日常の裏方   作:ダート

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第1話

 

 就職して数ヶ月。自身の責任範囲とその朧げな輪郭を把握し始めたころのことだ。

 

「ええ? それ、断れないの?」

 

 それが、話を聞いた母の言葉だった。

 声は台所から。リビングとを隔てる配膳用の障子窓を通してよく響いた。

 障子に映る母の影が大きくなり、窓が静かに開かれる。

 やはり、思った通りの表情の母が現れた。

 

「まあ、やれる人がやらないとだから。お金も欲しいからちょうどいいし」

「けどほら、身体弱いんだから」

 

 母の心配は理解できる。

 私は小さい頃から、あまり強い身体ではなかった。

 小さい頃から麻疹や肺炎をやって死にかけたし、よく分からない液体を吐いて倒れたりもした。

 そんな経験の名残は、大人になった今でも腹部の手術跡という形で見られる。

 成長しても増え続ける食物アレルギーは、生活の中にいちいち警戒と動悸とストレスを与えてくれている。

 だから、身体に負担をかけることを、母は私以上に嫌っていた。

 

 しかし、そんな母とは対照的に、父は特に意外そうにもすることなく「そうか。頑張れよ」のひと言で背中を押してくれた。父は、弱かった私がこうして働き、夜勤にも出ようというまでに成長したことを、どことなく喜んでいるようなところがあった。訊けば否定するだろうが、これはもう短くない親子関係を積んだ上で、確信していることである。

 

 そんなこんなで夜勤初日。退勤したのであろうスーツ姿の集団に紛れての出勤は、なんだか不思議な気持ちにさせられた。

 夜に、極めて真っ当な理由から、大手を振って出歩いている。道を逆行しているような、そしてそれが許される立場にあるような、そんな感覚。周囲の誰も、私が復路ではなく往路であることなど知る由もない。それがどこか小気味良かった。

 

 乗車人数は、電車がオフィスのある駅に近づくほどに数を漸減させてゆく。それに反して、抱いている妙な感覚は漸増する。下車したとき、人はまばらにしか降りなかった。

 

 駅から出る。

 初めて見る、夜の往路。

 いつもと同じ道を歩いているのに、自分だけは周りの人々と何か別の存在みたいだ。

 早歩きしながら、少し湿った夜気を吸い込む。少しだけ、雨上がりのときに感じる濡れたアスファルトのような匂いを感じる。その冷たさが肺を満たし、身体を巡り、まだ残る日勤の体温を奪って吐き出されているような、何か書き変わっていくような気がする。

 そうして見慣れたオフィスビルに到着するころ……私はすっかり夜に馴染んだような静かな気持ちになっていた。

 

 スマホ画面を見る。

 確か正面ゲートは閉まっているから、存在も知らなかった裏口でキーを入力して入る必要があったはずだ。少しやり取りを遡り、その番号を表示しながらビルの裏手へまわる。

 そして裏へ入った瞬間、強い風に全身を打たれた。

 

 普段意識していないものの、そういえばここは海が近い。

 それに、ビルの裏手は大きな川にもなっている。

 つまり、ここはちょうど風の通り道といえる環境だった。

 

 体温が一気に持っていかれる。氷でできた手櫛で梳かれるような冷気が頭皮を収縮させる。早歩きで蓄えた暖気ごと、服の中の空気まで吹き飛ばされる。

 私は一層足を早めて、複数ある扉の中から、指定されたものを身を縮めながら探す。きっとたったの十数秒だった。だが、それがとても長かった。

 

 ————見つけた。

 

 分厚いガラスの小窓が付いている、やや新しそうな鉄扉。寒々とした外とは対照的に、小窓から漏れる暖色の灯りが黒いアスファルトを照らしている。

 扉の右側にある黒い蓋をめくり上げる。すると、予想通りの0から9までの数字が現れた。私は慎重にキーを入力して『確定』を叩く。

 電子音の後、カチャリという音が聞こえた。

 

 扉を開けると、新たな空間を見つけた風が音を立てて背中を押した。

 自然に閉まることはないと悟り、私は少し力を込めてその扉を閉めなければならなかった。そして閉めた途端、一瞬で静寂が訪れる。扉を閉めた際の音だけが、微かに残響する。

 それを耳にしながら、冷却された皮膚が体温によって感覚を取り戻していくときの、あのジーンとした痺れが鼻先や指先に集まってゆくのを妙に敏感に自覚していた。

 

「……………………」

 

 残響もなくなると、中は本当に私の他にも人がいるのか疑問に思うほどに音というものがなかった。革靴の底が、コツンコツンと嫌に大袈裟に床を鳴らす。それが自分が異物であるように感じさせて、私はまるで泥棒にでもなった気持ちでロビーへと向かうのだった。

 

 エレベーター前へ到着する。

 大きなオフィスビルには付きものである『エレベーター混雑問題』は、夜勤においては無縁らしかった。

 上へ行くボタンを押すと、一番右のエレベーターがすぐに開く。

 誰かが退勤してから、きっと初めて乗るのが私なのだと結論して、一人で乗るにはやや広いエレベーターへと乗り込む。

 

 ここまで同僚にも先輩にも上司にも会っていなかったから、目的の階まで独り佇む時間は「自分しかいないのではないか」という妄想と、それが徐々に帯びる現実感との戦いだった。この不安に対しては、今日の10分後を指定するチャットを閲覧することが何よりの特効薬となってくれた。しかし、それでも漠然とした不安は胸の底に沈澱したまま、少しだけの不快感として残留しつづけていた。

 だから、いざ目的の階に到着して入館証を通し、廊下からオフィスへ入る黒い扉を通過し、そこに見知った顔を見つけたとき————私はひどく安堵したのだった。

 

 夜勤チームのみんなは、日勤のときと同じいつもの場所に変わらず座っていた。

 ただ、どこか雰囲気が緩い。それはみんなが身体ごと向き合って雑談していることのみならず、服装からも窺えることだった。

 

 スーツ姿なのは私や同僚のような夜勤未経験者のみで、先輩たちは日勤のときとは異なり、ビジネスカジュアルとオフィスカジュアルの中間のような、いつもよりもラフな格好をしていた。

 真面目過ぎるほど真面目な印象のある先輩の珍しい姿に、私は少し戸惑いながらも、改めて自分が日勤とは異なる場にいるのだと自覚したものだった。

 

 しかし、やや緊張していた私としては拍子抜けするほどに、業務は特別難しいこともなく、ただただいつもより穏やかな職場の空気の中で過ごすのだった。

 いつもよりものんびりしていて、いつもなら私語を注意する人がむしろ自分から話題を提供する……そんな時間が過ぎていった。それは素直に新鮮で、楽しい時間だったと思う。

 

 休憩時間である午前0時は、言われて気づくほど静かに訪れた。

 

 普段なら一緒に行きつけの店へ行く同僚に声をかけると、彼は途中のコンビニで事前におにぎりを購入している旨を、コンビニ袋をガサリと鳴らしながら示す。

 ハッとさせられる。そう、私はなぜか休憩時間に行きつけの店で食べるつもりになっていたのだ。もちろん、とっくに閉まっている。おまけに、同僚を誘う際にも私は「お昼どうする?」なんて間の抜けたことを口にしていたことを、オフィスビルから外に出たころになって思い至っていた。

 後頭部の辺りが熱くなる。要するに、恥ずかしかった。

 

「うわぁ……そりゃそうだよなぁ」

 

 普段外で独り言なんてしない。アニメや漫画のキャラじゃあるまいし、終始無言だ。ただ、聞かれる心配が全く無いからか、このときは思わず心が漏れてしまった。

 普段昼食のために通っている通りは、驚くほどに営みというものが失われていたのだ。昼の活気を知っているだけに、その落差に唖然としてしまう。

 街灯もほとんどない一本道。道沿いの店々は、すでに就寝してしまっている。客として自分がまるで想定されていないことを、嫌でも感じさせられる光景だった。

 

 ————これから、こんな時間の住民になる。

 

 それをこうして目の当たりにして、初めて……寂しいと思った。急に孤独感が湧き上がる。

 今すぐに、あの明るいオフィスに戻りたい。あの、みんなのところに。けれどそれでは昼食という名の夜食が摂れない。

 

 暗闇に某牛丼チェーン店の灯りが見えたのは、そんな悶々としながら少し距離のあるコンビニへと向かう道中でのことだった。

 まるで黒い海の中を浮かぶ孤島のようなそれに、自然と足が向く。こんな場所にこんな店があることなんて、私はまるで関知していなかった。普段昼食をコンビニで済ませはしないし、よってこんな場所に来ることもなかったし、仮に来たことがあっても気にも留めなかっただろう。

 

 外から店内を窺うと、一瞬の眩しさの後、意外にも何人か客が入っているのが見てとれた。さっきからまるで見なかった人の姿。それで、自分もその何人かに混ざることに決めていた。普段初めて入る店には、たとえチェーン店であっても物怖じする私にしては、それは特別なことだったと思う。

 

「いらっしゃいませェ」

 

 入店と同時に肌に感じる空気が変わり、暖かな室温と肉の芳しさが空腹を思い出させる。大きくはないのに妙にハリのある挨拶は、若い男性店員のものだ。

 どの店でも聞き流していたその挨拶が、今はどうしてか『迎えられたのだ』という柔らかな実感をもたらしてくれる。職場の人間以外からかけられた、初めての言葉だったからだと思う。見れば、席にいる何人かは働いているらしい格好をしていた。

 ここにいる全員が、仲間なのだと思った。昼という表舞台を支える、仲間なのだと思った。

 

 勝手に薄い連帯感のようなものを錯覚しながらの食事は、存外に満たされる時間だった。

 その後、ここは夜勤における行きつけの店となったりするのだが、それはともかく、退店するころには寂しさなど嘘のようにかき消えていたことで、その後の業務も何事もなく進めることができた。何事もないどころか、途中でもうやることがなくなってしまったほどに、全てが順調と言えるほどである。

 

 暇になった途端、先輩方は各々が持参したアイマスクを用いて、寝ながらにして給与を受け取る姿勢に入った。その澱みない入眠スペースの確保手順と事前準備に夜勤経験者としての慣れを感じ、苦笑するような感心するような、なんとも愉快な感情を抱いたのを覚えている。

 私もそれに倣って仮眠しようとしては試みたものの、どうにも周囲に人の気配がある場所では眠り切れず、結局窓辺のフリースペースで窓に写る自身とオフィス内を眺めていた。

 

 それでも数分おきに眠っていたのかもしれない。

 気がつくと外は夜の気配が薄らぎ始め、徐々に朝に近づいていた。それに伴って窓も黒い鏡としての機能を失い、私はいつからか明るくなりつつある街を眺めていた。

 こうして眺めると、改めて夜と朝、昨日と今日が地続きなのだと実感できる。日々は1日という単位でぶつ切りになっているのではなく、区切りのない地続きで果てなき時の流れに対し、人間が勝手に句読点を設定しているに過ぎないのだと、ぼんやりとした頭でそんな考えを燻らせていた。思えばそんなことは語るまでもなく自明であったが、なぜかこのときの私にはとても大切な真理に気づいたように感じられた。

 

 街が確かな輪郭を取り戻してゆく。

 夜の闇が、どんどんと建物や木々やの影へと追い立てられてゆく。

 そんな光景を見下ろしながら、つまり午前の影にはまだ夜が残っているのだと知った気分にもなった。

 帰りにあのビルの()に入って帰ろうなんてことも、このときに決意したことだった。あの牛丼屋での食事以降抱いていた、夜への奇妙な親近感がそう思わせたのかもしれない。

 

 その後、日勤帯の社員への引き継ぎを行うべく何人かは9時まで残ってほしい旨の指示を受け、以降は引き継ぎ組はローテーションとし、今回は先輩2名と私が残ることとなった。

 私は日勤帯の社員が来るまでの間を先輩社員との雑談に費やし、そのまま引き継ぎを終えて帰るはずだった。しかし、何やら日勤帯の社員も忙しいらしく、残った3名で昼までフォローに入って欲しいということになり、少し重くなってきた頭に鞭打って、昼休憩のタイミングで退勤することとなったのだった。

 

 帰り道、昼休憩の時間であることもあって、道は人の気配や声、走行音、色々な街の臭いに塗れていた。深夜の光景と対照に、大いに賑わう街の姿。そんな中、退勤した帰宅途中の自分が歩いている。周りとは真逆の、疲れ切った足取りで。

 

 ————日常の裏方。

 

 自分がそういうものになったことを、もう何度目かの自覚の果てに思い知る。

 見上げる頭上にはビルが聳えている。

 

 

 

 

 ()はもう、消えていた(いなかった)

 

 

 

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