深町シヲ…立場を強調するときは「羽沼議長」、私的な領域を含むときは「羽沼さん」と呼ぶ。名前は畏れ多くて呼べないし正直名字呼びされてるだけで割と限界(本人談)
羽沼マコト…一度シヲを名前で呼び捨てしたら目の前で倒れられたことがある。本当に倒れるとは思わなかった、と後に述べている。
万魔殿の本部近くの校舎内。今日は比較的静かだった。
遠くで銃声はしているが、ゲヘナ学園の基準では「静音」に分類される。
深町シヲは、壁際に立っていた。
姿勢は正しい。愛銃『後始末』はアタッシュケースの中にしまってある。
扉の向こうでは万魔殿の議員がいるのだろう。何か話をしているのが分かる。シヲは呼吸を整えながら己の入るべき瞬間を待つ。
「深町、入れ」
呼ばれて、一拍遅れて反応する。扉を開くと、執務机の向こうに座す羽沼マコトがいた。机の横には情報部長の京極サツキもいる。シヲが部屋に入る前のマコトは彼女と話していたらしい。
マコトが普段浮かべている自信に満ち溢れた表情は隠れ、今は真剣そのもの。鋭い目は眼前の者に一切の虚偽を許さない。
二人とシヲとの間の距離は保たれている。二メートル以上。想定内。大丈夫だ。まだこれだけなら倒れない。
「例の件だ。補給線の再確認をしたい」
マコトの片手がサインを示す。このサインを使用した場合の補給線とは、アビドス砂漠近辺へ直行可能な補給線を示す。
表面上では万魔殿は関与していないものの、『雷帝』の遺産を確実に始末するための補給線がいくつも存在する。
それをマコトは多くの生徒や制度を経由して秘密裏に整えていた。まるで近いうちに使う予定があるとでも言うように。その協力者の一人がシヲだ。
いざとなれば『
「承知しました。資料は三点あります」
端末を操作する指は、わずかに震えているが、止まらない。
「第一に、弾薬の搬入ルート。現在はAポイント経由ですが――」
「変更案があるのか?」
「はい。現在のルートは遮蔽物が少なく、狙撃に弱い。
言葉は途切れない。何度も推敲し、考えてきた内容だ。何度もシミュレーションした。
「第二に、人員の配置。追加で見張りを三名――」
「多くないか?」
「多いです。しかし、これでも最低限です。我々の動きをカイザーの連中が嗅ぎつけていると報告がありました。議長の御手を煩わせる程ではありませんが、ネズミを警戒するに越したことはありません。近々私も様子を伺いに
マコトが、少しだけ息を吐いた。
「……相変わらずだな」
その言い方に評価が含まれているのが分かる。シヲの喉が一瞬、詰まる。
(今は業務。業務)
「第三に、視察時の撤退条件です」
自分に言い聞かせるように、続ける。
「もし様子を見に行った私が負傷、もしくは行動不能になった場合――」
「その前提、よく考えるな。好きなのか?」
「現実的だからです。私は強くありませんから、想定外は起こるものとして想定しなければなりません」
即答。その速さだけは、いつも通りだった。
「視察に行った私が負傷、もしくは行動不能になった場合は即座に撤退。場合によっては物資の放棄もします。前線に出た私が撤退するほど相手に追い詰められる。つまり此方の手札を知られているならば、その持ち札を捨てて別のカードを切る方が有意義です。もちろん、万魔殿に繋がるものは全て痕跡を残さないよう破壊および焼却処分してからになります」
「議長。どうか、カイザーコーポレーションから何かしらの問い合わせがあった場合は『何も関与していない』とお答えいただくよう、お願いします。私一人が勝手に羽沼議長の言葉を解釈して、勝手に暴走した果てに罠へ嵌ったのだと思わせるために」
沈黙が落ちる。長くはない。でも、危険な長さ。マコトが手元の資料を捲る音だけが響く。
全てに目を通したマコトが少し視線を上げる。シヲとマコトの距離は変わらない。……なのに、近く感じる。
「深町シヲ」
呼び方が、少しだけ柔らいだ。
「助かる」
それだけ。感謝の言葉としては、あまりにも短い。
だが、それだけでシヲの視界が一瞬白くなる。脳の報酬系が馬鹿みたいに動き出す。
(来た)
膝が揺れる。倒れるな。倒れるな。役割を果たせ。
「……羽沼さんのお役に立てているなら、何よりです」
声はまだ平静を保っている。最後まで。ここまで来たならあと少しだけ。
「他に問題は?」
「ありません」
嘘ではない。シヲ自身の感情は問題に含めない。マコトは少し考えてから、頷いた。
「では、今日はここまでだ。下がれ」
「はい。失礼いたしました」
その一言で、終わり。業務連絡は完了した。シヲは丁寧に最敬礼をした後に部屋から出る。
……五秒。十秒。万魔殿の本部がある校舎を出て暫く経って、すぐには来られない位置に来たと確信してから。
シヲの全身から、力が抜ける。壁に寄りかかって、脳内でマコトの言葉を繰り返し反芻する。
「…………」
座り込まなかった。倒れなかった。ただ、額を壁に軽く預けて、静かに息を吐く。
「……最後まで、話せました」
誰に言うでもなく、そう呟く。
胸の奥はぐちゃぐちゃだ。心臓はまだ早い。呼吸も整っていない。
でも――
(今日は、勝ちです)
業務連絡という名の細い橋を、深町シヲは確かに、最後まで渡り切っていた。
シヲが去った後、マコトは、机上に広げた資料から視線を外して椅子の背もたれに体重をかける。
「補給線自体は問題ない」
一拍。
「配置も判断も、想定内だ。むしろ過剰なほど合理的だな」
「そうね。シヲちゃんは頑張り屋さんだから、マコトちゃんの『お願い』なら何だって頑張っちゃう。今回もマコトちゃんのために頑張ってるみたいね」
「それが問題だ」
断定と共に漏れた溜め息。それは彼女にしては珍しい、少しばかりの困惑が篭ったもの。
「切り札を切る覚悟が、最初から自分に向いている。撤退条件も、責任の所在も、全部だ」
サツキはすぐに理解する。
「……消耗前提、ね」
「そうだ」
マコトは静かに言い切る。
「有能だ。忠実だ。世界征服をするにあたってはこれ以上となく使いやすい駒だ。だが――」
少しだけ、口角が下がる。
「アレではそのうち壊れる。私がいるうちは平気だとも言い切れない。実際、私のためなら言えば何だってするんじゃないか?」
「違う……とは言い切れないわね。実際、マコトちゃんのお願いを叶えるためにシヲちゃんは何度も危険な目に遭っているわ」
「少しは反省しているとも。名前呼びの件やレッドウィンターでのデモ活動の件は特に」
「本当に?」
「本当だ」
情報部長であるサツキは多くの情報を集めるうちにシヲの危うさを理解していた。火の中水の中という慣用句があるが、それを実践してしまいそうなところがシヲの恐ろしさだ。
「……有能な駒が、自分で壊れに行くなど論外だ」
そう言い切ってから、マコトは一瞬だけ視線を落とす。
「あのままでは、私がキヴォトスを支配する前に壊れる。だから少しは労ってやりたいところだが……」
シャーレの廊下。視界に入っただけで足を止め、逃げるように進路を変えようとした背中。
呼び止めただけで固まり、声を掛けただけで限界に達した表情。
――礼を言っただけだ。それだけで、あれだ。
誰よりもマコトの言葉に耳を傾ける癖に、彼女のために言葉を紡げば一瞬で蕩けてしまう。役に立とうとしている癖に、少し手を伸ばしただけで腰が抜けて動けなくなる。もしマコトがシヲの肌に触れでもしたら、彼女は火傷してしまうのではなかろうか。
銃弾が当たってもケロリとしているキヴォトスの女子校生がその程度で怪我などする筈もないが、そう思えてしまうくらい、シヲはマコトに弱い。
「……あれは、褒美に耐えられない。それがシヲの良さなんだがな」
そう言って、マコトは一瞬だけ帽子の下に表情を隠し、すぐにいつもの悪魔らしい笑みを浮かべた。