「リコリコ恒例閉店後ボドゲ大会、スタートぉ!!」
『オォオオオオー!』
千束の声を合図にして、座敷席に集まった常連客達の声が店内に響き渡った。
リコリコではたまにこうして営業終了後の時間を使ってボードゲーム大会を開いている。普通の喫茶店ならまずやらない行いだが、この店に良く来てくれる常連客達は決まって顔を出す。米岡や伊藤などは仕事の締め切りがあるはずなのだが、生憎とこの場では仕事の話はタブーである。なのでこの大会で心行くまで楽しみ、そして翌日になって自分の原稿とネームの進捗具合に呆然とするというのが締め切り組の日常茶飯事と半ば化していた。彼らの担当が聞いたらブチ切れそうだが、すでに彼らの頭の中からは仕事の事が完全に抜けきっているのでもはや手遅れだとしか言いようが無い。これで彼らが担当に何か言われても完全なる因果応報、自業自得である。
まぁ、刑事である阿部も勤務中だというのにこの大会に参加しているので、彼らの中ではこの場は完全にオフというのが共通認識なのだろう。
一方はしゃぐ常連客達の様子を楽し気に見ていた千束は、一人黙々とレジ閉めを行うたきなに声をかける。
「ねぇ、たきなも一緒にやろうよ。レジ閉めなら私も手伝うからぁ」
「もう終わりました。レジ誤差ゼロズレなしです」
たきなの仕事の早さに「はやっ!」と千束が驚き、それを聞いた他の常連客達もたきなに言う。
「てことはもう暇でしょー?」
「たきなちゃんもおいでよ」
「どうだ~? たきな」
そんな常連客の姿をたきなは一瞥する事も無く、文字通り切って捨てるように言った。
「いえ、結構です」
そしてそのまま店の奥に引っ込むと一瞬沈黙が流れ、常連客達は互いの顔をそれぞれ見合わせる。
「おじさん多すぎなのかなー?」
「恥ずかしいのよお年頃」
「店で遊ぶ方がおかしいんだけどね」
「そうかぁ?」
いつもボドゲ大会に自ら進んで参加するクルミが疑問の声を上げるが、それはそうなので誰も否定しない。
すると、たきなと入れ替わるように店のキッチンを借りてあるものを作っていた藍が大きい皿を両手に持って座敷席に歩いてくる。
「お待たせしました。玉子焼きです」
「おおっ! 待ってましたー!」
藍が持ってきた皿の上には鮮やかな黄色の玉子焼きがいくつも乗っていた。この店の名物とも呼べるボドゲ大会では、最近では藍がミカから許可をもらい料理を作って参加者達に提供するのが当たり前になりつつあったが、一番人気はこの玉子焼きだった。何せ、この玉子焼きはミカからも『自分よりも美味しい』と太鼓判をもらっている品なのである。いつも多めに作っているのだが、それでも目を離したらあっという間に無くなってしまうほどの人気料理になりつつある。クルミなど行儀悪く玉子焼きを文字通り次から次へと手でつまんで目を輝かせながら食べ、以前にそれを見たミズキから「行儀が悪い!」と額に手刀を食らっていた。
藍が割り箸を常連客達に配り、それぞれが渡された箸で玉子焼きを口に運ぶ。口の中に広がる絶妙な甘さとふわふわとした柔らかさに伊藤がんー! と嬉しそうな声を上げ、
「いやー、藍くんの玉子焼き本当美味しいわぁ。いつも思うんだけどこれどうやって作ってるの?」
「調味料の量を間違えず、手順を間違えずに作れば誰でも美味しく作れます」
「いやぁ、さすがにそれだけでここまで美味しい玉子焼きは作れないと思うけどなぁ」
と常連客達がボードゲームをしながら玉子焼きに舌鼓を打っていると、女子大生の北村が尋ねた。
「藍くんもボードゲームやらない? いつも料理作って見てるだけじゃつまらないでしょ?」
この場にはいるものの、藍は基本的に大会に参加する事はせず料理を作って常連客達に提供し、あとはそばで見ているだけだった。なので常連客達はそんな藍を少し心配していたのだが、当の本人はあまり気にした様子を見せず、
「お気遣いありがとうございます。でもこういったものにはあまり参加した事がないですし、美味しそうに食べている人を見ている方が好きなので大丈夫です」
表情こそあまり変わらないものの、そんな彼の言葉に一同はほっこりした。
そして藍の方はと言うと、きょろきょろと周りを見渡してからむしゃむしゃと玉子焼きを食べるクルミに尋ねる。
「たきなさんと千束さんは? ついさっきまでいましたけど」
「ん? 二人ならさっき店の奥に行ったぞ」
「………そうですか」
たきなはともかく千束もいないのを見ると、一同の目が玉子焼きに釘付けになっている隙に店の奥に行ったらしい。藍が店の奥を静かに見つめていると、ちょうど千束が戻ってきて彼女に声をかける。
「千束さん、奥でたきなさんと何か話してたんですか?」
「んー? そうそう! 明日ちょっと出かけてくるから、その関係でねー。って、あー! クルミぃ! 藍くんの玉子焼き食べ過ぎ! 私にも分けてよー!」
千束とクルミの玉子焼き争奪戦がそばで繰り広げられている中、藍は再び店の奥へと視線を向けた。
その頃店の奥では、着替えと帰り支度を済ませたたきながどこか張りつめたような表情を浮かべていた。
無理はない。彼女は明日、山奥にあるDAの本部に行く事になっているのだ。というのも千束がまだ健康診断と体力測定を終えておらず、明日そのために本部に行くのを聞いたたきなが自分も一緒に連れて行くように千束に頭を下げたのである。だが彼女が用があるのは本部そのものではなく、本部にいるDA司令官―――楠木に直接会うためだ。本当に会えるかはまだ分からないが、直接会って彼女に銃取引の新情報となった写真を見つけて提出した事を改めて報告し訴えれば、DAに戻る事ができるのではないかと考えたためである。うまくいく確証はないが、今はどんなわずかな可能性にも縋りたい。
ずっと自分の目標であり憧れだった、あの場所に戻るために。
たきながぐっと拳を握った、その時だった。
「たきなさん?」
背中に声をかけられ、振り向くとそこには皿を持った藍が立っていた。たきなは怪訝な表情を浮かべると、藍に尋ねる。
「何か用ですか?」
「はい。さっき玉子焼きを作ったんですが、よろしければどうですか?」
そう言って差し出された皿の上には、玉子焼きが三つ乗っていた。彼がボードゲーム大会の時に玉子焼きなどの料理を作っていたのは知っているし、千束が以前に藍の玉子焼きを褒めていたのも覚えている。たきな自身はまだ食べた事は無いが、なるほど確かに皿の上の玉子焼きはとても美味しそうに見える。
しかし、今はそんなのはどうでも良かった。元より料理に対してそこまで強い関心がある方ではない。たきなには、明日DAに向かう用事の方がよっぽど大事だった。
「結構です。それより、今日はこれで失礼します」
「あの、折角ですから一つだけでもどうですか?」
珍しい事に、普段ならあっさりと引き下がりそうな藍は今日はそのような様子は見せず、逆に食い下がってくる。たきなは微かに苛立った表情を浮かべながら背を向け、
「いりません。明日早いので、これで」
「じゃあ、ミカさんから容器を借りて詰めてお渡しするので、良かったらお好きな時に―――」
「―――いい加減にしてください!!」
しつこく食い下がる藍に叫びながら振り返り、意図せず腕が強く振るわれる。
その腕が彼の手にしていた皿に偶然当たってしまい、皿が彼の手から離れ床に落ちる。
結果。
「―――あ」
それはたきなのものか、それとも藍のものか。
次の瞬間、皿が大きな音と共に割れ、上に乗っていた玉子焼きが床の上にぶちまかれた。
「―――」
「あ………その……」
床の上に散らばる皿の残骸と玉子焼きを無言で見つめる藍の姿に、たきなが恐る恐る声をかける。
すると今の音を聞いたのか、千束とミカが二人の前に姿を見せた。
「ちょいちょい、今結構大きな音がしたけどどうし……ってお皿割れてるけど本当にどうしたの!? 二人共、怪我とかない!?」
「一体、何があったんだ?」
千束が驚きの声を上げ、ミカが驚きよりも心配そうな表情で二人に尋ねる。まだ動揺が収まらないたきながどう説明すれば良いのか分からないでいると、藍はその場にしゃがみ込んで皿の破片を拾い始めた。
「何でもありません。たきなさんに玉子焼きを渡そうとしたら、手が滑ってお皿を落としてしまっただけです。ミカさん、すいません。お店のものを割ってしまって」
「そんな事より、そのままだと怪我をしてしまうだろう。千束、ゴム手袋とゴミ袋を持ってきてくれ」
「うん、分かった!」
そう言って千束は素早い動きでキッチンへと向かう。すいません、と藍はもう一度ミカに頭を下げると右手で自分の空いている左手に皿の破片を乗せていく。その表情は俯いていて、彼がどのような表情をしているのかたきなには分からない。するとミカが顔を上げて、静かな声でたきなに言った。
「ここは私達に任せて、もう帰りなさい。明日早いだろう?」
「………分かりました」
たきなは言われた通りに二人に背を向けてその場から立ち去ろうとすると、ちょうどタイミングよくゴム手袋とゴミ袋を持ってきた千束とすれ違う。千束はちらりとたきなに視線を向けるが、そのまま通り過ぎて藍とミカの二人にそれぞれ持ってきた道具を渡す。そしてたきなは鞄を背負うと、最後に片づけをしている三人を見てからフロアに出て、何かあったのか聞きたそうな常連客達とクルミの視線をかわして外に出ると、まるで逃げるように早足で店を立ち去った。
翌日の天気はあいにくの雨だった。DAの本部に向かう電車の中で藍の好きな雨を眺めていた千束は、目の前の席に座り手帳に何やら書いている相棒に声をかける。
「楠木さんになんて言うの?」
「……今考えています」
「たきな、アメいる? 考え事には糖分……」
「結構です」
飴を取り出しながら提案するも、相変わらずばっさり切り捨てられてしまう。さらにたきなは手にしている手帳から視線を上げて、
「これから健康診断ですよ」
「い、一個だけだしぃ」
「糖分の摂取は血糖・中性脂肪・肝機能他の数値に影響を与えます」
「大丈夫だってぇ」
構わず飴を袋から出そうとすると、たきなは冷たい眼差しで千束を見ながら手帳を閉じる。
千束は「はぁい……」と残念そうな声を上げ、渋々と飴をしまう。それを見て再度手帳を開こうとするたきなに、千束が唐突に尋ねた。
「たきな、昨日の藍くんとの事気にしてるでしょ?」
「気にしてません」
どうやら昨夜の事に関しては、藍とたきなの間で何かあったと千束も感づいているらしい。まぁ、さすがにあの状況で藍がただ手を滑らせて皿を割ったとはさすがに彼女も思わないだろう。この様子からすると、ミカも気づいている可能性が高い。
とは言っても昨夜の事をそのまま話す気にもなれないのですっぱりとたきなが否定すると、千束は何故か「またまた~」と笑う。たきなが千束を軽く睨むと、千束はちょっと怯みながらも困ったような表情を浮かべる。何故彼女がそんな表情を浮かべているのかたきなが分からないでいると、千束は恐る恐るといった調子で言った。
「やっぱり、気づいてない?」
「何がですか?」
「手帳、逆さま」
「………っ!?」
その言葉でたきなが自分の手帳を見ると、彼女の言う通り確かに自分は手帳を逆さまにした状態でペンで文字を書き込んでいた。これでは千束じゃなくても自分が昨夜の事を気にしていると誰でも気付くだろう。
「まぁ、昨日あんな事があったんじゃ仕方ないよね」
「別に、そんな事は………」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。今の醜態を見られては、説得力がまるでない。手にしていた手帳を閉じると、膝の上に置いて諦めたように小さく息をつく。
「………いえ、そうですね。正直、悪い事をしてしまったとは思ってます」
あの時ピリピリしていたのは事実だが、彼にあんな事をするつもりは無かった。あれではただの八つ当たりだし、自覚していたからこそ床に落ちた玉子焼きと砕けた皿、それを黙々と拾う藍の姿に動揺を隠す事が出来ず、今までずっと気にしていたのだ。自分の手帳が逆さまになっている事にも気づかないほどに。
その時の彼の姿を思い出して思わず黙り込むと、にゅっと目の前にハンカチで包まれた何かが差し出された。たきなが顔を上げると、千束が笑顔でその何かをたきなに差し出していた。
「これは?」
「たきなのお弁当。昨日、あの後藍くんに頼んだんだ。今日の用事はちょっと時間がかかるから、お腹が空いた時のためにお弁当作ってーって。藍くんも、たきなさんに迷惑をかけてしまったお詫びも兼ねて、腕によりをかけて作りますって言ってくれてたよ」
「迷惑なんて、そんな」
むしろあの時は、自分の方が迷惑をかけてしまったと言うべきだろう。なのに藍はその事を気にして、この弁当を作ってくれたらしい。しかしそこでたきなはある事が気にかかった。
「いつ渡しに来たんですか? 私達今日、早めに合流しましたよね?」
「それより早くにリコリコに来て渡してくれたんだよ。藍くん私のマンション知らないしね。だからはい! これたきなの分ね!」
そう言って千束はたきなにお弁当を渡すと、「ちなみに私のはこっち~♪」とハンカチに包まれた別の弁当箱を取り出した。外見からして、中身はお握りかもしれない。
「あとで一緒に食べようね! ああ~楽しみだなぁ~!」
嬉しそうに弁当箱に頬ずりしている千束を見て、たきなは両手の中の弁当箱に視線を落とす。藍が作った弁当箱は、まだほんのりと熱を持っているように感じられた。
千束は朝早く彼女に弁当箱を渡しに来てくれたと言っていたが、朝起きて自分達二人分の弁当箱を作ってリコリコに渡しに来たとなると、相当早い時間に起きて作ったはずだ。千束はともかく昨日せっかく作った玉子焼きを台無しにした、自分のために。
「あ! でも好き嫌いしちゃ駄目だよたきな! 食べ物を粗末にする子には、もったいないお化けが出るぞ~!」
「……何馬鹿な事を言っているんですか」
両手をだらんと垂らしながら悪戯っぽく言う千束に冷たく返す。自分に食べ物の好き嫌いは無いし、もったいないお化けなんて非科学的な存在がいるはずがない。………と思いたい。
きゅっとハンカチに包まれたお弁当を握るたきなとはしゃぐ千束を乗せた電車は、目的地に向けて雨の中を走り続けるのだった。
それから二人は目的の駅に着くと迎えの車に乗り、山奥にあるDAの本部に到着した。そこで千束は目的通り体力測定に、たきなは楠木が来るまで射撃場で訓練を行う事になった。
射撃用ゴーグルに耳当てを装着し、人型のターゲットの胸部に的確に銃弾を撃ち込んでいく。弾倉の銃弾が切れると新しいものに交換しまた射撃を行う、その繰り返し。射撃は文字通り機械のように正確に行いながらも、たきなの頭の中は別の事でいっぱいだった。受付を訪れた際、たきなを見かけた通りすがりのリコリス達の声が頭の中に響く。
『あれ、ほら。味方殺しの』
クスクス、という自分を嘲笑う声。
『DAから追い出されたんでしょ?』
『組んだ子みんな病院送りにするんだって』
『指令無視したんだって』
『なんでそんなことすんの?』
人知れず悪を消すエージェントと言えば聞こえは良いが、それ以外は十代の女子である。面白そうな噂には飛びつくし、噂に面白おかしく尾ひれをつけて拡散していくのは街中を歩く女子高生となんら変わらない。しかしまさかここまで悪い噂が広がっているとはさすがのたきなも予想外であり、表面上は冷静であったものの内心では動揺を隠しきれなかった。訓練所に来たのは、自分の動揺を抑えるためでもある。
狙いを胸部から頭部へと変え、やはり見事に全弾命中させると拳銃を机に置き、耳当てを取り外していく。ちなみに近くのベンチには彼女の鞄と千束から受け取ったハンカチに包まれた弁当箱が置かれている。最後にゴーグルを取り外して息をついた、その瞬間。
「へぇ、ヤバいっすね」
突然声をかけられ、振り向くとそこには一人の少女が笑みを浮かべながら自分を見ていた。
着ているリコリスの制服の色は自分と同じ紺。つまり、セカンドリコリス。
茶色のツーブロックヘアに、愛嬌のある太い眉、人懐っこそうな笑い。しかしその笑みは、どこか友好的なだけではない事にたきなは気づいた。
「ども~っす。乙女サクラっす」
快活そうに少女―――サクラは自己紹介してから、すっと右手を差し出す。彼女の笑顔を見ながらたきなも右手を差し出して握手をしようとすると、サクラがたきなの右手を握りつぶさんばかりに力を強く込めてきた。そしてぐっとたきなの体を引き寄せると、その笑みが挑発的なものに切り替わる。
「命令無視した挙句、仲間にぶっ放したって本当っすか?」
彼女の言葉にたきなは彼女の右手を振り払うが、サクラは飄々とした態度を崩さない。相変わらず外見上は人懐っこそうな笑顔を浮かべたまま、たきなへの挑発を続行する。
「うっわ、マジなんすね~」
「違う……私は……」
「やっぱぁ、敵より味方撃つ方が燃えるぅ! みたいな?」
「………」
「おっとぉ! 撃たないでくださいよぉ?」
思わずサクラを睨むが、のれんに腕押しといった感じで彼女には通じていないようだった。ケラケラとおかしそうに笑いながら、
「聞いたんすけどいつも笑わないのに、殺しの時だけ超笑顔なんだってー?」
「誰が……そんな嘘………」
きっと、それもこの本部にいるリコリスの誰かが勝手に尾ひれをつけたのだろう。まさかこんな所で娯楽に飢えたリコリス達の噂への好奇心の厄介さを思い知る事になるとはさすがのたきなも思わなかった。
「いや、あーしは好きっすよ? 映画の殺人鬼みたいでかっこい~っす!」
サクラはひとしきり笑い続けると一息ついて、
「まぁ安心してくださいよ。先輩が抜けた穴は後任の私がしっかり埋めますからっ」
「………後任?」
「あれ? 聞いてなかったんすか? 自分がこれからフキさんのパートナーを務めるっす」
フキ―――千束と同じファーストリコリスの一人であり、自分のかつてのパートナーの名前が飛び出し、たきなの表情が強張ると、「まぁつまり―――」とサクラは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「アンタの席はもう無いっすよ」
すると直後、彼女の制服の襟首をまるで猫の首を掴むように「ちょっと」と誰かが掴んだ。
「黙れ小僧」
そう言ってサクラの顔を睨んだのは千束だった。恐らく体力測定を終えてここに来たのだろう。突然目の前に現れた千束に、サクラが怪訝な声を出す。
「アンタ、誰っすか?」
「ソイツが千束だ」
「フキ先輩っ! あ! 司令まで!」
その言葉でたきなが声が聞こえてきた方向に視線を向けると、そこには三人の人物が立っていた。
一人は額をさらした濃い茶色の髪の毛のショートヘアをアシンメトリーにした、赤い制服に身を包んだ目つきの鋭い少女。自分のかつてのパートナーであり、ファーストリコリスである『春川フキ』だ。
もう一人は白いスーツにマッシュルームカットが特徴的な、厳格な表情を浮かべた女性。自分達リコリスの指令であり、自分にリコリコへの転属を命令した張本人である楠木だ。後ろには秘書の女性も付き従っている。
「って、千束? って事は、これが電波塔の……」
とサクラが千束を指差す。千束が今は折れ曲がった状態になってしまっている旧電波塔をテロリストから守った伝説のリコリスである事は、本部はおろか地方でも有名だ。実際にたきなも本部に転属する前にいた京都で彼女の噂を聞いた事がある。一方、その伝説のリコリスは自分を指差しているサクラを睨み、
「人を指差すな! それと、これって言うな!」
「いや、ただのアホだ」
「フキぃっ!!」
フキの辛辣な言葉が飛び、千束とフキがまるでチンピラの如く睨み合う。千束とフキは同じファーストリコリスであると同時に昔からの付き合いでもあるため、顔を合わせれば口喧嘩をする事が多いものの実際はそれなりに気安い仲でもある。
一方、楠木の姿を見たたきなは彼女の前に一歩踏み出し、
「司令! 私は銃取引の新情報となる写真を獲得し、提出しました。この成果ではまだDAに復帰できませんか?」
「………復帰?」
しかしたきなの必死の懇願に楠木が返したのは、たったそれだけだった。
「せ……成果を挙げればDAに戻れるのでは………?」
「そんな事を言った覚えはない」
楠木の冷徹な態度にたきなの口から「そんな………」という言葉が思わず漏れる。確かに楠木の口からはっきりと言われたわけではないが、本人の口から言われると自分が今までしてきた事を真正面から否定されたようで、体から力が抜けそうになってしまいそうだった。
「楠木さん!」
「諦めろって言われたのまだ分かんないんすか?」
「っ! おい!」
肩をすくめるサクラに千束が声を荒げるが、当の本人はやはりと言うべきか意に介していない。千束から一歩距離を離しながらおどけるように、
「お~怖っ! さすが電波塔のヒーロー様! 迫力が違いますね~」
「サクラ、訓練の時間た。行くぞ」
「………っ!」
自分の脇を通って訓練に行こうとするフキを見て、たきなの右腕が動く。気が付くと彼女の右手は、その場から去ろうとするフキの左手首を無意識に掴んでいた。
「なんだよ」
「………すみません」
咄嗟の自分の行動にたきなが謝ると、フキは彼女の右手を振り払いながら、
「あの時ぶん殴られたので分からなかったか? だったら言葉にしてやる。―――お前はもうDAには必要ないんだよ」
挑発的な笑みと共に放たれたその言葉が、たきなの胸をこれ以上ないほどに抉り取った。あまりの言い様に千束がフキの胸倉を掴む。
「やめろフキ!」
「はっ! まだ理解できないか? なら今から模擬戦でぶちのめして分からせてやるよ!」
この本部には射撃場の他に、当然と言うべきかリコリス達が模擬戦を行うための訓練場も完備されている。使用するのはペイント弾になるが、模擬戦という形式上気が抜けないのは実弾と何ら変わらない。
「おーおー良いじゃん! 二体二で勝負だ!」
「おおっ! 伝説の電波リコリスぶっ倒せば、あーしのファースト昇格も……!」
「『塔』をつけろよ刈り上げ野郎! ってそんな事より、やろうよたきな!」
だが、模擬戦にノリノリな千束とは対照的にたきなの方は唇を噛み締めるばかりで何も言おうとしない。そんな彼女の顔を、後ろからサクラが覗きこむ。
「あれ? もしかしてビビってんすか? ま、そりゃそうっすよねー。DAから追い出されたあんたが、あーしとフキ先輩に勝てるわけないですし」
「はぁっ? うちのスーパールーキーを舐め………」
「―――ん? 何すかそれ?」
と、やれやれと肩をすくめながら歩いていたサクラが何故か声を上げる。それにたきなが顔を上げると、彼女の視線はベンチの上に置かれているたきなの―――藍が作った―――弁当箱に向けられていた。
「………それはっ………!」
「あ、もしかしてアンタの? へぇ、意外っすねぇ……。てっきりゼリー食でも食べてんのかと思ったら」
そう言いながらサクラはハンカチに包まれた弁当箱を持ち上げると、ハンカチをほどいて蓋を開ける。たきなと千束が止める暇もなく、弁当箱の中身がその場の全員に公開される。
弁当箱の中身は、おかずの方はからあげにトマト、そして彼の得意料理である玉子焼きと藍が得意とするスタンダードなもの。そこにさらにウサギの形に切られたリンゴ。
しかし一番目を引くのは弁当箱の半分を占めるのり弁だろう。ただののり弁ではなく猫の形にのりが切られており、簡単ではあるが丸い目や鼻、髭の部分もきちんとのりで再現されている。いわゆるキャラ弁というやつだが、いつもスタンダードなお弁当を作る藍にしては珍しいと言えた。
「………プッ」
最初はきょとんとした表情で弁当を見つめていたサクラだったが、やがて彼女の口から空気が漏れるような音が出たかと思うと、次の瞬間おかしそうに笑い始めた。
「プッ、アハハハハハハハハッ! 何すかこれ!? 可愛いけど全然似合わねー!」
たきなの呆然とした表情や千束の怒りが混じった表情も意に介さず笑い続けると、今度はちょっと感心したように弁当を見つめ、
「ってか、これクオリティ高いっすけどあんたが作ったんじゃないすよね? 作ったのリコリスっすか? あんたみたいな奴に作るなんて、物好きもいるもんすねー。ってか美味しそうですし、一口もらって良い?」
「………っ! やめて、ください……!」
血相を変えたたきなが詰め寄ると、サクラは笑みを浮かべながら弁当を取り返そうとするたきなの手からひらりひらりと逃れ、
「別に良いじゃないですかー、一口ぐらい。また作ってもらえば良い話でしょ?」
「………っ!」
サクラの言葉で、昨日の床に落ちた玉子焼きと砕けた皿を拾う藍の姿が脳裏に浮かぶ。その事に何故か自分の胸が痛むのを感じながら、たきなはさらに彼女に追いすがる。
「良いから早く、返してください!」
「いやいや、さすがにちょっと必死過ぎじゃ………」
あまりの剣幕に、サクラも表情を引きつらせたその時。
片手で弁当を持っていたサクラの手にたきなの手が勢い良くぶつかり、弁当箱がサクラの手から離れた。
「―――」
それはまるで昨夜の光景をそのまま再現しようなデジャブ。
サクラの手から離れた弁当箱は重力に従って落下し、焦った表情の千束が駆けつけようにも、時すでに遅く。
から揚げが、玉子焼きが、猫を模したのり弁が………藍が作った弁当が、音を立ててたきなとサクラの間の床に無残に落ちた。
突然の出来事に誰も声を発する事が出来ず、後ろで事態を見ていた楠木とフキすらも彼女達に声をかけない。するとようやく、サクラが慌てた声で、
「い、言っとくけどあーしのせいじゃないっすからね!? あんたが急に………」
しかし、サクラが言葉を終えるより前に。
たきながサクラの胸倉を掴むと彼女の体を力強く引き寄せ、その顔目掛けて―――。
「たきな!!」
止める、というよりも焦ったような千束の声でたきなは我に返ると、自分でもショックを受けたような表情でサクラを殴ろうとした左手を見る。痛いほど強く握られた拳をゆっくりと開いてから床に落ちた弁当の残骸を見ると、唇を強く噛みしめてその場から駆け出した。千束はその場の全員をキッと睨むと、走り去っていったたきなの後を追って自身も走り出す。
「………こ、こえー。マジで殺されるかと思った……」
自身の胸倉を掴んだ時のたきなの表情を思い出し、サクラは思わず冷や汗を垂らす。あの時の彼女からは間違いなく殺気が出ていた。これが銃弾飛び交う戦場だったら、自分は今頃肉塊になって地面を転がっていただろう。
「………ったく。サクラ、片付けるから手伝え」
「あ、ハイっす」
「あと、それが終わったら模擬戦の準備だ」
え、とサクラがフキに視線を向けると、彼女は先ほどとは打って変わって真剣な表情を浮かべていた。
「あいつら、本当に来るんすか?」
「千束は間違いなくな。たきなは正直さっきまで分からなかったが……あの様子だと、来ると考えてもおかしくねぇ」
「何でっすか?」
決まってんだろ、とフキは言うと彼女が出て行った廊下を見て、
「―――食い物の恨みは恐ろしいって事だよ」
射撃場を飛び出したたきなは一人、噴水の前にいた。涼やかな水音がたきなの鼓膜を揺らすが、肝心の彼女の心までは癒してくれない。脳裏には今日ここに来た時のリコリス達の言葉、先ほどの楠木とフキ、サクラの声、そして床に落ちた弁当箱の映像が残っている。
「ここだと思った」
そう言ってたきなに近づいてきたのは千束だった。彼女はたきなに近寄りながら、噴水の方に視線を向ける。
「リコリスはみんな好きだもんね、ここ」
「………この寮で暮らす事はDAに拾われた私達みんなの憧れ。この制服に袖を通した時も………」
「嬉しかったよね」
たきなは思わず噴水から千束に視線を変える。あのリコリコでの日常を気に入っている千束の口からそんな言葉が出るとは思わなかったからだ。千束も自覚しているのかくすりと苦笑し、
「そんな意外そうな顔しないで。私だっておんなじだよ」
「……千束さんも同じなら、分かると思います。私にとっては、ここが目標だったんです。なのに、奪われた。……ずっと欲しかった私の居場所は、もう……ここには無いんです」
消え入りそうな声で噴水に近寄ると、水を手に取る。ひんやりとした感触が気持ち良いのに、たきなの目からは気を抜くと涙が零れ落ちそうだった。
「……分かっています。全部自分のせいだというのは。でも、それでも……」
「たきなのせいなんかじゃないよ」
千束はたきなに近づき、彼女と視線を合わせる。千束の顔には、柔らかい笑みが浮かんでいた。
「あの時たきなは仲間を救いたかった。それは命令じゃない。自分で決めた事でしょ? それが一番大事。その気持ちまで否定しちゃったら、その時のたきなの気持ちが間違ってたって事になっちゃう。……うん、それは駄目だよ。仲間を救いたかったって気持ちは、絶対に間違いなんかじゃないんだから」
「……………」
たきなが黙り込むと、千束は噴水の前に設置してあるベンチに座り込み、
「それにたきなの処遇は命令違反とは関係ないよ。あの日通信障害があったってホント?」
「え、えぇ……。数分ですが。技術的トラブルだと……」
だが次に千束の口から出たのは、衝撃的な一言だった。
「ハッキングだよ」
「……ラジアータが?」
ラジアータ。それはDAにおいてリコリスの作戦をモニターする際に機密性を担っているAIの名称である。街のありとあらゆる所に監視カメラはおろかインターネットに繋がるあらゆる機器・システムが目を光らせているこの情報化社会で、リコリスが犯罪者達の犯罪を素早く察知し未然に防ぐと共に、彼女達の存在と仕事が徹底的に隠されているのは、全てのインフラの優先権を持つこのAIがあるからに他ならない。
つまりラジアータとは、DAがこの国の平和を守るために必要な『脳』であると同時に『心臓』でもあるのだ。もしもこのラジアータに何らかの問題が発生、最悪の場合機能を停止した場合何が起こるかなど言うまでも無いだろう。
「そう。だってDAの機密性を担ってる最強AIだよ? 全てのインフラの優先権を持ってるのに通信障害なんてありえないでしょ」
「ハッキング……。それで取引時間が……」
「でもそんな事は報告できないから、リコリスの暴走って事でたきなに全部の責任を押し付けて、うやむやにしようって事! あーもう! ムカつくったらありゃしない!」
うがー! と当事者でもない千束が両腕を真上に上げて叫ぶ。ぎょっと近くを通りかかったベージュ色の制服を着たリコリス―――サードリコリスが驚くが、当然そんな事は気にしない。一方、たきなは驚きながらも何故か納得しような表情を浮かべて俯いた。
「………そうですか。でも、もしかしたら組織の判断は正しかったのかもしれません……」
「……たきな?」
彼女らしくない反応に千束が思わず心配そうに彼女の顔を見ると、たきなは悲痛そのものの態度で、
「改めて、分かりました。……私はきっと、人の気持ちが分からない人間です。銃取引の場では結果的に仲間が助かったとはいえ危険すぎる行動に出てフキさんに殴られて、昨日は天竺さんにあんな態度を取ってしまい、そしてついさっきもわざとではなかったとはいえ同じような事をして……。それで私が出来た事は、その場から逃げ出す事だけ。……人の気持ちも分からない上に何かあったらその場から逃げ出すような事しかできない人間が追い出されるのは、当たり前です。だから、組織も………」
自分を切り捨てたのだとたきなが俯いてこれ以上ないほどに追い詰められていた、次の瞬間。
バッ、と。
千束が、震えているたきなの体を優しく抱きしめた。突然の事にたきなは少し目を見開くも、抵抗するようなことはしない。すると、たきなを抱きしめながら千束が柔らかい声で言った。
「―――逃げた先で得られたものだってあるんじゃないかな」
え? とたきなが思わず顔を動かすと、千束はたきなを抱きしめながら両手の指を広げて、
「私はたきなが逃げたなんてこれっぽっちも思ってないよ。でも仮にたきなの言う通りだとしても、逃げたり失う事で得たものだってきっとある。リコリコのコーヒーに、先生に、ミズキに、クルミに、常連のお客さん達に、そして藍くんに」
指を一本ずつ折りながら数えていく彼女の姿を、たきなは思わずじっと見つめる。彼女が大切そうに数えて行ったそれらは、紛れもなくたきなが今までいた居場所を失い、結果逃げてきた先で得られたものだった。
千束はたきなから体を離すと、今度は彼女の手を先ほど抱きしめていた時と変わらず優しく握った。
「たきながあの時ああしなかったら、私達は出会えなかったよ?」
「―――なぁにあれ?」
とたきなと千束の耳に、水を差す声が聞こえてきた。たきながちらりと後ろを見ると、案の定と言うべきかサードリコリスの何人かが千束とたきなを見てクスクスと笑い合っていた。
「抱き合ってたって~」
「ウケるんだけどっ」
「青春てやつ?」
最後にキャハハハッ、と高い笑い声を残してリコリス達は去って行った。その背中を見送ったたきなの視界が、急に高くなる。気が付くと千束がたきなの両足の裏に両手を回して彼女の体を持ち上げ、とても嬉しそうに笑っていた。
「ちょ、ちょっと!?」
「私は、キミと会えてうれしい!! うれしい!! ―――うれしい!!!」
しばらくその場で回り続けると、たきなの体をゆっくりと下ろす。突然の事に息をつくたきなの顔を千束はまっすぐ見つめながら語りかけた。
「誰かの期待に応えるために悲しくなるなんてつまんないって。たきなの居場所はちゃんとある。お店のみんなとの時間を試してみない?」
その言葉に、たきなの脳裏に今度はミカやミズキ、クルミと常連客達、そして藍の顔が浮かび上がる。彼女の腕を千束はポンと軽く叩き、
「それでもここが良ければ戻ってきたらいい。遅くない! まだ途中だよ。チャンスは必ず来る。その時たきながしたい事を選べば良い」
「私が……したい事」
「そっ! ちなみに、私はいつもやりたい事、最・優・先。……ま、それで失敗も多いんだけど、今はたきなにひどい事を言った上に藍くんのお弁当を台無しにしたアイツらをブチのめしたいのでぇ」
そして千束は振り返ると、何かを伝えるような眼差しをたきなに向けた。
「―――ちょっと行ってきますよ」
そう言って千束が模擬戦が行われる訓練場に向かおうとすると、たきなが何故か声をかけた。
「千束さん。すいません。最後に聞いても良いですか?」
それにきょとんとした顔で千束が振り返ると、たきなはさっき弁当が床に落ちた時の事を思い出す。
「………一つだけ、分からない事があるんです。さっき天竺さんのお弁当が床に落ちた時、何故か頭の中が熱くなって、気が付いたらあんな行動に出ていて……。自分でも、どうしてあんな事をしたのか全然分からなくて………」
あの時の、頭の中が熱くなると共に胸の奥から溢れ出た凄まじい激情の正体が分からずたきながうろたえていると、何故か千束はおかしそうに笑った。それにはさすがのたきなもムッとした顔で抗議する。
「笑う事ないじゃないですかっ」
「あはは、ごめんごめん! ……あのねたきな。さっきたきなは自分の事を人の気持ちが分からないって言ってたけど、そんな事やっぱりないよ。本当に人の気持ちが分からなかったらあんな事しないって」
え? と今度はたきなの方がきょとんとすると、千束は静かに微笑んで、
「たきなが怒ったのは当たり前だよ。だって―――」
千束が去って行った後、たきなは一人噴水のベンチに座っていた。
千束は今頃フキとサクラとの模擬戦を行っている事だろう。いくら相手がファースト・セカンドリコリスの二人とはいえ、彼女の力量ならばもう終わっていてもおかしくない。それなのにまだ模擬戦が終わっていないのは千束があの二人に苦戦しているからではなく、他の誰でもない自分を待っているからに違いない。
脳裏に、今日千束と交わした言葉が次々と蘇る。
『でも仮にたきなの言う通りだとしても、逃げたり失う事で得たものだってきっとある』
『誰かの期待に応えるために悲しくなるなんてつまんないって』
『居場所はある。お店のみんなとの時間を試してみない? それでもここが良ければ戻ってきたら良い』
『遅くない! まだ途中だよ。チャンスは必ず来る』
そして。
最後に、自分の質問に千束が返した言葉が頭の中に響き渡った。
『―――だって、誰かが自分のために作ってくれたお弁当にあんな事されたら、誰だって怒るよ』
ああ、そうだ。
自分はあの時、怒っていたのだ。例えサクラがわざと行ったわけではないとしても、藍が自分のために作ってくれたお弁当を目の前で滅茶苦茶にされたから。
同時に、昨夜俯いて自分の料理の後片付けをしていた彼の姿を思い出す。
あの時、誰かのために作った料理を目の前で無駄にされて。
彼は一体、どんな気持ちだったのだろう。
「………」
たきなは静かに立ち上がると、その場から走り出す。
自分にとって大事な事はたくさんあるが、まず自分がすべき事は千束と合流し、フキとサクラに勝つ事。
そして、もう一つ。
(帰って彼に、謝らないと)
昨夜の事を藍にきちんと謝る事。
その二つこそが、今の彼女にとって最優先すべきやりたい事。
リコリスとしてではなく、井ノ上たきなという一人の少女として強く決心し、彼女は演習場への道を力強く走って行った。
わざとではないとはいえ、二度も食べられずに落とされる藍君の料理とお弁当……。一体彼が何をしたと言うんだ………。