千束やミズキなどの口調をこんなに荒く書いて大丈夫か……? とビクビクしながら書いていますが、リコリス・リコイルの小説を最新巻まで読み、自分の考えがチョコレートフォンデュのように甘い事を実感する今日この頃です。
「え~と、フランボワーズアンドギリシャヨーグレットリコッタダッチベイビーケークと……」
「……千束が何を言っているか、分かりますか?」
「ケーキの名前ですよ」
「いえ、そうなんですが……」
まるで何かの呪文のようですね、と店員にケーキの注文をする千束を見ながらたきなは思う。そして注文を受けた店員が去って行くのを見ながら、
「名前からしてカロリーが高そうですね」
「野暮な事言わない。女子は甘いものに貪欲で良いのだ」
「『本店』の寮の食事も美味しいですけどね」
するとそれを聞いた藍が首を傾げながら二人に尋ねる。
「『本店』とは、リコリコに来る前にたきなさんが勤めていたところですよね? 寮があるんですか?」
「そうそう、実家が遠かったり、何か事情がある子は寮に住むんだよ」
無論それは事情を知らない藍に対する嘘であり、実際は本部に所属するリコリス全員が寮住まいである。幼い頃の千束やリコリコに来る前のたきなも、当然寮に暮らしていた事がある。
「そう言えばあの料理長、元宮内庁の総料理長だったらしいよ」
「それってすごいんですか?」
「え? すごいだろ。でもスイーツ作ってくれないからなぁ……。永久にかりんとうだから」
「私あのかりんとう好きです」
「そりゃアナタ最近来たからだよ。ず~っとあれだけは飽きるよぉ?」
寮のデザートにケーキなどの洒落たものは出ず、何故かかりんとう一択である。最近本部に来たたきなはともかく、千束のように幼少期から本部にいた者にとっては確かに飽きるだろう。
「かりんとうが食べたいなら、材料と分量を教えてくれれば僕作りますよ?」
「え~。藍くんが作ってくれるならパンケーキが良いよぅ。それか和菓子!」
「私はかりんとうが良いです」
「どんだけかりんとうが好きなのじゃ貴様ぁ」
そんなやり取りをしていると、「お待たせいたしましたー」と店員がパンケーキが載った皿を持って三人が座るテーブルにやってきた。自分達の目の前に並べられる、豪華な盛り付けが施されたパンケーキを見て千束が目を輝かせ、たきなが眉をひそめ、藍が驚いたように目を少し見開く。
「ふあー! 美味しそう!」
「これは……糖質の塊ですね……」
「たきな!」
その場の空気に水を差しかねない発言をするたきなに、ゴチンと千束が軽く頭突きをする。
「人間一生で食べられる回数は決まってるんだよ。全ての食事は美味しく楽しく幸せであれ!」
「それは僕も同感ですね。―――生きるという事は、ご飯が美味しいという事ですから」
「そうそう! さすが藍くん、良い事言うねぇ。いただきま~す!」
そう言って千束がパンケーキとナイフとフォークで切り分けていると、たきなが千束の胸部に目をやりながら、
「二人の言う通り、美味しいのは良い事ですが、余分な脂肪はデメリットになります」
「ドコを見てるドコを」
自分の胸部を見ながらそんな事を言うたきなに千束がすかさずツッコミを入れる。きっと彼女の事なので、余計に脂肪を体につけていると仕事の時に支障を来すと言いたいのだろうが、無論それを気にするような千束ではない。
「その分仕事で働く! その価値はこれにはあるよほぉ!」
そう言ってパンケーキを口に運ぶ千束の表情は本当に嬉しそうだった。そして藍もパンケーキを切り分けて口に運ぶと、「おぉ」と感嘆の声が思わず漏れる。
「すごい。こんなにふわふわな食べ物は初めて食べます。どうやって作ってるんでしょうねこれ……」
「藍くんなら同じもの作れる?」
「どうでしょう。作り方が書いてある本などがあればたぶん作れると思いますが……」
聞いて来る千束に柔らかいパンケーキを咀嚼しながら、藍がうーんと唸る。すると三人の耳に、後ろから戸惑ったような声音の外国語が聞こえてきた。三人が振り向くと、そこには二人の男女が困った様子でメニューを眺めている。それを見た千束は立ち上がって男女の元に近づいていったかと思うと、なんと彼らと同じ外国語を流暢に話し始めた。二人と話している千束を見た藍はちょっと驚いたように、
「すごいですね、千束さん。外国の言葉も話せるなんて。もしかして、たきなさんも話せるんですか?」
「えぇ、まぁ。私達の学校はそういう教育に特に力を入れているので」
リコリスはあらゆる任務達成のために、英語はもちろん千束が話しているフランス語やロシア語などの語学も教育として叩き込まれる。なのでもちろん、たきなも千束と同じように外国語を話す事が可能であった。「でも確かに、メニューに写真が無いのはちょっと不便ですね」という藍の呟きを聞きながら、たきなも自分のパンケーキを切り分けて口に運ぶ。そして、その柔らかさと美味しさに思わず呟いた。
「美味しいな……」
ついさっき自分が糖質の塊と断じたパンケーキの味に、たきなの表情が綻ぶ。直後、彼女の頭上を一羽の鳥が翼を広げて飛び、自由に飛ぶ鳥の姿と頭上の青空がたきなの目に映った。その光景と口の中に広がる柔らかさと甘さが重なる事によって生まれる美味しさ、そして全身に感じる風の爽やかさに、たきなは心地よさそうに目を閉じる。
『生きるという事は、ご飯が美味しいという事ですから』
脳裏に先ほどの藍の言葉が蘇ると共に、確かにそうかもしれないとたきなは思った。それから目を開けると、彼女の様子を見ていた藍が突然こんな事を言った。
「たきなさん、よろしければ僕のケーキ少しあげますよ」
「え?」
そう言って藍は自分のパンケーキを素早く切り分けると、切り分けた分のケーキのフォークで軽く突き刺す。
「今のたきなさん、すごく美味しそうに食べてましたから。いつも言っていますけど、僕は自分が美味しい物を食べるより、誰かが美味しい物を食べている所を見る方が好きです。なので、よろしければどうぞ。そうすれば味が違うものを食べる事も出来ますし、お得ですよ?」
「でも、藍さんは……」
「僕は大丈夫ですよ」
そう言って藍はケーキが突き刺さったフォークをたきなの目の前に差し出す。たきなは最初は頬を若干赤らめながらためらっている様子だったが、彼の純粋な善意を拒否する事は出来なかった。口を開くと、フォークの先のパンケーキをゆっくりと口に運んで咀嚼する。味は自分のとは違うが、やはりとても柔らかい食感と甘い味が自分の口の中に広がるのを感じる。
「美味しいですか?」
「……はい。美味しいです」
「良かったです」
そう言う藍の表情はどこか柔らかかった。何故だろう、状況自体は以前に電車の中で千束から煮卵を分けてもらった時と同じなのに、今回の場合はその時よりも恥ずかしいというか、油断すると口元が笑みの形を作ってしまいそうだった。それを隠すようにたきなが思わず口元を手で隠していると、「もっと食べますか?」と藍がさらにパンケーキを切り分けている。
「いえ、さすがにそれは……」
たきなが抵抗しようにも、聞こえているのか聞こえていないのか藍は再び切り分けたパンケーキをフォークで突き刺し、それをたきなの口元に運んであげる。そしてたきなが照れながらも先ほどと同じようにぱくりとケーキを口に運んだ直後。
「あー!」
突然二人の背後から声が響き、千束と藍はびっくりして声が聞こえてきた方向に目を向ける。そこにはつい先ほどまで後ろの席にいた男女にメニューの説明をしてあげていた千束が人差し指を藍達に向けながら、何故かわなわなと驚愕の表情で震えていた。
「あ、藍くんがたきなに『あーん』してる……! それにか、間接キ……!」
そこまで言いかけた所で千束の顔が赤くなると共に言葉が止まり、たきなは千束が何を言いたいのか理解し、つられたように顔を赤くする。分からないのは、二人の間に挟まって不思議そうな表情を浮かべている藍だけだ。すると藍がたきなに『あーん』をしていたのがよほど羨ましかったのか、千束がぷくっと頬を赤くして、
「た、たきなばっかりずるいー! 私も藍くんに『あーん』して欲しい!」
と普段ならば言わないような事を口走り始めた。恐らく本人も自分が何を言っているのか自覚していないだろう。こう言っては何だが、腕をじたばた振りながら叫ぶ姿はまるで駄々っ子のようである。しかし藍の方はその言葉で千束が何をして欲しいのか何となく理解したらしく、ああと合点が言ったように頷き、
「千束さんもケーキが欲しいんですね。分かりました。ちょっと待っててください」
「………え?」
藍の言葉に千束は呆然とするが、藍はすでに残り少なくなりつつあるパンケーキを切り分けると、切り分けた方をフォークの先で突き刺す。そしてケーキがこぼれないように左手を下にしながら、ケーキが刺さったフォークをゆっくりと千束に向ける。
「はい、千束さん。どうぞ」
「え……えっと……その……」
だがいざ藍からフォークを向けられると、千束の方は緊張したように固まってしまった。彼女の視線がフォークに刺さったケーキと藍の顔の間を往復していたが、やがて意を決したようにゆっくりと唇を開くと先ほどのたきなと同じようにパンケーキを口に運び咀嚼する。
「美味しいですか?」
「……うん、美味しいです」
「どうして敬語なんですか?」
突然敬語を使い始めた千束に怪訝な表情を浮かべながらも、藍は自分の手元に残ったパンケーキにフォークを突き刺して口に運ぶ。それを見た千束が何故か顔を赤らめるが、その理由を当然藍は知らない。と、ある事に気づいた千束が藍の皿を見て声を上げた。
「って、藍くんのケーキもう全然ないじゃん!」
「そう言えば、ほとんど私達に分けてくれてましたね……」
藍もケーキは食べていたものの、どちらかと言うと二人に分けたケーキの方が食べた分よりも多かった。それで二人よりも残っているケーキの量が少なくなってしまったのだろう。しかし藍の方はあまり気にした様子もなく、
「別に気にしてないですから大丈夫ですよ。お二人共、ケーキは美味しかったですか?」
「いや、美味しかったけどさ、これじゃあちょっと藍くんに悪いし……そうだ!」
千束は何か閃いたような表情になると、先ほどの藍がそうしていたように自分のパンケーキをナイフで切り分けていく。それで彼女が何をしたいのかたきなも察したようで、彼女も千束と同じように自らのパンケーキをナイフで切り分けていく。二人が何をするのか分からないのは、やはりと言うべきか藍だけだった。
やがて二人はパンケーキを切り分け終えると、それぞれのケーキをフォークで突き刺し、千束はそのフォークを頬を赤らめながらも満面の笑顔で、たきなはちょっと照れたように頬を赤くしながらフォークを藍に差し出す。
「はい、藍くん! あーん!」
「……その、あーん、です」
一方、藍の方は頭の中が疑問でいっぱいだったらしく、二人のフォークを交互に見てからようやく二人が何をしたいのか気づいた。
「え、僕にくれるんですか? いえ、良いですよ。お二人が食べてください」
「良いから! はい、あーん!」
そう言って千束はぐいぐいとフォークを藍に近づけ、たきなも控えめにフォークを差し出してくる。どうやら二人にこれ以上言っても聞かないと藍の方もようやく悟ったらしく、諦めたような表情を浮かべると口を開け、二人のフォークの先に刺さっていたケーキをぱくりと食べる。それを見た千束が恥ずかしさと嬉しさが混ざり合ったような笑みを浮かべているのに対し、たきなの方は純粋に恥ずかしそうだった。
「さて、おやつを食べ終えたら良い所へ行きまぁす」
「「……?」」
その言葉にたきなともぐもぐと口を動かしてケーキを食べている藍は、不思議そうな表情で千束の顔を見るのだった。
「良い所ってここですか?」
「綺麗でしょ? ここ」
おやつのケーキを食べ終えた後、三人がやってきたのは水族館だった。普通の水族館と違い床や壁が木目調となっており、どことなくオシャレな雰囲気を醸し出している。千束は自分の年間パスポートを取り出して二人に見せながら、
「私好きなんだ~」
「へぇ……」
「気に入ったら二人もどうぞぉ。……藍くん、どうしたの?」
ここに連れてこられた藍は何故かぽかんと口を開けながら、室内を眺めていた。その様子を見た千束が藍に声をかけると、彼は視線を室内から千束に変えて尋ねる。
「千束さん、ここは一体何をする場所なんですか? あの水槽に入っている魚は一体何ですか?」
「え」
思わぬ藍の反応に千束はおろかたきなも目を丸くして藍を見る。それからある可能性に思い至ると、千束が恐る恐る彼に聞いた。
「ねぇ、藍くん。もしかして、今まで一度も水族館に来た事ないの?」
「すいぞくかん、て言うんですか? へぇ、そうなんだ……」
どうやら当たりだったらしく、後半の彼の口調からは非常に珍しい事に敬語が抜け落ちていた。彼が今まで水族館に来た事が無いという事に千束は驚きながらも、ごほんと軽く咳ばらいをしてから水族館の事についてちょっと自慢げに説明する。
「ふふふ。ここはね、藍くん。日本中の色んなお魚が見れる場所なのです!」
まるでショーの司会者のように両手を広げる千束に、藍は眉をひそめて、
「見るだけなんですか? 食べないんですか?」
「食べないよ!? 今までここを何だと思ってたの!?」
「いえ、てっきり巨大な生け簀かと……」
「「生け簀っ!?」」
さすがにたきなも千束と一緒に大声を上げてしまった。たきなですらも水族館の存在を知っているというのに、まさか藍が水族館を知らないとはちょっと、いやかなり意外だった。ちなみに当の本人はそばにある水槽の中を覗きながら「この魚美味しそうですねぇ」と呟いている。心なしか、水槽の中の魚がビクリと震えたようなが気がした。
気を取り直して、三人は水族館内の魚を見て回る事にする。今まで水族館の存在を知らなかった藍はあちこちの水槽の中にいる珍しい魚達に次々と目を奪われているようだった。やがて三人は一匹の魚―――タツノオトシゴがいる水槽の前で足を止める。
「これ魚なんですって」
「マジ? ウオだったのか、こいつ……」
「食べる所が少なそうですねぇ」
「いやいや、藍くん。食べる事からちょっと離れようよ……」
魚を鑑賞するものではなく食べ物としか認識していない藍に、千束はちょっと顔を引きつらせていた。
「あ、でも食べられる事は食べられるそうですよ。揚げ物にしたり、スープにしたり」
「食べられるのか……」
口々に目の前のタツノオトシゴに対する感想を言い合ってから、次に向かったのはチンアナゴの水槽だった。
「これも魚ですか……」
「これは……食べられるんですかね」
砂場から体をまるで柱のように覗かせているチンアナゴにはさすがの藍もどうやって食べて良いのか分からないらしく、難しい表情を浮かべている。すると、そばにいた千束が目を閉じて両腕を真上に伸ばしながら体を伸ばしていた。二人は一瞬そんな千束の姿に呆気に取られるが、藍が戸惑った口調で聞く。
「もしかして、チンアナゴですか?」
「うん、チンアナゴー」
「人が見てますよ……」
「気にしない気にしな~い」
そう言って千束はススス……と体を揺らしながらその場から離れていく。まったく、と言うようにたきなはため息を漏らした。
その後千束とたきなは一際大きい水槽の前で、水槽の中にいる魚を眺めていた。たきなはそばにある椅子に座りながら、千束は先ほどと同じようにチンアナゴの真似をして。ちなみに藍は周囲にある水槽の中にいる魚達を、ゆっくりと歩きながら見ている。
「藍さん、どうやらここが気に入ったみたいですね」
「ホント? さっき初めて来たって聞いたからちょっと心配だったけど……気に入ってくれて良かった」
たきなの位置から千束の顔は見えなかったが、声音からしてどうやら微笑んだらしい。……好きな人が同じ場所を気に入ってくれるという事は、とても嬉しい事に違いない。それだけで、今日藍を連れてきた甲斐があるというものだ。
そして相変わらずチンアナゴの真似をする彼女の後ろ姿を見ながら、たきなが言った。
「……千束」
「ん~?」
「あの弾、いつから使ってるんですか?」
あの弾、というのは千束がリコリスの任務の時に使用する非殺傷弾の事だ。不殺を掲げる千束は任務の時には通常の弾丸は使用せず、ミカが作成したゴムの非殺傷弾を使用する。しかしこの銃弾、相手を殺さずにかなりのダメージを与える事ができるのだが、遠距離での命中率がかなり悪い。射撃を得意とするたきなでも、リコリコの地下に存在する演習場でそれを使用した際には弾着がばらけてしまったほどだ。千束はたきなの隣に腰かけながら、
「なぁに急に? 旧電波塔の時に先生に作ってもらったのよ」
「何か理由があるんですか?」
すると千束は口元に手を当てながらぷっと笑った。
「なに~? 私に興味あんの?」
「まぁ……タツノオトシゴ以上には」
リコリスの任務を行う以上、非殺傷弾を使うのは効率が悪いとしか言えない。敵が意識を取り戻して反撃してくる可能性もあるし、敵への命中率だって悪い。銃撃戦を行うなら、普通の銃弾を使う方が効率がはるかに良い。それらのリスクを冒してまで彼女が不殺を掲げる理由が、たきなにはどうしても分からなかった。
すると千束は少し黙ってから、非殺傷弾を使用してでも不殺を貫く理由を口にした。
「―――気分が良くない」
「………」
「誰かの時間を奪うのは気分が良くない。そんだけだよ」
「気分………?」
本当にそれだけの理由で? と言いたそうにたきなが呟くと、千束は頷き、
「そっ。悪人にそんな気持ちにさせられるのはもぉっとムカつく。だから死なない程度にぶっ飛ばす! あれ当たるとめちゃくちゃ痛いのよぉ? 死んだ方がマシかも」
そう言いながらうひひ、と千束は笑った。ゴムと聞くとあまり強くなさそうに聞こえるが、至近距離で食らえば骨折などの大怪我、当たり所が悪ければ死亡するほどの威力を持つものも存在する。なので千束が言うように死んだ方がマシかもと思えるほどの激痛を相手に与える事も不可能ではない。するとそれを聞いたたきなは、何故か小さく笑った。それに千束は唇を尖らせ、
「なんだよぉ、変?」
「いえ、もっと博愛的な理由かと……。千束は謎だらけです」
「Mysterious girl!? そっかー、そんな魅力もあったか私。でもそんな難しい話じゃないよ」
「したい事最優先?」
「お! 覚えてるねぇ」
「DAを出たのも?」
「DAって何ですか?」
うひゃ、と千束の口から変な声が漏れ、たきなも自分の心臓が一段強く跳ねたような錯覚を味わった。二人が勢いよく振り返ると、そこには藍が立っていた。一瞬どう言い訳するか? とたきなの頭の中が一瞬真っ白になるが、千束が両腕をぶんぶん振りながらフォローする。
「り、リコリコの本店の名前だよ! 変な名前だよねー、あはは……」
そう言うと藍は瞬きを二度ほどしてから「そうですか」と呟いてすぐそばに座る。彼に悟られないように二人が安堵の息をつくと、藍が千束に尋ねた。
「千束さんも本店にいたんですか?」
「う、うん。結構昔だけどねー」
「たきなさんがそこを出た、とおっしゃっていましたけど、どうして出たんですか? トラブルか何かで?」
「んー、そういうわけじゃないんだけど……」
藍の言葉に千束はどう答えるべきか頭の中を回転させる。先ほどの質問の続きに、たきなも思わず千束の顔を凝視する。千束は目を閉じてしばらく黙ってから、ようやくその答えを口にした。
「……人捜し」
「なんです?」
「会いたい人がいるの。大事な大事な人。その人を捜したくて……」
そう言って千束は服の下からペンダントを引っ張り出し、二人に見せる。ペンダントにはまるでフクロウのような鳥を模したチャームが飾られていた。
「知ってる? コレ」
それから三人は一度話をまとめるためにその場から離れ、長いデスクと椅子が設けられた飲食可能なスペースへと場所を変えるとたきながスマートフォンでペンダントを検索する。
「アラン機関……その支援の証……」
アラン機関とは、スポーツ・文学・芸能・科学など様々な分野の天才を見つけ出し、無償の支援を行う謎の支援機関である。その目的・正体は一切不明であり、どのような人物が所属しているのかすら明らかになっていない。またその支援方法も金銭によるものだけではなく医療の提供や指導者の斡旋など多岐にわたり、しかも見返りを求めず支援を受けた者への接触すらも行わないという、全てが謎に満ちた組織。
しかし、一つだけ分かっている事がある。それがフクロウのような鳥を模したペンダントであり、アラン機関による支援を受けた者にはそのペンダントが贈られる。アラン機関とそれに救われた者を繋ぐもの、それがたった一つのペンダントなのだ―――とたきなが検索したページには書かれていた。そしてそのペンダントは、たきなが今手にしているもの……千束が身に付けているものとまったく同じだった。
「確かに、同じですね。千束はなんの才能で支援を?」
「それが問題。……二人は自分の才能がなにとか分かるぅ?」
「なにかあると良いですけど……」
「そんな感じだよねぇ。藍くんは?」
「あまり興味ないですねぇ。才能が無くても生きていく事はできますし」
「まぁ、それはそうなんだけどさ」
ある意味身も蓋も無い言葉に千束は苦笑しながら、たきなが返したペンダントに視線を落とし、
「あのお店……リコリコで仕事をしながら、これをくれた人を十年も捜したの。先生にも色々助けてもらって……」
十年。その月日の長さに、たきなは目を見開き藍も千束の顔をじっと見つめる。その月日の長さが、ペンダントをくれた人物に対する千束の想いの強さを物語っていた。チャリ、とペンダントを握る千束は目を細めて、
「でも、もう会えないかもね……。ありがとうって、言いたいだけなんだけど……」
その千束の声には、いつもの彼女らしくない、寂しさと切なさがこもっていた。彼女の声にたきなの胸が何故かずぐんと痛むのを感じる。そしてたきなは突然立ち上がると、水槽の前まで勢いよく歩いて行き、パン! と両手を勢いよく合わせると右足を後ろに、両手を前に勢いよく伸ばし、すぅっと深呼吸をした次の瞬間。
「さかなー!」
と、魚を象った(?)ポーズをし、顔を赤らめながら叫んだ。突然の彼女の行動に千束も藍も目を丸くし、さらに周囲にいた客達の視線が一斉に彼女に集まる。ぷるぷると可愛らしく体を震わせながらその体勢を維持するたきなに千束は呆気に取られながらも、段々と我を取り戻していき、
「お、おお……。さかな……さかなかぁ!!」
楽しそうに叫ぶと、自分のたきなも横に並びビッ! と勢いよく両腕を真上に突き出す。
「チンアナゴー!!」
たきなに続いて、楽しそうに叫んだ。そんな二人を一人残された藍がポカンと口を開けて見つめていると、千束とたきなの期待が込められた視線が向けられる。その意図を察した藍は二人の前に並ぶと、両腕を真横に突き出して、掌をぷらぷらと振った。
「クラゲー」
力のこもっていない声でクラゲのポーズを取る藍の姿に二人共最初はぽかんとした様子だったが、やがてたきなの口からくすりとおかしそうな声が漏れ、千束がぷっと吹き出した。
「ぷ、あはははははははっ! あ、藍くんどうしてクラゲなの!?」
「え、似てませんでしたか?」
「いや、似てるけど、似合ってるけど! あははは! 駄目だ、お腹痛い!」
どうやら千束のツボに入ったらしく、彼女は文字通り腹を抱えて笑い、たきなも彼女につられてかクスクスと笑っている。そう言われれば、確かに藍とクラゲは似ていると思う。どこかふわふわしてつかみどころがない所とか、水中を漂う姿の幻想的でちょっと可愛らしい姿とか。
そしてようやくいつもの元気を取り戻した千束を見て、たきなはちょっとほっとする。やはりいつもこちらが呆れてしまうぐらい明るい彼女が寂しそうだと、こちらの調子が逆に狂ってしまう。彼女には今のように、まるで太陽のように明るく笑っている姿がとても似合う。それからたきなは千束のペンダントを見て、
「……それ、隠さない方が良いですよ」
「え? そお?」
「ええ。めっちゃ可愛いですよ」
それは、たきなの心からの笑顔だった。彼女の笑顔に千束が思わず見とれていると、たきなは両手を後ろで組みながら藍に視線を向けて、
「可愛いですよね、藍さん」
「ええ、そうですね」
するとようやく我を取り戻した千束はにししと悪戯っぽく笑いながら、
「え~? 本当かな~。藍くん、適当に言ってない?」
「……? いいえ、言ってないですよ。千束さんはいつも可愛いですけど、今の千束さんも可愛いです」
「……本当、そういう所だよ藍くん」
藍の混じりっけの無い心からの言葉に千束は顔を真っ赤にしながら、ぺちぺちと平手で藍の肩を軽く叩く。そんな彼女に藍は戸惑い、たきなは優し気な笑みを浮かべていた。
「そ、それより二人共ペンギン島行くぞ~!」
「ペンギン!?」
「ペンギンとは何ですか? 食べられるんですか?」
「食べちゃ駄目ですよ、藍さん」
不思議そうな表情で割とえげつない事を口にする藍にやんわりと注意しながら、三人はペンギンを見るために水族館内を小走りに駆けるのだった。
楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、水族館を心から満喫し施設を出る頃には外はすっかり夜になっていた。それぞれの家へ帰宅するために三人は荷物を持ちながら、朝の集合場所である駅の地上出口へと歩くが、やはりこういう三人揃っての楽しい時間が終わるのは寂しいもので三人共どこかのんびりした足取りになっている。
「水族館てすごいですね。あんなにたくさんの魚がいるなんて。僕、年間パスポート買います」
「ホント? じゃあ今度、また三人で行こうよ!」
「千束は藍さんと二人っきりで行った方が良いんじゃないですか?」
「ええ!? いや、それはちょっとまだ時期尚早というべきか、心の準備ができてないと言うべきか……」
たきなが言った瞬間、千束は顔を赤くして口の中で何やら呟き、その様子にたきなはクスクスと笑う。今日一日でたきなの表情が随分と明るくなったように千束と藍は感じていた。それからふとたきなはある事が気になり、藍に尋ねた。
「それにしても藍さんが水族館に来た事が無いのは少し意外でした。ご家族の方と来た事が無いのですか?」
「ないですねぇ。ここに来る前はずっと一人でしたから。ああいう場所を訪れた事は一度も無いですし、誰かと一緒に来た事も無いです」
「藍くん………」
静かな口調で自分が孤独だった事を平然と語る藍に、千束は思わずしんみりしてしまう。しかし藍は「ですので」と言うと、
「今日はお二人と買い物だけじゃなくて、水族館も見る事ができて楽しかったです。あんなたくさんの魚は初めて見ましたし、ペンギンも始めて見る事が出来ました。今日は僕にとって初めて尽くしの日で、千束さんとたきなさんは僕に色々なものを見せてくれた、僕の初めての人達です。だから、改めてありがとうございます。今日はとても楽しかったです」
そう言った藍の表情は、以前にたきなが見た、普段は滅多に見る事が出来ない柔らかい笑顔だった。彼の表情にたきなだけでなく、横にいる千束も思わず見とれて頬を赤くしてしまう。それからとても優しい笑みを浮かべると、
「ううん、私はお礼を言われるような事なんてしてないよ。今日藍くんをここに連れてきてくれたのはたきなだし。むしろお礼を言いたいのは私の方。今日たきなと藍くんと一緒にいる事ができて、私も楽しかったよ」
「千束さん……」
「それより藍くん。水族館を見るのが初めてって事は、もしかして動物園も見た事ないの?」
「えっと、はい、ないです。あと、映画館とかも……」
「え~!? 駄目だよ藍くん! 映画館行った事ないのは本っ当もったいない! 人生損してるよそれは! そうだ! 今度三人で一緒に映画見に行こうよ! ね、たきなも良いよね!」
するとその言葉にたきなは呆れながらも笑みを浮かべ、
「ええ、良いですよ」
「やったー! 楽しみがまた増えたぁ! いやっほう!」
そう言って千束は本当に嬉しそうにその場で飛び跳ねた。心から三人でお出かけできるのを嬉しそうにしている千束に、たきなと藍は顔を見合わせて顔を綻ばせる。しかし直後、それまで嬉しそうに飛び跳ねていた千束は何故か着地してから藍の顔を見ると、恥ずかしそうな表情を浮かべ、
「……でも藍くん。私達が藍くんの初めての人達っていうのは、人によっては誤解を招く発言になるからやめた方が良いかなー……と私は思います」
「……そうですね」
千束に同意するように同じような表情を浮かべながらたきなも頷き、そんな二人に藍は思わずきょとんとした表情を浮かべるのだった。
その後三人は駅構内への入り口近くまで辿り着くと、喉が渇いた事と今日のお礼も兼ねて飲み物を買うために藍は二人と一旦別れた。離れていく藍の背中を見ていた二人は、周囲のある違和感に気づき表情を引き締める。
「……リコリス? でも……」
「うん。数が随分多いね」
周囲にはいつの間にか、リコリス―――ベージュの制服に身を包んだサードリコリスの少女達の姿があった。それならばまだ良いのだが、千束の言うようにその数がやけに多い。リコリスの任務は千束やたきなのように犯罪者を真正面から相手取る事もあるが、サードリコリスの場合大抵は周囲の人々に気づかれないように対象の犯罪者を暗殺するのが主な任務だ。そんな彼女達が今この場に集まっているという事自体が、なんらかの異常事態の予兆でもある。
おまけに朝三人の集合場所となっていた地上出口がテープで封鎖され、その前には黒いスーツを着た男達がまるで見張りのように立っている。いや、まるでではなく実際に見張りなのだろう。周囲のサードリコリス達や状況から見て、間違いなく男達はDAの人間だ。構内への封鎖と男達を見て、周囲の人々から不安と疑問の声が口々に出ている。
「……いくらなんでも目立ち過ぎじゃない? いくらラジアータでも隠しきれないでしょ」
千束の言う通り、封鎖された出口に黒スーツの男達という絵は、それだけでかなりインパクトがある。これでは監視カメラの映像などは誤魔化す事ができるかもしれないが、この状況を眺めている人々の認識を誤魔化す事は難しいだろう。
「お二人共、お待たせしました。……何かあったんですか?」
すると状況を観察していた千束とたきなの元に、飲み物を抱えた藍が戻ってきた。彼は飲み物を二人に渡しながら、出口を塞いでいる男達に視線を向けている。礼を言って飲み物を受け取りながら、何も分からないと言うようん千束は首を振った。
「うーん、何だろうね? 私達もよく分からない……」
と千束が言った次の瞬間だった。
ドッ!! という轟音と共に駅構内から爆風が噴き出し、出口を塞いでいたテープと男達の何人かが勢いよく吹き飛ばされた。突然の事態に周囲から悲鳴が上がり、野次馬達が騒ぎ出す。爆発音という明らかな異常事態に思わずたきながリコリスとして動きかけるが、その前に千束が彼女の右手首を掴む。振り返ると、彼女が自分自身の服を指差しているの見てたきなははっとした表情を浮かべる。
彼女達が普段着ているリコリスの制服はそれ自体が身を護る装備であると同時に、リコリスとしての身分を証明するものになっている。つまり制服を着ていない今の彼女達はリコリスではなく、もしもその状態で拳銃を持っているのを警官に見つかったりすれば捕まってしまう可能性があるのだ。
それに、と千束は声に出さず唇だけ動かすと後ろにちらりと視線を向ける。そこには爆発がした方向を見つめている藍の姿があった。それだけで千束が何を言いたいのか分かった。確かに爆発は気になるが、一般人の彼を放っておくわけにもいかない。たきなは千束と視線を合わせると、互いにこくりと頷き合う。
「すごい音でしたね。何かあったんでしょうか?」
「さぁね。気になるけど私達にできる事は何もないし、帰ってニュースを見れば良いよ。さ、藍くん帰ろ」
「……ええ、そうですね」
何も知らないふりをしながら、千束とたきなは藍を連れてさりげなくその場を離れる。やがて三人と入れ替わるように、パトカーと救急車の音が聞こえ始めた。
こうして三人の一日は、少々物騒な形で終わりを告げるのだった。
―――余談だが。
この時起こった事件が、後に起こる大事件の引き金の一つとなり、それが原因であらゆる人物達の運命が大きく変わるのだが……その事を知る人間はまだ誰もいない。
翌日。
「ギャァアアアアアっ!! ハレンチィイイイイっ!!」
午後、いつものように常連客達で賑わうリコリコ店内にミズキの絶叫が響き渡った。それにミカやたきな、そして米岡などの常連客達が驚いていると、店の奥から千束の首を腕で締め付けているミズキと千束がやってきた。
「お前藍くんの所に泊まって来たな!? ついに一線越えやがったな!? 良い男が見つからない私への当てつけか!? ぶっ飛ばすぞこの野郎!!」
「違う違う違う! 私藍くんの住所も知らないしまだそんな関係じゃないしこれはそれとはまったくの無関係でぇええええええええええええっ!!」
「ガキのくせに不潔よ不潔ぅううううううううう!!」
「だーっ! 違うって! 人の話を聞け酔っ払いぃいいいいっ!!」
「どうしたどうした?」
ミズキのあまりの剣幕にミカが冷や汗を垂らして尋ねる。すると千束の首を絞めつけながら、ミズキが事のあらましを説明し始めた。
なんでもついさっきミズキが店の奥に行ったきり戻らない千束の様子を見に行くと、そこには何故か男物のトランクスを履いた千束が立っていたらしい。それを見たミズキは、ついに千束が藍の家で一夜を明かし、その際にパンツを彼に貸してもらったのでは……と思い彼女を問い詰めていたとの事だった。
「さぁ吐け千束ぉ。そのトランクスは一体どうした、あぁん? 素直に吐けば楽にしてやるわよ」
「映画の殺し屋かお前は?」
もうDAを辞めているというのにそんな台詞を言うミズキに状況を静観していたクルミが呟く。首を絞められながらも、千束はふるふると指をたきなに向けて、
「た、たきなの! たきなのだからぁ!」
直後、ミズキの眼鏡がキランと輝いた……ようにたきなには見えた。ミズキはすぐさま千束の拘束を解くとたきなに接近し、左手でスカートを掴んでガバッ! と豪快にめくり彼女の下着とご対面する。そしてスカートを下ろして振り返りながら何故か感想を告げた。
「可愛いじゃねーか」
「だーかーら、それを昨日買ったの!」
「嘘つけぃ、いくらたきなでもトランクスなんぞ穿くかっつーの!」
「いや、先生の指示で……」
「え? おっさんの? それって……」
「えーいややこしい!」
千束達がそんなやり取りをしている中で、ミズキのスカート捲りの被害に遭ったたきなは顔を真っ赤にして俯いていた。
「みなさーん! このお店に裏切り者の嘘つき野郎がいますわよー!!」
「だから、ちーがーう!!」
叫ぶミズキの横で千束が必死に叫び返していたが、その行動も空しく千束は再度ミズキに捕まり羽交い絞めの状態にされるとスカートを扇風機で当てられ、スカートがなびき下のトランクスが公開されるという目に遭っていた。ちなみにいつもならばこのような状況を止めているミカは、リコリコにかかってきた電話の対応に追われている。
「ミズキさん、営業中ですから……」
とたきなが良心でミズキにやんわりと注意するが、残酷にもそれを止めたのはこの店にいた常連の方々だった。
「あ、たきなちゃん私達ならお気になさらず」
「そうそう。どうせ他に誰も来ないよ」
「私は良いけどアンタ達が言うな!」
「ってか、本当いい加減やーめーろー!」
じたばたと千束が暴れてミズキの拘束を振りほどこうとするが、彼女の力は意外にも強く中々拘束を振りほどけない。
しかも残酷な事に、誰も来ないと思われていたリコリコの店のドアが開き、チリンチリンと来店を知らせるベルが鳴る。店にいる全員が入り口に目を向けると、そこにはいつもの制服姿にリュック、左目に医療用の眼帯をして何故か左手に小さな紙袋を持った藍が立っていた。
「…………………」
「あ、藍くん………これは………」
扇風機で自分のスカートを思いっきり吹き上げられ、下のトランクスを公開されるという状態に、千束は思わず赤面する。トランクスとはいえ、下着を晒しているのと同じ状態なので無理はないだろう。一方、ミズキに拘束されている千束から店の全員へと視線を向けている藍は、非常に困ったような表情を浮かべてからようやく口を開く。
「………色々と聞きたい事はあるんですが………。千束さん、
「「「「……………え?」」」」
千束、たきな、ミズキ、クルミの四人がポカンとした声を出す中、藍は四人の脇を通り過ぎてカウンターの前に立ち、通話中のミカを気にしてかぺこりと軽く頭を下げ手に持っていた紙袋をカウンターに置く。
「ミカさんすいません。実はこの間の雨の時に服と下着を貸してもらった際、間違えて僕の下着を返してしまったみたいで、ミカさんのを返していませんでした。なので今日返します。本当にすいません」
そう言って藍はもう一度頭を下げる。藍からの情報を千束達は頭の中で咀嚼して整理し、まとめる。
この前の雨の時というのは間違いなく季節外れの夕立があった日だろう。その時藍はミカからTシャツとハーフパンツを貸してもらっていたが、よくよく考えてみれば下着も濡れていてもおかしくない。つまりその際にトランクスも一緒に貸してもらっており、それをシャツとハーフパンツと一緒に一度ミカに返した。しかし実はその際に藍の物と入れ替わってしまい、今日藍が持ってきた紙袋の中身が恐らく藍がミカに貸してもらったものなのだろう。
そしてそのトランクスはリコリコに返されると、外見が似ている事からたきなの所有するものに偶然紛れ込んでしまい、今はトランクスに興味を抱いた千束が穿いているという、偶然が重なり合って生まれてしまったとんでもねぇ事態であった。さらにそれだけではなく、もしかしたらたきなも日々の生活の中でそれを穿いていた可能性もあるわけで。千束とたきなが同時にその可能性に思い至った瞬間二人の顔が真っ赤になったかと思うと、まるでヤカンのように二人の頭から湯気が噴き出し、ガッ!! とたきなが千束のトランクスに勢いよく両手をかけた。突然の相棒の奇行に、千束は慌てて両手でトランクスを掴み強制的に脱がされるのを防ぐ。
「千束今すぐそのパンツを脱いでください早く!!」
「ちょいちょいちょい!! お客さんの前でパンツ脱がそうとすんな!?」
「じゃあお客さんの前でなければ良いんですね!? 分かりました店の奥に行きましょうさぁ行きましょうすぐ行きましょう!!」
「ちょ、落ち着けたきなー!?」
千束を羽交い絞めにするミズキと千束のトランクスを脱がそうとして自然と彼女の両足を持ち上げるたきなによって、千束は間抜けな形で二人に支えられる事になった。しかもミズキが動かないのでちょっとした綱引き状態になり、千束がぬわぁあああああああああっ!? と悲鳴じみた声を上げている。
「……たきなさんはそんなに千束さんが僕のパンツを履いているのが嫌なのでしょうか」
「気にするな。乙女心は複雑なんだ」
ちょっとショックを受けたようにぼやく藍にクルミがクールに返す。そんな一同の後ろでまた来客を知らせるベルが鳴り、藍が振り向くとそこには驚いたように千束とミズキを見ている男性の姿があった。
(あれ? この人は………)
彼の姿を見て、藍は少し目を見開く。品の良いスーツを身に纏い、髪の毛もきちんとセットされた身なりの良い男性。彼の姿をどこかで見た覚えがあるが、思い出せない。しかし藍が男性をどこで見たか思い出す前に、後ろで千束とミカが呆然とした声を出すのが藍の耳に届いた。
「よ、ヨシさん………。あの……これはその……違くて……」
「シンジ………」
どうやらこの男性は二人の知り合いらしい。だとしたら、今のカオスな状況を呼び込んでしまった人間としてこの場をどうにかしなければならない。そんな責任感で藍は男性の前に一歩踏み出すと、慌てた口調で男性に言う。
「あの、違うんです。これは千束さん達のせいじゃなくて、僕がミカさんのパンツを貸してもらった際に間違えて僕のパンツを渡してしまっていて、そのせいでこのような場になってしまったのであって、間違ってもミカさんや千束さんのせいじゃないんです!」
「「藍くん!?」」
心は伝わってくるが、悲しきかな初対面の人間には誤解しか伝わらない言葉だった。するとやはりと言うべきか、男性の目が藍からカウンターのミカへと向けられる。その目は何故か深い悲しみを帯びているというか、何かに裏切られたような切実な感情を伝えてくるというか……そんな感じの目だった。やがて悲し気な目をした男性はそのままゆっくりと後ろに下がるとリコリコの扉を開けて外に出る。出て行った彼を引き留めようと、千束とミカが必死に声を上げた。
「ヨシさん、待って!」
「シンジ、待て! シンジ、シンジィィィイイイイイイっ!!」
……何故か千束よりも、ミカが必死なように聞こえたのは藍の気のせいだろうか。なお、その様子を見ていたクルミは藍の横で「ガキ使の笑ってはいけないにありそうな場面だな……」と小さく呟いていた。
「あ、藍くん! 追いかけて誤解を解いてくれ!」
「分かりました!」
普段では聞けないミカの必死の叫びに藍も力強く返事すると、ドアを開けて男性を追いかけて行った。店の外から「お客さーん! 待ってくださーい!」と彼のいつにない大声が響き渡って聞こえてくる。
そんな、いつものカオス。そんな、リコリコで繰り広げられる愉快な日常。いつしか自分にとってかけがえのない日常へと変わっていたものを見て、たきなの口から「ぷふっ」という息が漏れ、気が付くとそれは大きな笑い声へと変わっていた。
「あははははははははっ!!」
声を大きく上げて笑うたきなに、千束達も常連客達も、呆気に取られたように彼女を見た。
こうして今日も、リコリコでの愉快な日常は賑やかに、しかし確かに続いていくのだった。
―――まだ人も街も完全に目覚めていない朝。静謐な時間が支配する街の片隅で、男が一人しゃがみ込みながら目を覚まそうとしていた。
「ん………」
男の年齢は大体三十代前半ほど。くしゃくしゃの髪の毛に、黒のロングコート。コートの下は派手な柄物のシャツで、外見だけならば藍とはまたベクトルの違う『ツラの良い男』だろう。
「ちっきしょ……。また俺だけ残っちまった……」
ボヤキながら男はコートに手を突っ込むと、自分のスマホを取り出して検索をかけた。
「ククク……しかしあれが日本のバランスを狂わせてる奴らか……。面白い」
口元に危険な笑みを浮かべながら、男は検索の結果表示された今日のニュースに目を通す。が、次の瞬間男の口から「あん?」と不満と疑問が入り混じったような声が発せられた。
「事故ぉ? なんだこれ……?」
男のスマホに表示された画面には、『北押上駅で脱線事故』という見出しのニュース記事が表示されていた。自分が期待していたものとは違うニュースに、男は怪訝な表情を浮かべて次々と発行元の違うニュース記事を見ていく。しかし表示されているニュースは若干の文章の違いなどはあるものの、内容自体はまったく同じだった。どこにも男が望んだ内容―――電車への襲撃テロという文面は無い。
「事故、事故、事故事故……。どうなってんだぁ?」
そう呟いた直後。
『リコリスの存在は情報統制されるのさ』
突如男性……と呼ぶには少し若い少年のような声が男の耳に届き、男は警戒心が込められた視線を辺りに巡らすが、周囲に自分以外の人影は見られない。
『手元だ手元』
「ん?」
どうやら声は手に持っていたスマホから発せられているようだった。男がスマホを見ると画面にノイズが走り、一人の人物が映し出される。そこに映し出されたのは、ブリキのロボットの頭部を模した被り物を被った人物だった。被り物のせいで、その人物が大人なのか少年なのかは男には分からない。ただ機械で声の質を変えているとはいえ、男性なのは間違いなかった。
「あんだ? テメェ……」
『僕はロボ太』
男性―――ロボ太は自慢げな口調で自己紹介した。
『お前を手助けする世界一のハッカーだ! リコリスを倒すには僕のような頭の良い奴が必要だ。僕の頭脳とお前の力を使えば―――』
が、ロボ太が言い終える前に男は通話を切った。相手がどのようなスキルを持っていようと、これといった実力も見てないのに相手を信用するような事を男はしない。男はそのまま右手の人差し指一本でスマホをくるくると器用に回しながら誰にともなく呟く。
「嘘をつけねぇほどもっとスゲェ事すりゃ良い話さ……」
そしてパシッ、とスマホを掴むと、不安定ながらもどうにかそびえたつ旧電波塔を見上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「さぁ~て。始まりだ」
そう言って男は立ち上がろうとしたが、その前に空腹感を感じ思わず腹に手を当てる。
「……まずその前に、腹ごしらえだな」
思えばあの時―――地下鉄を襲撃した後から何も食べていない。これからのためにも、まずは体調管理だ。男が今持っている金を確かめようとコートのポケットに手を突っ込んだその時、突然頭の上から声が降ってきた。今度は先ほどのようなスマホ越しの声ではなく、本当の人の声だ。
「お腹が減ったんですか?」
あ? と男が顔を上げると、一人の少年が男を見下ろしていた。少年の目は、殺意や敵意どころか警戒心も無い奇妙なものだった。
「なんだ? テメェ」
男は気だるげながらも警戒心に満ちた声を投げかけながら、妙な違和感を少年に感じていた。
普通の人間ならば警戒心や敵意を抱けば心音や呼吸に何らかの変化が生じる。特に男はある事情から、そういった変化に気付く能力が常人よりも高かった。だが目の前の少年にはそれが無い。こうして男と相対していても、男に警戒心を向けられても、心音にも呼吸にも変化は無い。ただ自然な状態でじっと男を見ている。その視線はまるで、昆虫が獲物の動きを観察しているようだった。
「いえ。しゃがみ込んでいる人がいたので、もしかして気分が悪いのかと思い近づいてみたら、腹ごしらえという言葉が聞こえたので声をかけました。それでもう一度聞きたいのですが、お腹が減ったんですか?」
少年の言葉には相変わらず敵意も警戒心も無い。男は警戒心を解く事はせず、「……まぁな」とだけ返す。すると少年の口から、意外な提案が男に向かって発せられた。
「それなら、僕の家でご飯を食べませんか?」
「あ?」
予想外過ぎる言葉に男の口から思わず声が発せられる。初対面かつこんな怪しげな男に食事をしないかと持ち掛けるとは、正気かこいつ? とすら思う。しかし少年の方に冗談を言っているような気配はなく、どうやら頭の方も正気のようだった。
「お腹が減っているのは駄目です。お腹が減っているとイライラします。イライラするのは悪い事ですし、体調だって悪くなります。ですから、ご飯を食べるのは大事な事です」
なので、と少年は一度言葉を切り、
「僕の家でご飯を食べませんか? 大丈夫です。お代は取りませんし、何か作って欲しい料理があれば可能な限り作ります。まぁ、無理強いもできませんが……どうでしょう?」
そこで初めて少年は困ったような表情を浮かべながら男に尋ねた。少年の右目と視線を合わせながら、男は脳を働かせる。見た所、少年に敵意や殺意は無い。何か意図があるのか単に平和ボケしているのか分からないが、少なくともこちらが危険な目に遭うような事にはならなさそうだ。実際腹も減っているし、ここはあえて少年の言葉に乗せられるのも悪くない。
それに、少年に何か思惑があったとしても、その時は思惑ごと潰してやれば良いと、コートのポケットに入っている銃の重さを確認しながら思う。少年を注意して観察していれば食事に毒などを入れたかすぐに分かるし、確認する手段は他にもちゃんとある。仮に危害を加えようとしているという事が分かったらその時は殺せば良い。男は口元に笑みを浮かべながら立ち上がると、
「そうだな。じゃあ、そうさせてもらうとするか」
「分かりました。行きましょう」
そう言って少年は男に背を向けると、そのまま歩き出そうとする。初対面かつこんな怪しげな人間に対して、何の警戒も無く背中を向ける少年の無防備さと能天気さに、男はため息をつきそうになってしまう。それからある事に気づき、その背中に声をかけた。
「おい。お前、なんて名前なんだ?」
「……ああ、そう言えば名乗っていませんでしたね。失礼しました」
少年はくるりと振り返ると、改めて男の顔を正面から見据える。彼の姿を改めて観察し、妙な奴だと男は思った。
どこかの学校のものらしき制服に背中にはリュックを背負い、左目には白い医療用の眼帯。髪の毛はただの黒色と呼ぶには不思議と温かみのある、夜色と呼べそうな色。声からして恐らく男なのだろうが、顔だけ見ると少年にも少女のようにも見える非常に中性的な容姿。そんなどこか神秘的というか、謎めいた雰囲気の少年は男に言った。
「改めまして。
そして少年―――藍はぺこりと男―――世界を股にかけるテロリスト、真島に向かって頭を下げるのだった。
今話のある場面での登場人物S.Yの心境。
「寝たのか、ミカ……。私以外の男と……」
こんな感じ……だったのかもしれない。