朝から降り続いていた雨が上がり、赤い夕暮れの光が千束とたきなを乗せた電車を照らしていた。
二人は行きの時は向かい合う形で座席に座っていたが、今はたきなが千束の座席の隣に座っている。たきなは千束に顔を背ける形で窓の外を眺めていた。
DA本部での模擬戦の結果は、結論から言うと千束とたきなの勝利だった。千束が一人でフキとサクラの二人を相手取り、フキ達も千束を相手に応戦したものの相手の銃弾をかわす千束相手では分が悪く、最初にサクラが撃たれ、さらにそこに千束に合流したたきながフキを背後から強襲すると共に彼女の頬に拳による一撃を食らわせ、最後は千束を挟む形でたきなとフキが向かい合ったが、千束がたきなのペイント弾をかわし、結果ペイント弾は見事にフキに命中し二人の勝利となった。
その時の事を思い出していた千束は、ふとある事が気になり横にいる相棒に尋ねる。
「たきな……さぁ」
「なんです?」
「私を狙って撃っただろ」
それはきっと最後の千束を挟み込む形でたきなとフキが向かい合った時の事を言っているのだろう。確かにあの時はたきなはためらう事無くペイント弾を撃ったが、それにはもちろん理由がある。
「きっと避けると思いましたから」
「おぉ」
「非常識な人ですよ、……千束は」
すると千束は―――たきなの自分に対する呼び方が『千束さん』から『千束』に変わっている事に気づいているのか気づいていないのか―――にやりと笑いながら、
「でも、スカッとしたな」
「―――ええ」
応えるたきなの顔には、どこかやってやったぜと言うような笑みが浮かんでいた。
「でも本当は、二回殴ろうかと思ってたんです」
「え゛」
相棒の好戦的な言葉に、千束の顔が思わず引きつる。しかしたきなは気にせず再び窓の外を見ながら、
「一発は前に殴られた分で、もう一発は天竺さんのお弁当を台無しにされた分です」
「ああー、なるほどね」
「でも、やめました。天竺さんのお弁当を台無しにしたのはフキさんじゃないですし、それに……」
たきなの脳裏にDAの本部を出発する際の記憶が蘇る。
『お前……模擬戦なんだぞ。後ろから撃てば良かったんだ。それを突っ込んできて殴るなんて、馬鹿げてる!』
帰ろうとする自分を呼び止めるようにフキが言い、そんな彼女に自分がこれでおあいこだと言ってフキに殴られた頬に貼っていたものと同じ絆創膏を渡すと、彼女はたきなを指差しながら、
『やっぱお前使い物にならねぇリコリスだよ! 命令違反に独断行動! 二度と戻ってくんじゃねぇ!』
そう言うとフキは背中を向けてそのまま去って行く……とたきなは思ったのだが、彼女は途中で一度止まると何故か振り返り、つかつかと仏頂面のままたきなに近寄ってくる。そしてずい、とあるものを差し出してきた。たきなが視線を落とすと、それは今日射撃の訓練室で床に落ちた藍の弁当箱だった。たきなが受け取ると、フキが変わらずぶっきらぼうながらも伝えてくる。
『サクラからの伝言だ。「弁当あんな事にして悪かったっす」、だってよ』
最後のフキの言葉を思い出しながら、たきなは口元に小さく笑みを浮かべた。
「キチンと謝ってもらいましたから。一発だけで良かったと思います」
「な~るほどね」
ちなみに後でたきなが弁当箱の中身を確認したところ、中身はやはり空だったものの綺麗に洗われた状態になっていた。そのためこう言っては何だが、意外と律儀な少女だとたきなは自分の中で彼女に対する評価を少し上昇させたのだった。
納得したように千束が笑った直後、ピコンと彼女のスマホに着信音が鳴り、千束がスマホの画面を確認するとたきなに見せてくる。
「おー、見てみ」
スマホの画面にはメッセージアプリが表示されており、そこにはこちらを見ながらボードゲーム大会をしているミカとクルミ、そして伊藤と阿部の姿が写った写真、さらに写真の下には『ボドゲ大会、延長戦中! 間に合いそうなら連絡PLZZZ! 藍くんの玉子焼きもあるぞ!』というメッセージが送られてきていた。
「どうする? 藍くんの玉子焼きもあるってよ?」
それに対する答えなど言う必要も無いだろう。たきなが笑うと、千束も二ッと笑ってスマホを撮影モードにして自分達に向ける。たきなの首の後ろに右腕を回してピースを作ると、千束の意図を察したたきなも控えめに微笑みながら左手でためらいがちにピースサインを作る。そしてシャッターボタンを押すとカシャ、という小気味いい音と共に二人を写した写真が撮影され、写真の出来栄えを確認した千束はメッセージアプリに『二人で行くぜ』というメッセージと共に今撮影した写真を送信した。
「じゃあボドゲ大会に備えて、腹ごしらえと行きますかぁ!」
そう言って千束が掲げたのは、ハンカチに包まれた千束の分の弁当箱だった。急に訓練場で模擬戦を行う事になったため今まで食べる暇が無かったのだ。それを見たたきなはちょっと呆れたように、
「今食べるんですか? 夕食入らなくなりますよ」
「良いじゃんべつに~。二人で分ければお腹いっぱいにはならないよ。さっ、食べよ食べよ! 藍くんがせっかく作ってくれたんだからさ」
そして弁当箱のハンカチをほどくと、中から三角形を伸ばしたような形の弁当箱が現れた。蓋を開くと案の定と言うべきか中には海苔に包まれたおにぎりが二つ入っていた。横にはミニトマトが二つ添えられている。
「たきな、おむすびどっち食べる?」
「どっちでも良いです。……それより、『おむすび』じゃなくて『おにぎり』では?」
「へ、『おむすび』じゃないの?」
「「?」」
互いの握り飯に対する呼び方の違いに、二人は首を傾げる。
余談だが、握り飯の呼び方は関東が『おむすび』で関西が『おにぎり』と呼ばれる事が多い。たきなが『おにぎり』と呼んだのは、彼女がかつて京都の支部にいたからだろう。
「ま、どっちでも良いか! はい、たきなの!」
千束は二つのおにぎりのうち一つをたきなに手渡し、自分はもう一つを取り出す。嬉しそうにおにぎりを取り出す千束にたきなが尋ねた。
「一つ聞いて良いですか?」
「え、何?」
「千束はどうして天竺さんの事が好きなんですか?」
「ぶっ!?」
すると千束が急に唇から勢いよく空気を吹き出しながら前の座席に倒れ込みそうになり、どうにかその場に踏みとどまる。そして体を起こすと、彼女の顔は弁当箱に入っていたミニトマトのように見事に真っ赤になっていた。
「急に何聞いてんの!? え、てか、気づいてたの!?」
「さすがに気付きますよ。あの人に対してだけは、他のお客さんと態度が違いますし」
「そ、そっかー。隠してたつもりなんだけどなー」
あはは……と照れたように千束が頭を掻く。前にミズキが千束は芝居が下手と言っていたが、これを見ると隠し事に向いていないというのが正解かもしれない。
「それで、もう一度聞きますがどうして千束は天竺さんが好きなんですか?」
「ぐ、ぐいぐい来るな貴様……。そんなに気になるの?」
「気になると言うか、以前から聞いてみたかったので。ちょうど良い機会なので、聞いておこうと思いまして」
「う、ううん………」
顔を隠しながら千束は恥ずかしそうに唸っていたが、やがて観念したのかポツリポツリと話し始めた。
「まぁ、正直藍くんが最初にお店に来た時から綺麗な人だなーとは思ってたよ? でも最初の頃は気になると言えば気になるけどまだそれぐらいで、とびきり特別ってわけでもなかったんだ」
俯いて手の中のおにぎりに視線を落とし、当時の事を思い出しながら話す。
「ちょっと意識しだしたのは、藍くんがボドゲ大会で初めて玉子焼きを作ってくれた時だったな。あの時伊藤さん達が小腹が空いたーって言ったら、たまたまいた藍くんがじゃあ何か作りましょうかって言ったんだよね。あの時はまだみんな彼が料理ができるなんて知らなかったからちょっと驚いたんだけど、藍くんは先生から許可をもらって厨房で玉子焼きを作ってみんなに出したんだ」
そしたらさ、と千束は一度言葉を切ると楽しそうに笑い、
「その玉子焼きがさ、ほんっとうにめちゃうまだったんだよ! ミズキも私も夢中になって食べちゃったし、先生なんてどうやって作ったんだって藍くんに聞いてるし。そうこうしている内に玉子焼きはあっという間に無くなっちゃって。あの時はまだ藍くんも多めに作るなんて事してなかったし。あの時は落ち込んだけど、あの時初めて藍くんの事がちょっと気になり始めたんだよね。こんなに美味しい玉子焼きを作る事ができるなんて、この子一体何者なんだろうって」
どうやら藍の得意料理である玉子焼きこそが、千束と藍の距離が縮まるきっかけだったらしい。さらに千束は頬を赤らめながら話を続ける。
「で、それからもボドゲ大会のたびに藍くんが料理を作ってくれるようになったんだよね。玉子焼きだけじゃなくて、赤いウィンナーにサンドウィッチとか、たまにミズキのおつまみとかも。で、驚くべき事に全部美味しいんだなぁこれが! まぁ一番美味しいのはやっぱり玉子焼きなんだけどね」
「天竺さん、本当に料理上手なんですね」
ウィンナーにサンドウィッチ、さらにミズキの酒のつまみすらも作れるとなると彼の料理のレパートリーは相当多いのかもしれない。千束はうんうんとまるで自分が褒められたように嬉しそうに頷きながら、
「それであまりにも美味しいから、一度藍くんに尋ねたのよ。どうしたらこんなに美味しく作れるの? って。でもそれで返ってくる言葉はいつも決まってるの。はいたきなさん! 藍くんはなんと言ったでしょうか!?」
「『調味料の量と作る手順を間違えなければ、誰でも美味しく作れます』」
「うぐ……。や、やりおるなお主……」
「彼、いつも言っているじゃないですか」
藍の料理の美味しさに感動する千束や伊藤の質問に彼はいつも決まってそう返す。半ば藍の口癖のようになってきているので、たきなもその言葉を覚えていた。
「まぁ、そうなんだけどさ。でも私も同じのを作ってみたりするんだけど、やっぱり藍くんが作った方が美味しいんだよね。そりゃあ先生の料理と比べると経験値が違うからほとんどの料理は先生の方が美味しいんだけど、それでもやっぱり玉子焼きは藍くんの方が上って言うか……。それでどうしても気になるから、藍くんが料理しているのを見たり、どうやって作ってるのか聞いたんだよ」
「あの人が料理するたびにですか? 鬱陶しがられませんでした?」
「藍くんは優しいからそんな事しませんー。……あー、でもちょっと困ったような顔はしてたような……」
その時の事を思い出しているのか、千束の顔がちょっと引きつっている。話を聞くだけならまだしも、火や包丁を使っている最中に話しかけるのはさすがに危ないので彼もそのような表情を浮かべるのは当然だろうとたきなは思った。むしろ迷惑がるのは藍だからで、自分だったら台所から千束を叩き出しているのでかなり優しい方である。
「でもやっぱり作り方は私と同じだから、何回も聞いたんだよね。どうやって作ってるのーって。そのたびに返ってくる言葉は一緒だったんだけど……でも本当にしつこいぐらいに聞いてたら、ようやく教えてくれたんだ」
「藍さんの料理の秘訣ですか?」
「うーん。秘訣と言うか、藍くんが料理のたびにする事だけど。料理自体に何かしてるわけじゃないから、教えるほどの事じゃないって言ってたけどね。でもそれで、どうして藍くんの料理が美味しいか、分かったんだ」
「……何をしてたんですか?」
たきなが問うと、千束の表情が変わった。
頬をうっすらと赤らめて口元に優しい笑みを浮かべた、見ているこちらが見とれてしまいそうな、とても温かな微笑を。
「料理をしながら、心の中で唱えるんだって。『美味しくなれ、美味しくなれ』って。自分の料理を食べてくれる人のために、何回も何回も」
するとそれにたきなは目をちょっと見開いて、
「……それだけですか? 何と言うか……子供っぽいですね」
「あはは、そうだね。正直私も驚いたけど……でも、それで分かったんだよね。どうして藍くんの料理があんなに美味しいのか」
そう言いながら、千束は手の中のおにぎりを見つめる。
少年が千束とたきなのために、美味しくなれと祈りながら作ってくれた、手のひらサイズの料理を。
「自分の料理を食べてくれる人が喜んでくれるように、元気のない人でも料理を食べて笑顔になってくれるように。料理を作るたびにいつも手を抜かないで、そう願いながら丁寧に料理を作ってきたから藍くんの料理は美味しいだって」
「……………」
彼女の言葉を聞きながら、たきなも手の中のおにぎりに視線を落とす。
本当に少し前の自分ならば、馬鹿馬鹿しいと一蹴しただろう。美味しくなれと願うだけで料理が本当に美味しくなれば誰も苦労しないし、そもそも人の感情が料理にそこまで影響を及ぼすはずがない。料理において大事なのは調理の方法や調味料で、藍のそれは無駄な行為だとばっさり切り捨てたに違いない。
だが、千束の言葉を聞いた今は、不思議と否定する気にはなれなかった。
「で、料理する藍くんを見て思ったんだよ。ああ、この人は誰かが喜んでくれたり幸せになる事を心から願う事ができる人なんだなーって。それから藍くんがお店に来るたびに目で追うようになって、たくさん話しかけるようになって………」
「で、気が付いたら天竺さんの事が好きになっていたと」
「うぐ……。…………………うん」
湯気が出るんじゃないかと思うほど顔を真っ赤にしながらも、千束はこくりと頷いた。非常に可愛らしい様子を見せる彼女をたきなは笑みを浮かべながら見つめ、
「なるほど。つまり千束は、天竺さんに胃袋を掴まれたというわけですね?」
「い、いや、そりゃそうだけど! 言っとくけど、それだけじゃないからね!?」
分かってますよ、とたきなは心の中で呟く。確かに藍の料理に胃袋を掴まれたのは確かかもしれないが、それだけで彼を好きになったわけではないだろう。自分の料理を食べて誰かが喜んでくれたり幸せになってくれる事を心から願う事ができる藍の優しい心に、千束は惹かれたのだ。つまり千束は、天竺藍という少年に胃だけじゃなく心もすっかり掴まれてしまったというわけだ。
「って、てかそんな事より早く食べようよ! あーお腹空いた!」
誤魔化すように叫ぶように言った後、千束はにひひと嬉しそうに笑い、
「そう言えばたきな、藍くんの料理食べるの初めてだったよね? 藍くんの料理すごいよー? あったかくて、美味しいからね」
そう言って彼女は自分の分のおにぎりにかぶりついて幸せそうな笑みを浮かべた。それを見たたきなも手の中のおにぎりを見つめると、口を小さく開けておにぎりにゆっくりと口をつける。
その途端に口の中に広がる海苔と白米の味と、塩のかすかなしょっぱさ。中に入っている具は昆布で、それが白米とまた良く合う。昆布という具が入っているとはいえ、おにぎりというのは極端な事を言えば海苔と塩化ナトリウムと糖質の固まりだ。それがとても美味しいと感じたのは決して勘違いなどではないだろう。そして、作られてから大分時間が経っているのに、おにぎりがほのかに温かいと感じたのも。すると、たきながおにぎりを食べているのを見た千束がワクワクした表情で彼女の顔を見つめてくる。
「どうどう?」
そんな千束に、たきなは小さく微笑み返した。
「……はい。温かくて、美味しいです」
「だよねー!」
と千束は嬉しそうに再びおにぎりを食べる。ちなみに彼女のおにぎりの中身はおかかだった。それを見たたきなも彼女の横で、彼女と同じようにおにぎりに口をつける。
二人を乗せた電車は、彼女達が帰るべき居場所へ向かってゆっくりと走り続けるのだった。
夜、リコリコへと戻ってきたたきなは店内でボードゲーム大会に参加していた伊藤などの常連客達とミカやクルミ、ミズキに帰宅の挨拶をすると店の奥で鞄を置き更衣室で和服に着替える。ちなみに千束は帰ってきて早々たきなよりも早く店の奥まで走って荷物を急いで置き、素早く和服に着替えるとたきなに「待ってるからねー!」と言ってすぐさまボードゲーム大会に参加した。相変わらずせわしないが、今日はそんな彼女に救われたたきなは彼女の行動にむしろ微笑ましさすら覚え、自分も彼女と一緒にボードゲーム大会に参加するために更衣室を出てフロアへ移動しようとする。
そんな時、彼女の前にある人物が姿を見せた。
「たきなさん、お帰りなさい」
「―――天竺さん」
たきなの前に姿を現したのは昨日彼女とちょっとした一悶着を起こしてしまった少年、藍だった。藍がたきなの顔を見て何か言おうとするが、その前にたきながずいっと藍との距離を少し詰めて口を開く。
「天竺さん」
「な、何ですか?」
自分の顔をまっすぐ見つめてくるたきなに藍が彼にしては珍しく戸惑った声を出すと、たきなが背中をまっすぐ伸ばしてすっと頭を下げた。
「昨日はあんな事をしてしまって、ごめんなさい」
「え………」
「いくら苛立っていたとはいえ、あんな事をすべきではありませんでした。……謝って済まされるとは思いませんが、それでも言わせてください。本当に、ごめんなさい」
そう言ってたきなはそのまま頭を下げ続ける。今日サクラに弁当を台無しにされてしまったからこそ、そして今日帰りの電車の中で千束から聞かされた彼の料理への想い、それと彼が作った料理の美味しさと温かさを知ったからこそ、わざとではないとは言え昨日自分が彼に対してどれほどひどい事をしてしまったかを思い知った。こうして頭を下げて許されるとは思っていないが、それでもきちんと頭を下げて謝らなければ自分の気が済まない。それが今のたきなの本心だった。
しばらくたきながそうしていると、やがて静かな声がたきなの耳に届いた。
「―――たきなさん、頭を上げてください」
そう言われてたきなが恐る恐る頭を上げると、彼はいつもと同じ冷静そうな表情でたきなの顔を見つめていた。一瞬怒っているのではないかとたきなの心臓がどきりと跳ねるが、彼女の気持ちとは反対に藍の声は優しかった。
「昨日の事、僕は気にしていません。たきなさんにも事情があったのはもう分かっています。だから、あなたが謝る事は無いんです。ですから気にしないでください」
「そう言われても、気にします。私が昨日天竺さんの料理を台無しにしてしまったのは事実ですし、実は今日も……私がしたわけじゃないんですが、天竺さんが作ってくれたお弁当を一つ無駄にしてしまいました。だからせめてこうして謝る事しか、私にはできません」
「でも、わざとじゃないんですよね? 今のたきなさんの様子を見れば、わざとそうしたわけじゃない事は分かります。だからそれ以上謝る必要はないですよ」
藍の弁当を無駄にしてしまった事に罪悪感を抱き続けるたきなに対して藍の方は優しい声のままだった。それはまるで、たきなは何も悪い事などしていないと暗に言っているかのようだった。
「それよりたきなさんのお弁当が無駄になってしまったという事でしたけど、お腹は空いてませんか?」
「……はい。千束のおにぎりを分けてもらったので」
それを聞いた藍は安堵の息をつき、
「そうでしたか。なら良かったです。おにぎりの味はどうでしたか? 具は昆布とおかかにしてあったんですけど、苦手じゃなかったですか?」
そう尋ねる藍の表情はいつもとあまり変わらないように見えたが、その声音は言葉通りおにぎりの味はちゃんとたきなの味に合ったか、入れた具は苦手では無かったかと純粋に心配しているようだった。それを聞いて、たきなは今日電車の中で食べたおにぎりの味と温かさを思い出す。
「はい、とても美味しかったです。……天竺さん」
「なんですか?」
「その、今回のお弁当とても美味しかったので……、また今度、作ってもらっても良いですか?」
するとその言葉を聞いて藍はきょとんとした表情を浮かべるが、それはたきなも同じだった。思わず目を見開くて俯いて、右手で自分の口を軽く覆う。自分の口からそのような言葉が出るなど、たきな自身信じられなかった。彼のおにぎりがとても美味しかったからまた食べたいと心のどこかで思っていたのか、弁当を台無しにしてしまった罪悪感から出たのか。いずれにせよ、昨日に続いて今日も彼の料理を無駄にしてしまった人間が言って良い言葉ではない。たきなが彼に謝ろうと顔を上げたその時、彼女の目に意外なものが映り込んだ。
いつも冷静な表情を浮かべている藍が、笑っていたのだ。
少女にも見える顔立ちの藍が浮かべるその笑みは、まるで花が咲くような柔らくて暖かいふんわりとしたものだった。彼の笑みに思わず見とれていると、藍は笑顔のままたきなの顔を見つめながら、
「はい。言ってくれればまた作ります。何か作って欲しい料理があったら言ってください。……それと、料理がたきなさんのお口に合って良かったです」
そんな、昨日と今日料理を台無しにされた事などどうでも良いというように、そんな事よりもたきなが自分の料理を美味しいと食べてくれた事の方が大切だと言うような藍の笑顔を見て。
トクン、と。
たきなの心臓が、不思議な高鳴りを奏でた。
「―――」
今までに感じた事のない高鳴りにたきなは思わず自分の右手を胸に当てるが、もう感じられない。ただ分かるのはあの高鳴りが不快なものでない事、それと……何故か自分の頬が熱いという事だった。
「たきなさん、どうしましたか? どこか具合が悪いんですか?」
突然自分の胸に手を当てたたきなを心配したのか、先ほどまで浮かべていた笑みを消して藍が尋ねる。その事を少し残念に思いながらも、たきなは胸から右手を外して懸命にいつもの冷静な態度を保つ。
「いえ、なんでもありません。それより、千束とお客さん達が待っているので早く行きましょう。……藍さんは、今回も参加しないんですか?」
『天竺さん』から『藍さん』に呼び方を変えた事に対してか、それとも急にいつもの冷静な態度を取り戻した事に対してか、藍は不思議そうな表情でたきなの顔を見てからふるふると首を横に振る。
「いいえ、今日も僕は参加しません。でも」
「なんですか?」
「玉子焼きはちゃんとあります。早く行かないと、クルミさんに全部食べられてしまうかもしれませんが」
あの大人びた少女はよほど藍の玉子焼きが気に入ったのか、誰かが目を離すとあっという間に藍の玉子焼きを食べてしまう。それが原因で、最近は玉子焼きが出来た時は千束とクルミが彼女に目を光らせるようになっていた。
「……なるほど、それなら早く行かないといけませんね」
そう言ってたきなが口元に笑みを浮かべたその時。
「たきなー! 早くやろうよー! 藍くんの玉子焼きもあるよー!」
「そうよー。早くしないと千束とクルミに全部食べられるわよー。てか千束、あんたお腹空いてるからって手づかみで玉子焼きを数個鷲掴みして一気食いするのは反則でしょ」
「誰もそんな山賊みたいな事しとらんわ! あ、藍くん今のはミズキの嘘だからね!? 本当にそんな事してないからね!?」
千束の焦った言葉の直後に常連客達の笑い声がこちらまで届いて来る。さすがに今のがミズキの嘘だというのは二人にも分かる。たきなは思わず藍と顔を見合わせると、表情を変えない彼とは反対に思わずくすりと笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
「そうですね」
そして二人はフロアに出て、たきなはボードゲーム大会に、藍は彼女達が藍の玉子焼きを食べながら大会で盛り上がるのを横で眺める。
たきなが食べた藍の玉子焼きは、千束が言った通り驚くほど美味しかった。
楽しかった時間は矢のように過ぎ去り、ボードゲーム大会が終了すると常連客達か口々に千束達と名残惜しそうに別れの挨拶を交わして帰路につく。ただ藍は今日玉子焼きを作る際に道具や皿を貸してもらっており、そのお礼も兼ねて洗い物の手伝いをしていたため帰るのが少し遅くなっていた。それもついさっき終わり帰り支度をしていたところである。
座敷席に座って千束達から返してもらった空の弁当箱や勉強道具などが入ったリュックを背負うと、その場に立ち上がって店内にいた千束とミカに声をかける。
「すいません、今日はこれで失礼します」
「ああ、気を付けて。片付けを手伝ってくれてありがとう」
「今日はお弁当作ってくれてありがと! また今度作ってねー!」
「こら、千束」
「良いですよ、ミカさん。千束さん、何かリクエストがあれば作りますので遠慮せずに言ってくださいね」
やったー! と千束が本当に嬉しそうに両手の拳を握り、ミカがやれやれと苦笑する。そんな二人にぺこりと頭を下げて店を出ると、たきなが箒と塵取りを持って店の外を軽く掃除していた。
「じゃあたきなさん、また明日」
「……ええ、また明日」
顔を上げて彼にそっと微笑んでから、再会の約束を交わす。何故かその事に胸が少しくすぐったくなるのを感じるたきなの前で、藍は背中を向けて住んでいるマンションへの道を歩き出す。
しかし、何故かその歩みが途中で止まったかと思うとくるりと振り返り、そのままこちらに戻ってくる。店に何か忘れものでもしたのだろうかとたきなが思った直後、藍が彼女から少し離れた場所で立ち止まった。彼のその姿に今日DA本部を出発する際にたきなに声をかけてきたフキの姿が重なるが、彼はフキとは違い静かな声音でたきなに言った。
「もう大丈夫だと思いますけど、昨日の事は本当に気にしなくて大丈夫です。今日言った通り、もう僕は気にしてませんし」
それに、と藍は一度言葉を切ってから、
「――――昨日のような事は、あれが初めてではないので」
「―――え?」
藍が言った言葉の意味を一瞬理解できず、たきなは呆けた声を出す。しかし藍の方はそれで用が済んだらしく、「また明日、たきなさん」と言い残すと踵を返して今度こそ本当に歩き去っていた。しかしたきなの方は今の藍の言葉が気になり、藍の歩き去って行った方向を見ながらその場に立ち尽くしていた。
「たきなー? どうしたのー?」
「……っ。何でもありません」
店の扉から千束がひょっこりと首を出してたきなに声をかけると、たきなもその声で我を取り戻し千束に返事をする。そして掃除道具を持って店内へと戻りながら、先ほどの藍の言葉を考える。
きっとあれは、過去に誤って料理の乗った皿を床にぶちまけてしまったという事だろう。彼だって人の子なのだから、そういったミスは何回かあったに違いない。むしろ、そういうミスを何回も経験して反省し改善してきたからこそ、彼の料理はとても美味しいのだと理屈をつけて彼の言葉の意味に疑問を抱いていた自分を納得させる。
別れ際の、どこか寂しそうな彼の表情と声音に胸がチクリと痛むのを感じながら。
たきなと別れた後、藍は一人夜道を歩きながら昨日の事を思い出す。
床に落ちて粉々になった皿と散乱する玉子焼き。その映像をきっかけにして藍の脳裏に蘇ったのは、自分自身の幼い頃の記憶だ。
床に落ちている弁当箱に、ぶちまけられているのは中に入っていた料理と白米。箸や蓋は無惨に床に散らばり、その前に幼い頃の自分が床に両手をついて、自分が作った弁当の成れの果てを呆然と眺めている。
そして、もう一人。
両手をつく自分の目の前に立ち、自分と二人の間に散らばった弁当箱を冷たい目で見下ろしている人物。その人物こそが、幼い藍の弁当箱を床にぶちまけて台無しにした張本人だった。今でも藍は、あの氷のように冷えた目を覚えている。
「………あ、そうだ」
藍はある事を思い出し、ポケットから黒色の折り畳み式の携帯電話を取り出すとパカッと開く。スマートフォンも便利で良いなとは思うが、藍はこの面白い構造をしている折り畳み式の携帯電話が割と気に入っていた。千束や伊藤などからはガラケーと驚かれていたが、当の本人はこの携帯電話から他の物に取り換える気は今の所無い。
メール画面を開くと、宛先の名前を電話帳から選びさらに件名を短く入力してから、ポチポチと両手でメールの文面を打っていく。
『ドクターへ。今日、こちらに来てからできた友達にお願いされた事もありお弁当を二人に作りました。二人共、美味しいと言ってくれて嬉しかったです。また、そのうちの一人とはある事が原因で怒らせてしまったのですが、それも解決して仲直りする事が出来ました。またお二人にお弁当を作りたいと思います。前にメールに書いた友達の一人も新しくできた友達も良い人なので、ドクターに紹介したいです。それと近い内に、ドクターにまたお会いに行きます。お会いに行く時に、ドクターの分と「あの人」の分のお弁当を作りますので、お渡しいただけたら幸いです。お体にお気を付けください』
メールを打ち終えると、送信ボタンを押して携帯電話を折り畳み再びスラックスのポケットに入れる。そしてふと立ち止まると夜空を見上げ、まるで幼い子供のような口調で呟く。
「あの人、ご飯ちゃんと食べてるかな。お腹空いてないかな」
当然、彼のその呟きを聞いている人間はその場には誰一人としていない。藍は目の前の夜道に視線を戻すと、明日のために早く帰宅して就寝するために少し歩を早めるのだった。
余談ですが、この小説を書く際はアニメだけではなく漫画版も参考にして書いています。漫画版はアニメにはなかった情報やキャラの心情などが補足されていて助かりますし、読んでいてとても面白いんですよね。漫画版を読むとミカさんがアニメ版以上に中々面白い人ですし、それ以外にも見どころがたくさんあるので興味のある人は一度購入して読んでみる事をおすすめします。