「……あなた、何者?」
正邪の声は軽く、しかし天邪鬼らしい含みを含んでいた。だがその日の彼女は、扇動者としての自信に、ほんの少し揺らぎが混じっていた。目の前の男は、見慣れた妖怪でも、奇譚の登場人物でもなかった。
ホームランダーは顔を上げた。彼の輪郭はどこか古典的で、英雄像そのもののようでもあり、狂気の欠片を含んだ彫刻のようでもあった。光の残滓が彼の肌に薄く映り、胸のシンボル――かつて世界に示した紋章――が見えた。だがその目は変わらずに獰猛だった。笑いではない、認可を請う無言の要求がある。
「ホームランダーだ。アメリカの…守護者だ」
言葉の意味はこの土地の空気にあまり馴染まない。正邪は一瞬眉を寄せ、彼女はすぐに口調を変える。
「ふうん、ホームランダーね。聞いた事は…ないわね」
彼女は言う。声の端に、諷刺の混じった好奇心がある。
「まあ、あなた…強い。いいものを見せてくれた」
正邪は言葉を選びながら、自分の立ち位置を相手に示す。彼女は知っていることを小出しにする。それが彼女のやり方だ。
彼女はこの世界の全てを知っているわけではないが、正邪は本能的に、この男が単純な操り人形ではないと悟っていた。
「……ねえ」
同時に彼女は、相手が外界から来た「外来者」である可能性を確かめたいという本能に駆られていた。だから問いを繰り返す。
「その服、その話し方……外界から来たの? いわゆる“外”の者?」
ホームランダーは黙って周囲を見回した。苔と落葉、枝に残る露。ここにはテレビの光も政治家の嘆願も、観客の歓声もない。だが心の奥では、無言の怒りと不安が渦巻いている。
「外……?」
彼は短く吐き捨てるように言った。
「ここが外では?」
正邪は肩をすくめ、手に少し力を込める。
「やっぱりね…あなたの言う外じゃないわ。たぶん…貴方の知っている地図にはない場所よ。私たちは幻想郷にいる。忘れられたもの、忘れられた想い、古い神話が流れ着く場所」
耳を傾けるホームランダーの眉間が歪む。
「外の世界では、科学とか、合理性とか、便利なものが増えたでしょ?
その代わり、昔の神話、妖怪、奇跡……そういうのは信じられなくなった。そんな存在の場所よ」
ホームランダーの表情が緩む。言葉が胸に刺さる。外界での爆発と消失。ブッチャー、ソルジャーボーイ。彼の頭の中で断片がゆっくりと線になっていく。
「……つまり、俺は忘れられたのか?」
正邪は即座に首を振るほど愚かではない。ここでの言葉の扱いは刃物だ。情報を与えすぎれば相手の危険を招き、与えなさすぎれば追随されない。彼女は慎重に、でも確実に小出しにする。
「たぶんね。外の世界では“いない”扱いになっているはず。死んだか、消えたか、都合よく処理されたか。私は新聞を読むわけじゃないから全ては知らない。でも、外から落ちてくる者はときどきいる。あんたのように」
正邪は皮肉混じりに笑ったが、その目は真剣だ。相手が「忘れられた」という事実をどう咀嚼するか、それがこれからの利用価値を大きく左右する。ホームランダーは黙って受け止める。沈黙の彼の顔には、怒りと、その怒りの裏にひっそりとした幼い渇望が見え隠れする。
忘却と受容、そして子供じみた再起
ホームランダーの胸に、冷たい鉛が落ちるような感覚があった。忘れられること。記憶の外に置かれること。アメリカは英雄を墓に入れても、概念としては投影し続けるはずだった。星条旗を背負う者は、教科書やCM、記念碑の列に並び、子供の夢の中で再演されるはずだった。
――爆発。
――光。
――消失。
むしろ世界は、彼を「処理」した。
まるで、スーパーボウルのハーフタイムが終わった後のように。
派手なショーが終われば、誰もステージを振り返らない。
彼の脳裏に、忌まわしい声が蘇る。
――You’re weak.
――ソルジャーボーイは、父は自分を「弱い」と言った。父は戦いを選んだ。母の不在か、設計の欠陥か、彼は愛を得られなかった。父の言葉は最後まで彼を見なかった。選ばれなかったことの痛みは、死よりもずっと生々しく胸を抉った。
彼は拳を握り締めた。大地が軋む音が手の内で共鳴する。だがその握りには怒りだけでなく、もっと幼い衝動が宿る――見てほしい、認めさせたい、世界の中心で拍手を浴びたいという欲望。子供のように単純で、だからこそ厄介な欲望だ。
ホームランダーの目に熱が宿った。声が震える。
「──私は誰からも愛された。皆に崇められ…私は“愛される英雄”だったんだ。だのに、だのに──気づいたら世界は私を忘れただと?」
しばらくの間、彼の思考は乱反射した。否認が最初に来る。世界が間違っている、これは悪夢だ、ここにいるのは偽物だ。人々は目を覚まして「ホームランダー!」と叫び、テレビの画面で再び彼を賞賛するだろう――そんな筋道を彼は繰り返す。しかし否認は持続しない。現実の濃度は冷たい。ここにある土、ここにある月光、ここに残る妖怪の血の匂いがひとつずつ彼の否認を削っていく。
次に来るのは怒りだ。なぜだ、誰が、どの広告代理店だ、どの政治家だ――爆発でぶち壊された全てを、誰かのせいにする。ソルジャーボーイに対する怒りは、父を超えた象徴的憤怒に変わる。父が自分に向けた「弱さ」という評決を、許せない怒りが燃やした。だが怒りもまた、燃料の一種でしかない。燃やし尽くすと、灰だけが残る。
その灰の中で現れたのが悲嘆であり、無意味な問いの反芻であり、そして――小さな、しかししつこい子供じみた欲望だった。「それは自己正当化を求める幼児の声だった。彼はそれを吐き出すようにして森の空気に放った。
「ハハっ…私は誰からも愛された!みんなが――」
言葉は震え、声は渇いた。
それは怒りを越えて、目の前の女を信じたくないという訴えに近かった。月夜の下、ホームランダーの表情が目が強烈な赤に発光し歪む。子供のような驚愕と裏切られた感情が表面化する。彼は今も、誰かの視線を渇望している。承認と崇拝を求める、その幼い核はむしろ破滅的だ。
正邪は一瞬、たじろいだ。この男は強い。今にもその力を自分に行使しようとしている。だが今、目の前の男が脆弱さを見せているように見え、それが彼女自身の皮膚に冷たいものを伝えた。
「……落ち着いて」
正邪の声は急に柔らかく、計算された優しさを含んだ。
「あなた、外界で本当に愛されてたたのね。素敵な話だわ。だけど、忘れられるってことは、事実なの」
「…でもここで人があなたを覚え、祈り、怖がれば——それは力になる。ここでは忘れられたが逆に台頭することもある」
その言葉には含意がある。正邪はすぐに付け加えた。
「で、ね……」
"目的"の為に手を後ろに組む。指の震えを隠すための所作だ。
「私はあなたに協力できるかもしれない。ここにも社会がある。あなたは力を見せる。私はそれを話題にして、あなたを話題にしてやる。協力し合えば、あなたはここで名を作れる——そのための舞台は用意できる」
申し出は素早かった。正邪は相手の弱みを見つけると、つけ込まずにはいられない性分だ。だが同時に、その声には微かな恐怖が滲んでいる。相手は強大で、かつ不安定だ。彼女は自分が先に手を差し伸べることで、立ち位置を作ろうとしていた。先手は安全であり、先手は支配の始まりでもある。
「………」
ホームランダーは正邪の言葉を黙って聞いた。胸の中で何かが緩んだり固まったりする。彼の瞳に、一瞬、狭い子供のような笑みが浮かぶ。子供じみた欲望——しかしそこに合理的な計算も混ざる。
「……いいさ」
彼は短く、しかし決然と答えた。その言葉は、自分自身にも言い聞かせるのようだった。
「それなら私が…私が舞台を作ってやる。ヴォートなんて関係ない」
正邪は表情を引き締め、しかしどこかほっとしたように息をつく。先手を取ったこと、そして外来の怪物を手元に置けることの利用価値が、彼女の内側で即座に増幅する。
「私たちは協力関係よ。一緒に…この里を塗り替えましょう」
二人の間に、ぎこちない盟約が結ばれた。正邪は恐怖を隠して先制し、ホームランダーは幼い確信を胸に、忘却を埋めるための新しい旗を描き始める。月は静かに傾き、森はその模様を見守る。幻想郷は、いまや外来の怪物をひとつの物語として、ゆっくりと取り込もうとしていた。