藍くんとリコリコの愉快な日常   作:白い鴉

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今話で今度こそ、原作第五話終了です。今話も色々と見直しなどをしていたら、文字数がまた多くなりました。見直す時にはできるだけ文字数を減らそうとはしているんですが、自然と文字数が逆に多くなってしまうんですよねぇ……。


Episode.11 So many men, so many minds.

 

 

 

 夜。一同がリコリコに戻ってくると、松下と名乗る老人を回収したクリーナーから連絡を受けたミズキがその場にいる全員に内容を説明する。

 

「クリーナーから連絡があったわ。指紋から身元が判明。先々週に病棟から消えた薬物中毒の末期患者だって。もう自分で動いたり喋ったりできないらしいわよ」

 

 つまりあの老人が車椅子の上で動かなかったのは病気によるものではなく、単にずっと意識がない状態だったからという事だ。

 

「そんな! みんなと喋ってたじゃない!?」

 

 座敷席にたきなと並んで座っていた千束の疑問の声に答えたのは、カウンター席に座っていたクルミだ。

 

「ネット経由で第三者が千束達と話してたんだよ。ゴーグルのカメラに音声はスピーカー。車椅子はリモート操作だな」

「松下さんは存在しない……?」

 

 クルミの報告に、たきなが呆然とした声を出す。信じられないが、クルミの報告が嘘だとも思えない。つまり今日一日千束達と話していたのは、顔も知らない誰かという事になる。一体誰が、どういう理由でそんな事をしたのか全く分からず、千束達はただ戸惑う事しかできない。

 

「え……じゃあ誰が? 何で殺させようとしたの? 私に……」

「…………っ!」

 

 千束の呟きに、ただ一人ミカだけが心当たりがあるようにはっとした表情を浮かべる。しかし彼の表情の変化に気づく者は誰もいなかった。クルミは「さぁな」と言いながら、

 

「それは分からんが、松下を名乗っていた誰かは今日一日中ずっと嘘をついて千束達に接していたってわけだ。………こいつが言っていた通りにな」

 

 そしてクルミがある人物に視線を向けると、彼女につられるように他のリコリコの面子もその人物に視線を向けた。その人物―――藍は自分に集中する視線に構わず、いつも通りのぼんやりとした表情を浮かべていた。

 

 今のミズキの報告によって、今日藍が語っていた話の内容が全て真実だという事が確定した。だがそうなるといくつか分からない事が出てくる。それを確認するために、ミカが口を開いた。

 

「藍くん、聞きたい事がいくつかあるんだが、良いかな?」

「はい、どうぞ」

「君はいつ、あの老人が松下という名前ではない事に気づいたんだ?」

「あの人が僕の前で、松下と名乗った時からです」

 

 その言葉に、ミカを含めたリコリコメンバー全員が目を見開く。それはつまり、藍は最初あの老人に初めて出会った時からすでに、彼が松下という名前ではないと気づいた事になる。すると当然、ミズキが慌てたように藍に言った。

 

「ちょ……それならアンタどうしてその時言わなかったのよ!?」

「……? いえ、僕もどうしてこんな嘘をつくんだろうと思ったのですが……。まぁきっと何か理由があるんだろうなと思いましたし、もしかしたら千束さんやたきなさん達も気づいていてこの人と行動しているのかもしれないと思い、何も言いませんでした」

 

 首を傾げながら理由を説明する藍にミズキはまだ何か言いたそうな表情を浮かべていたが、やがて諦めたように口を閉ざした。もしも藍が今回の任務の事を全て知っていたのなら最初から報告しろと怒る事もできたのだが、何も知らない一般人である藍にそれを言うのも酷だろう。だからミズキも、藍にそれ以上言う事はさすがにできなかった。

 

「話を続けよう。実は君を狙った男……ジンが水上バスで君達を見張っていた時、千束やたきながジンに気づいていなかったのに、君だけはジンの方をまっすぐ見ていたと言っていた」

「―――え」

 

 思いもよらない言葉に、千束が思わず声を漏らしながら藍の顔を見る。それに構わず、ミカは先ほどと同じように藍に尋ねる。

 

「藍くん。君は、ジンが君を見ていた事に気づいていたのか?」

 

 その言葉に、藍はあっさりと答えた。

 

「はい。さすがにそのジンさんという方が見ていたという事までは分かりませんでしたけど」

「………っ!」

 

 それを聞いて、ミカは思わず息を呑む。そんな彼の反応を気にした様子もなく、藍はさらに言葉を続ける。

 

「最初は僕も観光客の人が見ているのかなと思ったのですが、明らかに何らかの意図をもってこちらを見ていたので僕も何かと思ったのですが……。そうでしたか、あれは僕達を見張っていたんですね。気づきませんでした」

 

 いつも通りの、藍らしいおっとりとした口調。しかしその話の内容に、ミカを含めた四人全員が言葉を失う。

 

 それもそうだろう。藍以外の全員が、ジンと同じ裏の社会に関わる人間だ。だからこそ藍の話の内容がどれほど異常なものなのか分かってしまう。同時に今までこちらの世界とは何の関係も無い、本当に普通の一般人だと思っていた少年が、自分達とはまた違う異質なものに見えた。ミカは一度重たげに息を吐き出すと、今まで聞きたかったことをついに藍に尋ねた。

 

「藍くん……。君はどうして、ジンが君を見ている事に気づいたり、松下さんが嘘をついている事に気づく事が出来たんだ?」

 

 ミカの質問に、場の空気がより一層張りつめる。今ミカが藍に尋ねた質問こそが、話の本題でもあった。何故ただの一般人であるはずの藍がジンの視線に気づき、ましてや松下の嘘に気づく事ができたのか。それがミカ達にはどうしても分からなかった。彼が何らかの事情で人一倍他人の視線に敏感なためか、彼が過去に何らかの訓練を受けた結果、他人の嘘を見破る事ができるようになったのか。どれであろうと、ここにいる面子にとっては良い理由ではない。特に、彼に特別な感情を抱く千束にとっては。聞いてしまえば、彼との今までの関係が変わってしまううかもしれない。そんな考えが、一同の頭にあった。

 

 ミカが表情を若干険しくし、誰かが唾を飲み込む音が聞こえる。それに対して、藍はいつも通りの、どこかぼんやりとした表情で答えた。

 

 

 

「なんとなくです」

 

 

 

 沈黙。痛いほどの沈黙。しかしそれは先ほどのものと同じ重苦しいものではなく、彼以外の全員が呆気に取られたような……そんなある意味間抜けな沈黙だった。

 

「えっと……藍くんや。なんとなく?」

「はい、なんとなくです、千束さん」

「……藍さん。それはつまり、なんとなくジンの視線に気づき、なんとなく松下さんが嘘をついている事に気づいたと、そういうわけですか?」

「はい、そうですたきなさん」

『……………』

 

 彼の返答に、千束達四人の目が点になる。いやいやいや……と誰もが否定したかったが、誰も否定できなかった。それほどまでに目の前の少年は自然体で、嘘をついている様子が微塵も無かった。他人が彼と同じような事を言えばそんな馬鹿なと一蹴できるが、恐ろしい事に藍が言うと、いや、もしかして本当にそうなのか……? と信じてしまう力が彼にはある。

 

 これにはさすがのたきなもどうしたら良いのか分からず、まるで親を捜す子供のような困った目で千束とミカを見るが、二人もどうして良いのか分からずただふるふると首を横に振るしかない。最強のハッカー『ウォールナット』の異名を持ち現実主義な思考の持ち主であるクルミと、日々危険な任務を行う千束達のサポートをこなしてきたミズキでさえ、脳内で『いやいや、そんなわけないだろう』という思考と『いや、こいつだったらありえるか……?』という疑問が真剣に渦巻いていた。その場の全員の思考を一人の少年のおっとりさと天然が上回った瞬間であった。

 

 どんな依頼も解決するリコリコの店員一同が一人の少年の扱いに困るという、非常に珍しい風景が店内で展開された。もう藍の事についてはこのままスルーで良いんじゃ……と先ほどまでのシリアスな空気が馬鹿みたいに思えてきた四人に、今度は逆に藍が尋ねる。

 

「あの、僕からも千束さん達に尋ねたい事があるんですが。どうして千束さん達は、あのジンさんという方と戦っていたんですか? それに千束さん達は僕から見ても非常にあのような状況に慣れていたように見えたのですが……あのような事はもしかして初めてではないのでしょうか?」

「………っ!」

 

 藍の言葉に、たきなの表情が強張る。

 

 そうだ。ジンや松下の事があり藍をこうして質問攻めしてしまったが、それは藍の方も同じなのだ。むしろ巻き込まれた側の藍からすれば、自分を狙って狙撃してきた男と銃撃戦を繰り広げていた自分達の正体が気になるのは至極当然だし、何より彼を巻き込んでしまった以上、このリコリコという店舗とそこで働く自分達がどういう存在なのかを彼に説明する義務が自分達にはある。だからこそ、彼にはきちんと話さなければならない。

 

 その、はずなのに。自分達の事について説明しなければならないと考えた瞬間、たきなの口が急に固く閉ざされてしまう。彼に事情を説明しようにも、頭の中がまとまらない。どう口を動かせば良いのか分からない。どうしてこんな事になったのだろうという小さな声が、自分の頭の中から聞こえてくる。

 

 分かっている。こんな事になったのは自分達の責任だ。今日の松下の護衛任務で彼が一緒に来る事になった時、彼がこの任務に同行する事に何としてでも反対していれば良かったのだ。そうすれば、彼が巻き込まれる事は無かった。自分達の任務が彼にバレるような事は無かった。―――今こうして、自分達の正体を彼に明かさずに済んだ。

 

 それなのに。それなのに。それなのに。

 

 いつもは冷静なはずの自分の頭の中で、今日の行動を後悔する思考が何度もループする。何も言えずにたきながその場に立ちすくんでいると、彼女の肩に誰かの手が優しく置かれた。

 

「たきな。私が彼に話そう」

 

 そう言ったのはいつの間にかたきなのそばに立っていたミカだった。彼の声と手の温かさにたきながはっと顔を上げると、彼はその目にいつもこの店で浮かべているような優しさと、何かを決心したような強さを秘めてたきなの顔を見つめていた。たきなは彼の顔を見上げながらも動揺した声音で、

 

「て、んちょう。ですが」

「良いんだ、たきな。このような状況ではここの管理者の私が話した方が良いし、何よりも今の状況を作り出してしまった原因は私にもある。それぐらいの事はさせてくれ」

「まぁそれに、藍くんに落ち着いて話をできるのは今だとおっさんぐらいでしょ」

 

 そう言ってミズキがある方向に視線を向け、彼女の視線をたきなも追うとその先にはいつもの明るさはどこへやら、動揺と不安が入り混じった表情を浮かべている千束の姿があった。彼女の姿を見て、たきなも気づく。今まで自分は藍に自分達の事情について話す事に強い不安を抱えていたが、それは彼女も同じだったのだ。だからたきなが藍に何を言えば良いか分からず立ちすくんでいた時、千束ではなくミカがたきなに声をかけた。―――当の千束本人も、今の状況で何を言えば良いのか分からなかったから。

 

 そうなるとミズキの言う通り、藍に落ち着いて事情を説明する事ができるのはミカだろう。たきなと千束は見ての通り動揺して藍にうまく説明できるか難しいし、クルミは厳密にはDAに所属している人間ではなく、そのDAに命を狙われリコリコに匿われている身だ。となると残りは消去法でミズキとミカになるが、藍に落ち着いてきちんと全て説明するとなると、リコリコの管理者であるミカが一番適任なのだ。それぐらいは理解できている。

 

 ただ、それでも全てを話すという損な役割をミカに押し付けてしまう事実に、たきなの心は押しつぶされてしまいそうだった。しかしだからと言って、自分と千束が落ち着いて藍に説明できるかと言われると難しい。冷静にならなければならないのに、今もたきなの頭の中はぐちゃぐちゃにかき乱されてしまっているのだから。そしてそれは、千束も同じだろう。その証拠に、千束は俯きながら消え入りそうな声でミカに言った。

 

「……先生。ごめん」

 

 だがミカは娘同然の少女の謝罪の言葉にただフッと笑って返すと、改めて千束達の様子を見ていた藍に向き直り視線を合わせると静かな声音で言った。

 

「―――今から話す事は君にとっては信じられない事かもしれないが、全て本当の事だ。……本当なら、君にはずっと隠しておきたかったんだがな」

 

 そう言いながらミカが苦笑するのを見て、たきなの胸が小さく痛む。やはり彼も自分と同様、本当なら藍に真実を話さずにいたかったのだ。いや、それは彼や自分だけではない。千束も、ミズキも、クルミは本当なら藍には話さないでいたかった。ずっと喫茶店リコリコの従業員とそのお客さんとして、藍と接していたかった。

 

 が、自分達は今日任務に藍を巻き込んでしまった。ならば藍にはキチンと自分達の事について話さなければならない。―――その結果、今まで彼との間で築き上げてきたものが全て崩れてしまう事になったとしても。

 

 そしてミカは、重い口を開けて藍に文字通り自分達の事情について話し始めるのだった。

 

 

 

 

 

 ミカが話している最中、彼以外誰も横から口を挟む事はしなかった。千束やたきな達は全員黙っていたし、話を聞いている当の藍も特に表情を変えたり声を上げるような事もなく、ただ静かにミカの話を聞いていた。やがてミカが自分達の事情について一通り話し終えると、さすがに少し疲れたのかふぅと一息つく。

 

「―――というわけだ。何か分からない所があったら、遠慮なく聞いて欲しい」

 

 すると藍はふむ、と何かを考えるように顎に手を当てて、

 

「とりあえず、一度ミカさんの話を整理したいのですがよろしいでしょうか?」

「ああ、もちろんだ」

「まずこの日本には悪人達を人知れず『処分』する事で平和を守ってきたDAという組織があって、このリコリコはそのDAの支部の一つ。そして千束さんとたきなさんは、リコリスというDAのエージェントなんですね?」

 

 そう言って、藍の視線が千束とたきなに向けられる。彼の視線に千束はピクリ、とかすかに体を震わせながら、

 

「そ、そうなんだよねー。ちなみに私は一番強いファーストリコリスで、たきなはその次に強いセカンドリコリスなんだよー、あははは………」

 

 いつもは明るい彼女の口調も、今は力がない。笑顔も引きつっているようにたきなには見える。事情を知った彼の前で無理をしているのが見え見えだった。……いや、それはきっと自分も同じだろう。現に自分が今、どんな表情を浮かべているのが自分でも分からないのだから。千束の言葉を聞いた藍は再びミカに視線を戻すと、

 

「それでミカさんは元DAの司令兼リコリスの訓練教官で、今はリコリコの管理官。で、ミズキさんは元DAの情報部員。どうして辞めたんですか?」

 

 藍がミカからミズキに視線を変えながら尋ねると、ミズキははっと皮肉気に笑いながらたきながここに初めて来た時と同じ言葉を口にする。

 

「嫌気が差したのよ。孤児を集めてリコリスみたいな殺し屋を作るキモイ組織に」

「なるほど。で、クルミさんはネット黎明期から活躍する最強のハッカー『ウォールナット』で、現在は命を狙われているためにこちらで匿われていると。漫画やアニメみたいな話ですねぇ」

「事実は小説より奇なりと言うだろ」

 

 ある意味当然の感想とも言える藍の言葉に、クルミはそう返した。

 

「でも、僕知りませんでした」

「何がだ?」

「だってクルミさんがネット黎明期から活躍してるって事は、僕はおろかミズキさんよりも年上って事ですよね? すみません、僕はてっきりクルミさんはお子さんだと思ってましたが、クルミさんはお子さんじゃなくて実はおばあさんで」

 

 数秒後、藍はこめかみに青筋を立てたクルミに思いっきり両頬をつねられていた。両頬がまるで餅のように伸びている藍は、視線だけをミズキに向けて動かし、

 

「ミズキさん。どうして僕はクルミさんに頬をつねられているのでしょうか?」

「……藍くん。長生きしたかったら覚えておきなさい。馬鹿と天然は紙一重よ」

「………?」

 

 ミズキの言葉に、藍はクルミに頬をつねられながら首を傾げる事しかできなかった。それからようやく頬をつねられる姿を見かねたミカによってクルミが藍から引き離されると、藍は先ほどと同じようにふむと顎に手を当てた。

 

「なるほど、よく分かりました。そういう事だったんですね」

 

 藍の言葉に、たきなは思わず唇を噛み締めながら胸に手を当てる。

 

 冷たい汗が背中を伝い、心臓の鼓動がドクドクと嫌な音を立てる。

 

 これで藍は自分達の全ての事情を知ってしまった。自分達の事を知った彼はこれから一体どのような反応を見せるのだろうか。日本の平和を守るためとはいえ、悪人の命を奪ってきた自分を蔑むだろうか? 怖がるだろうか?  

 

 いや、彼の性格からしてそのような反応は無いと言い切れる。しかし、今日彼は自分達の事情に巻き込まれて危うく命を落とす所だった。だとすると、この場は良いとしても明日からこの店に顔を見せる事は無いかもしれない。そう考えたたきなの胸に、ズキリと鋭い痛みが走る。

 

 店内に先ほどと同じように重い沈黙が降り、誰も言葉を発しないどころか音すら立てない。あの千束ですら何も言わない。いつもは彼女の騒々しい声が響き渡る店内の静寂と藍の無言が、今まで潜り抜けてきたどんな死地よりも今のたきなには怖かった。その静寂の時間が永遠に続くかとたきなは思ったが、意外にもその時間は話を聞いていた少年によってすぐに破られた。

 

「ミカさん」

 

 藍が声を発すると、ビクリと何故か自分の体が震える。藍は一体、次に何を言うのか。

 

 ―――聞くのが怖い。

 

 怖い。怖い。怖い。

 

 胸の内から膨らむ恐怖で鼓動が大きくなるのを感じ、吐き気すらこみ上げてきそうだった。処刑台を前にして歩く死刑囚というのはこのような気持ちなのか。自分ですらこの有様なら、千束は自分よりももっと酷いのか。藍の言葉に緊張を感じるたきなと恐らく千束の前で、ミカは「なんだい?」とどことなく張りつめた声で藍に尋ねる。

 

 そんなミカを真正面から見つめ、藍はいつも通りの冷静そうな、呑気とも取れる声音で言った。

 

「もうそろそろ晩御飯の時間ですし、軽食に玉子焼き作りましょうか」

 

 ―――本日、二度目の沈黙。それもやはり先ほどと同じような嫌な沈黙ではなく、全員が呆気に取られたような沈黙であった。全員が思わず藍の顔を凝視するが、彼は動揺すらせずにその場の一同の顔を逆に見つめ返し、

 

「あ、もしかして卵が品切れとかですか? となると、近くのスーパーから買ってきた方が良いですかね。今の時間ならまだスーパーも開いてるでしょうし」

「いやそういう事じゃねぇよ」

 

 とこの場の雰囲気にまったく似合わない事を言いだす藍にミズキはたまらずツッコミを入れた。それに藍がえ? と心の底からの疑問の声を上げると、ミカが戸惑いながら藍に言った。

 

「藍くん……私の話を、きちんと理解できてるかい?」

「はい。千束さんとたきなさんはリコリスというDAのエージェントで、ミカさんはリコリコの管理官、ミズキさんはDAの元情報部で、クルミさんは『ウォールナット』という最強ハッカー。何か間違えている所はありますか?」

「いや、無いが……」

「なら良かったです。とりあえず、そんな事より何か作りましょうか。今日あんな事もありましたし、皆さんお腹減ったでしょう。それとも玉子焼きだけじゃなくて、何か本格的な料理でも作りましょうか」

 

 ……本気でシリアスな話を『そんな事』と言われ、ミカは本気で困った表情を浮かべた。いや、ミカどころかミズキやクルミですら本気で困惑した表情を浮かべている。一方藍の方は自分の理解を超えた範疇の話に戸惑っているとかそういう様子はなく、本当に心から『そんな事』としか思っていない様子だ。

 

 おまけに今は「するとハンバーグとかが良いですかねぇ。あ、でも今から作るとなると時間がかかりますね」と呑気に呟いていた。どうやら彼の中では本当にDAの話<料理という図式が成り立っているらしい。これでは本気で真剣な表情をして、シリアスな雰囲気まで醸し出して藍に話をしていたミカがちょっと可哀そうですらある。

 

「………そんな事って、何ですか」

 

 しかし今この場には、藍の言葉を簡単に受け入れる事が出来ない人物が一人いた。その人物を除いたリコリコのメンバーだけではなく、藍も彼女に視線を向ける。声を発した人物―――たきなは顔を俯かせながらも、いつもは冷静なその声をかすかに震わせて、

 

「……藍さんは今日、殺されかけたんですよ? 私と千束が間に合わなければ、ジンに殺されていたかもしれないんです。普通だったらそんな目に遭わないで済んだのに、『普通』じゃない私達に関わったせいで。それなのに、どうしてそんな事って簡単に割り切れるんですか。……どうして『普通』じゃない私達と一緒にいる事ができるんですか」

「たきな………」

 

 本当ならもうとっくに、縁を切られていてもおかしくないのに。それなのに藍は本当に何とも思っていないような顔で、自分達と一緒にいてくれる。いつもと何ら変わりない彼の表情と態度を見て、何故か分からないが自分の胸の中がぐちゃぐちゃに乱れ、目頭が徐々に熱くなってくる。本当に、分からない。わけが分からない。たきなが唇を強く噛みしめながら両手を強く握ったその時。

 

「―――この世で本当の意味で『普通』の人なんているんですかね」

 

 どこまでも静かでありながら、非常にはっきりとした声音がたきなの鼓膜を揺らした。それで彼女がゆっくりと顔を上げると、ついさっきまで何を作るか考えていた藍が今はまっすぐに自分の顔を見つめているのが見えた。

 

「たきなさん。正直僕は、この世界に本当の意味で『普通』の人なんていないと思います。誰もが何かしらの『異常』を抱えて、それでもこの世界を生きている。誰もが『普通』に見えて、誰もが『普通』じゃない。たきなさん達の場合は、その抱えている『異常』が秘密組織のエージェントというだけの話でしょう? ……少なくとも僕は、それだけでたきなさん達と一緒にいたくないなんて思いませんよ。まぁ、たきなさんが僕と一緒にいたくないというなら話は別ですが。一緒にいたくないですか?」

 

 藍はそう言いながら、たきなの顔を覗き込む。ああ、なんて反則じみた事を言ってくるのだろうとたきなは思う。

 

 ―――一緒にいたくないのかなど、そんな事あるはずがない。今の自分にとって、このリコリコという場所と一緒に働く千束達、いつもこの店を訪れてくれる常連客達と同様に……この目の前の少年の存在はあまりにかけがえのない存在になっているのだから。そんな事が、口が裂けたって言えるわけがない。それを証明するかのように、たきなはふるふると首を横にゆっくりと振ると、藍は頷きながら、

 

「なら、それで良いじゃないですか。僕の命うんぬんの話は、僕がそういった現場に行かなければいい話ですし。それより、何が食べたいですか?」

 

 どうやら目の前の少年にとっては、本当に自分の命やリコリコの秘密云々より、たきなが何を食べたいかの方が大事らしい。まったく、こちらとしては逆に笑ってしまうぐらい呆れてしまう。……だけど、何故か今のたきなには、藍が話をする前と何ら変わらずに自分達と接してくれる事がとても嬉しくて。また、こうしてかろうじて立ててはいるけれど、本当は腰が抜けてしまうぐらい安堵してもいて。気が付くと、たきなの口からポツリと呟きが漏れていた。

 

「……玉子焼き」

「え?」

「藍さんの、玉子焼きが食べたいです」

 

 それに藍は一瞬ポカンとした表情を浮かべたが、すぐに頷くと「ミカさん、厨房借ります」と言って勝手知ったる様子で店の厨房へ歩いて行った。彼の後ろ姿をたきなが見ていると、後ろから誰かがまるで抱きしめるように自分の首に両腕を回してくる。

 

 そんな事をする人物は一人しかいない。たきなが振り返ると、そこにはやはりと言うべきか千束がにこーっと心底嬉しそうな表情を浮かべていた。

 

「良かったねぇ、たきな」

「………それは千束も、でしょう?」

「―――えへへ、まぁね」

 

 苦笑しながらたきなが言うと、千束もやはり同じような笑みを浮かべる。自分も不安でいっぱいだったが、それはきっと彼女も同じだったのだろう。二人が顔を見合わせて思わず笑うと、二人を眺めていたミカがやれやれと肩をすくめながらも笑みを浮かべ、

 

「一時は本当にどうなるかと思ったが……何事も無くて良かったな」

「ボクとしては、逆に藍の危機管理能力が心配になったけどな。これから先、人間社会で生きて行けるのかあいつ」

「別に良いんじゃない? 先の事はその時考えれば良いでしょ。それより今はお腹も減ったし、藍くんの玉子焼きを食べましょ。あ、そうだ! 藍くーん! 何か晩酌のおつまみ作ってー!」

 

 ミズキが厨房にいるであろう藍に叫ぶと、「はーい」と相槌の声が返ってくる。それに千束とたきなは呆れたような眼差しをミズキに送り、ミカはやれやれと苦笑し、クルミは眠たそうに欠伸をする。

 

 振り返ってみると、今日一日で色々あった。松下の正体は分からないし、藍がDAの事を知ってしまった以上、彼の身の安全も今後は考えなければならない。だが、それでも以前と変わらないものはある。真実を知っても藍はこの店にいてくれるし、藍の玉子焼きの味だって変わらない。それだけで、彼らには充分だった。

 

 やがて店の奥から藍が調理器具を準備する音が聞こえてきて、千束とたきなは彼が作る玉子焼きの味に胸を弾ませるのだった。

 

 

 

 

 

 

 藍が作った玉子焼きとミズキの晩酌のために作ったジャガイモの甘煮を食べ、すっかり満足した千束はリコリコの座敷席に横たわり、たきなは彼女の横に並んで座っている。なお、藍の方は少し前に帰宅しており、また後日来ると彼女達と約束している。自分達の正体を知っても変わらずに来てくれると約束してくれた事が、二人には嬉しかった。

 

「いやー、でも今日は色々あったねぇ。松下さんが松下さんじゃなかったり、藍くんに私達の事知られちゃったり。こんなに忙しかったのは、人生で二番目かなぁ」

「一番目は何だったんですか?」

「いやー、そりゃあれよ。電波塔事件の時」

「………なるほど」

 

 確かにどれほど忙しくても、電波塔の時の騒ぎには敵わないだろう。千束は頭の後ろで両手を組みながら、

 

「でもやっぱりちょっとショックだなぁ。いっぱい話して良いガイドだって言ってくれたのも、息子さんの事も、ぜ~んぶ嘘かぁ………」

「……息子さんなどの事に関してはそうかもしれませんが、良いガイドだったのは嘘じゃないと思います」

「………ありがとぉ~」

 

 相棒の気遣いに千束が礼を言うと、たきなが突然千束の胸の上に頭を乗せた。

 

「……! ちょ~い、ちょいちょい」

「……今は他の人、いませんよ」

 

 そう言われては、千束としては拒否する事も出来ない。仕方が無いので千束が顔を赤らめながら天井を見ていると、彼女の胸にじっと耳を傾けていたたきなが口を開いた。

 

「本当に鼓動、ないんですね」

 

 それに千束はフッと笑って、

 

「―――そうなの。でも、さっきはさすがにそうでもなかったかなぁ」

「さっきって……藍さんに本当の事を話した時ですか?」

 

 千束はそーそー、と軽く答えながら、

 

「もう心臓の鼓動なんて何年も感じてないのに、さっきだけはその鼓動があるみたいに感じたんだよね。もう、ドクドクドク……ってすっごい嫌な感じに。いやー、口から内臓が出るかと思ったよ」

「………千束でもやっぱり、そう感じたんですね」

「ん、やっぱりって……もしかして、たきなも?」

 

 千束の質問に、たきなは胸の上で頷きながら、

 

「はい。……もうこの話をしたら藍さんがこのお店に来る事はもう無いのかもしれないと思うと、心臓がとても嫌な感じになりました。でも、私達の事を知ってもあの人がまた私達に会いに来てくれるって分かったら……すごくホッとして、心臓の鼓動も平常に戻りました。……どうしてそう思ってしまったのかは、分かりませんが」

 

 考えてみると、妙な話だとは思う。かけがえのない存在なのは藍だけではなく千束や、他のリコリコメンバーに常連客達も同じはずなのに……それでも、藍がもうこのお店に来てくれないと想像すると、今でも胸を鋭い痛みが襲う。どうして彼に対しては、このような痛みを覚えるのか。それがたきなには不思議だった。

 

「…………たきな、さぁ」

「はい?」

「………いや。こりゃあミズキの言う通り、本当に私のライバルになるのかなーって思って………」

「………?」

 

 何故か困ったような口調でそんな事を言う千束に眉をひそめながら、特に追及するような事はせずにたきなはそのまま千束の胸の上に頭を乗せたままの体勢でいる。しばらく二人はそのままの姿でいたが、不意に千束が何かをためらうようにたきなに言った。

 

「………あのさぁ、たきな」

「何ですか?」

「ちょっと聞きたい事があるんだけど、怒らない?」 

「……話の内容にもよりますが、何かを質問したぐらいで怒ったりしませんよ」

 

 珍しく歯切れが悪い態度を見せる千束に怪訝な表情を浮かべながらもたきながそう返すと、その言葉に安心したのか千束の声音が明るくなり、

 

「そう? それなら良かった! じゃあズバリ聞きたいんだけどさぁ」

「はい」

「たきな、ちょっと太った?」

 

 ビシリ! と千束の耳に空間にヒビが入るような音が確かに聞こえ、それに千束がやべぇと思うも時すでに遅く、たきなはガバリと身を起こすと千束に振り返って睨みつける。

 

「い、いくら何でもいきなり女性に向かってその質問は失礼過ぎると思います!」

「いやだからさっき怒らない? って聞いたじゃん! それに実際、以前と比べるとちょっと重くなってない!?」

「食事の管理はしてます! 太る要素なんて―――」

「いやでも、さっき藍くんの玉子焼きパクパク食べてたじゃん」

「………」

 

 たきなの脳裏に、さっき食べていた藍の玉子焼きが思い浮かぶ。……確かに言われてみれば、今日はジン相手に大立ち回りをした事もあり、思っていたよりも空腹だったのか彼が作った玉子焼きをパクパクと食べてしまったような気がする。いや、今日以前にも藍の作った玉子焼きのあまりの美味しさに、クルミほどとはいかないがそれなりに食べていたような……? たきなが思わず言葉に詰まると、それを見た千束がたきなを指差しながら、

 

「ほれ見ろやっぱり思い当たる節あるじゃーん! たきなちょっと藍くんの玉子焼き食べ過ぎなんだってぇ!」

「か、仮にそうだとしても私よりも千束の方が体重は増えていると思います!」

「ちょーい!? どうしてそこで私に飛び火すんの!? 私はそこまで玉子焼きにがっついていませんー!」

「いーえ! 千束の場合は、藍さんのお弁当を食べ過ぎです! この前だってお店に来てたあの人のお弁当の三分の二を食べてたじゃないですか!」

 

 なお、その時の千束は藍におかずとご飯を箸であーんで食べさせてもらって超ごきげんそうだった。その時の彼女の顔を見て、たきなは何故か自分の胸がもやっとしたがその理由は今でも分からない。

 

「そ、それとこれとは話が別だしー! 藍くんのお弁当が美味しすぎるのがいけないんだよー!」

「彼に責任転嫁しないでください! そもそも千束は私よりも贅肉が多いんですから、もうちょっと細かく食事制限をした方が良いのではないかと思います!!」

「なんじゃと貴様ー!」

 

 千束の豊かな乳房目掛けて指差すたきなに、ついにシャー! と千束が両手を振り上げて襲い掛かった。そして二人のリコリスによるキャットファイトが座敷席で繰り広げられる。藍もまさか自分の料理が原因で千束とたきなの二人が争いを始めるとは夢にも思っていないだろう。だが悲しきかな、食が絡むと人はいつも争いを起こすのである。それはリコリコの看板娘であるこの二人も例外ではない。二人はそのまま座敷席の上でどったんばったん物音を派手に立てながら争い、そのたびにスカートから彼女達の下着がちらちらと覗いてしまうのだが今この場にそれを指摘する人間は一人もおらず、ましてや食事と体型の事で争う今の二人に色気もへったくれもねぇのであった。

 

 結局二人はその後、騒ぎを聞きつけたミカによって、喧嘩両成敗という事で叱られる羽目になるのだが、それはまた別の話である。

 

 

 

 

 

 

 ―――それは藍が帰る間際の話。リコリコを出て帰路につこうとする藍をたきなが見送ろうとした時の事だった。

 

「じゃあたきなさん。また来ますね」

「……はい。お待ちしてます」

 

 表情こそいつもの冷静さを保っていたものの、内心では藍がまた来る事にかすかに喜んでいたたきなだったが、そんな彼女の前で藍は何かを思い出したように突然「あっ」と声を上げた。

 

「そうだ。すみません、先ほどの会話で一つ訂正がありました。よろしければ、千束さん達にも伝えておいてください」

「訂正、ですか?」

 

 先ほどの会話となると、きっと松下と名乗っていた老人に関する話だろう。するとたきなの予想通り藍は頷き、

 

「僕は松下さんが嘘をついていると分かったのは何となくと言いましたが、妻子を殺されたという話が嘘だと分かった理由の半分はなんとなくですが、もう半分は違います」

「もう半分、ですか?」

「はい。もう半分の理由は、あの程度ではすまないからです」

「………あの、程度?」

 

 たきなの言葉に藍ははいともう一度頷く。彼の右目はたきなを見つめていると同時に、何かを思い出しているような、そんな眼差しをしていた。

 

「本当に、自分の大切なものを奪われた人間を殺そうとする人の憎悪と怒りは、あの程度では済みません。例え体が動かなくても、機械で作られた言葉であっても、自然と伝わってくるものです」

「……………」

「あの人からは、それが伝わってきませんでした。だからあの人の妻子を殺されたという話は嘘だと分かりました。……すみません、変な話をしてしまいましたね。僕はこれで帰ります。……おやすみなさい、たきなさん」

「は、はい………」

 

 そして藍は今度こそ、たきなに背を向けて夜の闇へと消えて行った。一方でたきなの頭には、不安と疑念が渦巻いている。今の藍の口ぶりだと、彼は誰かに復讐心を抱く人物の心を良く知っているようだった。だが今日まで裏の世界と関わりを持たなかったはずなのに、どうしてそんな事を知っているのだろうか。

 

 まさか藍自身が誰かに強い憎しみと怒りを抱いた事がある、もしくは今も抱いているのか? と一瞬思ったが、すぐにその可能性を否定する。藍の様子からすると、彼がそのような感情を抱いた事があったり、ましてや今も抱いているとは考えにくいし、そのような姿もまったく見られない。だとすると、彼の身近にいる人物がそうだという事になる。ならば、それは一体―――。

 

「たきなー! ごめん、ちょっと来てー!」

 

 しかしたきなの思考を中断するように、千束がリコリコの扉から顔を出してたきなに大きな声で呼び掛ける。それにたきなは「あ、はーい!」と答えるとリコリコの店内へと戻っていく。それから店内の閉店作業や千束とのキャットファイトによって、残念ながらその記憶はたきなの脳内から一時的に消える事になる。

 

 だが、この時彼女が抱いた不安は、小さな棘として彼女の心に刺さり続けるのだった。

 

 

 

 

 

 とある高級マンションの一室で、一人の男性が椅子に座りながらタブレットを眺めていた。タブレットの画面には千束とたきなと藍、さらに今まで松下と名乗らせていた(、、、、、、、)老人が写った写真、そして『OFF LINE』というウィンドウが表示されている。男性はタブレットを眺めたまま、部屋の中にいたもう一人の人物に声を発した。

 

「あの男を使う計画……、進めてくれ」

「かしこまりました」

 

 答えたのは髪の毛を頭の高い位置でまとめ、左目の下に泣き黒子(ぼくろ)がある美女だった。男の指示を受けた美女が部屋を出ると、男―――吉松は写真に写る千束を見つめながら、

 

「誰かを助けたい……? 私のように……だと? 千束………」

 

 まるで、何を馬鹿な事を言っているんだと言うような口調で呟いてから、千束とたきなに挟まれた格好で写真に写る藍に視線を移す。彼はしばらく黙っていたが、やがてデスクの上に置かれたスマートフォンを取るとある番号に電話をかける。電話の相手は中々出なかったが、何コールかしてようやく通話が繋がる音が吉松の耳に届いた。

 

「久しぶりだね。調子はどうだい?」

『……何の用?』

 

 聞こえてきたのは、女性の声だった。低く、何の感情もこもっていないように聞こえる冷たく暗い声。ただ彼女の事をそれなりに知っている吉松は、聞こえてきた声がかすかに訝し気である事に気づいていた。

 

「別に大した理由はないさ。単に、君の調子が気になったからね」

『からかっているのか? 大体、久しぶりってほどでもないだろう。前に話したのは、お前がウォールナット抹殺の時に使った男達を口封じで殺すよう私に依頼してきた時だから、時間はそんなに経ってない』

「細かい事は良いじゃないか。それに、あの時は君の方も実験の結果を試すのにちょうど良かっただろう? 君にも援助している我々としては、実験がうまくいっているようで何よりだ」

『………見返りでも期待しているのか?』

「それは十分にもらっているさ。……だが、そうだね。いつまでも世間話をしている時間はこちらも無いし、そろそろ本題に入るとしようか」

 

 吉松はそう前置きすると、写真の藍の姿を見ながら、

 

「今日、彼に会ったよ」

『彼?』

「君が以前、私に見せてくれた子だ。今日会った時は、天竺藍と名乗っていた」

『………ああ、「アイ」の事か』

 

 吉松が藍の名前を口にしても、電話の主は大して興味を抱いていないようだった。しかしその反応は吉松も予想していたのか、椅子の背もたれに背中をつけながら、

 

「まさか、彼が『外』に出ているとはね。知らなかったよ」

『別にお前に話す事でもないしね。しかし、お前と接触してたとは知らなかった』

「まぁ、私の方も少々予想外の出会いだったからね。……それより、彼を外に出しているという事は、君の『計画』も最終段階に入っているという事かな?」

『その一歩手前という所だ。今は少し使えそうなリコリスを見つけていてね。そいつを上手く使えないか考えている』 

 

 電話の相手から聞こえてきた言葉に、吉松は驚いたように目を見開く。彼女の口からその単語が出る事が少し意外だったのだ。

 

「リコリスを? 計画のためとはいえ、君がリコリスを使おうとするとは驚いたな」

『私の計画の役に立つなら何でも使うさ。例えそれがDAの飼い犬だとしてもな』

「……それが我々であったとしても?」

『無論だ』

 

 なんの躊躇もなくそう返した相手に吉松は思わず苦笑してしまうが、その事で相手に不満を言うつもりはない。自分達……アラン機関が援助するだけの才能を電話の相手は間違いなく備えている。その才能を自分達は見守るだけだ。―――例えその才能によって立てられた計画が、悲劇を生み出す事になったとしても。なので吉松は電話の相手の計画を止めるような事は口にせず、それどころかこんな事を相手に尋ねた。

 

 

「ちなみに聞きたいんだが、その計画に私も噛ませてもらう事は可能かな?」

『今すぐは無理だ。今は計画のために、そのリコリスとの関係をうまく作らなきゃいけない。今お前達と組んだら、それが台無しになる可能性がある』

「分かった。時期に関してはまた相談するとしよう。我々に何かできる事があったら遠慮せずに言ってくれ。………君の復讐が、うまくいく事を祈っているよ」

 

 そう打算半分、本心半分の言葉を吉松が言った瞬間。

 

『………祈る? 何に? 神にか?』

 

 ミシリ、と電話の向こうで何かが軋むような音が聞こえてくる。電話の相手が、スマートフォンを砕かんばかりに握りしめた音だ。同時に、今まで無感情にも聞こえた相手の声に、憎悪という黒い色が滲みだしてくる。

 

『祈りなんて必要ない。私の復讐は私だけのものだ。神なんてものに、私の復讐をどうこうされてたまるか』

 

 相手からの冷たい怒りを感じて、吉松は思わず口を閉ざす。そして同時に、今日の松下の嘘の過去については、何があっても電話の相手に話すわけにはいかないなと思う。もしも話せば後日、この怒りと憎悪の矛先が自分に向けられる事になる。

 

 ―――なにせ、今日千束とたきなの前で話した松下の嘘の過去は、電話の女性の過去を参考にして作られたのだから。

 

「すまない、失言だったね」

『……いや、良い。こちらも冷静さを欠いた。だが、二度と私の前でそんな事を口にするな』

 

 声から先ほどの憎悪と怒りが消えたのを確認した吉松は心の中で微かに安堵の息をつく。今自分が殺されるわけにはいかないという事もあるが、何よりも彼女ほどの才能を失うのも避けたい。自らの命が掛かっているというのに相手の才能の事を優先して考えるのは、さすがは才能を支援するアラン機関の人間と言うべきか。しかし理由はどうあれ、そのような事を考える時点で吉松の思考が普通の人間と異なっているのは明らかだった。

 

「分かっているさ。ではまた、計画の話は次の機会に」

『ああ、時期が来たらこちらから連絡をする』

 

 そう言って電話の相手は通話を切った。吉松はスマートフォンをデスクに再び置くと、うっすらと笑みを浮かべながらタブレットの画面に表示されている写真に写る藍の姿を見た。

 

「……それにしても、随分人間のフリが上手くなったじゃないか。出来損ないの人形が」

 

 部屋の中で彼のその呟きを聞く者は、誰一人としていなかった。

 

 

 




なんとなくという理由で相手を無理やり納得させてしまう、それが藍くんの天然クオリティ。とは言ってもさすがにそんな理由で現実思考のクルミなどを納得させる事ができるはずもないですし、今回はそこまで深掘りはされていませんでしたが、今後藍くんの特異性に対して改めて深掘りする話が入ります。しかしそれはまた後の話になりますので、申し訳ございませんがその時までもうしばらくお待ちください。さて、次の話は藍くんの別の秘密が明らかになると共に、千束メインの回になる予定です。今話はどちらかと言うとたきながクローズアップされていたので、次話は千束回という感じですね。こんな感じで、藍、千束、たきなのトリプルヒロインの関係を楽しんでいただければと思います(何かおかしい)。
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