「…………はぁ」
千束とたきなの二人がDAの本部に向かっているため、二人の姿が見えないリコリコの店先のベンチでは藍が一人佇み、傘を差して雨粒から身を守りながら灰色の雲を眺めてため息をついていた。今日の天気は彼のお気に入りの雨だというのに、気分は一向に晴れない。それどころから今朝からずっと頭上の雲のような暗い感情が胸にかかっている。リコリコに来たのも少し前なのだが、店に入っていつも頼んでいる粒あん団子やコーヒーを頼む気になれず、ここでただ無為に時間を潰していた。
一方、店内からはそんな藍の姿をガラス越しにクルミとミズキ、ミカが見つめていた。ここからでは藍の後ろ姿しか見えないが、彼が落ち込んでいる事はこうして眺めていてもすぐに分かる。
「こう言うのも何だけど、意外と分かりやすいわよね、彼。後ろ姿からでも落ち込んでるって分かるし」
「店にも入ってこないしな。よほど昨日の事を気にしているんだろう」
ミカとミズキが話している最中にも、藍が再度ため息をつくのが分かった。ミズキの言う通り、普段は表情の起伏が少ないのに、こういう時は仕草などから感情の表現が逆に読み取りやすかった。
「それより、このままにしておいて良いのか? あの暗い表情のまま放って置いたら、今日は客が誰も入ってこなくなるぞ」
確かに容姿が綺麗な少年が店先で一人ずっとため息をついて暗い表情を浮かべていたら、ここに来る客の足は遠ざかってしまうだろう。伊藤や米岡などの常連客達は気にせず店に入ってくれるだろうが、それ以外の客に関してはそのまま入ってこない可能性がある。
「それもそうだな。そうなると、まずは彼を連れてくるところから始めるとするか」
「来るのか? そのまま帰る可能性だってあるだろ」
すると杖をつきながら外に出ようとしていたミカはクルミの顔を見て、
「それならあの場にとどまっていないで、とっくに帰っているさ。あそこにいるって事は、入るべきか自分でも迷っているんだ。店長としてはお客様には店を楽しんでもらいたいし、それに……」
「それに?」
クルミが聞くと、ミカはふっと口元に優しい笑みを浮かべた。
「若者の悩みを聞くのはいつだって年長者の役目だからな」
そしてミカは傘を差して外へ出ると、今日何度目かのため息をついた藍に声をかける。
「ため息をついたら幸せが逃げてしまうぞ。……まぁ、迷信だがな」
「ミカさん……」
「店に入って少し話をしないか? ここにいたら濡れてしまう」
藍は少し迷った様子だったが、やがて「……はい」と小さく頷く。それを見たミカは藍と一緒に店に戻ると、藍がいつもの定位置であるカウンター席に着き、その後にミカもカウンターに入る。しかしこうしてカウンター席に座ったものの、どうにもいつもの粒あん団子を食べる気にならない。だからと言って何も頼まず座っているのも失礼な気がしたので、コーヒーだけミカに注文する。それを聞いたミカは苦笑し、
「君がコーヒーだけ頼むなんて初めてだね。やはり、昨夜の事を気にしているのかな」
それを聞いた藍が悲しそうな表情を浮かべる。図星といった所だろうが、それを肯定するような事は言わない。そのまま藍は口を閉ざしたままだが、ミカは何も言わず藍にコーヒーを出す準備をしている。二人の間に沈黙が流れるが、やがて藍がポツリと言った。
「僕は、駄目な人間です」
「ほう、どうしてだい?」
「たきなさんに元気を出して欲しいと思っていたのに、逆に怒らせてしまいました」
「元気を出して欲しい、か。どうしてそう思ったのかな?」
確かにたきなは早く成果を出してDAに戻りたいと思っていただろうが、藍を含めた常連客達の前ではそのような態度は見せず真面目に業務に取り組んでいたし、元気がない素振りを見せる事も無かったように思われる。
「普段はそうでもないのですが、時々張りつめたり焦った雰囲気を出している事がありました。これはあくまで僕の主観ですけど、ここで働きながら心はまったく別の事を考えているような、何か酷く焦っているような、そんな感じが時々したからです」
藍の言葉に、表情には出さないものの内心でミカは少し驚いていた。たきながここに来た事情などは知らないはずなのにそこまで気づくとは、中々勘が良い。
「だから昨日、玉子焼きを作った時にたきなさんにも食べてもらいたいと思ったんです。そうすればたきなさんに元気を出してもらえるんじゃないかと思って。……でも逆に怒らせてしまいました。余計な事をしてしまったんじゃないかと、今は思います」
「……そんな事は無いさ」
え? と藍が意外そうな表情を浮かべて顔を上げると、ミカは優し気な表情で藍の顔を見ていた。
「君がたきなに元気を出して欲しいと思ったのは本当なんだろう? なら、君のした行動は余計な事などではないさ。むしろそれを余計な事と言ってしまうのは、人として寂しすぎると私は逆に思うけどね」
「でも実際に、たきなさんは怒って………」
「私が思うに、たきなは君の行動に腹を立てたわけじゃない。ただ昨夜、たきなもある事情で少し余裕が無くなっていてね。そのせいで君に強く当たってしまったのではないかと私は思うよ」
「そうだったんですか………」
藍が呟くと、ミカが突然こんな事を言いだした。
「………そうだ。本人がいない所でこういう話をするのはあまり良くないが、たきなの事情について少し聞いてもらっても良いかい? そうすれば、昨夜何故たきなが君に当たってしまったのか理由が分かると思う。……構わないかな?」
無論、ミカは誰かの事情を第三者に簡単に話す人間では無い。目の前の少年ならば、例え事情を話しても他の人間に話す事はしないだろうという、相手を信頼しているからこその言葉である。すると藍もミカの信頼に応えるように、彼の目をまっすぐ見つめて頷く。
「はい。というよりも、僕からもお願いします。僕もたきなさんの事情を聞いて、きちんと理解したいです」
その言葉にミカは小さく笑みを浮かべると、ありがとうと言ってから話し始めた。
「たきなは元々、ここに来る前は本店にいたんだ。あまり知られてはいないんだがここはあくまで支店でね、本店は別にある。彼女はそこで働いていたんだよ」
もちろんDAの事情について明かす事はできないので所々誤魔化しながらの話になるが、話の本質を誤魔化すような事はしない。それでは伝えたい事は何も伝わらないし、何より目の前の少年に失礼だからだ。
「本店……ですか。僕はアルバイトをした事が無いのでよく分からないんですが、やはりすごいんですか?」
「そうだな。支店で働く人間にとっては、本店は憧れであり目標と言っても過言ではない。実はたきなは最初から本店にいたわけではなく、最初は京都の支店にいてね。そこから本店に転属したんだ」
「京都……ああ。関西の方の都市ですね。へぇ、そんなに遠い所から本店に転属するなんて、すごいですね。やっぱり優秀なんですね、たきなさんは」
「優秀というだけではなく、やはり努力したという事もあるだろうね。そして彼女は本店に転属し、そこで一生懸命働いていたんだ。……だが、少し前にアクシデントが起こってしまった」
ミカの顔が曇ると共に、アクシデント? と藍が首を傾げる。ああとミカは頷き、
「一緒に働いていたアルバイトの子がお客様とのトラブルに巻き込まれてしまってね。その際に、たきなは少々強引な手でトラブルを解決したんだ。おかげでどうにかその子を助ける事が出来たんだが、そのやり方が上司達の間で問題視された。おまけにトラブルを解決した直後に職場のリーダーとも一悶着あって、結果としてたきなはその責任を取って本店からここに転属する事になったんだ」
話を聞いた藍はぱちくり、と一度瞬きをし、
「……なんだか、ずいぶんと乱暴と言うか……一方的すぎません? お客さんの方にも問題があったという可能性はないのでしょうか?」
「もちろんそうなんだが、今言ったようにやり方が少々強引すぎたという事もある。もちろんたきなは仲間を何とも思っていない子ではないんだが、目的達成のためならば少々合理的すぎる手段に出る事があってね。仲間を助けた事は間違いではないと私も思うが、それでトラブルが解決したのは結果論に過ぎないというのは否定できないし、逆に仲間にも被害が及ぶ可能性はゼロじゃなかった」
まぁつまり、とミカは前置きして、
「誰が悪い、というわけではない。ただ、たきなにとっては最善だと考えていた行動の結果が悪い形で返ってきてしまったという事だ」
とは言っても、それが全てたきなの責任かと言われると疑問が残る。たきなが銃商人達を射殺したあの日、何故か本部とたきなを含めた現場のリコリス達の間で通信障害が起こり、そのせいでリコリス達が一時的に身動きできなくなった事も原因の一つだろう。そして原因の詳しい情報についてはミカですら聞かされておらず、通信障害が起こった理由については謎のままだった.
ミカはたきながこちらに転属してきた後楠木にそれとなく探りを入れたものの、その疑問はすげなくかわされてしまっている。しかし作戦の日の状況の楠木の態度からして、恐らくあの日ラジアータに何らかの問題が起こったせいで通信障害が起こり、それを隠す事も兼ねてたきながこちらに転属させられたのではないかとミカは睨んでいた。たきなが待機命令を無視して行動した事は事実だし、楠木は銃の出どころを知るために銃商人を生かして捕まえるようとしていた。犯罪者を犯罪を起こす前に消すDAと言えど、これから発生する悪事の情報を得るために犯罪者を生かしたまま捕らえる事はざらにある(その後当然の如く殺すのだが)。
しかしたきなの行動の結果銃商人達が死んだ事で、千丁もの銃の行方が分からなくなった。それをたきなの命令違反に付け加えれば、彼女を転属させる理由としては十分である。とは言っても、危うい手段だったとはいえ仲間を助けようとしたたきなを転属させるのは少々やりすぎではないかと思わなくもないのだが。
一方、話を聞いていた藍はようやく納得した様子で、
「そうですか……。じゃあ、たきなさんが時々焦ったような表情を浮かべていたのは、早くここで何らかの成果を挙げて本店に戻りたいと思っていたからでしょうか」
「きっとな。彼女にとって、本店は目標であり居場所だったはずだ。それがそのトラブルのせいで奪われた。だからこそ彼女も、一刻も早く戻りたいと思っているんだろう。自分の居場所であったはずの場所に。……実は今日千束とたきなが店にいないのは、その本店に向かっているからなんだ。正確に言うと向かうのは千束だけのはずだったんだが、昨日たきなが彼女に頼んで一緒に行く事になった。理由は間違いなく、自分を本店に戻して欲しいと上司に掛け合うためだ」
だがそれは無理だろうとミカは内心で思っていた。あの楠木が、簡単にたきなの復帰を認めるはずがない。仮にたきなが新情報の元となった写真を入手した事を楠木に報告したとしても、彼女は意に介さないだろう。悪人というわけではないが任務に対しては冷徹な判断も辞さない楠木という人間の性格を、ミカはよく知っている。
「可能性は低いが、たきなにしてみたら藁にもすがる思いだったんだろう。そんな彼女の精神状態が、昨夜の時点で緊張と不安で押しつぶされそうだったのは容易に想像できる」
「………知らなかったです。たきなさんの事情も、昨日彼女が何を想っていたのかも、何も」
暗い表情で藍が呟くとミカは苦笑しながら、
「それはそうさ。君も私も神様じゃない。たきなが何を考えているのか分からないなんて当たり前だし、むしろ人の気持ちを分かり切ったように振舞う事の方が傲慢だと私は思うけどね」
「………」
「しかし、それでも君がたきなの事を心配していた事は間違いじゃないと私は思う。分からないからこそその人の事を心配し、理解しようとし、そして助けようとする。それは人として当然の事であり、正しい事だ。だから君が気に病む事は無いんだよ」
そう言うとミカは藍の前にコーヒーといつもの粒あん団子とは違う、別の和菓子を出してきた。いつも自分が頼んでいる粒あん団子とは違う和菓子を前にして、藍が思わず目を丸くする。
「これは……おはぎですか?」
藍の前に出された皿の上には、四つのおはぎが乗っていた。黒、ピンク、緑、黒という色合いのおはぎ。いつも粒あん団子を頼んでいる藍が始めて見る美しい色彩だった。
「左からこしあん、桜、抹茶、粒あんだ。ちなみに最初はこしあんか粒あんだが……君なら粒あんが良いだろう。食べてみてくれ」
しかし藍は戸惑った表情を見せて、おはぎに手を付けようとしない。それもそのはず、彼はおはぎを注文していないのだ。
「いえ、食べられません。注文してないですし……」
「それは心配しなくて大丈夫だ。これは私からのサービスだから、お代はいらないよ」
「え? どうして……」
素直に疑問を口にするとミカは昨夜、自分を本部に一緒に連れて行って欲しいと千束に頭を下げていたたきなの姿を思い出す。それは今まで当たり前にあったはずの居場所を奪われ、それを懸命に取り戻そうともがく少女の必死の姿だった。
「これは私の勝手な願望だが……たきなには、このリコリコという店を彼女の新しい居場所だと思ってもらいたいんだ」
「新しい、居場所?」
「ああ。彼女はつい最近までいた場所を奪われ、失った。だが何事もそこで終わりというわけではない。失う事で得られるものもある。新しい職場や訪れるお客さん達、そして……個性的な店員や友達とかね」
「なるほど………」
藍の脳裏に今ここにはいない、明るく笑う赤い和服の少女の姿が思い浮かぶ。ミカも同じ事を思ったらしく、小さく笑っている。しかしその笑みには、大切な宝物を眺めるような愛しさがこもっていた。
「何もかも失ってしまったと嘆くよりも、新しい居場所で出会った人達と触れあいながら前に進んでほしい。そう願っているんだ。まぁ、そう願いつつも彼女に上手く伝えられていないのが現実だがね。千束ならもっと上手く簡単に伝えるんだが……」
「千束さんは良くも悪くもまっすぐですからねぇ」
「確かに」
藍の言葉に頷きながらミカが苦笑する。その姿はまるで年頃の娘との接し方について悩む父親のようだ。どうやらいつも彼女達を優しく見守り多くの常連客達から慕われているこの男性にも、うまくいかない事はあるらしい。
「そして君は、たきなはもちろん千束にとってもある意味特別な存在だ。昨夜あんな事があったが、これから先もあの二人と仲良くして欲しいという私の事情もあるし、折角だから君にも新しい出会いをして欲しいと思ったんだ。あの二人が、君という存在に出会ったように」
「それでこのおはぎ、ですか」
藍はようやくミカがこのおはぎを自分に出してきた意図を察した。そこまで言われては拒否するわけにはいかない。遠慮なくいただくとしよう。それが目の前の男性に対する礼儀というものだ。
皿のすぐ横にはフォーク代わりの竹串が添えられているが、それに目を向ける事も無く藍は右端の粒あんのおはぎを掴んだ。四つと量があるためか一般的なおはぎよりも小さく、食べやすそうだ。
そしておはぎを口に運び、あんこと餅をゆっくりと咀嚼する。口の中に広がるおはぎ特有の楽しい触感をしばらく楽しむと、こくんと飲み込む。
「……面白い食感ですね」
「では次に、コーヒーを」
ミカが手で示したコーヒーのカップを手に取ると、ゆっくりと口の中に入れる。気のせいかもしれないが、コーヒーの香りがいつも飲んでいるブレンドと違うような気がする。すると藍がコーヒーを飲むのを確認したミカが尋ねた。
「気づいたかい?」
「………?」
「そのコーヒー、実はブレンドじゃないんだ。マンデリンを浅煎りにして淹れたアメリカンなんだよ」
「アメリカン?」
藍が疑問の声を上げると、ミカはおや? という表情を浮かべ、
「もしかして、アメリカンを飲むのは初めてなのかい?」
「はい。初めて飲みました」
「そうだったのか。アメリカンというのは要するに、苦みが少なくて軽く飲めるコーヒーだ。うちのおはぎは小ぶりだけど数が多いからボリュームがあってね。ブレンドだとちょっと重すぎると思ってアメリカンにしたんだ。中々合うだろう? もちろん今回のお代はいつものブレンドと同じにしておく」
しかし藍にとってはコーヒーとおはぎの相性よりもおはぎの方が気に入ったらしく、粒あん団子を食べ終えると次にこしあん団子に手を伸ばす。そしてそれも平らげるとまた別のおはぎに……とおはぎを食べていく。ある意味コーヒーとおはぎの相性を無視するような行為だが、ミカにとっては彼がリコリコの和菓子を食べてくれる事の方が大事なのか、優し気な笑みで彼が食べている姿を見ている。それはまるで子供が夢中になって食べているのを見守っている親のような姿だった。
そして最後のおはぎも食べ終えると、心なしか満足したような表情を浮かべて唇のあんこをぺろりと舐めとる。
「ごちそうさまでした。おはぎは初めて食べましたが、美味しかったです。これが新しい出会いというものなんですね」
「ああ。失うからこそ新しく出会い、そして新しく出会う事で得られるものもある。……なんて、少し詩人すぎるな」
似合わないと感じたのか、ミカはそう言いながら苦笑する。一方で藍の方はカップを振って中のアメリカンを揺らしながら、小さな声で呟いた。
「………失うからこそ新しく出会い、新しく出会う事で得られるものもある、ですか………」
「………?」
彼の表情に、今度はミカが疑問の表情を浮かべた。今の彼の目は、ここではないどこか遠くを見ているようだった。しばらく中のアメリカンを揺らしていた間だったが、やがてカップを振るのをやめて静かに飲むと静かな口調で言った。
「何となく分かったような気がします。ミカさんの言葉も、たきなさんの気持ちも」
「たきなの?」
「はい。僕も、引っ越した時は似たような事を感じましたから」
そう言いながら藍は再びアメリカンを口にしながら、
「前にいた場所から引っ越してきた時、僕はどうすれば良いのか分かりませんでした。今までずっといた場所を失って、始めて見る場所に来て、これからどうすれば良いのか、そもそも何をすべきなのかすらも分かりませんでした」
藍が自らの事について自分から話すのは珍しい事だった。千束や常連客達から聞かれてそれに答えるという形で話す事が多い彼にとって、こんな風に自分から話すというのはよくある事ではない。彼が東京に引っ越してきたという話や趣味についての話も、千束や常連客達からの質問に答える形で聞いた情報だった。しかしミカは藍の話に口を挟む事無く、じっと黙って彼の話に耳を傾けている。
「でも、この街に来て色々なものや人と出会いました。駅前の本屋さんに行きつけのスーパー、このリコリコ。店長のミカさんやミズキさんにクルミさん、このお店にやってくる伊藤さんや米岡さんに阿部さん、北村さん。……そして、千束さんにたきなさん。ミカさんの話を聞いて、それまでいた場所を失ったのは僕も同じかもしれませんが、同時に新しい居場所や人達と出会っていたんだと思いました。そう考えると、確かに失うのは悪い事ばかりじゃないですね。ここに来て、お客さん達やミズキさんにクルミさん、ミカさんと千束さん、そしてたきなさんに会えて良かったと思います」
表情は相変わらず感情の起伏が少ないが、それは間違いなく天竺藍という少年の本心だった。いつもは冷静な態度が目立つ少年だが、こういう時に嘘をつくような少年では決してない。ミカは笑みを深くすると、穏やかな声音で藍に言った。
「そうか。その言葉、千束とたきなが帰ってきたらあの二人にも伝えて欲しい。きっと喜ぶ」
「はい、そうします。おはぎとコーヒーとお話をありがとうございます」
「いや。例を言われる事ではないよ。………なぁ、藍くん。さっきおはぎをご馳走した代わりと言ってはなんだが、一つだけ君に頼んでも良いかな」
「何でしょうか。僕にできる事でしたら、何でもします」
「なに、大したことじゃない。ただ、君に千束とたきなの『居場所』になってほしい」
「『居場所』?」
「ああ。何か特別な事をして欲しいというわけではない。何か知って欲しいというわけでもない。ただ、あの二人にとっての帰る場所……何があっても変わらずにそこにいてくれる心の拠り所、そんな『居場所』であってほしい。それだけだ」
「……それだけ、ですか? 特別な事をするわけでもなく、何かを知るわけでもなく、ただこのお店にいる事が? それはいつも行っていますし……そんな些細な事で良いんですか?」
「そんな些細な事だからこそ、だよ。それが私達の、特に千束にとって大きな支えになる」
つまり、今までと変わらずにこのお店に来てコーヒーを飲み、このお店で過ごして欲しいという事だろうか。何故そんな事で千束達の大きな支えになるか分からないが、最初から自分にできる事はなんでもするつもりだった藍は迷わずに頷く。
「分かりました。大したお力にはなれないと思いますが、その通りにしようと思います」
「ああ、ありがとう。それと、力になれないなんて事は無いさ。君は十分、千束にとっての大きな力になってくれているよ」
「……? それは、どういう意味ですか?」
しかしミカは黙って笑ったまま、それに答える事は無かった。藍もしばらくミカを不思議そうに見つめていたものの、やがてまぁいいかと言うようにコーヒーに再び口をつける。するとそれまで座敷席の方でクルミと一緒に二人が話すのを眺めていたミズキが口を開いた。
「藍くん、ようやく元気になったみたいね。これで今日お客が誰も来ないなんて事は回避できたし、やっぱあのおっさん頼りになるわ~!」
「ああ、さすがミカだ。ボクの横にいるどこぞの大酒飲みとは大違いだ」
「おいちょっとこっち来いやリス」
それを聞いたクルミは素早く立ち上がるとスッスッスッ、とまるで競歩のように非常に整ったフォームの早歩きで店の奥へと逃げようとし、ミズキの方も非常に綺麗なフォームで早歩きをしながら彼女の後を追いかける。藍はそんな二人の姿を怪訝な表情で眺めながらも、窓ガラス越しに外の天気を見てあっと小さく声を上げる。
ついさっきまで降っていたはずの雨が上がり、雲の隙間から青い空が覗いていた。それを見ながら、藍は今日もリコリコでボードゲーム大会があるのを思い出し、今日も腕によりをかけて玉子焼きを作ろうと思うのだった。
こうして振り返ってみるとほとんど藍くんとミカさんのお話でしたね。ミカさんだけでなく、ミズキさんやクルミとも話している場面を今後できれば書いていきたいです。