事態が動いたきっかけは、千束とたきなのインカムにミカからある情報が知らされた事だった。
四人が乗っていた水上バスを一台のバイクが追跡している事にドローンを通してクルミが気づき、運転主を顔認識システムで解析・検索したところ、バイクの主はジンと呼ばれる暗殺者だった。その静かな殺しぶりから『サイレント・ジン』とも呼ばれているベテランの殺し屋らしく、おまけにミカの顔見知りという。彼がリコリスの訓練教官にスカウトされる以前……十五年前まで警備会社で一緒に裏の仕事を担当していたらしい。ミカの話によると、その二つ名通り声を聞いた事は無いが、それを語るミカが表情を険しくした事から腕は間違いなく一流と言っても良いだろう。
そしてクルミを通して連絡を受けたミズキがジンに発信機をつけるために彼の後を追ったのだが、途中でドローンの存在に気づいたジンが銃でドローンを墜落させ、しかもジンを追っていたミズキが彼に見つかり連絡が取れなくなった。急いでクルミが予備のドローンに電源を入れて飛ばしたものの、そのドローンがジンを見つけるまでには時間がかかる。それからミカがミズキと連絡が取れなくなった事を美術館にいる千束とたきなに知らせ、今に至るというわけだ。
『ミズキと連絡が途絶えた。ジンが仕掛けてくるぞ』
二人には美術館に入る前に、松下と藍を避難させてから二人の内どちらかが打って出て、予備のドローンとミズキでジンを見つけ次第攻撃に入り、残りの三人が美術館を出たらミズキが車を回す手筈になっていた。しかし今はそのミズキが生死不明の状態になっている。少々危険だが、ここは松下と藍の二人を残りのどちらかが護衛しながら場所を変えるしかない。
「(店長、ジンが松下さんよりも藍さんを先に狙う可能性はないでしょうか?)」
ジンが近づいてきた場合、可能性の話だがそばにいる藍を護衛と思って彼を先に排除しようとする可能性がある。それを防ぐには、藍を自分達から引き離す事も考えなくてはならない。そう考えたたきなが尋ねると、ミカはその心配を『いや、それはないだろう』と否定した。
『ジンは腕もだが、流儀に関しても一流の人間だ。護衛相手なら話は変わるが、標的以外の人間を殺す事はまずしない。それに藍君の動きは私から見てもこちらの世界の人間とはほど遠い……本当にただの一般人だ。ジンがそこを間違えるとは思えない。彼が狙われる可能性は低いだろう』
つまり、気を付けるべきは松下の身の安全の方という事だ。それにたきなはほっと小さく安堵の息をつくが、だからと言って油断はできない。ジンが接近している以上は松下の命が危ない事に変わりはないし、先頭が長引けば例えジンの方にその気がなくても藍の身に危険が及ぶ可能性はゼロではない。
「私に任せてください!」
「ちょっ、たきな!」
そう言ってたきなは三人から離れると、美術館の人気のない方向に向かって走り去っていく。そんなたきなの背中を、藍は不思議そうに眺め、松下が千束に尋ねた。
『どうしました?』
「え? あ~、と、トイレに行ってくるみたいです」
千束がどうにか誤魔化した一方で、一人ジンの迎撃に向かったたきなはスマートフォンを取り出して画面を表示する。上画面にはヘルメットに隠されたジンらしき男の素顔、さらに下画面には本人の顔写真が映し出されていた。長い黒髪を後ろで束ねた、細目の男。これが今回松下の命を狙う殺し屋、サイレント・ジン。たきなが顔写真を確認すると、インカムからクルミの声が聞こえてきた。
『屋内の監視カメラの映像を顔認証にかける。野外は予備のドローンを向かわせたから十分後に解析を始められる』
「ミズキさんは!?」
ジンの動向も心配だが、生死不明の状態になっているミズキの身の安全も心配だ。するとクルミが何やらキーボードを操作する音が聞こえ、
『連絡が途絶えたままだ。美術館の入り口はデパートの通路側だから館内のカメラで確認する。たきなは出口側に向かって目視で見張ってくれ。……ん? ちょっと待て!』
突然クルミが声を張り上げたかと思うと、さらに彼女の嬉しそうな声が聞こえてきた。
『ミズキがジンに発信機をつけてた! 死んでもこっちに情報を残した!』
『死んだと決まってはいないだろ……』
あんまりな言い様のクルミに、ミカが軽く訂正の言葉を入れてやる。しかし今のたきなにとっては、発信機の情報の方が重要だった。
「クルミ、発信機の位置は?」
『もう美術館に来てる』
「外ですか? 中ですか?」
まだ外で松下を捜しているか、それとももう中に入って自分もしくは松下を見つけているか……。次の瞬間、ピリピリと警戒心が高まるたきなにクルミが叫んだ。
『後ろだたきな!』
クルミの言葉を素早く理解したたきなが頭を勢いよく下げた直後、壁に銃弾が着弾し壁に穴が空く音がその場に響いた。その位置は見事に先ほどまでたきなの頭があった場所、銃声は聞こえなかったからきっと
たきなは振り返りながら鞄から愛用の拳銃を取り出しすぐに
戦闘が、始まった。
たきながジンと戦闘を開始したその頃、松下と藍を連れた千束は東京駅ホームにてミカ達からの連絡を待っていた。と、彼女のインカムに待ち望んでいたミカからの通信が入る。
『千束』
「―――松下さん、ちょっと藍くんと一緒に待っててください。藍くん、松下さんをよろしくね」
『ええ』
「はい、分かりました」
千束が松下と藍から離れると、それをインカムの向こうで聞いていたミカが言った。
『ミズキが無事だったぞ』
「ああ、良かったぁ……」
彼女の無事を聞き、千束は安堵の息をつく。ミカからの短い説明によると、どうやら彼女はジンに見つかった後両手を拘束されて近くの工事現場の倉庫に閉じ込められていたらしい。そのミズキに対する扱いから考えても、どうやらミカの言った通りジンはターゲット以外を積極的に始末する事はないようだ。そしてどうにか工事現場にいた作業員の手を借りて倉庫から脱出したミズキは、現在こちらへと走って向かってきているようだった。
『松下さんとすぐに帰ってこい。そっちに迎えに行って―――』
千束とミカが今後の方針について話し合っていると、千束から少し離れた所で彼女が戻ってくるのを待っている藍に松下が突然こんな事を言いだした。
『天竺さん、すいません。急いで行きたい所があるので、付き合ってもらって良いですか?』
「え、ですが千束さんは………」
『彼女には後で説明します。申し訳ございませんが、お願いします』
そう言われた藍はちらりと千束に一度視線をやると、「分かりました」と言って松下の車椅子のハンドルに手をかける。本当なら千束に一声かけるべきだが彼女は何やら忙しそうだし、松下からの要請もあるのであとで謝るしかなさそうだ。こうして、仕方のない事だが千束達が今まで藍に護衛任務に関する事情を黙っていたのが裏目に出てしまう事になった。
「それで、どこに行きたいんですか?」
『ええ、実は………』
松下の言葉を聞いた藍は彼の車椅子のハンドルを握る手に力を入れて歩き出す。一方、ミカとの通信を終えた千束は振り返って、二人と一緒にミズキを待とうとする。ミカとの話し合いで彼女を待ってから電車で帰ろうとしたためだ。
「松下さん、藍くん………」
千束が二人に呼び掛けながら振り返るが、そこには当然松下と藍の姿はない。千束とミカが話している間に、二人はここを離れてしまっていた。
「………え? 松下さん……藍、くん………?」
千束が周囲を見回しながら半ば唖然とした声を出すが、彼女の声は駅のホームのざわめきへと空しく吸い込まれていってしまう。そしてようやく護衛対象と何の関係も無い一般人の少年がここからいなくなった事を悟ると、その場から勢いよく走り出しながら急いでミカに連絡を取り始めた。
松下を連れた藍が来たのは、ついさっきまでいた美術館のすぐ前だった。松下にどこに行きたいか行き先を聞いた所、彼は何故かここを指定したのだ。それに首を傾げながらも藍が彼をここまで連れてくると、歩くのをやめて松下に尋ねる。
「松下さん、着きましたよ。……でも、ここにはさっき来ましたよね? どうしてまたここに来たかったんですか?」
しかし松下は何も答えない。すると二人の背中に、とても聞き覚えのある少女の声がかけられた。
「松下さん! 藍くん!」
藍が振り返ると、そこにはほっとした表情を浮かべた千束が立っていた。リコリスのため藍よりも体力がある彼女の頬に汗が流れている所を見ると、よほど焦りながら二人を捜していたのが分かる。彼女は二人に歩み寄りながら、腰に両手を当ててぷくっと軽く両頬を膨らませると松下の背後の藍に軽く注意する。
「もう、松下さんを連れて勝手に歩いちゃ駄目だって藍くん! すごく心配したんだから!」
千束の焦りと心配が伝わったのか、藍は珍しく困ったような表情を浮かべながら松下を見て、
「ごめんなさい。でも、松下さんがどうしてもここに来たいと言いまして……」
「……え?」
千束が思わず藍から松下に視線を変えると、まるで彼女が来るのを待っていたように松下が言った。
『ジンが来ているんだね?』
「………っ!」
松下から放たれた名前に、千束は思わず目を見開く。気づいていたのかという驚きと、何も知らない藍の前でという焦りが混ざった感情が彼女の中に生まれる。案の定、ジンの名を聞いた藍は松下を見つめて不思議そうな表情を浮かべている。しかし松下の方はそんな二人の反応などまったく気にせず、車椅子を動かして体を千束に向けるとさらに続けた。
『あいつは私の家族を殺した。確実に私を殺しに来るはずだ』
「ちょっ、松下さん……!」
千束が焦りの声を発した直後、インカムへさらに悪い情報がクルミによってもたらされた。
『千束! たきながまかれた! 気をつけろ!!』
つまりジンの動向が分からなくなったという事だ。そうなるといつ自分達の前に現れてもおかしくない。千束は藍の視線を感じながらも、松下にこれからの事を提案する。
「なら一度、店に帰りましょう? 避難してからどうするか……」
『私には時間が無いんだ。お願いだ。私のために、アイツを……』
松下がそこまで言葉を発した直後。千束の相棒の絶叫が、その場に響き渡った。
「逃げてぇえええええええええええええっ!!」
千束がはっと声が聞こえてきた方向に視線を向ける。声が聞こえてきたのは松下と藍の後ろにある美術館の上部からだった。よく見ると、建物の陰から一人の男が銃口を向けているのが見える。
が、銃口を向けられている対象を確認して、千束の目が限界まで見開かれる。
サイレント・ジンが狙っている相手は何故か松下ではなく……彼の後ろに立っている、藍の頭部だった。
「藍くん!!」
千束が叫びながら走り出し、直後にジンとたきなの銃からほぼ同時に銃弾が放たれる。千束が勢いよく体当たりする形で藍に突進し、結果千束は藍の体を抱きかかえながら地面を転がる。一方ジンの銃弾は先ほどまで標的だったはずの松下の背後の地面に着弾し、たきなの銃弾はジンの持つ銃に当たり、その勢いで彼の右腕が弾かれる。千束は素早く身を起こすと、自分の下敷きになっている藍に聞く。
「藍くん、大丈夫!?」
「はい、なんとか……」
少々苦しそうな声を出しているが、それは千束の下敷きになっているからであり、外傷はないだろう。その証拠に千束が素早く彼の体に視線を巡らせてみても、銃で撃たれたらしき傷は見当たらなかった。それに千束はほっと安堵の息をつくが、すぐさま先ほどまでジンがいた場所に視線を向ける。が、そこにはジンはおろかたきなの姿も無い。しかしよく見ると、先ほどジンが立っていた場所は工事現場の足場の上のようだった。そこから考えると、たきなとジンはそこから落下した可能性が高い。下に足場や土嚢があれば二人共生きている可能性があるが、最悪の場合どちらか、あるいは両方共命に関わる怪我を負っている可能性だってある。しかし直後、千束のインカムにたきなから連絡が入った。
『千束! 松下さんと藍さんを避難させてください!』
「分かった!」
先ほどジンは、明確に藍の命を狙ってきた。となると松下だけではなく藍もここにいるのは危険だ。たった一人でジンと交戦しているたきなも心配だが、声からして命に関わる怪我はまだ負っていないらしい。ここは早く二人を避難させて、たきなに合流した方が良い。千束が倒れている藍に手を貸し、藍が立ち上がるのを確認すると松下に言う。
「たきなが引き付けてくれてるうちに、急いでここから離れましょう!」
しかしそれに対する松下の返答は千束の言葉を肯定するものでは無かった。
『私の本当の依頼はジンを殺してもらう事だ』
「え?」
『キミのペンダントの意味を私は知っている。キミには使命があるはずだ』
松下の言葉に千束が言葉を詰まらせ、一方で藍は松下の後ろ姿を不思議そうな目で見ていた。
「ち、千束ぉ~………」
突然千束と藍の耳に今にも死にそうな、それでいて非常に聞き覚えのある声が聞こえ、二人がその方向に視線を向けるとこの炎天下の中を必死で走ってきたのか、ミズキが汗びっしょりの状態でこちらに走って来ていた。おまけにスカートにハイヒールとどう見ても走るのに適さない格好なので、疲労も倍増だろう。まぁそれだけ、ここまで一生懸命走ってきてくれたという証拠でもあるのだが。
「お、おまたせ………」
そう言ってミズキは三人の前で立ち止まると、ハーハーと両膝に両手をついて深呼吸を何度か繰り返した。千束は一瞬松下をちらりを見るが、すぐさま顔を上げてミズキに言う。
「ミズキ! 松下さんと藍くんをお願い!」
「りょう、かい………」
息絶え絶えといった状態ながらミズキはどうにか返答し、千束は先ほどたきなとジンが落下した場所へ走り出そうとする。そんな彼女の背中に、今まで蚊帳の外の状態だった藍が声をかけた。
「―――千束、さん」
「―――」
彼の声に、千束は走り出そうとした足を止める。それから唇をきゅっと噛み締めると、振り返らないまま藍に言った。
「ごめんね。今はたきなを助けに行かなきゃいけないから、詳しく説明してる時間はないんだ。その代わり、終わったら全部説明するから。だからそれまで、ちょっと待ってて」
それと、と千束は一度言葉を区切らせて、
「―――巻き込んじゃって、ごめんね」
微かに震える声で言った千束は、今も戦いを繰り広げているであろう二人の元へと走り出した。まるで胸の中から何かの感情が溢れ出してしまいそうになるのを必死に我慢するように、唇を強く引き結びながら。
『これだけは見届けなければ』
だが松下の方は何事も無かったかのように車椅子を動かすと、そのまま千束の後を追ってしまった。彼の後ろ姿を見ていた藍も、彼の後を追って小走りについていく。
「ふ、二人共……命狙われてるんだからちょっとは待ちなさいよ~……!」
どこまでもマイペースを貫く二人にミズキは抗議の声を上げながらもまだここまで走ってきた疲労が残っているらしく、よろよろとふらつく足取りで二人の後を追って行った。
『やっと到着』
クルミのドローンが現場に到着した時、たきなとジンの戦闘はまだ続いていた。落下の際に銃を落としてしまい、工事現場を逃げて松下と藍が避難する時間を稼いでいたたきなを、吹き抜けのため彼女がいる下層を見下ろす事ができる上層からジンが銃弾を連射する。その内の一発がたきなの左足の太腿をかすめ鮮血が噴き出し、たきなは転びながらも射線を遮るためにそばにあったコンテナの陰へどうにか逃げ込む。
直後、銃弾がかすった傷に激痛が走り、たきなは思わず傷を抑えて呻き声を出す。銃を落とした上に足まで使えないとなると、後はもう狩られるしかない。そこまで考えた直後、上層から音がしてたきなが視線を上げると、最悪な事にジンが銃を自分に突き付けているのが見えた。二人の視線が交差し、ジンの指が迷いのない動きで引き金を引こうとしたその時。
ドン! という銃声の直後にジンの顔のすぐ横で赤い粉塵が舞った。ジンが銃弾が来た方向に視線を向けると、赤い制服を着た少女―――千束がジンのいる場所よりもさらに高い上層を走りながら非殺傷弾を次々にジンに乱射する。近距離でなければまず当たらない非殺傷弾を用いた文字通りの『乱射』なのでジンには当たらないが、別に構わない。
弾倉を新しいものに交換して高く跳躍するとさらに乱射、するとジンの方も反撃とばかりに銃口を向けてくる。銃口の位置、ジンの筋肉の動きから自分の胸目掛けて放たれる銃弾の軌道を見切った千束は滞空中にすぐ後ろの鉄骨を蹴りつけて体をわずかにそらし、直後に発射される銃弾をかわす。これはさすがのジンも予想外だったのか、目を見開いて驚愕の表情を浮かべている。
千束は着地すると前転し着地時の衝撃を殺しながらジンとの距離を詰めるために走り、彼女に向かってジンが正確な狙いをつけて銃弾を連射してくる。しかしその精密な狙いは千束にとってかえって避けやすいものでしかない。千束は銃弾を避けながら再び銃の弾倉を交換する。
「松下さんと……たきなと……!」
今日の東京観光を楽しみにしていたであろう老人と、傷を負いながらも必死に彼を護ろうとしていた相棒。
そして、自分達の任務の事など何も知らないで楽しんでくれていたのに、自分達が巻き込んでしまったあの愛おしい少年の顔を思い浮かべて。
「藍くんに、何してくれてんだこのロン毛ェ!!」
今日一番の怒号と共に銃口に
千束は振り返ると、戦いを見守っていたたきなに向けてむふんとちょっと誇らしげに鼻を鳴らす。そんな彼女にたきなは苦笑を浮かべながら、
「任せてって言ったのに……。松下さんと藍さんは?」
「大丈夫。二人共、ミズキに任せて……」
千束が不安げな表情を浮かべるたきなを安心させるように言った直後。
『殺すんだ』
今日何度も聞いた機械で作られた声がして、千束がその方向を向くと松下が車椅子を動かしてこちらに向かってきていた。その後ろには藍と、体力が尽きかけているのかミズキがしゃがみ込んでいるのが見える。
『そいつは私の家族を奪った男だ。殺してくれ』
「………でも」
そばで倒れるジンを横目で見る千束に、さらに松下が言葉を続ける。
『本来ならあのとき私の手でやるべきだった。家族を殺された二十年前に』
松下の言葉には、今日の東京観光では確認する事ができなかった感情が込められているように千束とたきなには感じられた。その声はあくまでも、機械で作られたものだというのに。
『息子と弟を失い、傷つきながらも私達はどうにか立ち上がり、前に進んだ。その結果私達はようやく幸せを掴み取る事ができた。だがその男は、ようやく手に入れた幸せを踏み躙ったんだ! そんな奴に生きる価値などない!』
「松下さん………」
息子と弟という言葉を聞き、千束は水上バスで聞いた松下の話を思い出す。自分達の家族になるはずだった命を救う事が出来ず、それでも妻や娘と一緒にどうにか立ち上がりようやく幸せを掴む事が出来た。だがその幸せも、一人の殺し屋によって奪われた。その辛さや怒りは、一体どれほどのものだったのだろう。
『だから、キミの手で殺してくれ……。キミはアランチルドレンのはずだ! なんのために命をもらったんだ! その意味をよく考えるんだ! 早く、その男を―――!』
「松下さん」
まるで必死に説得するかのような松下の言葉に対して、千束の声音は静かだった。松下の言葉を真正面から聞きながら、彼女は松下の顔をまっすぐ見つめながら静かに語る。
「私はね、人の命は奪いたくないんだ」
『は………?』
まるで予想すらしなかった言葉を聞いたかのように、松下から間の抜けたとすら感じられる声が漏れる。千束は松下にゆっくりと歩み寄りながら、自分の胸元のチャームを手に取り、
「私はリコリスだけど、誰かを助ける仕事をしたい。例え相手が、どんな人であっても。………これをくれた人みたいにね」
『なにを言っ………。千束?』
その言葉に、千束は思わず目を少し見開く。松下の口ぶりがまるで、自分の事を今日よりも前から知っているような、そんな口ぶりだったからだ。しかしそんな千束の様子に気が付いていないのか、松下は戸惑いの口調でさらに千束に語りかける。
『それではアラン機関はキミを……その命を……』
そして、松下がそこまで言いかけた時だった。
この場の誰も予想していなかった、ある人物が声を上げたのは。
「―――あの、ちょっと良いですか?」
そう言って、まるで学校の授業で教師に質問するかのように挙手をしたのは、それまで一同のやり取りを見ていた藍だった。
「藍、くん?」
「藍さん?」
千束とたきなが戸惑いの声を上げる中、藍は松下の横を通り過ぎて彼の前に立つと、ちょっと膝を折り曲げて彼の顔をじっと見つめる。藍の左目の瞳に、ゴーグルをつけた松下の顔が写り込んだ。
そして。
千束。たきな。ミズキ。クルミ。ミカ。松下。全員が藍に視線を向けている中で、藍はこの場の誰もが予想していない一言を口にした。
「今日一日ずっと気になっていたんですが……。
彼の言葉を聞いた誰もが、その言葉の意味を理解できなかった。すると藍の言葉に一番先に答えたのは、尋ねられた本人だった。
『……君は一体何を言っているんだ? 私は松下……』
「いえ、それはあなたであってこの人じゃないですよね? そもそも、松下という名前ですらないでしょう?」
『―――なっ』
そこでようやく、車椅子に取り付けられた心電図から戸惑いと驚愕の声が漏れた。藍は心底不思議そうな目を松下の顔に向けながら、
「今日一日、ずっと不思議だったんです。あなたはずっと松下という偽名を使って、この人を演じていた。最初は僕も、何か理由があってそうしているのかなと思ったので気にしていなかったのですが……。あまりにも嘘が多すぎるので、どうしても気になってしまったんです」
「嘘って……。藍さん、どういう事ですか?」
先ほどからの突然の展開に頭がついていけなさそうになりながらもたきながどうにかして尋ねるが、そんな彼女に……否、この場の全員に藍が告げたのは、衝撃的な事実だった。彼は自分に質問してきたたきなを一度見ると、うーんと何やら悩んでいるような声を出し、
「どういう事も何も……。だって家族を殺されたというのも、嘘ですよね?」
『――――は?』
わけが分からない、と言うような声を発したのはインカムの向こうのクルミだったが、彼女を責める事は出来ないとたきなは思った。だって……聞いている自分達ですら、わけが分からないのだから。
「あなたがこの人だというのも嘘。名前も嘘。家族が殺されたというのも嘘。あとさっきあなたが千束さんに言った、息子さんが亡くなったというのも嘘。嘘、嘘、嘘。それだけ嘘を重ねて何をしたかったのか僕には分かりませんでした。ですからもう一度、あなたにお尋ねします。あなたはどうしてあんなに嘘をついたんですか? あなたはどうして千束さんにあの男性の方を殺させようとしたんですか? ―――あなたは一体、誰ですか?」
藍の言葉と目に悪意のようなものはない。あるのはどこまでも純粋な疑問。怒りはおろか正義感という、真っ当な感情すら存在しない。純粋に気になっているから、こうして今目の前の男性に聞いている。
ただ、それだけのはずなのに。
松下―――否、松下を騙る『誰か』の目には、目の前に映るただの一般人の少年の姿が、まるで得体の知れない『何か』に見えた。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだという有名な言葉があるが、誰かにとってその深淵は少年の姿をしていた。
そして、脳裏にある記憶が蘇る。
―――両手を手錠で拘束された幼い少年。着ているものはまるで病人が着るような白い服。その黒い瞳は、ここではないどこかを見つめているような、それでいて何の感情も浮かんでいない、人形のような伽藍洞。ずっと見ているとこちらが逆に吸い込まれてしまいそうな虚無そのもの。
『―――そう、か』
初めて見た時から気になってはいた。彼を見た時、まるで以前どこかで出会ったような、そんな感じがしたからだ。あの時は気のせいだと思ったが……今は違うと断言できる。
目の前の彼の得体の知れない雰囲気。そして、天竺藍という名前。それらの情報から、その人物は目の前の少年の事を完全に思い出す。
『キミは……あの時の……!』
しかしそのまま何かを語ろうとした誰かの言葉を遮るように、パトカーのサイレン音が遠くから聞こえてきた。すると体力が回復したミズキもそれに気づいたようで、立ち上がって千束と松下、そして藍に近づきながら、
「どうやら、騒ぎ過ぎたみたいね。気になる事は色々あるけど、面倒な事になる前に早く逃げちゃおう! ほらほら」
だがミズキが言った直後、今まで松下と名乗っていた老人が乗っていた電動車椅子に異変が起こる。突然心電図のモニターが乱れたかと思うと、彼の両目を覆っていたゴーグルの電源が落ちる。それに誰よりも早く気づいていたのは、先ほどまで彼と話していた藍だけだった。そうとは知らず千束が老人に言葉をかけるために彼に顔を向け、
「あの、とりあえず場所を変えて一度落ち着いて……」
「無駄ですよ」
え? と千束が藍に視線を向けると、藍はゆっくりと立ち上がりながら、
「どうやら、帰ってしまったようです。何を考えていたのか聞けたら良かったんですけどね」
彼の言葉に千束は再び老人に視線を向けるが、ゴーグルどころか心電図の電源すら落ちた画面から何か声が聞こえてくる事は無く、千束達は疑問を抱えたまま藍と老人を連れてこの場から離れるしかなかった。
工事現場を離れた一同はミズキの車を回収すると、その車に乗って河川敷まで移動する。それから車を停止させて降りると、もう一人連れてきた人物を車の最も後ろの空間に移動させてから、ミカがその人物に向かって声をかける。
「ジン。起きろ、ジン」
その人物―――ジンはミカの声に体をピクリと反応させると、目を開いてミカと千束、たきなの姿を確認して「……ミカ?」とやや低い声を出す。そして体をゆっくりと起こし、
「お前の部下か……。良い腕だ」
千束とたきなへの称賛の言葉を、ミカはフッとどこか自慢げな表情で聞いていた。それから事前に移動させていたジンのバイクに彼が乗るのを待つと、千束とたきなの二人をミズキと藍と一緒に離れた所で待機させ、ミカがジンに尋ねる。
「そっちの依頼人は誰だ?」
「三週間前に女が直接会いに来た。依頼人のプライバシーは聞かない主義だ」
確かに標的以外の人間は極力殺さないジンならば、依頼人の事を根掘り葉掘り聞くような無粋な真似はしないだろう。気になる事や聞きたい事はあっても、ただ標的の殺害にのみ力を尽くす。彼らしい対応だ、とミカは内心で思う。しかしだからこそ今回の件では一つ気になる事があったが、とりあえずそれは後回しにしてもう一つ気になる事を尋ねる。
「……二十年前松下の家族を殺したのか?」
だがそれに対して、ジンは逆に眉をひそめると、
「その時はお前といたろう?」
「……そうだな」
工事現場で千束とジンが交戦した後、松下と名乗る老人は二十年前に家族を殺されたと言っていたが、実はその時ジンはミカと一緒に仕事をしていたのだ。もしもジンが本当に松下の家族を殺していたのならば、当然その事はミカも知っていたはずだ。が、ジンが松下の家族らしき人物達を殺したという記憶はない。つまり、あの時藍が老人に言っていた言葉はデタラメではなく、事実だったという事だ。そこまで考えた所で、ミカは先ほどまで後回しにしていたもう一つの疑問を改めて口にする。
「もう一つ聞かせてくれないか? 何故美術館の時、松下さんではなくそばにいた少年を狙った? 標的よりも何の訓練も受けていない一般人を狙うなど、お前らしくないだろう」
千束とたきなの報告によると、ジンは何故か松下ではなくそばにいる藍を狙ったという。それを聞いた時から、ミカにはその事がずっと頭に引っかかっていた。彼女達に言った通り、ジンは何の関係も無い一般人を狙うような人間では無い。だがジンが何故か標的よりも藍を先に殺そうとしていたのも事実だ。それが気になってミカは尋ねたのだが……それを聞いたジンは、何故か驚いたように目を見開いた。
「一般人? あの子供も護衛じゃなかったのか?」
「いや、彼は今日たまたま同行する事になった普通の少年だ。……まさか、彼を護衛と勘違いしたのか?」
「……ああ」
「馬鹿なっ。どうしてそんな事を」
予想外の言葉に、ミカは思わずそう言ってしまった。勘違いなど、それはますますジンらしくない。彼は現役の殺し屋で凄腕だ。今回は千束に敗北してしまったが、それは単に相手が悪かったとしか言いようが無い。それほどまでの腕を持つジンが一般人と護衛を間違えるなど、そんな事があるのだろうか?
するとジンはため息をつきながらも、かつての相棒の顔を見て、
「最初は俺も彼をただの一般人だと思った。だが俺が水上バスで彼らを見張っていた時、彼が取ったある行動でその考えをすぐに捨てた。……それが無かったら、彼を狙うような事はしなかったさ」
「ある行動?」
凄腕のジンが、一般人の少年を護衛と間違えてしまう行動とは一体何なのだろうか。ミカが思わず怪訝な声を出すとジンはああ、と頷いてから藍が取った行動を告げた。
「彼がこっちを見たんだ。水上バスとはそれなりに距離が離れているにも関わらずにな」
「……それは、ただの偶然じゃないのか? 何となくお前がいる方向の風景を見ていたとか……」
「いや。俺も最初はそう思ったが、明らかに視線をこっちに定めていた。実際、俺が双眼鏡から目を離すまで、彼はずっと俺を見ていた。……目を逸らす事も無くな。あれは明らかに俺が見ている事に気づいている動きだった」
「………」
ジンの言葉に思わずミカは目を見開きながら、後ろの方を気づかれないようにちらりと見る。するとすぐにミカの視線に気づいたのか、藍が不思議そうな表情をして首を傾げているのが見えた。
正直、信じられなかった。その時水上バスには藍だけではなく、千束やたきなもいたはずだ。しかし彼女達でさえ、ジンの視線に気づく事は出来なかった。が、それはある意味仕方ない。それほど距離が離れており、しかも殺気も無いのならば気が付かなくても無理はない。
―――その視線に、藍だけが気付いていた。ファーストリコリスの千束ではなく、ただの一般人であるはずの藍だけが。それがどれほど異常な事であるかミカには分かったし、同時に何故凄腕の殺し屋であるジンが老人よりも先に藍を狙ったのかその理由もすぐに分かった。
「……なるほど。だから藍くんを先に狙ったのか」
「ああ。あの距離でこちらの存在に気づくとなると、相当な凄腕だと思った。そういった連中の中には一般人のふりが上手い奴もいる。だからこちらの仕事を邪魔されないように、いざという時は標的よりも先に始末しようと思ってたんだが……まさか何の関係も無い、正真正銘の一般人だったとはな。俺もヤキが回ったものだ」
ジンは口元に自嘲するような笑みをうっすらと浮かべるが、それは仕方ないとミカは思う。今回藍が取ったのはジンはおろかミカですら予測する事が出来なかった行為だ。彼の事をそれなりに知っているミカですら予測できなかったのだから、今日初めて藍を認識したジンが間違えてしまっても無理はない。むしろ、彼の異常さを感じ取って標的よりも先に彼を狙おうとしていた事自体が、逆にジンという殺し屋の優秀さを証明している。
ジンはヘルメットを被るために両手に持ちながら、やや遠くの方で千束達と一緒にミカがジンと会話しているのを見守っている藍の姿を確認するとミカに言う。
「彼に伝えておいてくれ。巻き込んでしまって悪かったと」
「……ああ」
ミカが頷くと、ジンの視線がミカの右足と手にしている杖に向けられる。ジンは何故か怪訝そうな表情を浮かべると、ミカに尋ねた。
「ところでミカ。脚はどうした? 俺と一緒にいた時はそんな状態じゃなかっただろう?」
「……ちょっと色々あって、な」
そう言ってミカは手にしていた杖で、不自由な右足をこつんと軽く小突いたのだった。
今話を書いていたら想定以上に文字数が多くなってしまったので、原作五話編は次話までもうちょっとだけ続きます。ただのおっとりミステリアス一般人であったはずの藍くんの異常さがちょっとだけ見えた所で終わらせてしまい申し訳ございません。次話が一応原作五話編のラストになりますので、それまでもう少し待っていただけますと幸いです。
ちなみに藍くんがジンの視線に気がついた箇所は前話の最後辺りにちらっと出ていまして、その時にすでに藍くんは正体は分からないですが誰かが自分達、正確には自分を見ている事に気づいています。藍くんがその事を千束達に教えなかったのは、単に彼女達の事情を知らなかったからで悪意などはまったくありません。