に話しかける気配はない。
「最近、あなたは何をしているの?」
堀北から、話を切り出す。
「何って……普通に学校生活を送っているだけだが」
「嘘ね」
綾小路が、僅かに眉を上げる。
「お前、よくその言葉を使うな」
「あなたが嘘ばかりつくからよ」
「手厳しい」
綾小路が、本を閉じた。
「で、何が言いたい?」
「あなたは勉強会に参加しないのね」
「必要ないからな」
「必要ない? 中間テストが近いのに?」
「オレの成績は、平均程度あれば十分だ。それ以上を目指す理由がない」
淡々とした答え。
けれど、堀北は見逃さなかった。
「平均程度あれば十分」という言葉の裏にある意味を。
「綾小路くん」
堀北は、核心に踏み込むことにした。
「あなたの本当の学力は――全科目満点レベル。違う?」
一瞬、空気が変わった。
綾小路の目が、僅かに鋭くなる。
「……何を根拠に、そんなことを言ってるんだ?」
「勘よ」
「また勘か」
綾小路が、呆れたように呟く。
「お前の勘は、随分と都合がいいな」
「そうかしら。私は、自分の直感を信じてるだけよ」
綾小路は、じっと堀北を見つめている。
その目には、警戒と興味が入り混じっている。
「どうして、そこまでオレに関心を持つ?」
「……分からない」
堀北は、正直に答えた。
「ただ、あなたは私が思っている以上に重要な人間だという気がするの」
「重要? オレが?」
「ええ。根拠はないわ。ただの直感。でも、私の直感は、よく当たるの」
前回の記憶が、そう告げている。
この男がいなければ、Dクラスは初年度で崩壊していた。須藤の暴力事件も、無人島試験も、船上試験も。全て、綾小路が裏で動いたから乗り越えられた。
その事実を、堀北は知っている。
けれど、それを言葉にすることはできない。
「堀北」
綾小路が、長い沈黙の後、口を開いた。
「お前の観察力は認める。普通の生徒なら、オレのことなど気にも留めない。それを、お前は入学初日から気にかけていた」
「……」
「だが、オレのことを掘り下げても、お前にメリットはない。オレは、お前が思っているほど大した人間じゃない」
「それは、あなたが決めることじゃないわ。私が決めることよ」
堀北が、堂々と言い放った。
「……強情だな、お前は」
「よく言われるわ」
綾小路は、しばらく堀北を見つめていた。
そして、立ち上がる。
「そろそろ戻った方がいい。みんなが、待ってるだろう」
「ええ、そうね」
綾小路は、本を抱えて歩き出した。
その背中に、堀北は声をかけなかった。
ただ、見送るだけ。
(前回、私はあなたを理解しようとしなかった。あなたを利用しようとしただけ。だから、最後まで心を開いてもらえなかった)
(今度は違う。あなたが何者であっても――私は、あなたを理解したい)
堀北は、静かに決意を新たにした。
数日後。
夜、堀北のスマートフォンにメッセージが届いた。
差出人は、綾小路清隆。
『少し話したいことがある。今から来れるか』
堀北は、少し驚いた。
綾小路から連絡が来るのは、珍しいことだ。しかも、夜に呼び出すなんて。
『分かったわ。今から行く』
返信を送り、堀北は部屋を出た。
夜の寮は、静かだった。
廊下を歩き、男子寮へと向かう。
綾小路の部屋の前で立ち止まり、扉をノックする。
「開いてる」
中から声がして、堀北は扉を開けた。
綾小路は、窓際に立っていた。
カーテンが開いており、夜空が見える。月明かりが、部屋を淡く照らしている。
「珍しいわね。あなたから呼び出すなんて」
「ああ。少し、話したいことがあった」
綾小路が、振り返る。
その表情は、いつもより少しだけ柔らかいように見えた。
「堀北。お前は、オレのことを「重要な人間」だと言ったな」
「ええ」
「どうしてだ? オレは、何も特別なことをしていない。ただの、平凡な生徒だ」
「……本当にそう思ってるの?」
堀北が、綾小路を見つめる。
「お前こそ、本当にオレが「平凡」だと思ってるのか?」
二人の視線が、交錯する。
月明かりの中で、互いの目を見つめ合う。
「……思ってないわ」
堀北は、正直に答えた。
「あなたは、平凡なんかじゃない。あなたは――隠してる。本当の自分を」
「……」
「なぜ隠すの? なぜ、平凡を装う必要があるの?」
綾小路は、窓の外を見つめた。
長い沈黙が、流れる。
やがて、彼は口を開いた。
「……オレは、普通の人間として生きたいだけだ」
「普通?」
「ああ。高校生らしい普通の生活を送ってみたい。少なくともこの三年間はな」
その言葉には、どこか切実な響きがあった。
普通の人間として生きたい。
その願いの裏に、何があるのか。
堀北は、問いかける。
「なぜ、それができないの?」
「……いつか、話すかもしれない。今は、まだその時じゃない」
綾小路が、堀北に背を向ける。
「だが、お前には……いつか、話せるかもしれない」
その言葉に、堀北は動揺した。
「いつか、話せるかもしれない」
それは、綾小路なりの信頼の表現だ。
今は話せない。けれど、いつかは話したい。
そう言っているのだ。
「待ってるわ」
堀北は、静かに答えた。
「あなたが話してくれる時まで、待ってる」
綾小路が、振り返る。
その目には、驚きと、そして――どこか温かいものがあった。
「……ああ」
短い返事。
けれど、その一言には、多くの意味が込められているように感じた。
月明かりが、二人を照らしている。
静かな夜。
二人の間に、新しい何かが芽生え始めていた。