マコトの声を聞きたいがために編成画面でつまんでしまう
ゲヘナ学園の裏手。
射撃音も、怒号も、爆発音も届きにくい――比較的静かな場所。
深町シヲは、古い倉庫の影に腰を下ろしていた。
ヘッドホンを装着し、目を閉じている。
傍目には、ただ音楽を聴いているだけの生徒に見えるだろう。だが、イヤーパッドの奥で流れているのは、音楽ではない。
『――ゲヘナの未来は、混沌の中からこそ生まれる』
羽沼マコトの演説。かつて録音した、万魔殿のスピーカー越しの音声。
ノイズ混じりで、少し歪んでいて、完璧とは言えない。
それでも、シヲにとっては十分だった。
『秩序とは、守るものではなく――奪い取るものだ』
その声が流れた瞬間。
シヲの肩から、わずかに力が抜ける。
銃を構えているときの彼女とは、まるで別人のように静かだった。
指先の震えも、殺気も、ない。
ただ、ひたすらに聞いている。
(……やはり、良い声ですね)
録音の向こう側にいる彼女に、思考を向ける。
(この演説を聞いた日のことは……今でも覚えています)
学園に入学したばかりの頃。世界が灰色に見えていた頃。
生き延びることしか考えていなかった頃。
その中で、マコトの声だけが――色を持っていた。
『私が責任を取る。だから、ついてこい』
その一言が、今も胸の奥に残っている。
シヲはヘッドホンの位置を微調整する。周囲の音を、より遮断するために。
遠くで小さく銃声が響いた気がした。だが、彼女は眉ひとつ動かさない。
(……ここは、まだ安全ですね)
反芻の邪魔になる音は、極力避けたい。もし騒ぎが近づけば、場所を移すつもりだった。
静かな場所を選ぶのは、自分のためではない。
(この時間を、汚されたくないだけです)
『――恐れるな。お前たちの恐怖は、私が利用する』
マコトの声が、耳元で続く。
シヲの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
(……何度聞いても、良い)
(私は、貴女の言葉で生きていますから)
再生が終わりに近づく。
彼女は慌てることなく、端末を操作し、もう一度再生ボタンを押した。
同じ演説。同じ言葉。同じ声。
だが、飽きることはない。
その背後を、ゲヘナの生徒たちが通り過ぎる。
「……あれ、深町?」
「今日は撃たない日か」
「ヘッドホンしてるときは静かだよね」
ひそひそとした声。
シヲは振り向かない。返事もしない。
今この瞬間、彼女は戦っていない。怒っていない。疑っていない。
ただ一人の少女として、
羽沼マコトの言葉を聞いているだけだった。
そして、その時間だけが彼女にとっての、安全地帯だった。
(……この言い回し、やはり好きですね)
(ああ、この息継ぎの間も好き)
音の揺らぎ。
呼吸の間。
ほんのわずかな笑いの混じり方。
それらを、一つずつ反芻するように聞いている。
そこへ、足音。
「シヲ?」
シャーレの先生の声だった。
「少し話せるかな?」
返事はない。それでも構わず先生は近づく。
「前の当番の件で――」
言葉が続く前に、シヲの指が端末を軽く押さえた。音量が、ほんの少し上がる。演説の続きを、遮らせないための動作。
先生は少し困ったように笑う。
「……聞こえてるよね?」
聞こえている。確実に。
だがシヲの視線は、最後までこちらを向かない。
(今はそちら側ではありません)
(今は、こちら側です)
『恐れることは悪ではない。問題は、恐怖に支配されることだ』
その一文が流れた瞬間、シヲの肩が、わずかに落ち着く。恐怖を肯定する言葉が彼女の中に染み込んでいく。
先生はそれ以上踏み込まない。
「……終わったら、声をかけてくれればいいから」
返事はない。
先生が去っても、シヲはヘッドホンを外さなかった。
外の世界がどれだけ騒がしくても、誰が呼びかけても、今は届かない。
彼女はただ、録音の中の声に耳を澄ませている。
(この時間だけは、邪魔されたくない)
(……誰であっても)
再生が終わる直前、彼女は即座に「リピート」を押した。
同じ声。同じ言葉。同じ“始まり”。
そして今日もまた、先生の声より先に、マコトの声が彼女の世界を満たすのだった。