個性、海神 ── 神の血を引く少女は雄英に立つ 作:一夏 茜
「というわけで鉄哲と塩崎が繰り上がって16名。抽選の結果、組はこうなりました!」
ドッと上がる歓声と共に私はトーナメント表を見上げる。私の相手は──三奈だ。
峯田と上鳴に騙されてチアの格好をさせられたことは置いておこう。
レクリエーションが終わってこれから始まるのは、一対一のトーナメント。尾白と庄田という生徒が辞退するハプニングもありつつ……代わりにB組の2名が繰り上がった。
そうそう、私はレクには参加しないことにした。休んだら頭痛もちょっとはマシになるかもしれない。少しでも体力を取り戻しておきたかった。そして、あっという間に時はくる。
緑谷と心操という生徒の試合。
私は観客席で見ていたのだが……緑谷は、試合が始まってすぐに固まってしまった。
『緑谷!! 開始早々、完全停止!?!?』
私は指を唇に当てて考え込んだ。十中八九、相手の個性だろうけど、なんだろう。
そのまま緑谷は、線の外へ向かって歩き出す。
だが緑谷は突然、線の前で止まった。緑谷の指は赤黒く腫れ上がっている。私は今、体力テストの時のことを思い出していた。指を暴発させて意識を取り戻したのだろうか。
緑谷はそのまま心操を線の方へ押していき、最終的に背負い投げて線の外に叩きつけた。
次は、轟と瀬呂。
その試合はまさに一瞬で終わった。瀬呂は合図と同時に轟にテープを巻きつけて外に出そうとする。その判断は合理的だし理に適ってる。だが……。
その刹那に繰り出された、氷結の凄まじさ。鼓膜を直接引き裂くような凍結音がスタジアム中に轟く。視界直前には氷が迫っていた。空気が一瞬にしてマイナス数度まで引きずり落とされる。
私は上を見上げる。天井に届かんばかりの勢いで垂直に立ち上がった氷の巨壁。氷柱の先端はあまりの勢いに鋭利な刃と化し、まさに上空を覆う雲さえも貫こうと咆哮を上げているようだった。
観客が悲鳴を上げる暇すらない沈黙の中、次第に大きく響くのはドンマイコール。
そして……轟のその背中。
轟が、凍てついた瞳をさらに深く沈ませ、瀬呂の氷を溶かす様子を見て……。
私は今更ながら、かける言葉を間違ったと思ってしまった。
次は塩崎と青山。塩崎の圧勝だった。
試合開始の合図と共に、青山が腰のベルトからネビルレーザーを放つ。
「メルシー! さあ、僕の輝きに跪くがいいよ!」
「不意を突くのが策とはいえ……勝利という果実を急ぎ、光に頼るのは慢心です」
閃光が一直線に塩崎を襲う。
彼女が静かに背を向けた瞬間、頭部の蔓が爆発的な速度で伸長した。
地面から、背後から、空間を埋めるように蔓が静かに、確実に伸びてくる。対して青山は、レーザーを撃つがかわされ、次々蔓が増える。青山は焦ってどんどんレーザーを打つ。
青山だってまるっきりバカじゃない。正面から撃ってもダメだと把握してなんとか距離を取ろうとする。角度を変え、レーザーで蔓を焼き切る瞬間もあって、私は「お?」ってなった。
でもね。
すぐに反動が来て、青山はお腹を抑えて動けなくなる。そしてその隙を、塩崎は見逃さない。いや、見逃さないと言うより待っていたのか。蔓が足を絡め、腕を縛り、完全拘束。
次は飯田と発目というサポート科の生徒。
これは発目のテレビ通販と化していた。飯田にサポートアイテムを付けさせて、思う存分彼女はよく通るマイクで発明品の説明をする。そして満足した発目が場外へ出て決着はつく。
そして──次は私の番。
『イェア!! 続いての登場はこいつだァ!! 水があれば無敵! なきゃただのプリティ・ガール!? ヒーロー科、ガラテア・ジャクソン!!!』
私は髪を縛るとふうと息を吐いた。目の前の三奈はよく身体を伸ばしている。
『バーサス!! あの角からなんか出んの? ねえ出んの? ヒーロー科芦戸三奈!!』
「プールならともかく、流石に負けないよ〜」
と三奈はニンマリ笑って言う。私はそれには応えなかった。
『さあ、行ってみようか!! 第五試合スタート!!』
プレゼント・マイクの絶叫が響くと同時に、三奈が弾けた。
「まずは先手必勝! アシッド・レイバック!!」
彼女は足の裏から酸を噴射し、氷上のスケーターのような滑らかな動きで間合いを詰めてくる。同時に、両手から放たれた強酸の塊が、放物線を描いて私へと迫った。
私は飛びさすりそれを避ける。次の瞬間、地面が溶けた。酸が弾けるように広がり、後方へ跳んでいた私は冷や汗を流す。靴底がじゅっと嫌な音を立てた。
水がない。
あるのは、乾いた空気と、自分の身体だけ。
三奈は跳ねるように前へ出た。私は咄嗟に回し蹴りを叩き込むが、ブレイクダンスみたいな動きでそれを避け、地面を蹴り、酸を滑走路に変えて距離を詰める。
ヘルメスが彼女のダンスを見たら、きっと引退を考えるだろうね。それくらい彼女の動きは完璧だった。溶けそうな私の靴底以外は。
「止まってたら溶けちゃうよー!」
酸の弾幕。
私は腕で顔を庇いながら、最小限の動きでかわす。だが三奈は、空中で酸を飛ばしながら足元にも酸を敷いていた。
避けようとした瞬間、足を取られて尻餅をついた。
手のひらを焼けるような痛みが走り、息が詰まる。皮膚が、肉が溶けていく。そして目の前には酸の弾幕。
あ、負けるかもって理性が囁く。もし私がここで酸に溶けて死んだら、パパは私のことを『失敗作』として神話に書き残すんだろうか。そんなの冗談じゃない。でも指が震えて力が入らない。視界の端が欠ける。
咄嗟に、酸を睨んで操作を試みた。
だが、酸が一瞬歪むだけ。鈍器で殴られているような頭痛が、立て続けに降ってきた。
咄嗟に庇った自分の腕が焼けるのを揺れる視界で捉える。
「効いてないよ!」
でも三奈はすぐに酸の濃度や噴射量を変える。出力を強めた。地面だけじゃなく、空間を制圧し始める。酸が、肌を焦がしてヒリヒリとした痛みを感じさせる。
酸が舞う刹那、私は腕に付着したその水滴を見ていた。肌を焦がすその水滴。これは「液体」だ。 液体なら、支配できるはず。
視界が白くなる。耳鳴りがして、鼻の下にぬるりとした感触。
祈りは必要ない。ただ、命じればいい。
できるはず。そうだよね、パーシー。
私は脳が焼き切れそうな痛みに耐え口端を上げた。その酸の中の水分を、操る。命令する。手をかざすと、飛来する酸が空中でピタリと静止し、彼女の意志に従って渦を巻いた。
肺が焼け付くような痛み。空中で私を焼き尽くすはずだった酸が、私の指先の動き一つで停止する。
「え……?」
三奈の動きが止まる。私はその酸を、まるで粘土細工のように丸め、“圧縮弾”にして放った。
三奈の目を見開いた「マジか」って顔を見て私は笑った。
「わわわわっ!!」
『どうしたどうした!? ジャクソン酸まで操れるのか? なんでもありだな、シヴィー』
なんでもありだって?
実況席の彼には、私の脳みそがレンジで加熱されたチーズみたいに沸騰してるのが見えてないらしい。
酸の水流は震えて、千切れそう。完全には制御できてない。水圧が暴走して自分が弾き飛ばされるが、場外の寸前で堪える。私の血管の中で、ポセイドンの血が汚泥のように沸騰しているのを感じていた。
この、強烈な酸の水圧の衝撃波。
だが酸を操られても、三奈は地面を蹴って跳ぶ。やっぱり来た。三奈はこういう時、ビビらない。風向きが変わった瞬間、渦の隙間から視界ゼロの中で突っ込んでくる。
酸が引っ張られるのを感じた。これは支配権の奪い合いだ。
私は目を細めて首を傾げ、鳩尾からぐいっと引っ張った。
その酸の渦を巻く流れは、元の支配者である三奈に激しくぶつかる。三奈は「あっ」という顔をして弾かれた。酸では三奈にダメージを与えられない代わりに、その水圧は鋭く肌を切り裂くが、致命傷を与える前に意地で操作をする。
三奈は運動神経がいい。それこそ、私よりも。転んでもすぐ立て直す。ここを越えられたらもう、間に合わない。
押し出すしかない。三奈の背後、そこが場外だ。
私は舌打ちをこぼした。
まだ、水圧が強すぎる。これでは殺してしまう。酸をどうにか操る。その水流の激しさに観客がどよめき、ミッドナイトが止めようと迷っている顔が視界で見えた。
目の前がチカチカして、私は鼻を拭う。
そして次の瞬間、私は目を疑った。三奈は、酸を自分ごと引き寄せる。酸を引き寄せる力は私の方が強い。それを利用して同時に飛び込んでくる。
私は咄嗟に、”押した”。そして瞬間、唇を噛んだ。やりすぎた。
奔流に三奈の体は抵抗する術もなく土俵際まで押し流され、車に撥ねられたように一気に場外へ押し出された。
「芦戸さん場外! ジャクソン選手、次戦進出!!」
歓声が降ってくる。 けれど、私は自分の右手の震えを隠すように拳を握りしめた。酸を操るとき、悪意が湧いてきた。脳裏に響いたのは、水の囁きじゃない。傲慢で冷徹な支配欲。水を操るのとは、どこか決定的に違う。
私は暗い瞳で手のひらを見た。
おめでとう、ガラテア。あんたは今日、友達を数メートルぶっ飛ばして、ついでに自分の人間性も少し削り取った。オリンポスの神々なら、きっと立ち上がって拍手してくれるような最低の初陣だ。素晴らしいよ本当。
賭けには勝った。確かに一つ、私は高みに登ったんだろう。 けれど、引き換えに差し出したのは人間性だ。内臓を素手で掴まれたような吐き気。自分の魂まで酸で溶かされていくような、あのおぞましい感覚。
最悪なのは、次からはもっと「簡単に」これを使える自信があることだ。
私は一度も振り返らずに、冷たい空気の残るステージを後にした。
──
第六試合。常闇対、八百万。
ここで勝った方と私は戦うことになる。
八百万が盾を生成し、続けておそらく武器を生成しようとするが、常闇はその隙を一才与えない。
常闇は八百万の持つ盾に攻撃を集中させて、そのまま場外へ押し出した。
と言うことは──次戦うのは常闇とか。
第七試合は切島と鉄哲の殴り合い。引き分けだった。
第八試験は、爆豪対、麗日。
「次、ある意味最も不穏な組ね」と梅雨ちゃん。
隣の響香も腕をさすりながら言う。
「うち、なんか見たくないな」
開始と同時に、麗日は爆豪に距離を詰めようとするが……爆豪がそれを見逃すはずもなく、爆破。
麗日は触れなければ発動できない個性。爆豪に触ろうとひたすら麗日は攻めるが、爆豪は一才の容赦をしない。
『麗日!! 休むことなく突撃を続けるが……これは』
「おい!! それでもヒーロー志望かよ! そんだけ実力差あるなら早く場外にでも放り出せよ! 女の子痛ぶって遊んでんじゃねえ!!」
「そうだそうだ!」
どこかのバカな、底辺ヒーローがなんかいってら。
「バカだね、あいつら」
私は呟くと、ただ目を細めて試合を見ていた。隣で響香が目を丸くした。
「どう言う……」
「爆豪は麗日を格下だなんて思ってない。ちゃんと脅威に感じてるからあんなに必死になってるんでしょ。それに……麗日は強いよ」
私は『上』を指差した。
やけになっているように見えたのは、爆豪の打点を下に集中させるため。そして『武器』を蓄えるため。
頭上には瓦礫が……一気に大量に落ちてくる。
それで隙を狙ったのだろう。
だが爆豪は手のひらを上へ向けて、爆撃を放った。全て瓦礫を一撃で跳ね返す。かなりの威力だ。
そして……それでも麗日は走ろうとして崩れ落ちた。倒れ込み、ダウン。
「麗日さん行動不能。二回戦爆豪くん!!」
ちなみに引き分けだった切島と鉄哲。二回戦に進むのは切島らしい。鉄哲と腕相撲で対決していた。
そして……二回戦、第一試合は──。
──緑谷対、轟。
開始と同時に轟の氷が緑谷に最大出力で襲い掛かり、緑谷はあの豪傑な力で指を弾き氷を砕く。冷たい突風が観客席を吹き抜ける。
氷が一瞬で緑谷に迫り、また緑谷が風圧で吹き飛ばす。
だが、轟は、怯むことなく緑谷に接近していく。
緑谷は、もう腕が使い物にならないぐらいにぐにゃぐにゃだ。でも──
緑谷は壊れた指でもう一度個性を使った。およそ人の肌とは思えないほどの濃い紫の腕。複雑骨折どころじゃない。
その痛みは想像を絶するものだろう。痛いだろう。辛いだろう。でも……緑谷の目は死んでない。
それだけの覚悟があるのだ。
それに対して、轟は動きが鈍い。おそらく使えば使うほどキャパメモリが小さくなっていくのだろう。私も同じような感じだから分かる。
緑谷は本当にどんどんボロボロになっていく。でも、轟の腹に一発入れる。お互いに一歩も引かない。
今も轟を、緑谷は殴り飛ばす。
彼らの間で、なんと言葉を交わしているかは分からない。
でも……あの瞬間、轟の瞳に力が宿った。その瞬間を確かに見た。
炎が轟の左を纏って、いく。
あれだけ使うのが嫌だと言っていた轟に左を使わせた。それは負けそうになったからとかそう言う理由じゃないだろう。轟だってそんな程度の覚悟じゃなかった。
緑谷の言葉だ。
きっと彼を動かしたのは緑谷なんだ。
緑谷がボロボロの腕を振り抜き、轟が炎を叩きつけるその瞬間。その場の空気が一気に膨張する。
熱風が吹き荒れる観客席で私は目を見開いていた。
──
私は控え室でパイプ椅子に座っていた。
頬杖をつきながら緑谷のことを考える。
私じゃダメだった。轟の気持ちを変えることも、少しでも上向きにすることも、叶わなかった。
ただ私が言いたいこと言ってスッキリしただけ。
それに比べて緑谷は、確かに人のために動いたんだ。
なりたい自分を──ヒーローを、目指す中でそんな緑谷の背中は印象的だった。
『なりたい自分』
それは私にとって『パーシーよりも強く、偉大なヒーロー』という意味を孕んでいる。
例に出すには向いていないが……爆豪は多分、ナンバーワンヒーローになることが、『なりたい自分』になるってことなのだと思う。前にオールマイトを超えるとか言ってたし。
だから私は引っ張られて、『パーシーを越えたヒーロー』になるって考えたけど。
それってどういうヒーローなんだろう。
今、何より私のために、私が一番目指すべきものは──。
今も、『パーシーよりも強く、偉大なヒーロー』になりたい。
そう、私のままで。
ただ背を追って『ガラテア』を捨てて『パーシー』になることは、誰かを傷つけることだと知ったから。
『入試実技、圧巻のトップ通過!! なのに筆記はボロッボロ! これぞ天は二物を与えずってかァ!? ガラテア・ジャクソン!!』
『バーサス!! その頭、羽毛なの!? それとも地毛!? シャンプー何使ってんのォ!? 影に住まうモンスター、ダークシャドウを操る闇の騎士!! ヒーロー科、常闇踏陰!!!』
『スタート!!!!』
合図とともに、常闇が個性を展開する。
「行け、ダークシャドウ!」
常闇の声に応え、解き放たれた影の怪物が咆哮を上げる。
その影は私のパーソナルスペースを土足で踏み荒らしてくる。その巨大な鳥の影が、私をバラバラにしたがってるのは、見ればわかった。
私は反射的に地面を蹴り、後方へ身を投げた。影の一撃が頬を掠め、遅れて背筋に冷たい汗が走る。
出し惜しみしてる場合じゃないってわけね。
常闇は、長い射程距離を誇る個性を持つ。威力の高い攻撃で相手を近づけさせず畳み掛けることができ、中距離戦が得意なタイプ。
喉がジリつく。最悪だ。ステージの空気は砂漠みたいに乾燥して、父さんがくれた「海」の気配なんてどこにもない。あるのは血の粘度が変わる感覚。
私は目を閉じて、力を抜いた。抵抗しない。
『おいおい諦めたのか? ガラテア・ジャクソンの快進撃もここまでかーー?』
『いや、待て』
ダークシャドウに掴まれて地面に叩きつけられる。痛みとともに肘、手の甲、こめかみが裂けた。
ぽた、と地面に落ちるその一瞬。 常闇が一瞬、視線を落として、すぐに目を見開いた。その血は地面に落ちない。落ちるはずの血が、途中で止まる。
止血なんてしないよ。
もったいないでしょ、せっかく水分が手に入ったっていうのに。
瞬間、私は流れる血を傷口から引き寄せて、薄いカミソリを作った。あえて一つにはまとめずにいくつも空中で展開させる。
──攻める。私には攻めるしか道はない。
逃げれば楽だろう。でもそれを選んだ瞬間、私は自分に負ける。
それじゃ欲しいものが手に入らない。
刃を、叩きつける。
「ギガァッ……!? 影を斬られた……!?」
ダークシャドウが悲鳴を上げる。影の密度を水圧で強引に貫通した。
ダークシャドウはこのくらいの距離が強い。接触圏に引き摺り込まないと。
私は駆ける。距離を詰めたその時、ダークシャドウが私と彼の間に滑り込んだ。影が地面を這い、壁のように立ち上がる。斬ったはずの影が、闇を寄せ集めるように再構築されていく。
──再生早いな。
血の刃を振るうたび、頭の奥がきしむ。
血は、もう限界まで引き出している。力になるはずのそれが、今はただ重い。失血の冷えと、脳を直接掻き回されるような痛みが同時に押し寄せる。
時間がない。あと持って、数分だ。血を操ると自分が薄くなる感覚がする。存在が輪郭から削れていくみたいに。そんな冷たい感覚。
でも、……いや、だからこそ止まれない。引くわけにはいかない。
私は血の刃を分散させ、地面すれすれを滑らせる。影の足元を削り、ダークシャドウの動きを一瞬だけ鈍らせた。
その一瞬を、私は逃さない。
地面を思いっきり蹴り付けて距離を詰める。
「……っ!」
ダークシャドウが腕を振り上げるのが刹那にわかった。直撃すれば終わりだ。骨ごと持っていかれる。
私は跳んだ。
血の刃を足元に叩きつけ水圧で自分を弾く。無茶な軌道だ、でも私ならいける。
着地と同時に、常闇の懐。
私は傷口からさらに追加で血を引き出す。喉がジリジリと焼けて視界の端が暗む。血は刃じゃない。“縛る”ためのものだ。血の帯が、ダークシャドウの腕に絡みつく。
影が唸り、暴れる。
「拘束……!?」
常闇が歯を食いしばる。ダークシャドウの制御が一瞬、乱れた。私はそれを見逃さない。血の帯を引く。引きずって場外へ投げようとする。
だが当然、ダークシャドウが私の背後から牙を剥いた。
私は咄嗟に血を広げて衝撃を和らげる。薄く霧のように水分を含んだ血の膜が、ダークシャドウと私の間に展開される。
でも吹き飛ばされた。そう上手くはいかないか。
背中から地面に叩きつけられ、息が詰まる。口の中に鉄の味が広がった。意識が遠ざかりかけて私はキツく歯を食いしばった。
一瞬、本当に終わりかけた。
アレスの息子に殴られるよりはマシだけど、それでも脳みそがシェイクされる感覚は、何度味わっても慣れない。
なんとか膝を立てて立ち上がる。常闇もまた、膝をついていた。ダークシャドウが不安定に揺れ、形を保てずにいる。
私はふらつく足で一歩、踏み出した。
血が足りない。視界が急速に狭まり、頭の奥で水の存在だけがやけに鮮明に囁いている。自分の中が空洞になっていく感覚が、はっきりわかる。このままじゃ、立っていられない。
やめろって、理性が叫んでる。それは他人の命を、操り人形に変える行為だ。触ったら、戻れない。
でも思った、思ってしまった。
──あるじゃん。ここに、水が。
私は血を、細い針のように圧縮した。何本もそれを作って、あらゆる角度から一気に刺す。狙いは──。
──常闇の、血。
これで時間がないのは私だけじゃない。
おめでとうガラテア。あんたは今、世界で一番性格の悪い鍼灸師になった。
正直今もやめろって、理性が叫んでる。でも勝つって決めたんだ。 私は、私のままヒーローになるって。
強くなるって──!!!!
私は指先を向けた。
祈りはいらない。命令を下す。常闇くんの血管の中を流れる「海」に、私の意志を叩き込んだ。
「恨まないでほしいけど、無理かな」
常闇の体から血が流れ出て拘束する。もちろん致命に届かない重さで。流れを重くして、身体の動きを奪う。
思わず、ダークシャドウが守りに入った一瞬。それでも常闇は歯を食いしばり、影を立て直そうとした。
だが、無理やり重力を押し付けられたみたいに、常闇の膝が折れた。彼の体内の流れを、私が上書きしただけ。 彼の心臓は私の指先一つで早鐘を打ち、あるいは石のように重くなる。
極め付けに血が拘束具のように足を、腕を、地面に縫い止める。
「……ッ!」
常闇が倒れ込み、動かない。動けない。
『常闇、ダウン!!』
『勝者──ガラテア・ジャクソン!!』
歓声が、遅れてやってきた。私は、その場に立ったまま動けなかった。でも自分の右手の震えを隠すように、強く拳を握りしめた。
常闇の倒れた姿を見下ろす私の瞳は、きっと、深海の底みたいに暗く濁っているはずだ。
血を操る感覚が、まだ指先に残っている。自分だけじゃない、初めて他人の血を操った。
多分、やっちゃいけないことだ。パーシーなら、やらない。
パーシーを目指すならやっちゃいけない行為。
でも……私はそれでも強くなりたかった。
そのために、勝たなくてはならなかったんだ。
私は一度も振り返らずにステージを後にした。
思う。
勝ったのに、あんまり誇らしくない勝ち方だって。
でも──あの場で引かなかった自分を、私はきっとこれからも嫌いになれない。