魔法王国アルテナ。
世界の北端である、ウィンテッド大陸の北西に位置する大国でした。
極寒の地にありながら、代々の女王が魔法の力によって気候を温暖に維持せしめ、繁栄してきた歴史があります。
しかし、マナの減少にともない、世界から魔法の力がしだいに弱まっていました。
アルテナにも周囲から、少しずつ氷と寒さが城内へと侵入し始めていたのです……
「聞け、アルテナの兵たちよ! この世界から魔法の源である、マナの力が減少の一途を辿っている! この事実は、我が魔法王国アルテナにとって存亡の危機なのだ!」
アルテナ城、謁見の間にて。
玉座にすわる女王の隣で、居並ぶアルテナ兵たちへと熱弁を振るう男がいました。
紅蓮の魔導師。
拳を振り上げて兵たちに説く姿は、主君であるはずのアルテナの女王よりも強い存在感を放っていました。
「しかしこのまま手をこまねいて滅亡を待つことなどできぬ! そこでアルテナの首脳部は、禁断のマナの聖域へのトビラを開き、伝説の『マナの剣』を入手すると決定した!」
紅蓮の魔導師の結論に、兵たちがざわめきます。
マナの剣の存在に半信半疑の者や、紅蓮の魔導師の言葉に同調する者、マナの減少を憂慮する者。
誰もが少なからぬ不安を抱き、それがこぼれてささやき合うのです。
「伝説によれば、マナの聖域へのトビラは、アルテナをはじめ各地に点在しているマナストーンを操作することにより現れるという……
マナストーンは、各国の厳重な監視下に置かれている。これに手を出そうものならば当然、猛烈な抵抗にあうだろう。
故に我がアルテナは、国家一丸となり、各国のマナストーンを占領せねばならないのだ!
マナの剣を我が理の女王にささげよ! そして、魔法によって世界を統一し、我らが魔法王国アルテナは、魔法帝国アルテナに生まれ変わるのだ!」
兵たちは紅蓮の魔導師に同調する者と、否定的に受け取る者が混在しているようでした。
しかし偉大なるアルテナが世界各国を支配する未来に、夢を感じない者もまたいませんでした。
紅蓮の魔導師の力強い熱意に浮かされ、気づけば大勢が声を上げていました。
「女王陛下、万歳! アルテナ万歳!」
そんな兵たちの声を聞く女王のまなざしは、人形のように虚ろでした……
◇
さて、アルテナには王女がひとりいました。
彼女の名はアンジェラといいました。
「ねえ~ホセ! ホセ、ホーセー!」
紅蓮の魔導師が玉座の間で熱弁を振るっていた頃。
アンジェラは書庫で、魔法の先生であるホセの腕を掴んでゆすっていました。
「はいはい、聞こえておりますですじゃ。こう見えましても、じいはその昔、アルテナにその人ありと言われた大魔法使いとして……」
「ストップ、ストーップ! ホセの昔話なんてもうウンザリよ! それよりも、昨日の続き! 続きを教えてよ!」
アンジェラはホセが魔法を使っていた時の動作を思い浮かべ、真似をして手をかざします。
しかし何も起こりません。
「姫様、それではいけませんですじゃ。魔法は格好ではありません。姫様が魔法を使えないのは、外面ばかりを気にして、肝心の『心』が伴ってないから……」
「ふーんだ! お説教なんて結構よ!」
アンジェラが拗ねたようにそっぽを向きます。
「もういいわよ! ホセに聞いたあたしがバカだった! べーだ!」
そうしてホセにあっかんべーをして書庫を飛び出してしまいました。
「……やれやれ、困った姫様じゃのう」
ホセは深いため息を吐きながら、その後姿を見送りました。
──なによホセったら!
ふてくされたように、アンジェラが城の二階をわたす廊橋を歩いていると、中庭に見知った後ろ姿を見かけます。
「おーい、ヴィクター! ヴィクター、ヴィクター!」
アンジェラは欄干から身を乗り出して、自分の生活指導を担当する青年に手を振ります。
「あっ姫様じゃないですか~!! あれ? まだ魔法のお勉強の時間では~?」
ヴィクターが上からかかる声に、びっくりしたように振り返ります。
なにせ今はアンジェラが勉強しているはずの時間なのですから。
「また逃げ出したんですか~勘弁してくださいよ~途中で姫様が逃げると、後でホセじいがボクにグチを言ってくるんですから~!」
ヴィクターの情けなげな言葉に、アンジェラはどこ吹く風です。
女王である母親は、アンジェラにも公的な立場でしか接してくれず、人並みに叱られたり抱きしめられた記憶は数えるほどです。
母は女王として国をまとめているのだから、それに相応しいふるまいをしているのだ。
アンジェラはそう自分自身に言い聞かせてきましたが、寂しくて涙が止まらない夜もありました。
父もいないアンジェラにとって、肉親は母しかいません。
いくら母親を問い詰めても、まだ言えない、いつか父親については話をする、とずっとはぐらかされてしまうのです。
父がおらず、ひたすらに愛情が母に向きながらも、それを満たせないアンジェラは、その反動でイタズラやワガママで人々を困らせる育ち方をしてしまいました。
そんなアンジェラも少女を脱する年齢に成長しました。
母である理の女王の若い頃そっくりで、誰もが認める美しさをそなえていました。
しかし魔法王国アルテナの王女であるというのに、まだ魔法のひとつも使うことができず、苦悩していたのです……
「退屈だわ~どこかで楽しいことが起こってないかしら」
そんなつぶやきをこぼしながら、気ままな足取りでアンジェラは城の中を歩き回ります。
「あら、姫様。おはようございます」
「おはようございます、アンジェラ王女」
城の者たちのあいさつに、適当に応じて歩いていると、ボイラー室を通りかかりました。
そこには巨大な炉が設置されており、中には炎が燃えていました。
しかし炎の勢いはぼそぼそとしており、今にも消えそうな火力です。
ここはアルテナ城全体を暖めてるための施設でした。
炎はアンジェラの母、すなわち理の女王の魔力により灯されているものなのです。
しかし炉に対して、炎はいかにも小さく、乏しい。
これもまた、マナの減少によって起きている異常でした。
未だに魔法を使えないアンジェラは、体感としてマナの減少にピンと来ているわけではありません。
しかしこうして、視覚的な異常を目の当たりにすれば、危機感を覚えずにはいられませんでした。
そんなアンジェラも、魔法を使えないコンプレックスが危機感にフタをします。
──どうせ私は魔法が使えないんだ。
──自分にはそんなこと、関係、ないわ。
そうやって目を逸らすように、炉の炎を見ないように、城の奥へと進んでいきます。
続いて通りかかったのは、魔法訓練所です。
兵たちが的に狙いを定めて、ファイアボールの詠唱したり、マジックシールドを展開して魔法を受ける訓練をしていました。
アンジェラはこっそりとその様子を覗き込みます。
アンジェラは魔法が好きでした。
何もないところから炎や氷を生み出す神秘に、胸が躍らずにはいられません。
自分自身が魔法を使えないからこそ、いっそう魔法の奥深さを玄妙に感じてしまうかもしれません。
しかしアンジェラとて、勉強をしていないわけではありません。
自分に分かる範囲の理論や修練を、たくさん試していました。
特に幼い頃、母に贈られた魔導書は今でも大切にして、毎晩のようにそのページをめくっていました。
それは、理の女王が手ずから書き上げた魔導書でした。
かつて理の女王は、魔法の初歩から奥義までをしるした一冊だとアンジェラに言いました。
しかし悲しいかな、アンジェラにはまだまだ浅い理解でしか読み取ることはできていません。
それでもなお、先達が後進を導く以上に、母が娘へ施す丁寧な教えに満ちていることは深く理解できました。
理の女王はもっぱら公務に没頭し、アンジェラとの親子の結びつきは疎遠と言えました。
しかしその魔導書のおかげで、アンジェラは母の愛を信じることができたのです。
「あいたたた……最近、紅蓮の魔導師殿の訓練が厳しすぎないか」
「ケガ人も出ている。どうやら、あの不穏な噂は本当なようだ……」
「戦が近い、だったか……?」
ふと、兵たちの会話がアンジェラの耳に届きます。
資源が非常に少ないアルテナは、もしも魔法の力が弱まれば衰退の一途を辿るでしょう。
もしそれを補う最も安直な方法があるとすれば、略奪です。
すなわち戦争。
紅蓮の魔導師は、マナの減少が致命的になる前に、各国に戦争を仕掛けるよう理の女王に献策しているともっぱらの噂でした。
しかし公平で道理をわきまえ、万民を慈しむ統治でアルテナを守ってきた母のこと。
きっとそんな暴挙を許すはずがありません。
いいえ、それよりも、
「そんなの、私が許さないわよ!」
兵たちの会話に、アンジェラが首を突っ込みます。
唐突な王女の登場に、会話をしていたふたりはぎょっとしました。
「こ、これは姫様」
「姫様、ご安心ください。紅蓮の魔導師殿の魔法はますます強力になっています。理の女王様に並ぶほどの魔力を身につけていると聞き及んでいます」
「そうです、そうです。理の女王様と紅蓮の魔導師殿。このおふたりがいれば、きっとどのような戦にも勝利できると思いませんか?」
兵たちの熱っぽい様子に、今度はアンジェラが驚く番でした。
「そんなダメよ、戦争なんてそもそもダメ!」
「姫様、このままではアルテナが滅びるかもしれないのですよ」
「もしもマナが減少を続け、消滅しては遅いのです。魔法が使えなくなる前に、打って出るしかありません」
兵たちの目には、戦に勝利して領土を拡大する野心の熱狂が見え隠れしています。
しかしその奥には、アルテナの未来に対する不安や恐怖があるのを、アンジェラは感じました。
ならばこそ、なおさら力による侵攻ではない手段が必要なのではないか。
アンジェラがそう抗議しようとした時、
「あっ姫様! こちらにいらっしゃったんですか! お話があると、理の女王様と紅蓮の魔導師殿からお呼びがかかっていますよ!」
ひょっこりとヴィクターが顔を出しては、アンジェラに声をかけてきます。
「ボクは、先に行っていますから、急いでくださいね!」
「お母様が?」
理の女王と紅蓮の魔導師は、謁見の間に兵たちを集めて集会を開いていたはずです。
それが急な呼び出しとは、どういうことだろう。
アンジェラは言い知れぬ不安に襲われながらも、ヴィクターを追うように玉座の間へと急ぎました。
道中、中庭で合流したヴィクターは慌てたようすでアンジェラに駆け寄ります。
「姫様! たたた、た、た、大変です! 女王様が草原の国フォルセナに侵攻を開始するとおっしゃって……と、とにかく姫様も、女王様のところへ……お急ぎください!」
「ええっ!?」
あのお母様がそんなことを許すはずがない!?
アンジェラは戸惑いながら謁見の間へと参殿しました。
「……ア、アンジェラ参りましたわ。お、お呼びでしょうか、お母様? 」
玉座の理の女王に、アンジェラがひざまずきます。
玉座の間は、ひどく緊張した空気が漂っていました。
その不穏さにアンジェラは気圧されながら、上目遣いに理の女王を見上げます。
そこにはひどく表情に乏しい理の女王と、不遜なたたずまいの紅蓮の魔導師がいます。
なんであんたがお母様と並んでるのよ!
内心むっとしていれば、あろうことか、その紅蓮の魔導師から話を切り出してきたではありませんか!
「私から説明しよう、アンジェラ。魔法王国アルテナは、各国へ侵攻を開始することにした。各地のマナストーンを占領し、マナの聖域へのトビラを開くためだ」
「は?」
呼び捨てにされた怒りよりも、受け止めきれない情報の衝撃の方が大きくて、アンジェラは呆けた声を上げるしかできませんでした。
「伝説では、世界中のマナストーンのエネルギーを解放した時、マナの聖域へのトビラが開かれるという。まずはアルテナの支配下にある、氷壁の迷宮にある水のマナストーンのエネルギーを解放する」
紅蓮の魔導師の言葉は、アンジェラの想定を超える内容でした。
そして逆に符合するものがありました。
アルテナ最大の懸念事項はマナの減少。
つまりマナを増加させるための方策だと理解できました。
なら戦争というのは、あくまでマナストーンを狙ってのこと?
人の命は奪わないの?
どれほどマナが元に戻る?
以前よりもマナは多くなるの?
侵攻は、仕方ないことなの?
思考が乱反射するように錯綜し、半ば混乱するアンジェラからひとつだけ疑問が転がり落ちました。
「で、でも、どうやるの……マナストーンのエネルギーなんて……?」
「……『封印されし古代魔法』を使う。この魔法は、術者の生命と引き換えになるため禁じられているが……文献によれば確実な解放が保証されている方法だ。しかし私や紅蓮の魔導師はまだ死ぬわけにはいかぬ……」
アンジェラの疑問に答えたのは理の女王でした。
ひどく無機質な声調に、アンジェラは違和感を覚えます。
「……そこで、おまえの生命を代償にすることにした……アンジェラ、おまえがマナストーンのエネルギーを解放するのだ……」
「そ、そんなっ! そ、それって……!?」
私に死ねと言っている!?
「……いまだに魔法のひとつも使えないおまえなど、王家にいてはならない……最後に封印されし古代魔法を使って名を残せれば、アルテナの歴史の礎になれるのだ……さあ、こっちへ来なさい、アンジェラ……」
無機質ではありますが、本気だというのがアンジェラにはよく分かりました。
まるで虫を見つめるようなまなざし。
それはアンジェラの命をどうとも思っていない温度です。
控えていた兵たちが背後から、アンジェラの両腕をがっしりと確保して固定します。
そして力づくでアンジェラは玉座へと進まされそうになりました。
進む先には、絶対零度の冷たさでアンジェラを見つめる母の姿。
「……い、いや……」
恐怖で体が震えだし、絞り出した声もひきつります。
必死でもがけども、ふたりがかりで掴まれてはどうしようもありません。
助けを請うように母の瞳を見上げても、そこには一切の容赦がありませんでした。
アンジェラは心から絶望しました。
「いやーっ!!!!!」
その瞬間です。
アンジェラから巨大な魔力が膨れ上がり、謁見の間を閃光で満たします。
光はすぐに止みました。
そして、アンジェラの姿が消え失せていたのです。
「……空間転移か……」
魔法を使えないはずの王女の、神業的な魔法の発露を目の当たりにして、さしもの紅蓮の魔導師もつぶやきの声に驚きが混ざっていました。
さて、当のアンジェラは気づけば雪の上に横たわっていました。
「……ぅ……うぅ……寒い……」
寒さに目が覚めれば、そこは雪原に横たわっていました。
最初に見えたのは、星々のようなきらめきでした。
それは微小に結晶化したマナのきらめき。
寒冷なウィンテッド大陸では、木々の葉の上でマナが微小な結晶と化してきらめきを放ちます。
その様子はたいへん幻想的で美しく、マナ・ツリーとして有名でした。
しかしマナ・ツリーがあるということは、つまりそこは理の女王の庇護の外ということ。
そう、アンジェラが倒れていた場所はアルテナの城外だったのです。
零下の雪原。
ウィンテッド大陸の大部分を占めるこの寒冷地帯は、魔物も徘徊する危険な場所です。
立ち上がり、周囲を見渡せば遠巻きに城壁が見えました。
「……え……? こ、ここって……お城の外……?」
一歩、城壁の方に踏み出したアンジェラの脳裏に、冷酷なまなざしの母が思い浮かびます。
その恐怖に、もうそれ以上アンジェラは足を進めることができなくなってしまいました。
「お母様……どうして……」
本当に私の命を使おうとしたの?
私が感じていたお母様の愛は幻だったの?
これから城に戻り、それを問いただす勇気はアンジェラにありませんでした。
「……もうお城には、戻れない……あたし、これからどうすれば……」
寒さ以上の理由で震える身を抱きしめて、アンジェラは逃げるよう雪原を歩き出しました。
「……確か東に行けば……港町があったはず。そこに行くしか……」
雪で隠れていますが、アルテナから各地に通じる街道はある程度の整備がされています。
アンジェラはその道を辿って進んでいきました。
「……寒い……寒いよぅ……」
アルテナという国は理の女王の魔力により、温暖な気候を保っていました。
しかしその外に出れば極寒の雪原。
着の身着のまま放り出されたアンジェラにとって、そこは地獄でした。
せめてもの救いは吹雪いておらず、天候が非常に穏やかな日だったことでした。
しかし、アンジェラが進んでいくと、その道を塞ぐようにモンスターがぷうぷうと居眠りをしていました。
ふっくらとした輪郭の、歩くお魚。
三叉の銛を手にした、サハギンというモンスターです。
アンジェラの接近に気づいたのか、ぱっちりと目を開いて襲い掛かってきました!
ぽてぽてと速度のない接近ですが、アンジェラに対する敵意は満点です。
「こ、この! あんたなんか恐くないわ!」
アンジェラも常備していた杖を、威嚇するように掲げて叫びます。
サハギンは銛を突いてアンジェラを串刺しにしようとしてきます。
幸い、手足が短いのでアンジェラも回避するのは難しくありません。
しかし銛の先端の鋭いこと。
あれが肌に突き刺さったらと思うと、アンジェラはぶるりと震えます。
「えーい!」
アンジェラはサハギンの銛を躱して、下から掬い上げるように杖で殴りかかります。
魔法が使えないアンジェラは、こうするしか対抗手段がありません。
ばこんと殴りつけられたサハギンは、ひっくり返ってもがきます。
アンジェラはその隙に駆け抜けてしまいました。
ぽてぽてと追いかけようとするサハギンですが、脚の長さが違います。
やがてサハギンが見えなくなるまで引き離してしまいました。
──……どれだけ歩いたでしょう。
寒さと、飢えと、疲労とが重なったアンジェラの足は、おぼつかなくなっていきました。
高かった陽も暮れる頃合い。
いっそう寒さも厳しくなり、ついにアンジェラは雪原に膝を衝いてしまいました。
「……寒くて、もう歩けないよ……お城に…お城に戻りたいよ……お母さま…」
泣き出しそうな声がアンジェラから零れます。
それでも戻れない。
理の女王の冷徹なるまなざしを思うと、どうしても城に戻る決断ができませんでした。
やがて、寒い寒いと思う気持ちすら遠くなっていき。
瞼が閉じていくのを我慢できなくなります。
そうして、アンジェラの意識は失ってしまいました。
闇の中で、ふとアンジェラは懐かしい記憶を夢に見ます。
いつかの誕生日。
母から贈られた魔導書。
ずっしりとぶ厚いその書は、その時のアンジェラにはとても重かったのを今でも覚えています。
「よいですか、アンジェラ。その書には魔法の心構えから、私が伝えられる奥義までを記しました」
かがんで目線を合わせながら、母は毅然とした口調だったのは覚えている。
「あなたにはまだ難しいことがたくさん書いているかもしれないけれど、きっと将来は役に立つはずです。あなたはまだ魔法が使えないかもしれないけれど、少しずつ、付き合い方を覚えていけばいいの。そのための助言でもあるの」
「はい、お母さま。努力します」
自分もできるかぎり真面目な顔をして、お母さまの言葉をきちんと聞かないと。
幼いながら、そう固くなったことも覚えている。
そんな私を見て、とってもやわらかに微笑んで、頭を撫でてくれたことも、覚えている。
「いつもマナの女神様にお祈りをしているわ。あなたが魔法ととっても仲良くなってくれますようにって。そうしていつか、アルテナで一番素敵な魔法使いになってね、アンジェラ」
きっとその時はアルテナの女王としてではなく。
ただただ母親として接してくれていたのでしょう。
「可愛いアンジェラ。どうか、マナの加護があなたを守ってくれますように」
ああ、遠くなっていく。
お母様が、遠く──……
……アンジェラが目を覚ますと、そこはあたたかな部屋の中でした。
厚いふとんがかけられて、暖気が満ちています。
身を起こして零れていた涙をぬぐうと、そこは見知らぬ室内でした。
「……あれ? ここって……?」
調度品を見るに、どこかの民家のようでした。
アンジェラはベッドから抜け出して、寝室から居間に出ます。
そこにはまだ小さな娘と、その母が話をしていました。
アンジェラに気が付いた母親が、優しく話しかけてきます。
「あら、目が覚めたのね? 雪原に倒れていたあなたは保護されて、うちで預かることになったのよ。ここは雪の都エルランド。もう心配いらないから、ゆっくりしていってね」
母親がアンジェラを気遣うように見上げていた娘の頭をなでて微笑みました。
「チチ! おねえちゃん、目が覚めたわよ!」
「わーい! ねえママ、チチこのおねえちゃんとあそびにいきたい!」
「まぁ、駄目よ、このおねえちゃん、まだきっと疲れてるんだから……チチはママが遊んであげる!」
「きゃー!」
「……」
仲の良いふたりの様子に、アンジェラは胸が締め付けられそうになり、うつむいてしまいました。
「どうしたの? 具合、悪いのかい?」
母親が心配げに覗き込むと、アンジェラは弱々しく首を振ります。
「……お腹すいていないかい? 下の階に、あったかい食事もあるわよ」
アンジェラはますます弱々しく首を振ります。
「そっか……」
そんなアンジェラに、母親はチチに聞こえないように耳元でささやきます。
「何か事情があるんだろう? 話たくなければ、話さなくてもいいわ。今はゆっくりと休みなさい。つらかっただろう……」
その言葉に、泣きそうになるのをこらえてアンジェラは顔を逸らしました。
「少し外の空気を吸ってくるといいわ。もし何か食べたくなったら、下の階にいる私の妹に言って。何でも作ってもらえるから」
アンジェラはようやく小さな頷きを返して、逃げるように階段を下りて、その家の外に出ました。
外は雪のちらつく夜でした。
アルテナでは理の女王により抑制されている冷たい空気が、アンジェラの肌を刺すようでした。
でも今は、その寒さが頭を冷やしてくれるようです。
「……気分転換に、ちょっと散歩しよう……」
エルランドはアルテナの東にある港町です。
世界の最北端、雪に覆われたウィンテッド大陸における玄関口としてアルテナの次に大きな町でした。
そのため、夜になっても方々がにぎわっている様子です。
アンジェラはふと、パブに入っていきました。
暖炉によるあたたかな空気と、人々の喧騒。
しかし、確かににぎわってはいるのですが、どこか暗い雰囲気が流れています。
「いらっしゃい、好きなところに座んなよ」
愛想のよい店主が気さくに声をかけてくれますが、こういった場に不慣れなアンジェラは戸惑うように店内をさまよいます。
喧騒から耳に届くのは、やはりあまり明るくはない話題ばかりのようでした。
アルテナの命令により、近く船の出入りが止められてしまうそうだ──……
なんでも敵国から人が流入してくるのを防ぐためだそうだ──……
物も入って来なくなる──……
男手がアルテナに駆り出されているらしい──……
──……なにか良くないことが起きるのではないだろうか?
アンジェラの額からどっと汗が流れます。
エルランドを取り巻く状況は、アルテナが仕掛けようとしている戦争に起因しているのは明らかです。
しかしまだ情報が統制されているのでしょう。
人々は不安がっていますが、不思議そうにお酒を飲む余裕があります。
でもそれはマナの減少にともなう仕方のない戦争なのだ。
その、はずだ……
アンジェラは幼い頃に優しかった母が断腸の思いで戦争を決断したのではないかと思おうとしました。
しかしどうしても脳裏に浮かぶのは、氷よりも冷たいまなざしでアンジェラの命を使おうとする母の顔。
アンジェラは何が正しいのか、まったく分からなくなってしまいました!
「王女はワシが捕まえて、賞金を独り占めじゃ! ワシャむかし王女を見たことがあるんじゃよ!」
そんな声が喧騒に混じって、聞こえてきて、アンジェラは心臓が口から飛び出すかと思いました!
見遣れば、壁に張り出された賞金首の手配書の前で老人がさわいでいます。
遠目からでしたが、確かにアンジェラのことが書いてあるようでした。
『アンジェラ王女』反逆罪で手配中。
その額は10000ルク。
アンジェラは全身から血の気が引いていくのを感じました。
まさか、まさかそんな、そこまで。
視界がぐらぐらと揺れ、吐き気に苛まされながら、アンジェラはパブを逃げるように飛び出しました。
幼い頃に優しく微笑みかけてくれた母。
毅然と公務にいそしみ、王女として大切に扱ってくれた母。
そして、アンジェラの命を使おうとした母。
いくつもの母の顔が浮かんでは消え、そのどれもを信じることができなくなり、アンジェラは自分の立っている感覚すら消えていく心地に陥ってしまいました。
気づけばアンジェラは城門の前に立っていました。
無意識のうちに町の外に飛び出そうとしていたようです。
しかし鉄格子が下りて外に出ることはできません。
泣きはらした顔でアンジェラは格子の向こう側を見つめますが、どこにも行くことはできません。
「お嬢ちゃん、どうしたかね?」
立ち尽くすアンジェラの背後に、しゃがれた声がかかります。
振り返ると、腰の曲がった老婆が心配そうにアンジェラを見上げていました。
「な、なんでもないわよ……」
「何か悩みごとを抱えておるのじゃろう。どれ、この占いババが占ってしんぜよう! ほら、ついておいで。もうすっかり寒かろう」
老婆がアンジェラの手を取って、優しく引いてくれます。
ふしくれだった小さな手でした。
でも、気遣いに満ちた手でした。
だからアンジェラは涙を拭って、とぼとぼと老婆についていきました。
老婆に導かれてたどりついたのは町の片隅にある宿でした。
あたたかな空気に満ちており、雪まみれだったアンジェラを優しく迎え入れてくれました。
「ほれ、おぬし。この子にあったかいスープでも作ってあげな」
老婆が店の者をせっつかせ、アンジェラをテーブルの席に座るよう促します。
対面に老婆が座ると、ほどなく店の者がスープの入ったカップとタオルを持ってきてくれました。
それでアンジェラは人心地がつきました。
「……人の運命は、99パーセントまで、あらかじめ決まっておる……」
そんなアンジェラの様子を見てか、老婆は訥々と語り始めました。
「じゃが、残り1パーセントに、未来があり、夢がある……人はその1パーセントをこう呼ぶ……『希望』と……」
マナストーンのために命を捧げよ。
アンジェラに母はそう言い付けました。
しかしどうしてもアンジェラは、それを本当だと思いたくありませんでした。
もし、もしも1パーセントの確率であろうと、あの母が本当ではないという未来があり、夢があるのならば……
──でも、そんなものが本当にあるのだろうか。
自分が見た事実をくつがえしてくれる、光に満ちた真実が。
アンジェラの絶望の闇に対して、希望の光はあまりにか細いものでした。
「……ねえ、占い師さん……私、どこに行けばいいのか分からないの……これから、どうしたらいいの?」
「……時に人は、その1パーセントの希望さえ見失いそうになるほど、深い絶望におおわれることがある……そんな時のために、聖都ウェンデルがある。お嬢ちゃん、光の神殿じゃ。光の神殿を訪れるとよい……」
「……光の神殿?」
「……暗闇で迷ってしまった時は、道を照らしてくれる光が必要じゃ……ウェンデルに向かえ!」
とまどうアンジェラに、老婆が一喝!
それからにっこりと、しわくちゃの顔でアンジェラに微笑みかけました。
「駄目だよ、このバーさんは同じことしか言わねーんだ! こっちは妊娠した女房が、男の子か女の子かどっちを生むのか聞きたいってのにさ!」
そんなふたりに、隣で様子を見ていた男が声を掛けます。
しかしアンジェラの胸に、聖都ウェンデルという言葉は深く刻まれました。
そこに行けば何とかなるかもしれない。
あるいは何とかならなかったとしても。
進んだ先で、何とかするしかないはずだ。
絶望に塗りつぶされていたアンジェラの心に、不思議な勇気が湧いてきました。
帰るべき場所がなくなった時、かくも人は弱くなります。
その一方で。
進むべき道が見えた時、人は強くもなるのです。
「……聖都ウェンデル、か……そこで本当に何かが解決するかは分からない……でも、このまま、ここにいてもダメなんだ……」
老婆に礼を言って宿を辞し、アンジェラは夜空を見上げました。
風が強く、月の明るい夜でした。
雪が舞い散るはるか向こう、月の明かりに輪郭を照らされた雲の流れも速いものでした。
ああ、そうだ。
あの雲のように。
「……行ってみよう……きっとここにいるよりも、何かが変わるはず! そうだ、魔法が使えるようになればいいんだ。魔法が使えない……王家の恥じゃなくなれば……きっといつかお母様も、私を認めてくれる……必ず……」
あの雲のように。
ここではないどこかへ。
今ではない自分へ。
哀しさと寂しさに満ちた胸の中に、確かに存在する一握の勇気を胸に、アンジェラは駆けだしました。
もう夜も更けた時間、出ている船はありません。
まずは自分を助けてくれた親子の家に戻りました。
一階で出迎えてくれた母親は、アンジェラを見ておやという顔をします。
「なんだか吹っ切れた顔になったねぇ」
「あの、助けてくれてありがとうございました……このお礼は絶対にしますから」
「いいのよ、そんなこと。なにか事情があるんだろう?」
「……はい」
「だったら助け合いよ。あなたさえよければ、ずっとここにいてもいいんだから」
ふっと、母親がすこしだけ寂しそうな顔になりました。
「父親はもうずいぶんと前に死んじゃって、夫にも先立たれてね。私と、妹と、娘と。それともう年の取ったお母さんしかいないんだ。女だけで、力を合わせて生きている」
だから。
女同士、助け合いさ。
その言葉に、アンジェラも惹かれてしまうものがありました。
もしかしたら自分を受け入れてくれる場所になってくれるのかもしれない。
あたたかく、過ごすことができるだろうか……
しかしそんな甘い夢は、アンジェラの脳裏によみがえる手配書の前で騒いでいた者たちの喧騒にかき消されてしまいました。
アンジェラは堪えるように首を振りました。
「私、聖都ウェンデルに行かなきゃならないんです」
「聖都ウェンデルに? それはまた……遠いね。けど、船旅になるなら、今日だけでも休んでいくといい」
「はい……ごめんなさい、もう一晩だけご厄介になります」
「ねぇママ、おねえちゃん帰ってきたの?」
母親の後ろから、眠そうな顔のチチがやってきます。
「そうだよ、チチ。今晩だけ、一緒にいてくれるよ」
「やったあ! おねえちゃん、いっしょに寝ようよ」
幼いチチが、嬉しそうにアンジェラの周囲をとてとて駆け回り、袖を引っ張ります。
「ねえ、おねえちゃん、お話して、お話して!」
「ふふ、しょうがないわねえ。ホセから教えてもらった、とっておきのお話をしてあげる!」
一人っ子だったアンジェラは、まるで妹ができたようなで、なんだかむずがゆくてあたたかい気分です。
しかし悪い気持ちではありません。
引っ張られるまま、二階の寝室でチチと一緒のベッドに入って、その夜はたくさんのおしゃべりをしました。
次の日の朝は、快晴でした。
しかしアンジェラは自然な陽光ではなく、遠巻きに聞こえる大きな声で起こされました。
「ここに手配中のアンジェラ王女がいると目撃情報があった!」
「家の中を捜査させてもらうぞ!」
アンジェラは氷水を浴びたような気分でベッドから跳び起きました。
そこに音もなくチチの母がやってきてアンジェラに静かにささやきました。
「アルテナの兵たちよ。妹とお母さんが引き留めてくれてる。この窓からロープをつたって下りるといいわ。すぐに船着き場まで逃げるんだよ」
「で、でも……」
「……あなた、本物の王女様なんでしょう?」
その言葉に、アンジェラが後ろめたそうに頷きます。
そんなアンジェラを励ますように、母親は優しく微笑みます。
「近頃、アルテナの様子がおかしいの……夫に先立たれたのは、つい最近よ。アルテナの無茶な注文で零下の雪原を強行したせいで、モンスターに襲われて死んだのよ……商隊の隊長だった」
母親がロープを固定する手に、力がこもります。
「今なら分かるの、あれは戦争のための物資を集めていたんだわ。夫はそのために、無理な期日に追われていた。そのせいでミスや準備不足が重なって……」
死んだのは、そのせいだ。
アンジェラはその言葉に息を飲みます。
「……アルテナはおかしくなってる。だけど、どうもあなたの様子は正気だわ。逆にアルテナから追われてる……なら、おかしくない方を助けるのは筋ってもんでしょ」
そう笑いながら、母親が手早くロープを外に垂らしていると、チチも目をこすりながら起き出します。
「おねえちゃんどこか行くの?」
「……そうね、ちょっと遠いところに行ってくるわ」
「えー、また来てくれる? またお話して!」
「……絶対に、帰ってくる」
そう言って頭をなでると、チチは嬉しそうな顔をしました。
絶対に、帰ってくる。
もう一度、自分に言い聞かせてアンジェラは窓に足をかけて振り返ります。
「本当に、ありがとうございました!」
チチとその母は、笑って手を振ります。
ふたりを背に、飛び出すようにロープをつたって外に出れば、一目散に船着き場へと駆けていきますが、
「あそこ! アンジェラ王女だ!」
「いたぞ!」
何人かの追跡者に見つかったようです。
背筋が粟立つ思いで、路地裏に駆けこんで必死に走っていると見慣れた姿がすっと現れました。
「右から迂回するんじゃ。いいかい、必ず聖都ウェンデルに行くんだよ!」
なんと、昨日の占いババではありませんか!
言われるまま、右に曲がりますが、これでは船着き場まで遠回りになってしまいます。
もしや、騙されたのでは?
そう思ったアンジェラの後方から聞こえてきたのは、
「左じゃ、アンジェラ王女は左に行ったぞよ!」
そんな風にかばい立ててくれるではありませんか!
たくさんの優しさに背中を押されて、胸が詰まるような気持ちでアンジェラは走りました。
そして滑り込むように出発直前の船に乗船して、アンジェラは見事に海上へと脱出を果たしたのです。
理の女王の娘でありながら、女王の愛を受けられず、悩み、苦しむアンジェラ。
首を狙って忍び寄る者たちの影に怯えながら、国を後にしました。
しかし、この時アンジェラは、世界の命運をかけた戦いにやがて自分が巻き込まれていくことなど、知る由もありませんでした……
物語は、まだ始まったばかりなのです……