藍くんとリコリコの愉快な日常   作:白い鴉

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また投稿が遅くなってしまった……。それなのに、書きたい展開は増えていく……。私は一体どうすれば良いんだ!(知るか)。


Episode.13 One man's trash is another man's treasure

 

 

 

 

 

「……なるほど、ボクが寝ている時にそんな事があったのか」

 

 一名を除いた一同から事のあらましを聞き終え、座敷席でミカが作ったアイスココアを寝起きに飲みながらクルミが言った。寝起きと言うか現在時刻はすでに昼近くなのだが、生憎今この場にそれを指摘する者はいない。クルミは理知的な光を帯びた碧眼をカウンターに向けながら、

 

「―――それで、お前はいつまでそうしているつもりだ? 千束」

 

 クルミの視線の先にはカウンター席で両腕を枕にしてうつ伏せの状態になっている千束の姿があった。その姿からは、いつもの無駄に元気溌剌とした様子はまるで感じられない。

 

 藍が千束を突き飛ばしてリコリコを飛び出して行った後、千束は尻もちをついて呆然とした状態だったのだが、さすがに心配になったたきなが声をかけようとすると、彼女の目からぽろぽろと涙がこぼれ始めた。どうやら藍にいきなり突き飛ばされた事のショックや悲しみが原因らしく、驚いたたきながあれこれ質問しても千束は何も返答せず黙ってカウンター席に座り今の状態になってしまったというわけだ。

 

 そしてどうやら今も傷心状態から立ち直れていないらしく、クルミの言葉に言葉も返さない。いつもの千束らしくない様子にクルミはやれやれと頬杖をつきながら、

 

「まったく、こうなったのは自業自得だろ」

「あまりそう言うな。千束も悪気があったわけじゃないんだ」

「悪気が無い分さらにタチが悪いとも言えるだろ」

 

 少し千束に甘い所があるミカがフォローするが、クルミから遠慮なくばっさりと返され、難しい顔をして黙り込んでしまう。一方、さっきからすぐ横のカウンター席に座って千束を眺めていたミズキは立ち上がると千束に歩み寄り、

 

「まぁ、好きな男から突き飛ばされてショックなのは分かるけど、いい加減さっさと切り替えなさいよ。フッた男の事をいつまで考えてても仕方ないでしょ」

「別にフラれたわけじゃないだろ……」

「というか、フッたフラれた以前に付き合ってすらないだろ」

 

 訳知り顔で何やら語り始めるミズキにミカとクルミがそれぞれツッコミを入れるが、まるで聞こえなかったかのようにミズキは笑いながら千束の肩をバシバシと叩き、

 

「分かったら、早く藍くんの代わりの男でも見つけちゃいなさい! 大丈夫! あんたならすぐに見つかるって! だってこの地球上に男が何人いるか知ってる? さんじゅうごぼっ!!」

 

 一昔前に流行った女芸人のネタをドヤ顔で披露しようとするミズキの腹に、遠慮のないボディブローがドゴッ! と嫌な音を立てて決まった。腹を抑えて床に崩れ落ちるミズキは苦し気な声で、

 

「ひ、人が折角慰めようとしたのに……!」

「アホか。今のはどう見てもお前が悪い。大体男が本当に三十五億いたとしても、婚活に連敗してるミズキの言葉だと説得力がまるで無いだろ」

「だ、誰が婚活連敗だコラ……」

 

 事実とはいえあんまりな言葉にミズキがクルミを睨むが、腹の痛みに苦しんでいる今のミズキにそれ以上できる事は何も無かった。

 

「………もん」

 

 と、不意にとても小さな声が聞こえたような気がして、四人はその声が聞こえてきた方向に目を向ける。その声を発した人物―――千束は涙交じりの小さな声で言った。

 

「藍くんの代わりなんて、いないもん」

 

 その言葉に、ついさっき早く藍の代わりの男でも見つけろと言ったミズキがややバツが悪そうな表情を浮かべる。いくら千束を慰めるためとはいえ、少々無神経すぎたと思っているのだろう。千束の言う通り、藍の代わりとなる男なんていないのだから。

 

 そしてようやく腹の痛みから回復したミズキは再びカウンター席に座ると、ポンポンと慰めるように千束の背中を優しく叩いてやる。ちなみにそれを眺めていたクルミは、最初からそうしてやれよ……と内心思った。すると、千束の様子を心配そうに見ていたたきなが呟く。

 

「でも、どうして藍さんはあそこまで過剰な反応を見せたのでしょうか。ただ帽子を取られただけなのに……」

 

 あの時藍の顔を真正面から見ていたのは千束だけだったので、帽子を取られた藍の顔がどのような状態だったのか千束以外の四人は知らない。なので両腕で顔を隠した状態の千束がくぐもった声でたきなの疑問に答える。

 

「……たぶん帽子を取られた事じゃなくて、左目を見られたのが嫌だったんだと思う」

「左目って……彼、今日眼帯着けてなかったの?」

 

 ミズキが尋ねると、千束はうつ伏せのままコクリと首肯する。

 

「藍くんの目、左右で色が違ってた」

「……へぇ、オッドアイってやつか。それは確かに珍しいな。左目の色は何色だったんだ?」

「………金色。宝石みたいで綺麗だった」

「それなら良いじゃない。どうして千束を突き飛ばしたのかしら」

 

 千束の話を聞く限り、藍が左目を見られる事を嫌がる理由が分からずミズキは思わず疑問の声を上げる。するとそれに答えたのは、千束達のやり取りを聞いていたミカだった。

 

「……いや、私達が綺麗だと思っても、藍くんも同じように思っているという事にはならないさ。むしろ他の人間とは違うからこそ、それを気にしているという事も考えられる」

 

 目に見えない部分が人と違うならまだ良いが、目に見える部分……特に藍のような目の虹彩などは隠そうとしても中々隠しきれる場所ではない。普段藍は眼帯で左目を隠しているが、それだってずっと隠しておけるものではない。目が千束の言う通りいくら宝石のように綺麗だとしても、他人と違う以上は否が応にも他人の注目を引いてしまう。しかもそのような目を持っているのが、藍のような容姿であればなおさらだろう。

 

「そして、それを見る人全てが好意的とも限らない。中には偏見を持つ人間もいるだろう。大抵の人間は、自分にはない特徴を持っている他人に対して何らかの感情を抱くものだ。好奇心や偏見など、感情の名は人それぞれだがそういう目を向けられて苦労する人間も少なくない。……私自身も、昔はそういう目で見られる事が全くなかったと言えば嘘になるしな」

「え、オッサンもそういう時があったの?」

 

 予想外の告白にミズキが思わず目を丸くするが、それはたきなも同じだった。確かにミカは外見こそは日本人ではないが、その中身は和菓子とコーヒーを愛する、むしろ日本人以上に日本人らしい立派な紳士である。ミズキとたきなの反応にミカは苦笑しながら、

 

「さすがに今はこの場所に来て長いし、このご時世だから面と向かって言う人はほとんどいなくなったがね。それでも、ここに来た当初はこの外見で本当に和菓子を作れるのか懐疑的な目を向けられる事はよくあった。……まぁ、十年前はコーヒーもまともに淹れる事ができなかったから、そう思われても仕方ないがね」

「……そんなお前がよくここまで美味い和菓子やらココアやらを作れるようになったな」

「十年も経てば人は変わるものだ」

「あんたは十年経っても身長変わらなさそうだけどね~」

「そういうお前は十年経っても中身の方も男運の悪さも変わらなさそうだな」

 

 んだとぉー! とクルミに言い返されたミズキが怒声を上げ、そんな二人のやり取りにミカはやれやれと肩をすくめながら、

 

「やめないか、二人共。………とにかく、そういう事だ。人の外見も個性の一つかもしれないが、個性と差別は表裏一体だ。外見が理由で他人から良い扱いを受ける事もあれば、逆にその外見が原因で偏見にさらされたりトラブルに遭う事だってある。先ほどの藍くんの様子を見ると、彼の場合は前者より後者の方が多かったのかもしれない。そんな彼にしてみれば、辛い過去を思い出させる左目を見られる事は何よりも耐え難い事なんだろう」

「……だから、藍さんはいつも眼帯で左目を隠していた」

「あくまでも私の予想だがな」

 

 たきなの小さな呟きにミカはそう答えたが、彼の予想はあながち間違ってはいないのではないかとたきなは思う。思い返してみれば、藍はいつも自分達の前では左目を隠していた。その理由を自分達が聞いた事は無いし、何よりも左目を眼帯で隠している藍の姿が自分達の中では当たり前になっていたので、そもそも聞こうという気すら無かった。

 

 だが、今日自分と千束が藍と出会った時の彼の様子、そしてつい先ほど直接左目を見られた彼の取った行動がミカの言葉に強い説得力を与えていた。ミカの言う通り、左目によほど強いコンプレックスが無ければ、いつもぽんやりしているというか、どこか浮世離れして見えるくせに何事にも動じないような藍が、あんな姿を見せるはずがない。それぐらいは、彼と出会ってそれなりの時間が経ったのだから分かる。

 

 だとすると、彼はいつも自分の眼帯が外れて左目を誰かに見られる事に対して不安を抱いていた事になる。そして自分は、そんな彼の気持ちにまったく気づかずに今まで接していた。そう思った直後自分の胸が何故かチクリと痛み、たきなは思わず胸を両手で軽く抑えた。

 

 一方、話を聞いたクルミはココアに再び口をつけながら、

 

「……そう考えると、今回千束がやった事はかなりマズいな。仮にミカの言う通りだとすると、藍の地雷を思いきり踏み抜いたわけだ。最悪、もうリコリコ(ここ)に来ないんじゃないか?」

 

 グサッ、とクルミの言葉が千束の胸を貫通する音が聞こえたような気がした。しかしそれにはさすがのミカもフォローできないようで、腕を組みながら難し気な表情を浮かべて、

 

「それは……正直、まったくないとは言い切れないな。千束には悪いが、クルミの言う通り今回の出来事は彼がもうこの店に来ない理由としては十分すぎるものだろう。まぁこの街から引っ越すわけじゃないから会える可能性はゼロじゃないが、それでも彼の方から私達に会いに来る可能性は期待できないな……」

「そんな………」

 

 ミカの最悪とも言える可能性に、たきなは思わず不安げな表情を浮かべる。ついこの前、例え自分達の正体を知っても彼がこの店に来てくれると……自分達と一緒にいてくれると知ったばかりなのに。それなのに、こんな形でもう藍と会えないなんていうのはあまりに突然すぎる。こうなれば、クルミにお願いして街中の監視カメラを片っ端からハッキングして藍を捜してもらえるよう頼み込むしか……とたきながやや物騒な方向に突っ走り始めた時、店のドアが開き来客を告げるベルの音が店内に響き渡る。

 

「っと、いらっしゃ………」

 

 店内に入ってきた客へのミカの声が何故か途中で途切れ、ミカの目が驚きで軽く見開かれる。そして千束を除いた三人も入り口に視線を向けると、そこにいた人物を見て思わずたきなが思わずその人物の名前を呟いた。

 

「藍、さん?」

 

 そこに立っていたのは、先ほど千束を突き飛ばして店から駆け出していったはずの天竺藍その人だった。すると呆気に取られた表情を浮かべるたきなの口から出た単語に、カウンター席の千束の肩がぴくりと揺れる。一方店に入ってきた藍はやはり帽子で顔を隠しながら、ゆっくりとカウンターにいるミカに歩み寄ると財布を取り出してコーヒーの代金をカウンターに置く。

 

「………ミカさん、つい先ほどは急にお店を飛び出してすみません。コーヒーのお金を払うのを忘れてて、戻ってきました。本当にすみません。………それと、千束さん」

 

 ビクリ、と名前を呼ばれた千束の肩が震えるが顔は今だ突っ伏したままで藍の顔を見ない。しかし藍は気にする事なく、不安と罪悪感が込められた声音で千束に言った。

 

「………先ほどは、突き飛ばしてしまってごめんなさい。いきなりだったので、僕も動揺してしまって……。すみませんでした」

 

 そう言って藍は帽子をかぶったまま、帽子がずり落ちないギリギリの深さまで千束に頭を下げる。それから頭を上げると、帽子に手をかけて目深に被り直す。

 

「……じゃあ、僕はこれで。色々とすみませんでした」

 

 そう言って藍がその場の全員に背中を向けて、足早にリコリコを出ようとした時だった。

 

「―――待って」

 

 藍の背中に声がかけられ、彼の足が思わず止まる。そして藍が振り向くと、先ほどまで顔を突っ伏していた千束が顔を上げて藍を見ていた。その目はちょっと潤んで普段よりも赤くなっていたが、それでも目だけはまっすぐ藍に向けられている。ズズッ、と千束は鼻を少しすすると涙声で藍に言う。

 

「コーヒー、一緒に飲まない? ……奢るから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 数分後、藍は普段座っているカウンター席ではなく、リコリコの二階にあるテーブル席の椅子に座っていた。普段このテーブル席は親子連れや友人同士のグループ客などが使用しており、藍がこの席を使った事は今まで一度も無かった。藍は普段見ない光景に少し新鮮さを感じながらも、やはりどこか落ち着かなさそうに足を少し忙しなさそうに動かしている。

 

 すると間もなくして、テーブル席で待つ藍に二つのコーヒーカップを乗せたお盆を両手で持った千束が近づいてきた。そして二つの内、一つのカップが乗ったソーサーを持つと藍の前に置く。カップの中身はコーヒーだが、最初にこの店に来た時とは違ってアイスではなくホットコーヒーだった。

 

「はい、お待たせ。……先生ほどうまくないかもだけど」

「ありがとうございます。……これ、千束さんが淹れたんですか?」

「うん。名付けて千束スペシャル。……なんちって」

「……そのまんまですね」

 

 ぺろりと悪戯っぽく舌を出す千束に、藍が思わず返す。先ほどまで元気が無さそうに見えた千束だったが、どうやら元の調子を取り戻しつつあるらしい。自分が原因という事もあるので、千束の元気が出てきた良かったと藍は素直に思った。

 

 少し前、一緒にコーヒーを飲まないかという千束の提案に答える事を藍は少しためらった。帽子で顔を隠しているとはいえ、左目が露になっている状態でこれ以上外にいたくなかったからだ。なので本音を言えばすぐにでもマンションへと帰りたかったが、目の前で目を赤くして不安そうな表情を浮かべている千束を前に断る事は出来なかったし、何より千束を突き飛ばしてしまった負い目もあり、渋々といった形ではあるが千束の提案に了承したのだった。その後千束はミカから二階のテーブルを使用する許可をもらうと、こうして藍をテーブル席に座らせ自らは彼と自分の分のコーヒーを淹れたというわけである。

 

 千束はもう一つのカップが乗ったソーサーをテーブルに置いてから、藍の真正面の席に座る。今日はまだ客が誰も来ておらず、そのため周囲には誰もいない。ミカ達は一階にいるが、よほどの大声を出さない限り二人の声が下にまで届く事はまずない。こうして誰にも見られる事無く、誰からも話を聞かれる事が無い、千束と藍だけの空間ができあがった。藍は目の前のカップを手に持つと、熱いコーヒーを静かに口に運ぶ。

 

「……どう? 美味しい?」

「……はい、熱くて、温かいです」

「当たり前の感想だなぁ」

 

 ある意味素直とも言える言葉に千束はあははとおかしそうに笑う。だがいつも通りに見えても、やはりどこか二人の間には壁のようなものが感じられてしまう。今の千束の笑顔もいつもの彼女のものに比べるとどこか力なく感じられるし、藍の方も感想を口にしたもののやはり顔は帽子の下に半分隠されたままでどのような表情を浮かべているか分からない。そうなると自然と二人の間の会話が無くなってしまい、藍は所在なげにまた一口コーヒーをすする。と、千束が膝の上で両手をきゅっと軽く握りしめながら藍に言った。

 

「……藍くん。さっきは、ごめんね」

「……? どうして千束さんが謝るんですか?」

「だって私、藍くんの帽子を無理やり取ったりして……。帽子を取られた時の反応からして、藍くんきっと左目を見られるのが嫌なんだよね?」

「……ええ、まぁ」

 

 すると案の定と言うべきか、こくりと頷く藍の声が苦々しさを増す。まるで自分の目の前にあるコーヒーのようだと思いながら、先ほどの藍と同じように千束は深く頭を下げた。

 

「私、藍くんがそんなに左目を見られるのが嫌だなんて知らなくて……。だからあの後、ずっとキミに謝りたかったの。嫌な思いをさせて、本当にごめん」

「………別に千束さんが謝る事じゃないですよ。これは、僕の問題です。………こんな目を持っている、僕自身の」

 

 自分の左目を語る藍の口調は、今まで千束が聞いた事がないほど憎々し気だった。今は帽子で隠されているはずの彼の表情が、不思議と今の千束には分かるような気がした。千束は顔を上げると、帽子で隠された藍の顔をまっすぐ見ながら尋ねる。

 

「藍くん、そんなに自分の左目が嫌いなの?」

「………はい」

「………どうして?」

 

 ちょっと踏み込みすぎかもしれないと自分でも思いながら、それでも千束は藍に尋ねる。今日藍を傷つけてしまったのは事実だし、これ以上はさらに彼を傷つけてしまうかもしれないと思いながら。それで藍の心をさらに傷つける事になってしまうかもしれないと分かっていてもなお、千束は知りたかった。彼がどうして自分の左目をそんなに嫌うのかを。彼の心の傷を。………そして自分にできる事ならばその傷と痛みを癒したいと。傲慢な考えだと分かっていながらも、それでも千束は藍の心に踏み込もうとしていた。

 

 すると藍は左手をゆっくりと上げると、自分の左目がある位置に手を当てて、

 

「この目は、あの人を……博士を、いつも不快にさせてきましたから」

「………博士?」

「僕を育ててくれた人です。自分の事は博士と呼べと言われたのでそう呼んでいました。名前は分かりません。……教えてくれた事も無かったので」

 

 藍の話からして、彼の親だろうか。それにしては他人行儀と言うか、親に対する態度や口調ではないような気がする。しかし今の千束にはあまり重要な事ではないので、今はその事は頭の片隅に追いやり、黙って藍の言葉を聞く事で話を進める事にする。

 

「僕の左目を見ると、博士はいつもとても嫌な顔をしていました。どうして博士があそこまで僕の左目をあそこまで嫌がっていたのかは分かりませんが、きっと左目がこんな色だったからだと僕は思います。それで僕はこの目を隠す事にしました。この目を隠せば、きっと博士を嫌な気持ちにさせずに済むと思って。……まぁ、結果はあまり変わりませんでしたけど」

 

 その言葉通り、眼帯で左目を隠しても博士の態度は特に変わらなかった。左目を隠しても藍の顔を見るだけで博士は嫌悪感を彼に対して抱いていた。時には暴力を藍に振るう事もあったが、さすがにその事までは千束に対して口にしなかった。藍は左手の爪を額に突き立てて、自分の中のドス黒い何かを吐き出すように言った。

 

「……だからこの目は嫌いです。博士を不快にさせる所も嫌いですし、他の人とは違う色なのも嫌いです。……本当、大嫌い。こんな目なんて、最初から無ければ良かったのに」

 

 それは千束が始めて聞く、どこか無垢な印象すら感じさせる藍の負の感情だった。ひとしきり自分の目に対する憎しみの感情を吐き出すと、藍はため息をついて、

 

「……すみません、色々と余計な事を話してしまって。さっきからご迷惑ばかりかけているのに、これでは……」

「―――私は、さ」

 

 しかしそこに、千束の柔らかい声が割り込む。それはまるで、藍がこれ以上自分自身を憎むのをやめさせようとしているようだった。そしてその柔らかい声は、藍にとって信じられない言葉を彼に告げる。

 

「藍くんのその目、好きだよ」

 

 え? と思わぬ言葉に藍が思わず俯かせていた顔を上げると、千束は愛おしいものを見るような優し気な表情で藍の顔を見つめていた。

 

「さっき藍くんの目をちらっと見た時、宝石みたいな色だって思ったの。だって金色だよ金色? そんな綺麗な目の色の人、中々いないって。おまけに左右で目の色が違うなんてまるで漫画の主人公みたいでカッコよくない?」

「……冗談はよしてください。こんな他の人とも違う目、僕にとっては気持ちが悪いだけです。最初から両目とも黒色の方が良かったのに」

 

 千束の誉め言葉を真正面から受け止める事が出来ず、珍しく藍がすねたような口調になると、不意に千束が立ち上がって藍のすぐ横まで歩み寄る。

 

「藍くん」

 

 そう言って藍がすぐ横に立つ千束の顔を見上げようとすると、藍の顔に彼女の両手が触れた。そのまま千束は自分の胸を藍の顔に近づけると、そのまま胸を藍の頭に押し当てる。突然の行動にさすがの藍も両目を軽く見開き、彼の頬が千束の豊満な乳房に軽く触れる。

 

「………千束さん?」

「私の鼓動、聞いてみて?」

 

 意図が分からぬ千束の言葉に、藍は口を閉ざして言われた通りに彼女の胸の鼓動を聞き取ろうとする。しかし不思議な事に、いくら耳を澄ましても彼女の鼓動を聞き取る事は出来なかった。それに思わず怪訝な表情を浮かべると、ようやく藍の頭を自分の胸から離した千束が藍にとってまたもや予想外の事を口にする。

 

「私ね、普通の心臓じゃないんだ。心臓が機械でできてるの。人工心臓ってやつなんだ」

「人工心臓………」

 

 うん、と藍の言葉に頷きながら千束は再び藍の真正面の席に座ると、自分の分のカップを手に取り中のコーヒーの黒い水面を見つめる。

 

「私生まれつき、心臓に病気があってね。そのままじゃ長く生きる事が出来なかったの。でもそんな私に、救世主さんが現れてこの心臓をくれたの」

「救世主さん?」

 

 藍が問い返すと、千束は黙って和服の下からフクロウのような鳥を模したチャーム……アラン機関の支援の証を取り出した。それを見て藍もようやく彼女の言葉の意図を察する。

 

「……じゃあ、以前に千束さんが言っていた捜している人というのは……」

「そう。この人工心臓をくれた人。心臓の手術が終わった時、私が使ってる銃と一緒にこれがあったんだ。小さい時だからその人の顔は覚えてないんだけどね。……その時思ったの。その人が私の命を助けてくれたように、私も誰かの命を助ける仕事をしたいって」

「……それで千束さんは、相手が悪人の命でも奪わないようにしているんですね」

「うん。私を助けてくれた人……救世主さんのように、私も誰かの命を助けたいから。あ、言っておくけどこの話はたきなやクルミにはまだ話してないからね? 全部知ってるのは先生ぐらいだし、ミズキは私の心臓の事情は知ってるけど深くは話してないんだ」

「……どうしてそんなに大事な話を、僕にしてくれるのですか?」

 

 今の千束の話は、間違いなく彼女自身の根源(オリジン)にして存在意義(アイデンティティ)だ。それほどまでに大事な話を、何故彼女の相棒であるたきなや彼女達をサポートしてくれるクルミよりも先に自分に話してくれたのだろう。すると千束は自分の胸……人工心臓がある位置に手を当てながら、

 

「この心臓は確かに他の人とは違う機械で作られたものかもしれない。でもこの心臓は救世主さんが私を助けてくれた証で、錦木千束(わたし)を形作ってるものなの。だから私は他の人と違ってもこの心臓を嫌ったりしない」

 

 そこで一度言葉を区切ると、千束は藍の顔をじっと見つめながら、

 

「そしてそれは、藍くんの左目も同じ。藍くんからしたらその左目は辛い過去の証なのかもしれないけど、私にとってはすっごく綺麗な宝石みたいな目で、私の大切な人の一部なの。それにほら、この前藍くんが私達の正体を知った時に言ってくれたじゃない? この世界に本当の意味で『普通』の人なんていないって。私の普通じゃない部分がリコリスである事と心臓が機械でできてるのと同じように、藍くんの場合はその普通じゃない部分が左目がまるで宝石のように綺麗だって事でしょ? そりゃあ、藍くんからしたら愉快な話じゃないかもだけど………少なくとも私にとっては気持ちの悪い目なんかじゃないし、藍くんにそれ以上自分の事を悪く言って欲しくなかった。それだけ! ……って、なんかお説教みたいになっちゃったね!」

 

 そう言うと千束はあははと照れ臭そうに笑った。ようやくいつもの調子に戻った彼女の顔を、藍は思わずじっと凝視する。

 

 少なくとも藍が以前いた場所では、この目を好きだと言ってくれる人は博士を含めて誰もいなかった。だからこそ藍は博士を不快にさせるこの目が悪いのだと信じ切っていたし、心の底からこの目が気持ち悪いと思っていた。自分でも見たくなかったし、他の人にも見られたくなかったから眼帯でこの目を隠した。

 

 だけど、目の前の少女は自分の目を綺麗だと言ってくれた。まるで宝石のようだと、藍には信じられない言葉まで言ってくれた。彼女の悪意のないその言葉が、何故か脳裏にこびりついている悪意の言葉よりも藍に強く響いた。そして気が付くと藍の口が自然と開き、千束にこんな事を言っていた。

 

「………千束さん」

「ん? どしたの?」

 

 きょとんと不思議そうに自分を見つめる少女に、少年はぽつりぽつりと、胸の内から浮かび上がってくる言葉を少しずつ、しかし確かに伝わるように紡いでいく。

 

「……正直千束さんの話を聞いても、まだこの目はあまり好きになれません。だからこの目を他の人に見せるのはまだ抵抗がありますし、またしばらくは眼帯で目を隠す事になると思います」

「うん」

「………でも。千束さんはこの目が綺麗だと言ってくれました。だから僕も、これ以上この目を嫌いになるのはやめてみようと思います。………千束さんの言葉は、信じられるので」

 

 それは藍から千束に対する、深い信頼の言葉だった。千束はその言葉を聞いて一瞬軽く目を見開いてから頬を赤く染めると、「そっか」と言って嬉しそうに笑った。

 

「ねぇ、藍くん」

「はい?」

「藍くんが嫌じゃなかったらで良いんだけど……。藍くんの左目、見せてもらっても良い?」

 

 すると藍の体がピクリとかすかに震え、それを見て千束もやっぱり無理かな……という考えが一瞬頭をよぎる。しかしその直後、藍が今被っている帽子に両手をかけたかと思うと、ゆっくりと帽子を手に取ってその下の顔を千束に見せる。まるで夜空を溶かし込んだような、黒色と呼ぶには温かみのある夜色の髪、少女にも見える中性的な容姿、そして……黒色の右目とまるで宝石のような色彩の金色の左目が千束の目に映る。その金色の色彩を見て、千束は「うん」と呟きながら、

 

「やっぱり藍くんのその目、私好きだよ。すっごく綺麗」

「………ありがとうございます」

 

 裏表のない千束の誉め言葉に、照れ臭さを声に滲ませながら藍は千束に礼を言うのだった。

 

 

 

 

 

「ふぅん。本当に左目の色が違うんだな。なぁ、もっと見ても良いか?」

「………すいません。それはやめてもらえると、正直助かります」

 

 左目を凝視しながらクルミが尋ねると、藍は彼女の視線から顔を微かに逸らしながら左目を隠すように帽子を被った。

 

 藍は二階で千束と会話を交わした後、再び一階に降りてきてこうしてリコリコの店員達と一緒に時間を過ごす事になった。千束に自分の目を肯定してもらったためか、不思議と千束を含めたリコリコの店員達に対しては自分の左目を見せる事に強い抵抗を感じなくなっていた。

 

 とは言っても、今のクルミに対する反応を見る限り、やはりまだ左目を誰かに見せる事には抵抗があるらしい。まぁ今日に至るまでずっと人前では眼帯で左目を隠していたので、それは仕方のない事だろう。そしてなおも藍の左目を見ようとするクルミを「クルミ、よしてやりなさい」とミカがやんわりと制止する。どうやら藍が完全に眼帯を外せるようになるには、まだまだ時間がかかりそうである。と、藍とクルミのやり取りを眺めていたミズキが頬杖をつきながら言った。

 

「でもさぁ、左目を見せる事がそんなに恥ずかしいの? 別に減るもんでもないでしょ?」

 

 すると珍しく―――本当に珍しく藍はキロリとミズキを横目で睨むと、いつもよりも若干声を低くして、

 

「……じゃあミズキさんは、好きでもない異性の方に裸を見られたり髪を触られても平気なんですね」

「いや、そりゃ嫌だけど……って、あんた左目を見られるのそんなに嫌なの?」

 

 好きでもない異性に裸を見られるのは女性ならば絶対に嫌だし、髪は女性の命とも言える部位なのでそれを触れるのも言わずもがなだ。だとすると、先ほどの藍の千束に対する反応もある意味仕方ないと言える。

 

「……ん? ちょっと待ちなさい?」

「何、どしたのミズキ?」

 

 すると突然ミズキが何かに気づいたように声を上げ、そんな彼女に千束が尋ねる。しかしミズキはそれに答えず、何故か顎に手をついて何かを考え込むようなポーズを取りながら、

 

「つまり、藍くんにとって左目を見られるのって好きでもない異性に裸を見られたり髪を触られるぐらい嫌な事なのよね?」

「………まぁ、楽しい気分にはなりませんね」

「でも千束はさっき、藍くんの帽子を無理やり取って左目を見たわよね?」

「う……そ、それはそうだけど……ミズキ一体何が言いたいの?」

 

 悪意があったわけではないとはいえ、やはり先ほどの事をまだ気にしている千束が尋ねると、ミズキは千束の顔をチロリと見て、

 

「つまり……藍くんにそんなに嫌な思いをさせたんだから、千束も同じような目に遭うべきだと私は思うわけよ。目には目を、歯に歯をってね」

「なるほど、ハンムラビ法典か」

「え、ちょ、ちょっとミズキ!? 何する気!? 私に一体何する気!?」

 

 ミズキの意図を察したクルミが呟いた直後、ミズキは何故かにやりと口元に笑みを浮かべながら両手をわきわきとさせて千束ににじり寄り、千束は思わず悲鳴を上げる。奇しくも先ほど藍の背後に忍び寄る時のような姿のミズキに千束はゆっくりとあとずさりして逃げようとするが、悲しい事に千束の背後には壁が迫っており当然そこから先は逃げる事ができない。そしてそんな千束へミズキがじりじりと距離をつめていく。逃げ場を失い徐々に追い詰められる千束を藍は心配そうに見つめながら、

 

「クルミさん、これはもしかして止めた方が良いんでしょうか?」

「放っておけ。千束の自業自得だ」

「おいリスゥ!」

 

 手をひらひらと振って無情な言葉を放つクルミに千束が怒声を上げるが、藍とクルミはおろか苦笑を浮かべているミカにも、呆れたような表情を浮かべているたきなにも千束を助けようとする様子はない。それを見て千束は内心で薄情者! と思うと共に、いやそもそもミズキだってさっきは自分と一緒に藍に悪戯を仕掛けようとしてたし、それなのに自分だけがこのような目に遭うのはあまりに理不尽すぎるし、大体裸を見られたり髪を触られたりするのと同じような目に遭わせられるって一体どういう事をさせられるのわたしー!? と大声で叫ぶ。そしてついに千束の背中が壁についてしまい、目の前には両手を挙げて悪魔のような笑みを浮かべたミズキの姿。彼女の前に、千束は顔を青ざめさせ口をあわあわと開く事しかできず―――。

 

「あーーーーーーーーっ!!」

 

 千束の悲鳴が、リコリコに響き渡った。

 

 

 

 

「おおっ………」

「うう~………!」

 

 目を少し輝かせながら藍が感嘆の声を上げ、藍とは対照的に千束が顔を赤らめながら非常に恥ずかしそうな声を上げる。現在二人はカウンター席に横並びに座りながら、互いに真正面に向き直っている。そして藍の両手は千束の髪の毛をさわさわと優しく触れており、そのたびに千束の肩がピクリ、ピクリと震える。

 

「どう、藍くん。千束の髪の感触は?」

「はい。とても柔らかくて、ふわふわしていて、触り心地がとても良いです。こんな感触の髪の毛、触った事がありません……!」

「だってさ、千束ぉ? 良かったわね~? 藍くんが褒めてくれて~」

「いや、それ以前にこれすごく恥ずかしいんですけどぉ!?」

 

 現在進行形で藍に髪の毛を触られながら、千束が叫ぶ。

 

 あの後ミズキに捕まった千束は、目には目を歯に歯をという理由で、藍に千束の髪の毛を触らせる事にした。さすがに藍に千束の裸を見せるわけにもいかないし、何よりそんな事をすれば千束が本当に羞恥で死にそうなので、これが最低限のラインだった。千束としてはこうして髪の毛を触られるのも非常に恥ずかしいのだが、さすがに先ほどの藍への行動に対する負い目もあるので、こうして黙ってされるがままになっている。

 

 なお、藍も最初は恥ずかしがる千束の髪の毛に触れる事に抵抗があったようなのだが、そばにいたクルミの「被害者はお前なんだから、思う存分やってやれ。それが今回の件のケジメにもなる」という言葉で彼も腹を決めたらしく、こうしてまるで壊れやすい物を扱うような手つきで千束の髪の毛を触っていた。何故普段はトムとジェリーのような関係なのに、こういう時は息がピッタリなのだこのリスと飲んだくれは! と千束は内心憤る。

 

 だが何よりも、藍の自分の髪の毛を触る手つきが本当に優しくて、彼の手が髪の毛に触れるたびに肩がぴくりぴくりと震え、背中に甘い痺れが走るのを感じる。このまま触り続けられたら変なクセになってしまいそうだが、恥ずかしくて早く終わって欲しいという思いともっと触って欲しいという欲望が胸の中でせめぎ合っており、結果特に抵抗することなく、顔を赤らめながらも目を静かに閉じて藍に髪の毛を触られ続けていた。その姿はまるで、飼い主に腹や背中を撫でられてくつろいだ姿を見せる犬や猫のようである。

 

「…………………」

 

 と、そんな二人の姿をたきなは半眼になって見つめていた。どこか気持ちよさそうに髪の毛を触られている千束の姿と、彼女の髪の毛を感動したように触っている藍の姿を見て、何故か自分の胸の中にモヤモヤとした感情が生まれるのを感じる。

 

 そしてふと、今はツインテールになっている自分の艶やかな黒髪に触れてみた。千束の髪の毛を藍は絶賛しているが、髪の毛なら自分も負けていないはずだ。自分ではその良さが中々分からないものの、手触りがサラサラとしていて綺麗なツヤを持つその黒髪は、この店の常連客や千束に何回も褒められた事がある。ならば、藍だって触れば自分の髪の毛を気に入るはずだ。しかし、どうすれば藍にこの髪の毛を触らせる事ができるのか。

 

 少しおかしな思考になっている事に気づかないたきなは、今も千束の髪の毛を触る藍の姿に面白くない感情を抱きながら、彼の帽子に目をやる。それからさっき千束が藍の帽子を取った時の光景を思い出すと、ととととと……と藍のすぐそばまで歩み寄ってから彼に話しかける。

 

「藍さん」

「はい?」

 

 と、千束の髪の毛を触りながら藍が振り返った直後、たきながまるで先ほど千束がそうしたように素早く藍の帽子を奪い取った。突然のたきなの行動に藍がポカンとした表情を浮かべる。しかしたきなはそれに構わず、藍の金色の色彩の左目を見ると、奪い取った帽子を優しく藍の頭に乗せた。

 

「藍さん、私は今あなたの左目を見ました」

「……そうですね」

「私やミズキさんにとっては、好きでもない異性に裸を見られたり髪を触られるぐらい嫌な行動をしました」

「何が言いたいんですか?」

「つまり藍さんにそんな嫌な思いをさせてしまったのですから、私はその罰として藍さんに髪の毛を触られるべきだと思います。というわけですので早く触ってください」

「とんでもねぇ無茶ぶり言い出したなこいつ」

「当たり屋かお前は?」

 

 たきなのむちゃくちゃ理論に、ミズキとクルミがそれぞれツッコミを入れ藍も当然戸惑いの表情を浮かべる。しかしたきなの方はそんなの知ったこっちゃないと言わんばかりに藍の左腕をむんずと掴み自分の髪の毛を無理やり触らせようとする。

 

「ちょ、ちょっとたきなー! 今私が触ってもらってるんだから、たきなは後で良いでしょー!」

「いいえ駄目です。すぐにでも触ってもらわないと私の気が収まりません。さぁ早くしてください」

 

 左腕を引っ張るたきなと、藍を取られまいとするかのように逆に右腕を千束が引っ張り、両腕を引っ張られる形になった藍は非常に困ったような表情を浮かべながらなすがままになっている。そんな三人を見て、ミズキが呆れたように呟く。

 

「ったく、両手に花って言うにはあまりにも混沌としすぎた光景じゃない? これじゃあ両腕を食人植物に絡み取られた哀れな犠牲者の絵よこれ。さすがに止めた方が良いんじゃない?」

「……まぁ良いじゃないか。これもこの店らしい風景だよ」

「……それはそうだが、さすがにそれはこの店の空気に毒されすぎだと思うぞミカ」

 

 苦笑しながらミカが言うとやれやれと言わんばかりにクルミが返し、さすがのミカもむぅ……と難し気な顔で黙り込んでしまう。とは言っても、先ほど千束が凄まじく落ち込んでいた時の空気と比べると、ようやく元の空気に戻ったと言って良いだろう。やはりこの店の空気はこうでなくてはならない。良くも悪くも、この店に来てくれる人達はこの混沌としていて時にはちゃめちゃだけれど、不思議と心が休まりいつまでもいたくなるこの店の魅力に惹かれてやってくるのだから。

 

 そして三人が見守る中、少年少女達の大岡裁きもどきはその後締め切りに追われて来店した伊藤と米岡がその光景を見て目を丸くするまで続くのだった。

 

 

 

 

 

「―――てか、いくら藍くんを元気づけるためとはいえ何やってんの私!? あれ思いっきり藍くんを抱きしめてたじゃん! 思いっきり乳が藍くんの顔に触れてたじゃん! 藍くんがあの性格だったから良かったけど下手したら私ただの痴女じゃん!! 明日から藍くんとどう顔合わせりゃ良いの!? お願いだから誰か教えてー!!」

 

 ………余談だが。

 

 その日の夜、マンションのセーフハウスにあるベッドの上を、薄手のタオルケットを頭を含めた全身にしっかりと巻き付けてミノムシのような状態になりながら、真っ赤な顔でゴロゴロと転げ回るファーストリコリスの姿があったのだが……、それを知る者は当然誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 夏の季節では、六時ごろになっても空は薄明るさを保っている。そしてそれぐらいの時間では大体どこの家庭も晩御飯の準備に取り掛かっているが、それは天竺藍という少年も例外ではない。藍は台所で料理を支度をし、さらにおかずを盛りつけながらふと今日のリコリコでの出来事を思い出す。

 

 今日は一日色々あった。千束に左目を見られたり、彼女の心臓の話を聞いたり、千束とたきなに大岡裁きを受けたり……。思い返すだけで思わず笑ってしまいそうな一日だったが、笑うわけにはいかない。だって、|自分のような人間が笑って良いはずがないのだから《、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、》。

 

 と、そこまで考えた所で藍はある記憶を思い出す。何故唐突にその記憶を思い出してしまったのか、理由はよく分からない。今日の千束と話す中で博士についての話題が出たためか、千束が捜している『救世主さん』という単語に反応したためか。

 

 その記憶の中で、幼い頃の自分は博士にこんな事を尋ねていた。

 

『―――博士。僕もいつかなれるでしょうか。博士のような、「救世主」に』

 

 あの頃の自分は、ある人物に博士は救世主なのだと教えられていた。そして自分は心の底からその言葉を信じ切っていた。だからこそあの時、自分も救世主になれるかと博士に尋ねたのだ。こんな無価値な自分でも、頑張ればいつか目の前の人のような『救世主』になれるか知りたくて。例え自分にいつも暴力を振るっても、自分の事を嫌っていても、博士のような『救世主』になりたくて。

 

 今考えてみれば、それはきっと子供がテレビの中のヒーローに憧れるようなものだったのだろう。しかし幼い頃の自分にとって、そう考えるのはある意味必然だった。自分にとって博士はいつだって、『救世主』と同じぐらいすごい人だったのだから。

 

 ……まぁ救世主になれば、博士も自分の事を見てくれるのではないかという、幼稚な考えもあったのだが。

 

 するとそれを聞いた博士は、にっこりと笑った。それを見て少し驚いたのは覚えている。博士はいつも冷たい目をして、無表情か不機嫌そうな表情を浮かべていたので、笑顔を見るのが初めてだったからだ。博士はしゃがみ込んで自分と目を合わせると、自分の頭頂部に右手の人差し指を一本置いた。

 

『―――なれるわけがないじゃない。お前みたいな奴が』

 

『だってお前は無価値で、無意味で、生きている理由すらもない』

 

『ただの―――■■なんだから』

 

 ―――その後の展開は、いつもと大体同じなので今更思い返すまでもない。馬鹿な質問をした子供が暴力を振るわれ、それ以降博士に同じような質問をする事は二度となかった。それだけのくだらない話だ。

 

 そして藍が記憶に心を奪われて、料理を盛りつける手を止めていた時、玄関から来客を知らせる電子音が聞こえてきた。藍は玄関へと歩きながら、途中でリビングのテーブルの上にある白い眼帯を手に取ると左目に着ける。リコリコから帰宅する際、いつも通っている所とは別の薬局にて箱買いしたものである。

 

 しかし、一体誰だろうか。基本的にこの部屋を人が訪れる事はあまりない。通販で物を購入した覚えも最近は無いし、自分と一緒にこの街に来た人物も突然部屋を訪ねるような事はしない。もしも来るとしたら、事前にメールを寄こすはずである。もしかしてたきなかとも思ったが、彼女ならやはり事前に連絡の一つぐらいはするはずである。ちなみに千束という選択肢が無かったのは、単純にまだ彼女と連絡先を交換していないからである。

 

 そして藍が玄関の前に辿り着くと、ゆっくりと扉を開けて来客の姿を確認する。扉の前にいたのは三人の男達だが、どう見ても堅気の人間では無かった。

 

 三人の内二人は筋骨隆々とした体格に顔には黒のサングラスと、怪しさと危険さが同居した姿だった。だが藍の目を一際引いたのは、二人に挟まれる形で立っている男の姿だった。

 

 くしゃくしゃの髪の毛に夏だというのに黒のロングコート。コートの下には派手な柄物のシャツを着ており、外見だけならば藍と同じツラの良い男。体格は他の二人と比べると華奢と言えるが、よくよく見てみると服の下の筋肉はやはりよく鍛えられているのが分かる。そして目はまるで刃物のように鋭く、他の二人のように特別大柄というわけでもないが、その代わりと言うべきか二人にはない異質な気配を体から放っていた。

 

「―――よぉ。また飯食いに来たぜ」

「……なんだ。あなたでしたか」

 

 男が誰かを確認した藍が呟くと、男―――世界を股にかけるテロリスト、真島はにやりと口元に危険な笑みを浮かべた。

 

 

 




藍の部屋は律儀に呼び鈴が押されるのに、ある部屋の扉は無理やりぶち破られる。この辺りから真島のその部屋の主達への接し方が分かる……かもしれない(笑)。
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