個性、海神 ── 神の血を引く少女は雄英に立つ   作:一夏 茜

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爆竹少年から、死ぬほど辛い『友情の印』を授かる

 

 病病室の窓から、音もなく滑り込んできたのは、翼の生えたナルシストこと慶悟くん(本名で呼べと、病人にまで圧をかけてくるワーカーホリック)だ。

 

「随分無理したみたいだねぇ〜、お嬢さん」

 

 羽を一枚、名刺代わりに私の枕元へ滑り込ませて、彼はヘラヘラと笑う。私が重傷を負ったことまで筒抜けらしい。公安の耳っていうのは、病室の壁すら突き抜けるのか。

 

「まーね。派手に壊れちゃった」

「…………」

 

 慶悟くんは何を言うでもなく私を見た。その時軽薄な声とは裏腹に、慶悟くんの目が笑っていないことに気づく。

 彼は黙ったまま歩み寄ってくると私のベッドの端に腰を下ろした。そして折れた方の腕をじっと見つめている。水に入った時点で治ってた腕を気にするとは、公安の情報力には恐れ入る。

 窓から入り込む夕闇が、彼の長い睫毛に影を落としていた。いつもなら未来を見据えているはずのその瞳が、今はただ、私の肌に残る傷跡に縛り付けられている。

 その沈黙が、USJの空気より重い。

 

「ハーーーーーー……。……ほんと、心臓に悪いって。心配させないでよ」

 

 

「心配とかしたんだ」

 

 私はつい言ってしまった。

 

 

「ハ????? ……自分、マジで言っとるん?」

 

 慶悟くんの貼り付けていた笑顔が剥がれた瞬間だった。

 

「こっちは仕事中に血の気が引いて、心臓止まるかと思ったんよ? 」

 

 

 死ぬほど心配させていたらしい。方言が彼の素なのだろうか。

 慶悟くんはそのまま、私の粉砕されたはずの右腕——今はもう水で治っているけれど、まだ熱を持っている場所——に、そっと自分の額を預けた。 大人の男の、重くて熱い体温が伝わってくる。彼の香水の匂いが、消毒液の匂いを塗りつぶしていく。

 

 羽が夕日に当たってキラキラと赤く輝くその翼。素直に綺麗だと思った。

 いつも思ってる、願ってる。

 空を羽ばたくその『翼』が折れず、曲がらず、のびのびと世界を飛び回ることを。

 張り詰めた息が腕にかかって、私はそっと髪を撫でた。

 慶悟くんって思ったより優しい奴なんだな、とか。本気で私に気を許していたんだ、とか。

 色々思ったけど、一番は──。

 

 この時、私は──この世界で誰かの大切な人になれたんだと気づいた。

 

 なんで私なんかに……と思いかけてやめた。

 きっと私は気づいていなかっただけで、ずっと──。

  私が「英雄の代わり」になろうとしていた間、この男は、ただの「ガラテア」を心から大事に思ってくれてた。

 多分私自身よりも。

 

 

──

 

 

 「あ、爆竹くんじゃん。え、見舞いに来る情緒とかあったんだ〜」

 

 ちゃんとノックして、どかどか病室に入ってきた爆豪に向かって私は手を振る。

 爆豪は険しい表情で私をギッと睨みつけた。だが何を怒鳴るでもなく、黙り込んでいる。どうしたんだろ、庇ったのがプライド傷つけちゃったのかな。

 

 何秒だっただろうか? 

「……っ、チッ」

 苛立ちを隠そうともしない舌打ちが、無機質な病室に響いた。顔を背けながら爆豪が吐き捨てる。

 

「……ふざけんな。誰があんなこと頼んだ。俺が、あの程度の雑魚に遅れをとるとでも思ったか。あぁ!?」

「ごめん」

 あの脳無を”雑魚”と言うとはね。

 だがその拳は、白くなるほど握りしめられていた。怒りで肩が小刻みに震えている。それは私への怒りか、あるいは、助けられてしまった自分への不甲斐なさか。

 

「テメェ、俺を庇った時……自分の命なんて、これっぽっちも数に入れてなかったろ。『死んでもいい』自分の命に、価値なんてねえと思ってやがった」

 

 私は何も言えない。その通りだったから。爆豪って意外と他人の心情に気を配る繊細さも持ってたんだな。

 

「俺は借りを作ったままなのが一番嫌えだ」

 

 おそらくそれが一番の本音だろう。苦しそうに爆豪は言う。

 

「……勝手に恩に着せるみてえに目の前で死なれるのが、一番ムカつくんだよ。そんなモン……一生、テメェの負け顔がチラつくだろうが。死ぬなら俺のいないところで死ね!!」

 

 爆豪はそれを言いながら私のベッドに紙袋を叩きつけた。響くのは紙袋のガサッという音。中身を覗き込むと辛いことで有名なチップスが入ってた。土産の品まで完備とは。ふと私は気になって尋ねてみることにした。

 

「あのさ、爆豪がそんなに頑張るのって……やっぱ『なりたい自分』になるため?」

 

「……あぁ!? 当たり前だ。俺は俺の勝利以外に興味ねえ。テメェみたいに、暗い目をして自己犠牲に巻き込む薄汚いやり方が一番虫酸が走るんだよ!」

 

 私は不思議と腹が立たなかった。その通りだと思ったから。

 

「自分の命を勝利の勘定に入れられねえような奴が、戦場で俺の隣に立つな。 テメェが死ねば、俺の完全勝利に傷がつくだろうが! ……二度と、俺の勝ちを汚すんじゃねえ、ぶっ殺すぞ」

 

 どこまでも爆豪らしく、でもなかなか筋の通った言い分だと思った。

 自分のために勝つ。そのついでに人が助かる。つまりは、『勝って助ける。助けて勝つ』

 誰かを守るために死ぬことより、誰よりも強く在ることに重きを置き、敵を粉砕するその生き方。

 思わず尊敬の念が胸の奥に立ち上る。

 

 爆豪はそれだけ言い捨てると一度も振り向くことなく病室を去った。

 彼が去った後の、嵐が過ぎ去ったような静寂が耳に痛い。

 

 

 あの背中は、少し眩しい。私は前世でアレスの子たちを嫌いになれなかったのを思い出す。

 

 闘争本能に裏打ちされた、自分という存在への絶対的な肯定。

 その闘争本能にどこまでも忠実で、勝利という頂点だけを睨みつけて突き進む、その輝く瞳。

 誰に何を言われようと、自らの「最強」を疑わない。泥を啜ってでも勝ちをもぎ取ろうとする。その剥き出しの生存戦略は、あまりに苛烈で、けれど美しいと思う。

 

 まあつまり、なんというか。

 初めて爆竹くんがかっこよく見えた。

 

 

 

 ──

 

 

 

相澤視点

 

 

「……あと数秒、脳無が顔を掴むのが長ければ失明していたかもしれない。ジャクソンさんの介入が、彼のヒーロー生命を救ったと言っても過言じゃない」

 

 医者はカルテを置いてそう言い、身動きできない俺はベッドの中で目を閉じた。

 白い天井を見上げながら、医者の言葉を反芻する。 全身を包む包帯が重い。だがそれ以上に、胃の奥に鉛を飲まされたような不快感が消えない。

 

 ガラテア・ジャクソン。

 俺の『抹消』が一切通用しなかった、理外の個性を宿した少女。自分が壊れる未来を想定していない。正確には──壊れても構わないと思っている。

 たまにこういう奴がいる。自分の命に価値を見出せず、簡単に人のためにそれを投げ出す。

  USJで、俺が血反吐を吐きながら脳無に組み伏せられていた時。彼女が放ったあの『水』に助けられた。

 だが俺は今、あいつに感謝を伝えるために彼女の病室に向かっているんじゃない。

 

 あいつの戦い方は、最悪だ。 巨大な力があるゆえに自分を計算に入れていない。誰かを救うために、平気で自分を使い潰し、チップとして盤上に放り出す。 救いようのない馬鹿のやり方だ。

 正直に言えば、腹が立っていた。俺の生徒が、自分の命を賭け札のように使うことに。

 それを怒りと呼ぶのは簡単だが、そんな感情は現場では何の役にも立たない。

 

 重い体を引きずり、病室へ向かう。 廊下で、ちょうど入れ替わるように出てきた爆豪と目が合った。 殺気立った目で視線を逸らし、乱暴な足取りで去っていく背中。

 見舞いなんてする仲だったのかと思いかけて、すぐに今回ジャクソンが怪我を負ったのは爆豪を庇ってのことだったと思い出した。

 俺は軽くノックをして病室に入る。

 

 ジャクソンは俺が歩いているのをみるだけで、嬉しそうな顔になってニコニコ笑った。

 

「あ、先生! もういいんですか? それにしてもUSJで戦ってる時はめちゃくちゃかっこよかったですよ、私ヒーローって別に特別好きってわけじゃなくて、誰かのファンでもなんでもなかったんですけど、あれは──」

「ジャクソン、」

 

 喉の奥で言葉が引っかかる。本来なら、ここで「合理性の欠片もない単独行動」を糾弾し、除籍処分を突きつけるのが俺のやり方だ。現場に出れば早死にするだろうこいつを……死なせたくないからこそ、ここで切る。

 除籍処分を言い渡そうとして、その時ガラテアが口をひらく。

 

 

 

「相澤先生。私ヒーローになります。たとえここをクビになっても」

 

 

 

 あんな危うい自己犠牲を繰り返す奴は、死に向かって全速力で突っ走ってるのと同じ。だから除籍処分を──。

 

 そこで俺は止まった。

 

 気づく。あいつの目は、昨日までの「どこか冷めた、観察者の目」じゃなかった。

 本気だと分かった。ヒーロー資格は何も雄英に通わなくても取れる。こいつならさっさと資格でもなんでも取って、ヒーローになるのだろうと分かってしまった。

 それなら、こいつにとって一番合理的なのは──。

 

「ようやく、本当にそうなりたいって思い始めたところなんです」

「それは……なんのためだ」

 

 これだけは聞かなければと思っていた。ジャクソンは一点の曇りもなく明るく笑った。

 

 

 

「自分のためです。自分がなりたい自分になるため」

 

 

 

 

「そうか……あの時助けてくれてありがとな。お前のおかげでヒーロー続けられる」

 

 

 ジャクソンはにっこり笑う。

 

 俺は、礼を言うつもりなんて毛頭なかった。礼なんて言われて調子に乗られてさらに自己犠牲に拍車がかかったら目も当てられない。でも……もう大丈夫なのだと分かった。その目を見て悟らされた。

 こいつは誰かの影を追うのをやめ、自分の意志で、ヒーローへの道を歩き始めている。

 

 俺は、しばらくはこいつを導く役目を果たすのだろう。

 

 制御されない力ほど、危険なものはない。なら、監視下に置く。それが一番合理的だ。

 そう思いながらも病室を出る直前、無意識に振り返っていた。

 ベッドの上で笑う『俺の生徒』の顔を見て、胸の奥が僅かに軋んだ。

 ……これ以上、失うのは御免だった。

 

 いいだろう。

 次に自分を使い潰そうとしたら、その時こそ除籍だ。

 

 

 

 ──

 

 

 

 緑谷視点

 

 

 あの時、僕は恐怖で体が動かなくて。相澤先生があの脳無っていう化け物に痛めつけられていると言うのに、僕は動けなかった。”動けなかった”んだ。

 

 そんな僕の視界で、ジャクソンさんは走り出していた。

 

「3人とも出口の方に行ってて、すぐ戻るから」

「えっ、待っ」

 

 

 引き止めることは叶わず、ジャクソンさんは相澤先生が倒れる広場に上がっていた。

 僕は身じろぎもできない恐怖にかられていたと言うのに、ジャクソンさんは微塵も感じさせない足運びで一気に脳無の前に躍り出る。

 

  

「おい、先生を離せ。その剥き出しの脳みそ、かっこいいとでも思ってんの? 日焼けでもしたほうがマシになっていいんじゃない、 塩素の匂いがきついプールで洗ってあげようか? ……おら、こいよデカブツ」

 

 不敵な笑みで戦うその姿。

 無茶だと思った。でも、確かにあの時僕は──彼女に『英雄』としての姿を幻視したんだ。

 

 彼女の個性は……うまく言えないけど、身体能力の延長として体に刻まれた個性とはまるで次元が違う力みたいだった。

 水に触れても服や髪が乾いていたり、普通のキャパを大きく超えるような何トンもの水を、それに意志があるかのように操ったり。

 発動条件はなんだろう? とか。キャパシティはどうなってるんだろう? とか。色々考えてみたけれど、プールで大量のヴィランをたった一人で圧倒し、キラキラと神々しく笑う彼女をみて思ったんだ。

 これは『個性』じゃなくて、まるで、世界そのものが彼女の味方をしているみたいだって。

 ジャクソンさんが底の知れない『海』そのもののように見えた。

 

 だから彼女なら、大丈夫なんじゃないか。あいつにも勝てるんじゃないかって思ってしまった。

 

 だけど……僕は忘れてた。ジャクソンさんは、僕と同じ高校一年生の女の子だったんだって。

 どんなに強がってても、あの脳無を見て、怖い気持ちは同じなんだ。相澤先生があんなに蹂躙されているのを見て、彼女がなんとも思わないはずがない。

 でも、それでもジャクソンさんは、”動いた”んだ。

 

 でも……彼女は脳無に腕を掴まれた。ジャクソンさんが弱かったわけじゃない、普通なら勝てていただろう。でも、あいつはオールマイトとの戦闘のために用意された化け物だ。

 腕が折れるのが、遠目で見てもはっきりとわかる。僕は駆け出した。脳無が止めに殴り抜こうと腕を曲げ──僕は間に合わない。

 

 

 でもその瞬間──オールマイトが来た。

 

 

 オールマイトが来るのが少しでも遅れていたら彼女は死んでいただろう。その姿は血まみれだった。

 

 でも彼女は飄々としていた。少しも不敵な笑みを崩さない。

 その時初めて違和感を覚えた。ジャクソンさんは──。

 

 オールマイトが脳無と戦って、でも黒霧と呼ばれた男の個性で胴が別れて切断されそうになった時。

 思わずオールマイトを助けに飛び出たのは僕だけじゃなかった。かっちゃんや轟くん、切島くんたち。

 心強く思ったのをよく覚えている。かっちゃんたちがいるなら、オールマイトを守れる、そう思った。

 

 

 

 その、後だった。ジャクソンさんが、かっちゃんを庇ったのは。

 

 見えなかった。

 ただ地鳴りのような衝撃音がUSJの空間を震わせたのが聞こえていた。

 最初、僕はかっちゃんが脳無を自分で避けたのだと、楽観的に思っていたけど、視界が晴れた中、見えたのは──。

 

 壁はまるで豆腐のように大きく陥没し、彼女の体がその中にめり込む。煙が舞い上がり、砕けたコンクリートの破片が降り注ぐ。

 思わず、息を飲んだ。壁に、人型のひび割れが、蜘蛛の巣のように広がっていた。中心に、確かにジャクソンさんが、まるで貼り付けられたかのように埋まっている。体の形が、壁にそのまま凹んでいる……そんな、漫画でしか見たことのないような光景が、目の前で繰り広げられていた。

 

 おそらく脳無がジャクソンさんを殴り飛ばし壁に叩きつけたのだと頭ではわかるけど、理解を阻んでいた。

 

 

 不自然に折れ曲がった腕。いや、折れているなんて生易しいものじゃない。腕が捻じ曲がり、そこからコスチュームが裂けて、真っ赤な液体が噴き出している。まるで水道の蛇口をひねったかのように、勢いよく。

 顔も、髪も、砂埃と血でぐちゃぐちゃ。先ほどまで、どんな激しい水流の中にいても、一切濡れなかった彼女の服が、今や血と土に塗れて、原型を留めていない。

 

 死んだ──そう思考が答えに辿り着きそうになって、僕は恐怖で喉がヒュッと鳴った。あれほどの衝撃を受け、あれほどの血を流して、生きているはずがない。僕の心臓が、恐怖で冷え切っていく。

 

 僕は咄嗟にかっちゃんの顔を見た。

 目を見開き、青ざめたその顔。動揺で赤い瞳が揺れていた。

 

 だが、次の瞬間、彼女の体が、ゆっくりと、震えるように動き出した。

 生きていた。

 喜びを頬に浮かべる前に、彼女は動き出す。壁に深く埋め込まれた足が、コンクリートを砕きながら引き抜かれ、ありえない形に折れ曲がった右腕が、まるで意思を持たない人形の腕のように、だらりと垂れ下がる。 そして、そのまま彼女は重力に逆らえずどしゃりと崩れ落ちた。

 

 地面に倒れ伏した彼女の周りに、みるみるうちに血だまりが広がっていく。死が、彼女の指先に、今にも触れようとしている。──それなのに。

 薄汚れた血まみれの顔。 その唇が、ゆっくりと弧を描いた。 まるで、「これで、ようやく終わりか」とでも言うかのように。あるいは「やっと、そっちへ行ける」とでも言うかのように。

 

 その血まみれの乾いた笑顔は、僕が今まで見たどんなヴィランの表情よりも恐ろしく思った。

 なんで、そんな顔するんだよ。

 まるで、自分なんかどうなったっていいみたいに。

 

 分かった。

 

 彼女は本当に、自分を大事に思ってない。優先順位が他者の方が上なんだ。だから簡単に人を庇ったりする。散歩でもするみたいに死地へ向かう。

 僕は、僕たちは、誰も動けないまま、その光景をただ、見つめることしかできなかった。オールマイトが脳無と戦っている間にジャクソンさんを運ばなければならなかったけど、もう、どこを持てば悪化させないように運べるのかもわからないような状態。

 かっちゃんも、轟くんも、切島くんも言わずとも思っていたかもしれない。

 彼女は、きっともうヒーローとしては戦えない。

 

「このままじゃ、……死んじゃうわ」

「早くリカバリーガールのところに運ばないと……」

「ああ、早く──」

 

 でも梅雨ちゃんやA組のみんなが顔を真っ青にして駆け寄った中、彼女は確かに言ったんだ。

 

 

「あ、……しを……ずに」

 

 

「気がついたのジャクソンさん!! しゃべらないで!! 悪化しちゃうよ」

 

 それでも彼女は必死に、口を動かした。

 

 

 

「水に、入れて……お願い」

 

 

 意識の淵から、か細い声が響いた。水に? こんな状態で? 僕たちは一瞬戸惑った。だが、他に手がない。梅雨ちゃんの「一か八かでやらなきゃ、このままならガラテアちゃんは死ぬわ」という言葉に、僕たちは一縷の望みをかけるように、プールへそっと彼女を運んだ。微かな振動さえ彼女は痛みにうめく。

 

 

 それはまさに奇跡だった。

 

 最初に異変に気づいたのは、血だ。水に触れた生々しい赤が、まるで逆再生されるように、スーッと彼女の体へと吸い込まれていくように見えた。

 信じられない。でも、僕の目は確かに捉えていた。

 粉砕されていたはずの右腕。ありえない方向に折れ曲がっていた関節が、正しい形へと戻っていく。骨が再構築され、弾け飛んでいた筋肉が元の場所へと引き寄せられる。見る見るうちに、皮膚の変色も消え去り、瑞々しい肌が露出した。

 

 脳無に叩きつけられ、コンクリートの壁にめり込んだことで歪んだ胸郭も、剥き出しになった内臓からの出血も、すべてが、水の膜の中で修復されていく。

 呼吸も、かすかにしか動いていなかった胸が強く、脈打ち始めた。

 

 ジャクソンさんの顔に、血の気が戻る。唇の端に残っていた血の跡も、まるで何もなかったかのように消え失せた。普段通りの少し気怠げで、でも意志の強い表情が浮かび上がってくる。シーグリーンの瞳が瞼の影から滲む。いつものように、飄々と微笑む口元。

 まさに待ち望んでいた奇跡だった。僕は嬉しくて、涙が出そうだった。

 

 水滴一つ纏わず、水の中からゆっくりと立ち上がるその姿は、まるで海の底から現れた神話のよう。彼女の周りの水だけが、意思を持ったように波打ち、彼女の動きに合わせて揺らめいている。

 

「ごめん、ちょっと寝過ごした。……ふぅ、塩素の匂いは最悪だけどやっぱり水の中は最高。生き返るわ」

 

 そう言って、ジャクソンさんは無傷の右腕でVサインを作った。

 

 ノートに書き留めようと、無意識にポケットを探していた手が止まる。 こんな現象、今まで見たことがない。リカバリーガールの「個性」とは全く違う。あれは体内のスタミナを爆発的に使うけれど、ジャクソンさんの場合は、まるで水そのものが、彼女の「生命力」を無限に供給しているかのようだ。

 

 

 僕の知っている「個性」の枠を、あまりにも逸脱している。その後、僕たちは今日起こった彼女の個性についての情報の口外を禁止された。当たり前だと思う。あんな個性、ヴィランにバレれば狙われることもありうる。

 

 

 

 ──

 

 

 

「おはよ〜」

「もう、学校来ていいの!!?? あんなに大怪我だったのに──」

「いいのいいの、医者からももう十分って太鼓判押されたから」

 

 ひらひらと笑って、ジャクソンさんはそう告げる。

 教室に入った途端クラスメイトに囲まれる彼女を見て、僕は拳を握った。

 

 

 ……僕は、彼女の隣に立てるぐらい強くならなきゃいけない。

 

 今度は助けられる側としてじゃなく、仲間として、隣に立ちたい。そうじゃないと僕は、僕のなりたいヒーローにはなれないだろう。

 

 あの笑顔が脳裏から離れないんだ。あんな顔、もうさせたくない。

 

 

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