これはびっくり、ダイユウサク 作:匿名希望ウマ娘1号
スタンドのざわめきが、胸の奥まで響く。
十四番人気――誰も、私が勝つなどとは思っていない。
天才のウマ娘たちに視線は集中し、メジロマックイーンの名前が歓声とともに波のように押し寄せる。私はその中心に立ち、ただ静かにゲートへと歩を進めるしかない。
観客席の向こう、トレーナーは正装で座っている。胸元の懐中時計がかすかに光り、背筋はまっすぐ。周囲の人々は半ば呆れたような笑みを浮かべ、小声で囁く。
「……あの夢の話、本気で言ってるのか?」
「5枠からスタートしてあのダイユウサクが有馬を勝つって……狂気だろ」
「ウイニングライブでセンター? 冗談にもほどがある」
耳に入る言葉に、背中で空気の冷たさが刺さる。私の勝利なんて、誰も信じていない。周囲は笑い、鼻で嗤い、私の存在を軽く扱う。
それでも、トレーナーは微動だにせず、静かに私を見つめている。
「5枠をひいたなら、ダイユウサクが勝つ」
彼は有馬記念の一週間前、自ら見た夢の話を周囲に語った。ダイユウサクが5枠からスタートし、勝利を手にし、ウイニングライブを踊り、祝賀会をして栗東寮に帰る――狂気じみた内容だった。
誰もが笑い飛ばした。狂気だと、現実離れしていると。
しかし、その狂気は現実の数字として再び立ち現れる。抽選で私は、まさかの5枠8番を引き当てた。夢の数字と現実の数字が重なり、トレーナーの目がさらに静かに、しかし確かに燃える。
周囲の冷笑は、まるで届いていない。狂気にしか見えないその確信だけが、私を突き動かす。
私はゲートへ向かう足を止めない。観客席からの冷ややかな視線、鼻で笑う声――届かない。背後で静かに燃えるトレーナーの視線だけが、私の背中を押す。
発送時刻が近づくにつれ、手は震え、鼓動は熱を帯びる。私の心も体も、極限まで研ぎ澄まされる。すべての恐怖、痛み、絶望が、ただ一つの目標のために結晶する。
――走るしかない。
冷笑も、疑念も、すべてを置き去りにして。背中を押してくれるのは、狂気じみた確信と、夢を信じてくれたあの人だけ。
私はゲートへと歩みを進める。止まることは、許されない。行くしかない。
靴が地面に触れる感覚が、いつもより重い。呼吸は浅く、心臓は張り裂けそうに膨らむ。
周囲の歓声や失笑は、遠くで反響するだけで、耳の奥にかすかに届く。
鼓動だけが、狂気のように響く。その鼓動は、恐怖でも緊張でもない。これは、自分自身の存在を確認する音だ。
走れるかどうかではない――走らなければ、痛みと努力のすべてが無駄になる、根源的な恐怖。
ゲートに並ぶ。
隣のウマ娘の筋肉の躍動、息遣い、緊張が波のように伝わる。天才たちの気配は圧倒的で、心が折れそうになる。
しかし私は知っていた。ここで逃げることはできない。止まれば、狂気の日々が無駄になってしまう。
深く息を吸い、視界を前に向ける。ゲートの扉が開く瞬間まで、すべては静寂だ。鼓動だけが、狂気のように響き渡る。
――走るしかない。
胸の奥で、呪いのように繰り返す言葉。才能がなくても、泥まみれでも、ここで走るしかない。誰も私を期待していなくても、私は自分の意思で走る。
ゲートが、今、開く。
◆◆◆◆◆
ダイユウサクの父は、レース場には足を運ばなかった。
長距離の天才メジロマックイーンが出走することを知っているから、娘が勝つなどとは、頭の片隅にもなかった。
忘年会の会場では、かつてのトレーナー仲間たちが酒を手に談笑していた。ダイユウサクの有馬記念出走が話題に上ると、父は鼻で笑った。
「はは、うちの娘がメジロマックイーンに勝てると思うか?」
隣に座る旧友の一人に尋ねられると、父は肩をすくめ、軽く手を振った。
「勝てるはずがない。見ていればすぐわかるさ。メジロマックイーンは長距離の天才だ。娘には力不足だよ。」
さらに話題が膨らむと、別の友人が声を落として言った。
「いや、でも……夢みたいなことがあって、もしかしたら――」
父は軽く鼻を鳴らし、笑みを浮かべながらも嘲るように首を振る。
「夢物語はいい。現実を見ろ。俺はレース場に行かなくても、結果はわかっている。」
彼はそう言いながら、隣で同席している友人の勧めにも耳を貸さず、テレビのスイッチに手を伸ばさなかった。誰も気づかないように、無関心を装い続けた。
しかし、時間は確実に進んでいた。発送の時刻が近づくにつれ、父の手元は微かに震え始める。
会話を続けながらも、指先がひそかに動き、まるで自分の意思とは別の命令に従うかのようにリモコンを握る。
理性は依然として「娘が勝てるわけがない」と否定していたが、身体はその制御を離れつつあった。
「……いや、まさか、だろうな」
父は小声でつぶやいた。
声には皮肉と嘲笑が混じっていたが、目だけは無意識に画面に向かう。手はリモコンを握り、操作を迷いながらも、チャンネルをレース中継に合わせた。
忘年会の賑わいや友人たちの笑い声が耳に届くが、視線だけは画面に固定される。
周囲の誰も、父のその心理を知る者はいなかった。
酒に酔った笑い声の向こうで、父の指は微かに震え、無意識にチャンネルを合わせ、レースの状況を追い始める。
理性では信じていない。確率的には「無理だ」と断言できる。
しかし、目の前の瞬間を見ずにはいられない、身体の本能がそう告げていた。
父は口を開かず、表情もほとんど変わらない。
笑いながらも目だけは画面に吸い寄せられ、リモコンを握る手に力が入る。無関心を装うその姿の奥で、心の一角は静かに、しかし確実にざわめいていた。
娘が、画面の中で、これから何を成し遂げるのか――その瞬間を、どうしても見届けずにはいられなかったのだ。
◆◆◆◆◆
ゲートが開いた瞬間、全身に痛みが波のように押し寄せた。
呼吸は荒く、肺の奥で熱が跳ね回り、脚は鉛のように重い。踏み出すたびに関節が悲鳴を上げ、心臓は破裂しそうなほど脈を打つ。
それでも、止まることは許されなかった。止まれば、死を意味するような気がした。
観客席の声も、歓声も、遠く霞む。私の視界は、ただ前方とゴール板だけに集中していた。
痛みが全身を支配し、息がつまる。足の裏には地面の硬さと泥の感触が混ざり、ひと踏みごとに世界が揺れる。しかし、前に進むことをやめる理由はどこにもなかった。
「さあ、ツインターボがわずかに先頭! ツインターボがわずかに先頭!
さあ、プレクラスニーがサアッと交わしてここで先頭に立った!
天皇賞ウマ娘プレクラスニー! さらにダイタクヘリオス!
先行ウマ娘がまだ頑張っている! オサイチジョージ!
さあ、メジロ二人がやってきている! ライアンも来ている!」
レースの大半、マックイーンは私の存在など一顧だにしていなかった。
先頭の位置取り、ペース配分、足音のリズム――すべては彼女自身の計算と身体に組み込まれている。
背後に何がいるか、どのウマ娘が接近しているかなど、彼女の世界には関係ない。視界の片隅で私がどれほどもがいていようと、天才の眼には届かない。
ならば、その隙間を、私は狂気で埋める。
脚は鉛のように重く、肺は火のように焼け、心臓は頭を揺さぶるほど脈打つ。理性はとっくに脱落している。止まることは死を意味する。前に進むしかない。泥と血と痛みにまみれた身体で、ただ前だけを見つめる。
「残り400m切った! プレクラスニーが先頭だ! プレクラスニー先頭!
ダイタクが二番手! ダイタク二番手!
白い勝負服のマックイーンは現在四番手!
四番手にまでマックイーンが来ている! 四番手まで来ている!
さあ、黄色い帽子のダイユウサクも競ってきた!」
最終直線。視界の左右が歪み、風が耳を裂く。
天才の匂いがする――マックイーンが、初めて私の背中に気づいた。
長距離の女王、無尽蔵のスタミナと完璧なフォームを持つ天才。普段なら私など気にもとめないだろう存在が、今、私を狙う。
その脚は、氷のように正確で美しい。
踏み出すたび、地面を蹴る音が均整の取れたリズムを刻み、観衆の息を呑ませる。スタミナとペース配分、長距離の天才が全身で示す圧倒的な理性の走り――それは、まるで時計仕掛けの機械のように、狂いなく迫ってくる。
しかし、私は止まれない。
止まったら、全てが終わる。痛みが、限界が、肺を焼き尽くす。脚は鉛のように重く、心臓は裂けるように脈打つ。それでも、私は前に出る。呼吸も、視界も、理性も、痛みも、すべて狂気に変えて、前に進む。
マックイーンの足音が迫る。天才の末脚は、誰も止められぬ力を宿す。
「残り200を切った! プレクラスニー先頭!
マックイーンが来た!
ヤマニングローバルも来ている!
さぁマックイーン出てくるか! マックイーン3番手!
ダイユウサク黄色い帽子も伸びてきた!
マックイーンは外から、マックイーンは……ッ!?」
それでも、私の背中は譲らない。
泥にまみれ、汗と血と疲労で震える身体が、信じられない速さで前に突き進む。理屈では無理な速度を、狂気だけで押し上げる。止まることは死。走ることが、生きることそのものだ。
マックイーンは必死だ。普段の余裕は消え、顔は歪み、目は驚愕に満ちている。
天才は計算し、戦略を練る。しかし、私の脚はもはや理性に支配されていない。
心臓の鼓動が全身を震わせ、痛みが血液と化して脚を駆け抜ける。泥まみれの狂気の走りが、天才の美しい走りをかき消す。
ゴールは目前。マックイーンの靴の音が、視界の端でかすかに迫る。だが、距離は縮まらない。
天才が全力を出しても、狂気に取り憑かれた私の執念には追いつけない。呼吸も、心臓も、脚も、すべてが悲鳴を上げる。それでも前に進む。止まる理由はない。
「
」
そして、ゴール板を駆け抜けた瞬間。
十四番人気の私は、泥にまみれ、全身が震え、吐きそうなほど疲弊した身体で、一着を手にした。
美しくも、理想的でもない。
だが、この勝利は偶然でも、まぐれでもない。
正面から、全力で、全身全霊で挑んだ結果だった。
天才の光と、狂気の闇――二つの極限が、そこに交差した。
マックイーンの天才は光り輝き、観衆を圧倒する。
しかし、泥と血と狂気で支えられた私の足跡は、誰も予想し得なかった道を切り開き、勝利という形で世界に刻まれた。
◆◆◆◆◆
世界が、輝いた。
「ああ……」
ふと、観客席が目に入る。
爆発するような観客の絶叫。
降りそそぐ罵声と歓声と悲鳴。
「これが……」
イナリワンが、スーパークリークが。
ヤエノムテキが、サクラチヨノオーが。
そして、オグリキャップが。
天才が、時代の頂点が、目にした光景。
すべてのウマ娘が、夢みる大舞台。
G1、その頂きか。
トレーナーが目に入る。
顔をぐしゃぐしゃにして、いい大人だというのに、目を赤くした、トレーナーが。
「馬鹿」
手すりでも殴りつけたのか、その拳からは血が滴っている。
胸の奥からこみあげてくる感情そのままに、私は泥まみれで笑った。
「ああ、ほんとうに……」
みっともなく、涙があふれる。
視界がにじんで、ぼやける。
喉が痛くなって、笑ってるんだか、泣いてるんだかわからなくなって。
ずっと苦しかった。ずっと辛かった。ずっと、逃げたかった。
デビューした日から、ずっと世界を呪って生きてきた。
己を呪って生きてきた。
それでも、それでも。
こぼれた涙がターフを濡らしていく。
人目もはばからず、私は泣き叫んだ。
泥まみれの意志が、天才を凌駕した瞬間――それが、有馬記念という舞台に刻まれた、私の証。
これまでずっと頑張ってきて良かったと、初めて心からそう思えた日だった。
◆◆◆◆◆
走破タイム2分30秒6――日本レコード
一着、ダイユウサク。
その瞬間、父は初めて、娘の走りを真正面から見た。
目の前で、十四番人気の娘がゴール板を駆け抜ける。
脚は泥にまみれ、全身は汗と血で赤黒く染まり、呼吸は荒く、震える身体は限界を超えていた。才能はない――父の頭ではそれが明白だった。しかし、それでも、彼女は走り切った。
その姿には、光や華やかさなど必要なかった。泥にまみれた意志、汗と血に刻まれた執念。それらが、天才の輝きすら凌駕する力として、ゴールの先に輝いたのだ。
父は言葉を失った。
心の奥でずっと抱えていた「才能がないから走れない」という言い訳は、完全に崩れ去った。
目の前の娘が示したのは、才能の有無ではない。華やかさや評価ではない。
ただ、泥と汗と血にまみれながら、止まらずに前へ進み続けた意志と執念。それだけで、勝利は掴めるという現実だった。
父の瞳の奥で、これまでの常識も、自分の固定観念も、すべてが静かに震える。
才能がなくても、泥にまみれた執念と意志だけで、勝利を切り開くことができる――その事実を、彼は初めて、逃れられないほどに認めざるを得なかった。
【ダイユウサクのその後】
有馬記念の後、ダイユウサクは二度とG1の栄冠をつかむことはなかった。
天皇賞春、安田記念、宝塚記念とG1を三連戦するも、いずれも掲示板にすら入らなかった。
引退レースのG2スワンステークスでも16人中15着。
あのメジロマックイーン相手に真っ向勝負で打ち勝ったダイユウサクのその後の戦績をもとに、人はダイユウサクを史上最強の一発屋と呼ぶ。
あの日、1991年12月22日だけ最強だった、幸運なウマ娘だと。
……しかし、それでもダイユウサクは走った。
引退するその日まで、ずっと。
勝てるから、走るのではない。
才能があるから、走るのではない。
走ると決めたから走る。
ダイユウサクは、そういうウマ娘だった。